箱庭のエデン

だいきち

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見えない選択肢

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「まさか社長のフードにゲロ吐くやつがいるとは思わねえよ」
「あはは……まあいいじゃん、由比都の顔色もよくなったし。藻武くんも付き合ってくれてありがとね。明日は一緒に出勤するからさ」
「由比都が出勤したら、からかっていっすか」
「ダメに決まってるでしょ」
 
 去り際の挨拶がわりに藻武の額を弾く。
 人のフードの中に盛大に人としての尊厳を吐き散らかした由比都はというと、よほど己の失態がショックだったのだろう。今は夜見の部屋のベットに寝かされていた。
 夜見がシャワーを浴びているうちに、藻武が世話を焼いてくれたのだ。気に入りのパーカーはお釈迦になったが、気にするほどのことでもない。
 夜見は藻武を見送ると、肩にかけていたタオルで濡れた髪を拭う。
 由比都の部屋に荷物を運んだため、すぐに使える状態ではなかったのだ。玄関から由比都用のスリッパをとると、そのまま夜見は自室へと向かった。
 2LDKの部屋は、玄関を入って左に曲がれば浴室がある。本当はトイレが近いのだが、由比都はそこまで間に合わなかったのだ。
 自室に入り、仰向けに寝かされている由比都を見た。服は汚れなかったが、寝苦しいだろうと夜見のパジャマに着替えさせていた。
 
「本当に、由比都は何したら仲良くしてくれんのかなあ」
 
 無骨な指が、顔にかかる前髪をそっと払う。こうしてみると、やはり綺麗な顔立ちをしている。長い睫毛が顔に影を落とす。口を開くとほとんど毒しか吐かないが、夜見はなつかない黒猫のようで気に入っていた。
 気が緩んだら、夜見の腹から空腹を知らせる音が鳴った。主張の強い音が睡眠を妨げたのか、由比都は随分と治安の悪い声を漏らした。
 
「んぐ……?」
「お?」
「……なんだ……?」

 瞼が震えて、由比都の夜を宿す瞳がゆっくりと開いた。薄い手のひらが目を擦ると、緩慢な動きで体を起こす。
 
「……」
 
 夜見の知っている由比都からは想像もつかないほど、ひどくぼんやりとしている。目が見えていないからか、夜見が隣にいることすら気が付いていないようだ。
 そのまま、ベットの上で由比都はしばしぼうっとしていた。体の血液が末端まで巡るのを待っているかのようにも見える。
 やがてくありと欠伸を一つ漏らすと、おぼつかない動きのままベットの上で立ち上がろうとした。
 スプリングの効いた足場だ。しかも、寝起きの行動としては随分と突拍子のない動きである。あんぐりと口を開けた夜見の目の前で、由比都の体はぐらりと傾いた。
 
「っ危ない」
「ぉあ、っ……」
 
 床へと落ちそうになった由比都の手を掴んで、慌てて引き寄せた。華奢な体が夜見の腕の中に落ちてきて、受け止めるままに床へと転がった。履いていたスリッパが、弧を描くようにしてベットの上へと落ちる。
 由比都はというと、夜見の腕にしっかりと抱きしめられたまま、厚みのある胸に手をついて目を丸くしていた。
 
「な、なん……」
「なんだはこっちだよ……なんで急にベットの上で立ち上がるの……いてて」
「ベット……? 待て、ここは」
「俺んちだよ。っと、もう気持ち悪いのは? へいき?」
 
 夜見の声が聞こえて、慌てて顔を上げる。じわじわと記憶が蘇ってきたようだ。由比都の顔がサッと青褪める。夜見の腕の中でわかりやすく狼狽える姿があどけなくて、少しだけ笑ってしまった。
 
「ふ……っ」
「ふ、布団」
「ん?」
「布団だと、思ったんだ。わ、私は普段ベットでは寝ないから……」
 
 ベットから寝ぼけて落ちるのは怖い。目が見えないから、由比都はずっと布団で寝ていたのだ。夜見の腕の中で、心臓が早鐘を打っている。唐突に抱きしめられて、床にもつれあうように落ちたのが怖かったのだ。
 由比都の狼狽は、夜見が可愛いと思っているよりも深刻だった。夜見の服を掴む腕が、微かに震えている。薄い背中に手を添えるように宥める夜見は、安易に笑ってしまったことを静かに悔いた。
 
