箱庭のエデン

だいきち

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陰性残像にも似た

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 スーパーの帰り道。目当てであった卵の他に、葉物野菜をいくつか購入した。白杖の代わりに、夜見の押すカートに手を添えながらついて回ったのだ。生鮮食品売り場はちゃんと肌寒かったし、お菓子売り場では元気な子供の声が聞こえてきた。
 由比都が立ち入らなかった場所には、日常が凝縮されていた。間抜けな音楽には客寄せの意味があることも、洗剤がホームセンター以外にも売っていると言うことも初めて知った。
 夜見たちにとっては当たり前の場所だ。その当たり前の場所を、由比都は選ばずにいた。だからこそ、由比都にとってのスーパーは新鮮な場所だった。
 
「食パンも、いっぱい種類があるんだよ。レーズンが入ってたり、ムギが入ってたり」
「三種類くらい?」
「あそこは七種類くらい置いてるよ。由比都が好きなパンも売ってるかもしれないねえ」
「七種類……」
「あ、ねえ。せっかくだし公園寄ってかない? この間会社のみんなで清掃したんだよ。気持ちよかったなあ」
 
 夜見は、由比都の周りにはいない性質の人間だ。振り回されて迷惑をしているはずなのに、由比都は以前のように強く拒めなくなっていた。それは、由比都が遠ざけていたものを、夜見がなんでも持ってくるからだ。知ることを恐れていたわけではない、しかし、由比都の自覚なくついた諦め癖を、夜見の手で暴かれている気分にもなる。
 
「犬っぽいな」
 
 ぽそりと呟いた。夜見は、なんでも己の好きなものを誇らしげに見せてくる。そんな、犬のようだと。
 犬に似てるなら、毛並みは一体何色なんだろう。らしくない興味を持って、無意識に由比都の手が夜見の腕を辿る。
 
 白く、女性のように滑らかで薄い手のひらが、ゆっくりと夜見の頬に触れた。由比都の目線が、きちんと夜見へ向いているかはわからない。ただ、夜見は唐突な由比都からの行動に、固まっているようだった。
 今は、もう間も無く夜と呼べる時刻になる。空を深い藍色が支配し、黄金の月が妬むように街灯の光を見下ろしている。
 公園の入り口で、男二人。人通りがないから、きっと邪魔にはならないだろう。由比都の指先が夜見の唇に触れて、手が止まる。街灯に照らされた夜の瞳が、ゆっくりと夜見を捉えた。
 
「……夜見の髪の毛は、何色なんだ」
「俺の……?」
「犬だとしたら、お前の犬種はなんだろうと思った。それだけさ」
 
 ささやかに口角をあげた由比都の表情を、夜見は決して忘れることはできないだろう。由比都の瞳の中に囚われているかのように、夜見が映り込んでいた。
 
「口にされたところで、そもそもの犬種もわからない。らしくないことを聞いてしまった」
「由比都」
「ん?」
 
 夜見と二人きりの時は、由比都の敬語が取れる。その変化が大きなものであることを、気が付きもしない。
 夜見の手が、由比都の手首を掴む。大きな手のひらは、しかしそれでも力加減をあやまらないようにと、繊細な心配りをしているようだった。
 街灯に照らされる、由比都の髪は光が当たると藍色になるのだと初めて気がついた。夜見が、静かに肺を膨らませた。
 
「ありがとう」
「は?」
「き、興味を持ってくれて。ああ違う、変なこと言った、そ、そうじゃなくて」
「なんだ、どんな感情だそれは」
 
 夜見の妙なポジティブさが、また発動しているのかとさえ思った。狼狽えるくせに、由比都の手はまだ夜見の手の中にある。
 
「髪は金色、今はだけど。染めてるから、伸びたら根本が黒くなるんだ」
「色が変わるのか?」
「ああ、変わるよ。由比都の髪は真っ黒だ。夜みたいで、でも光に当たると藍色」
 
 夜見がそんなことを言うから、由比都は何気なしに己の髪に触れた。そうか、聞いたことがなかったな。人からどんなふうに見られているかなんて、由比都は気にしたこともなかった。
 遠くで猫の声が聞こえて、思わず顔を上げる。鳴き声のする方へと顔を向ければ、夜見が小さく笑った。

