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いちばんはだれのもの

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 こいつは、なんだ。
 今、俺の口を塞いでいる男は、本当にあのヨギリなのかとイチカは思った。
 鼻をつく、むせかえるような犬臭さ。ヨギリの匂いは、ずっとそばにいたから忘れるはずもない。それなのに、口を覆う手のひらの力の強さは知らない男のものだった。
 ヨギリなら、もっとイチカへ大事に触れる。こんなに怖い声を出さないし、口答えもしない。いつもイチカの後ろについて、間抜けづらを晒して尾を振る情けない男が、ヨギリのはずだ。

「ああ、口惜しいな。俺が大事に大事に見守ってきたのに。一体いつ、他の男の匂いなんか覚えたの。つけてきたのイチカ」
「ぅ、うん……ぐ、っ」
「殺していい? 俺の縄張りに入った不届きものの男。見つけ出して、目の前に連れてくる。そんで、イチカの目の前でそいつを殺したらさ」

 イチカは他に気を移すことなんてしないよね。
 ヨギリは、そう言って笑った。

「ひ、ぅ」

 こんなに恐ろしい存在だっただろうか。暗闇の中の酸素が途端に薄くなり、イチカの体は指先から一息に冷えていった。
 震える腕が、己のものではないように思える。なんとか持ち上げてヨギリの胸元へ手を置くと、そのまま力任せに押しのける。イチカは、素足に土塊がつくことも気にせずに、岩から転げ落ちるようにしてヨギリから離れた。

「っ……‼︎」
「あー……イチカ」
「く、くるな……‼︎」
「うん、でも見えてないなら気をつけて」

 何を、と不可思議に思う時間は一瞬であった。闇雲に走ったイチカの体は、突如として生暖かい風に包まれる。あ、と声に出すこともなく、壁に触れた手がずぶりと沈み、それが何かを理解する頃には、イチカの右腕は二の腕のあたりまで飲み込まれていた。

「っ、っな、なん、っ」
「肉壁だよ。多分何かの妖の体と繋がってる」
「あ、あっや、嫌だ、っヨギリ、っ」
「何」

 愉悦混じりの声だった。
 イチカの知らない、男の声。
 引き込まれる腕は、不快な柔らかさを持って食むように体を飲み込んでいく。肉壁と言われて、理解できなかった。慌てて腕を引き抜こうともう一方の手をつけば、そちらも同じように柔らかな肉に埋もれていく。
 食われる。頭に巡ったその言葉に、イチカは表情をこわばらせた。

「と、とと様‼︎ とと様ここから出して‼︎」
「は?」
「嫌だ、も、もうわかったから! ひ、一人で暮らすから許してぇ‼︎」

 この時、もしイチカがヨギリの名前を真っ先に呼んでいたら。もっと物事の運びは簡単だったに違いない。しかし、イチカはどこまでもイチカだった。ヨギリには、頼ってたまるか。その、頑なな意思が、もっとも身近くにいた男の冗談を本気にさせる。
 後先考えずに行動して、うまくいった試しはない。そんなこと、妖として長く生きて理解をしているだろうに。前の見えないイチカは、当然ヨギリを見てはいなかった。

「ふうん。なるほど」

 ヨギリは独りごちた。その言葉の冷たさは、必死に逃れようとしているイチカには知る由もない。細い体は、もう二の腕までを飲み込まれていた。
 所詮、こんな部屋は岩屋戸に似せた仕置き部屋である。ヨギリはこうなることがなんとなくわかっていた。
 イチカが飲み込まれて、外に吐き出されたら、この仕置きはおしまいだろう。鳥目のイチカは視界がないまま飲み込まれる恐怖を味わう。こうして、己が誰にわがままをっているのかを自覚させるのだ。要するに、灸を据えるためにこの部屋は作られた。
 足音を立てて、イチカへと近づく。ヨギリの気配に気がついたのか、泣き腫らした目で振り返る。その白い肌が色づき、涙を流す顔にどれだけ煽られてきたことだろう。

「よ、ぎり……ヨギリ! さっさと俺を助けろ!」
「イチカ」
「見てわからないのか⁉︎ っ、グズが‼︎ 俺の体に触れることを許してやるか──── 」

 だけど、ヨギリが聞きたいのはそんな言葉ではない。

「ぅ、ぶ……っ」
「うるさいよイチカ。少し黙れ」
「ん、んんん……っ‼︎」

 一番でいさせてくれるなら、ヨギリはなんだってよかったのに。それなのにイチカが釣れないことばかりするから、手でその頭を肉壁に押し付けてやった。
 どうせ、出口はそこしかないし。どうせイチカは死なないし。柔らかな肉に飲み込まれていく体に、くぐもった悲鳴は徐々に消えていく。暴れる足がヨギリの脛を蹴って、微かな舌打ちが暗闇の中に響いた。
 上半身が飲み込まれていく。細い腰を捻るように暴れるのを見て、ヨギリははたと思い出した。

「ややつくんなきゃ、外出たら俺も怒られるなあ」

 だってそれが、虹蛇様からの条件だから。
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