「ごめん、落ちそうだったから」
「……寝ぼけた私も悪かった」
「ええっと……、気持ち悪いのは?」
「……それも、迷惑をかけた。服は弁償するから」
 
 いつになく、落ち込んでいる。初めてみるしおらしい態度は、わかりやすく夜見を戸惑わせた。
 
「とりあえず、なんか食べようか。夕飯にはかなり早いけど、胃が空っぽだと気持ち悪くなっちゃうし」
「……夜見」
「立てる? このまま抱っこしてリビング連れてってもいいけど」
「っ、立てる。必要ない!」
 
 夜見の軽口に、つい声を上げる。由比都が元に戻ったことで、夜見が嬉しそうな顔をしているだなんて知る由もない。体をずらすように立ち上がった夜見が、由比都の頬に触れるように手を差し出した。
 節ばった男の手のひらだ。由比都はぎこちなく手を握りしめると、夜見に手伝ってもらいながら立ち上がる。つま先に当たる室内履きは、夜見が用意したものだろう。由比都はそれに足を差し込むと、夜見の腕に手を添えるように足を進める。
 
「ゆっくり手を前に出して。そのすりガラスが寝室の扉だから。それを右に開いて」
 
 言われるがままに、横にずらす。引き戸式の扉は、ドアの取手を探さなくていいから便利だ。がろがろと音を立てて開く扉を前に、ふとしたことに気が付いた。
 
(この音は聞こえなかった。気を遣ってくれたのだろうか……)

 そんなことを考えて、無理やり頭からその思考を追い出した。人の気遣いに触れて、期待をするなと日頃から言い聞かせてる由比都にとって、他人の善意はいつ裏返るかわからないものだ。
 危なげない夜見の誘導でリビングだろうソファに腰掛けると、由比都の側から夜見の気配が消えた。
 
「……?」
「俺今キッチンにいる! なんかあったら呼んで!」
「べ、別に探してなんか」
「ホットミルク、のむ?」
「の、のむ」
 
 なんだか、ずっと夜見に主導権を握られているような気がする。由比都の鼻腔をホットミルクの甘い香りがくすぐって、夜見の気配が近くなる。大きな手のひらがそっと手をすくえば、由比都の手にマグカップの持ち手をあてる。
 
「そこまでしてくれなくても、一人でできる」
「俺がしたいの。さて、もう疲れたからデリバリーでも頼むか。由比都は和食洋食どっちがいい?」
「……洋食」
「わかった。じゃあ、何がいい? 由比都が想像する洋食はだいたいあるみたいだけど」
 
 そんなこと言われても、味しか想像できない。料理名はわかるが、それが今まで食べたうちの何に当てはまるかなんて気にしたこともない。
 いつも、日替わり定食を頼んでいるのだ。だから、選べと言われると一番困る。
 黙りこくり、由比都は無意識のうちに両手を握った。その姿が、夜見の目には居場所がない子供のように映った。
 
「なんでもいい」
「……そう? じゃあ、俺が食べて欲しいものを頼むね」
 
 そういって、夜見はスマートフォンでデリバリーに注文をした。オムライスと、ハンバーグ。その単語だけで味を思い出せと言われたら、少しだけ自信がないくらい食べていない。日替わり定食は、いつも和食ばかりだったのだ。そこまで思い返して、ならどうしてなんでもいいといったのだと己で呆れた。
 本当は、選択肢を与えられたから。が答えなのだが、由比都はそんなことも気が付かなかった。
 
「なあ夜見」
「なあに」
「ホットミルクは、何色をしているんだ」
 
 不意に、他愛もないことを聞いたのは気まぐれだ。両手でマグカップを持ったまま、ふうふうと湯気を散らして口に含む。柔らかな甘さが口の中に広がって、ホッとする。
 
「……白だよ。オムライスは黄色で、半熟の卵に赤いトマトソースがかかってる。ハンバーグはいろんな彩りがあるけど、メインの肉は茶色だよ」
「そうか……」
 
 夜見が口にした色も何一つわからないけれど、由比都の問いかけにも嫌な態度をとらずに答えてくれる。
 どうせ見えないんだから、知ったところで意味ないだろう。そう、由比都自身で遠ざけていたことを肯定してくれる。
 
「由比都が前の場所で、どんな扱いを受けてきたかはわからないけどさ。それでも、俺は由比都を知りたいし、仲間として大切にしたいと思ってるよ」 
「なんだ、急に」
「俺に質問してくれたのが嬉しかっただけ。ねえ、他に聞きたいことないの」
 
 嬉しそうな声がする。夜見は今、どんな表情を向けてくれているのだろう。
 ミルクの甘い湯気が、睫毛を湿らせる。暖かい感覚がじんわりと身の内側に浸透して、心なしか強張りが取れていくようだった。



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