箱庭のエデン

だいきち

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不躾な男

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「……え?」
 
 由比都の耳に、日常の喧騒が少しずつ戻ってくる。肌を撫でる空気の不快さもない。様々な人間の入り混じった生の匂いが、戦いを終えたことを示してくる。
 きっと、己が使う表現としては間違っているのだろう。しかし、由比都の目の前には確かに大きな壁を感じた。人語を流暢に解する壁が。
 
(なんだ、この威圧感……)
 
 男の声は、随分と上から降ってきた。肌身に感じる圧迫感は、わずかに由比都をたじろがせる。恐らく眼の前に居るであろう見知らぬ人物の答えは、由比都の知る限りでは一つしかない。
 
「……夜見綾人さんですか」
「うん、そうだよ。待ち合わせに遅れてごめんね。境界張ってるの見たから、慌てたんだけど……」
「ま、待ってください。この境界を破ってきたんですか⁉︎」
「ううん、抜けてきた。もう猿みたいなやつはいないけど……怪我は?」

 由比都は夜見の言葉に分かりやすく眉を寄せた。初対面の相手へと向けるものではないだろうが、それほどまでに夜見の言葉は由比都の違和感を煽った。
 抜けてきたとは、なんだ。そんなことが可能なのか。少なくとも、由比都の常識の中ではできるはずがない。
 黙りこくってしまったのは、夜見に対して微かな不信感を抱いたからだ。
 立ち振舞いや落ち着きからして、戦いに慣れているような貫禄さえ感じる。この地を踏むまで、京浜地区は信仰の衰えた僻地、そう聞いていたというのに。
 情報の誤りは、瑣末ごととして扱うには、随分と骨が折れる話だ。
 
 しばしの沈黙の後、夜見はぎこちなくかぶっていた帽子を脱いだ。目の前の白南風由比都しらはえゆいとと思しき青年と、全くもって視線が合わなかったのだ。
 きっと、帽子のせいで目が合わないのかもしれない。持ち前の前向きな捉え方はしかし、時として気休め程度にしかならない。夜見の赤茶色の瞳は、すぐにその理由を映した。
 
「あの、白南風由比都君だよな?」
「ええ」
「その白い棒ってさ、もしかして視覚障害の人が持つやつ?」
 
 白い手が握る華奢な棒は、おそらく戦闘においての武器というわけではないだろう、至って純粋な疑問。まじまじと見つめることもない白杖を前に、夜見はようやく合点がいったようだ。
 由比都の握る、白杖の持ち手に括り付けられた鈴が、澄んだ音を立てる。瞼を閉じたまま、由比都は己の手元へと目線を落とした。
 
「厄介ごとを、押し付けられてしまいましたね」 
「え? なんの話?」
「あ、いたいた! なぁにやってんですか社長‼︎ 油売ってねえでさっさと会社戻りますよ‼︎」
「あ、ごめん藻武くん! 今行くーー‼︎」
 
 夜見は、由比都の警戒心を置いてけぼりに声をあげた。一向に帰ってこない夜見を見かねて、どうやら迎えが来たようだと知る。状況は依然として読めないままだ。由比都が表情に諦めを滲ませたその時、突然手首を掴まれた。
 
「ぅわ、っ」
「車できてるから、とりあえず事務所まで行こう。美味しいお菓子もあるよ!」
「ああ、だめだってば急に手ぇ掴んだら! 視覚障害持ってるんなら声かけなきゃ」
「ごめん、この頼りになるのが藻武くん。そしてなんも考えてなくて君を驚かせたのが、俺です」
(一体、どういう紹介なんだ)
 
 由比都は引き攣り笑みを隠すことができなかった。そこから、藻武の指摘が悪い方向に働いた。由比都の体は藻武の制止も効かずに抱き上げられると、半ば拉致をされるかのような勢いで連れ去られた。しかも、由比都が嫌いな煙草臭い車を使ってだ。
 体感時間としてはおおよそ十五分程度だろうか。夜見と肩が触れ合う狭い車内で、由比都はげっそりとやつれてしまった。人肌が近いと疲れてしまうのは、いつものことだ。
 スライド式の扉が不機嫌な音をたて、新鮮な空気を取り込んだ。藻武の吐き出した煙草の煙は、人の動きに引きずられるように流れていく。誘拐に見えなくもない、随分なお出迎えはまだ終わりを見せなかった。
 
「なにこれ拉致?」
「廿六木さぁん‼︎ なんでまだ帰ってなかったの仕事しろよ‼︎」
「新人歓迎会すんなら残らねえといけねえだろう。お前の金で出前をとっておいたぞ、寿司な」
「おい! それ後の俺らの給料になるんだからな⁉︎ 減らすなよ社長の私腹を‼︎」
「え? 私服?」
 