「ああ、黒猫みたいだ。由比都って」
「私が、猫?」
「うん。なかなか懐いてくれないけど、気まぐれでも優しくされるとすごく揺らぐ」
「そうか」
 
 猫がどんな形をしているのかはわからない。だけど、夜見の想像する由比都は随分と可愛らしい声で鳴くのだなと思った。
 いつもなら、何を言ってるんだと冷たくあしらうだろう。それができなかったのは、夜見の声が酷く穏やかだったからだ。
 普段の、ふざけた口調ではない。そんな、大人のような喋り方もできるのだと思って、最初から夜見は大人だったかと口元をむずつかせる。
 
「ありゃ、黒猫ちゃんはこの辺のボス猫かなあ。三毛猫がこっち向かってくる」
「猫が? 縄張り争いに負けたのかな」
「まあ、猫の事情は……わからない……けど……」
「……夜見?」
 
 夜見の言葉が、不自然に尻すぼみになった。何かを考えているのだろうか。気がつけば由比都の手は解放されて、温もりだけが残っていた。
 足元に何かがまとわりつく感覚がして、微かに肩が跳ねる。柔らかいものが足の間を抜けるように動いて気がついた。きっと、夜見の言う逃げてきた三毛猫だろう。
 手を差し出すようにして、由比都はゆっくりとしゃがむ。濡れた鼻先が指に触れて、柔らかい皮毛がなめらかに指の間を滑る。
 
「由比都」
「ん?」
「俺、分かったかもしれない」
「何をだ」
「テマネキが、田原から離れた理由……、ああくそ、もっと早く気がつけばよかった!」
 
 夜見の大きな声に、戯れていた三毛猫が抗議をするように鋭く鳴いた。由比都の手を離れて、どこかへと消えていった。滑らかな毛並みの感触を手に残したまま、由比都は黙って夜見の声のする方へ顔を向けた。
 
「……もしかして、縄張り争いに負けた?」
「怪異同士の、縄張り争い。きっと田原に取り憑いたテマネキは、田原の匂いを辿って律人くんに取り憑いたんだ」
「じゃあやはり、怪異はもう一体関わっていると」
「怪異、のままならいいけどね」

 由比都の目が伏せられる。集中しているのだろうか。黙りこくる夜見を前に、由比都は悩んでいた。今、京浜地区でまともに戦えるのは夜見だけだ。それは、なんとなくわかる。あやめの能力は知らないが、少なくとも藻武は戦闘に特化した能力ではないだろう。
 ヒトデナシは、怪異の力が膨れ上がり、人を食らう化け物へと転じた姿だ。人の皮を被るように、体を自在に変化させる。体を奪われた人間の、今まで生きて積み重ねてきた全てを奪い成り代わるのだ。
 そしていずれ神を喰らい、その能力を身につける。悪知恵をつけた化け物は磁場を作り、多くの怪異を従わせ人を襲う。そんなことが、当然あっていいわけがない。
 
「夜見」
「うん?」
「……ヒトデナシになっている可能性を含めて、その怪異は調査すべきだ」

 違う、本当はそんなことを言いたいわけじゃない。由比都は、夜見へと歩み寄ることを怖じる己に気がついていた。
 一方的に、突き放していたくせに。夜見からまっすぐな言葉を向けられて、わずかな期待を抱いてしまったのだ。
 由比都の存在を、人手が足りないという理由があっても歓迎してくれた。まだ共に戦ってすらいない。それなのに、向き合ってくれている。夏の直射日光のように眩しい夜見の熱に、もしかしたら当てられているのかもしれない。
 
 由比都がここにいることを、許されてもいいのだろうか。
 
「夜見、その」
「由比都。やっぱり俺は……一緒にいてほしい」
 
 ああ、やっぱりずるい。
 夜見は由比都の怯えを手で温めるように、ほしい言葉をくれるのだ。絞り出した小さな勇気を、差し出す隙も与えずに。
 今、お前はどんな顔をして私を見ているんだ。見えないはずなのに。由比都の目の奥が、強い光を見つめたかのように微かに疼いた。
 
「お前のことが、知りたい」
 
 口に出た言葉一つで、この先の運命が変わることはあるのだろうか。

 
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