箱庭のエデン

だいきち

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はじまり

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 他人の影を踏み付けることに慣れた足が、年季の入った石畳の上を行き交う。空は抜けるような快晴で、太陽へと手を伸ばすように巨大なビル群が地を突き上げる、
 上から見下ろせば、行き交う人々は血管を流れる細胞のように見えるだろう。辟易するほど様々な欲の入り混じった匂いは、不可視な不快さを街に蓄積していく。
 足がもつれ合いそうな人混みを、清掃業者の男がモップを抱えて歩いていた。日差しをうける灰色のワークキャップには、お日様のマークにしっかりと社名が刺繍されている。
 『お掃除本舗そわか』間の抜けた丸ゴシック体を冠のように掲げ、随分と体格の良い男は大地を踏みしめるように立ち止まった。
 無骨な手が、作業服の胸ポケットへと伸ばされる。スナップボタンを外して取り出した一枚の短冊を、誰かに見せつけるように両端を摘む。

「影送りをはじめます」

 独特なざらつく音を聞かせるように、短冊を破る。男の周りの景色は時を遡るかのように逆行した。行き交う人が、己の残像を引きずるように錯交する。木々が不自然にさわめき、伸びる影は枯れ地に水を広げるように周囲を飲み込んでいく。
 世界が暗転した。黒の紗幕を隔てるかのように、時間は止まったのだ。色を宿すのは男のみ、身に纏う灰色の作業服は己の存在すらもぼやかしてはいるが。
 ワークキャップのつばから覗く、赤茶色の瞳が細まった。稲穂色の髪を混ぜるかのようにキャップを後ろ前に被り直した男は、両腕を掲げるように伸びをした。

「新人研修が、今日の六時半じゃん? 時間あるからこの辺のお掃除をしようって思った俺、マジで清掃業者の鏡なのでは?」

 ね? にかりと人懐っこい笑みを浮かべて指を差す。その先には、小学生低学年だろうおかっぱ姿の少年が、服の裾を握るようにして立っていた。

「オッケーチルドレン、多分迷子届出されてた子だよねえ。ママが君のこと探してるってよ、お兄さんと一緒にトゥギャザーしない?」
「あそぼうってことお?」

 子供が浮かべるにしては、随分と獰猛な笑みを浮かべている。
 男は背後手にしたモップを勢いよく振り下ろす。軽やかな木の音が、少年の影へと叩きつけられた。まるで、牽制のような威力。
 己よりも小さな影から噴き上がった黒い煙を絡ませるように、くるりとモップを回した。男は腰に差した霧吹きを少年へと向けると、赤茶の瞳を光らせて宣った。

「おいでませ」

 ふしゅり、気の抜けた音が、重苦しい空間に広がった。少年の短い腕に従うように、モップが捕らえる影から伸びたのは異形の腕だ。
 
「でた‼︎ あやめちゃん見てる⁉︎」
「はいはい社長。もう廿六木とどろきに何買ってもらうか決めた?」
 
 溢れ出した複数の黒い異形の手を前に、男が怖じる様子は見受けられない。目の前に垂らされた細い糸をがしりと掴む。頭上から姿を現したのは切り揃えた前髪が印象的な女だった。
 艶かしい体をボンデージで覆う。エナメルの輝きを違和感なく着こなすあやめは、うざったそうに腰までの黒髪を背中に流した。
 
「そりゃあもう、アンデルセンのショコラデュポン‼︎」
「あたしも食べる。動き止めるだけでいいわね?」
「うん、あとは俺が遊ぶ」
 
 にかりと笑った男へとため息を吐く。カラーコンタクトに隠された虹彩に光を宿すと、あやめは鋭利なヒールで地上に降り立った。
 
「手短に終わらせたら汚れないかしら」
「中身はともかく、ガワはお子様だからね。怪我のないように頼むよ」

 辺り一帯の圧力が強まる。少年が両手で花を作るように手を開くと、小さな足が地べたを踏み付けた。
 まるでタイルを捲り上げるかのような衝撃が、二人の足元を揺らがせる。
 石に走る亀裂の隙間に巣食う影が、間欠泉のように噴き上がる。それは巨大な手の形を成して、少年を守るかのように二人へと襲いかかってきた。
 
「あやめちゃん」
「夜見綾人の為に。蜘蛛の巣」
 
 あやめの細い指が、己の長い黒髪を絡めとる。その言葉は不思議な反響音を伴って、波紋状に広がった。どこからか現れた不可視の糸が、広げられた少年の両腕へと絡みつく。
 赤いマニキュアをした手が少年を模倣するように広がると、変幻自在な巨大な手は瞬く間に地べたへと縫い付けられていく。
 
「汚れを落とすだけの簡単なお仕事ですってね」
「あいあい!」
 
 まるで跳ねるかのような足取りで、男。もとい夜見は少年の元へと近づいた。赤茶色の瞳が、楽しそうな光を宿す。手にしていた霧吹きを銃口のように少年の額に当てると、満面の笑みで宣った。
 
「早くその子から出ていけ、テマネキ」
「ひぃ、っ」

 ふしゅ、間抜けな音がした。少年は、額を貫かれる衝撃にのけぞった。黒い、粘着質なタールのようなものが、少年から引き剥がされる。小柄な体が夜見の腕の中に落ちると、赤茶色の瞳は地面の上で泡立つ化け物を見た。
 
「ほらかかってこいよ、あんよが上手、あんよが上手ってね」
「社長それ足じゃなくて手ね」
「知ってます! あやめちゃん子供の前でタバコは吸っちゃダメだからね、よろしく」
「いけずうう」
 
 湯が沸騰するような音と共に、テマネキと呼ばれた怪異が本体を現す。その正体は、一つの目玉から複数の手を生やす異形の存在だ。耳障りな、肉の腐る音を立てながら体を震わせる。どうやら苛立っているらしいことは確かだ。
 夜見の腕から預かった少年は、あやめがしっかりと抱きしめた。糸を上空へ伸ばすと、細い体は少年をつれてゆっくりと上昇していく。
 
「あやめちゃん⁉︎」
「だって汚れそうだし、あ、ほら社長頑張って」
「ドワ、っ」
 
 放射線状に伸ばされた複数の腕の隙間を、夜見は風に乗る落ち葉のように軽やかにかわしていく。履き潰されたスニーカーが、礫を弾く。手の一本にワークキャップを攫われながら、夜見は低い体勢でテマネキへと肉薄した。
 
「急所は閉じておくもんですよ、お客さん」
「やだ最悪」
 
 辟易としたあやめの声がした。
 風を突き刺すように、ゴム手袋をはめた腕を伸ばした夜見は、なんの戸惑いもなく指先で目玉を貫いた。
 テマネキの黄みがかった白目に、勢いよく血管が張り巡らされる。
 夜見の手が、目玉の奥の核を鷲掴んだ。そのまま神経を引きずり出すように腕を引き抜くと、水晶体を失ったテマネキはのたうち回るようにして爆散した。
 
 
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