 折り畳んだ白杖を持ったまま、横抱きに運ばれる由比都を全く気にもしていないようだ。藻武よりも重いニコチンの香りを纏う男は、タイミングを見計らったかのように届いたバイク便から寿司を受け取ったらしい。
 
「あの」
「なあに?」
「自分の足で歩かないと、道に慣れませんので」
「え? だって危なくない?」
 
 夜見の心配を前に、由比都は馬鹿にでもされているのかと思った。しかし、外野からの過保護を指摘する言葉を聞く限り、どうやらこれが夜見の通常運転らしい。由比都は不思議そうに問いかける夜見にため息を吐くと、遠慮をやめた。
 白い手のひらが夜見の肩に添えられる。そのまま身をひねるようにして危なげなく降り立った。体温が触れていた部分が気持ち悪い。撫でるように、触れていた部分を払う。
 まだ身内でもなんでもないのに。距離感の近い夜見が、由比都はどうも苦手であった。

「振られてやんの」
「腕を貸してください。それだけで歩けますから」
「へえぇ……」
 
 意地悪そうな声色は、廿六木だろうか。由比都は、本当にここでうまくやっていけるかが少しばかし不安になった。感心するような声を上げた夜見はというと、意外にも文句も言わずに腕を貸してくれた。慣れない場所だが、靴の反響音を聞くかぎり、天井は建築基準法で定められている最低限の高さだろう。
 防音素材であれば、また違った苦労を味わうことになる。それも由比都だけではあるのだが。
 夜見の歩みは、由比都に合わせるようだった。エレベーターを使わなかったのは、階段の位置を教えるためだろう。由比都のことを気にしては、めざとく先回りをして行動する。
 気にしないでくれと言えたらどれほど気楽か。由比都も距離感を掴みかねるし、少しだけ疲れてしまう。
 白杖の先が、硬質な扉へと触れた。夜見に手を取られるように冷たいドアノブを握り締めると、由比都はゆっくりと扉を開けた。
 
「お掃除本舗そわかの事務所へようこそ。真っ直ぐ五歩ほど進んだところにパーテーションがあって、その向こう側が依頼を聞くための場所だ。客用ソファの後ろ、藻武君のデスクを挟んで社長室。ってことになってるけど、みんなの休憩所みたいになってるよ」
「今日はもう店じまいだ。だから宴はここでやる」
「廿六木さんそれお誕生日席のつもり? ごめんね、椅子足りなくて。ソファは浅いから立つの大変かもしれないけど、それとも廿六木さんが用意してくれたパイプ椅子に座る?」
「……私はどこでも構いませんので」
「なら俺の隣ね!」
 
 声からでもわかるほど、夜見はご機嫌のようだった。もしかしたら、判断を誤ったかもしれない。由比都は内心そう思った。お誕生日席とかいうパイプ椅子の位置はわからないが、少なくとも夜見の隣よりはマシだろう。このソファが狭いのか、夜見の体が大きいのか。由比都は再び肩に感じた熱に表情を曇らせた。
 
「改めて自己紹介した方がいいんじゃないっすか。まあメンツは揃ってねえけど」
「まだいるんですか?」
「うん、由比都くんの向かいのおじさんは部外者だけど、会社の構成員は俺を含めて今のところ三人。由比都くんが入って四人だね‼︎」
「ヤクザ事務所みたいに言わんでください。訂正入れると、祓屋業務ができる奴らが。だからね、一応普通の清掃会社もやってるから、ここは社会保険に加入してるよ‼︎」
「逆に強調するところはそこなんですね……」
 
 藻武の言葉に、由比都はますます面倒くさくなってきた。元々京浜地区には来るつもりなんかなかったのだ。由比都がここに来た理由は、いわゆる左遷。指先に触れた冷たい紙コップを受け取れば、ゆっくりと口元に運ぶ。爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔をくすぐる。オレンジジュースのようだった。
 
「いやあ人材不足のうちに来てくれて助かったよ! 経緯はどうであれ、俺は大歓迎だよ、由比都君美人だし花が増えるなあ!」
「おいおい、あいつは花じゃなくて食虫植物の間違いだろう」
「廿六木さん、それあやめちゃんの前で言える?」
「いねえから言うんだろう、馬鹿め」
 
 よく喋る人たちだな。由比都は大人しく渡されたジュースを口に含む。己が経験した祓屋は、もっとギスギスしていた。目が見えなくてもわかる緊張感が、ここには一切ない。
 
 
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