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ジルガスタント編
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それは、突然の知らせであった。
「申し上げます!!」
グレイシスの執務室の扉は、唐突に開け放たれた、勢いよく飛び込んできたのは、ダラスの不在の間を取り仕切る大聖堂の祭祀であった。
その顔には、悲痛をにじませている。祭祀は膝を床につくと、力が抜けたように座り込んだ。
「祭祀を……!ダラス祭祀を載せた馬車が、っ……」
不躾な訪問に顔を歪めていたのもつかの間だ。祭祀から続く言葉に、グレイシスの目は見開かれた。
「まて、まさかそのまま大地を渡ったのか……!」
「貴方は……!!貴方が、おっしゃったからでしょう!?」
「貴様、なにを…!!」
ダラスの謀りごとについては、ジルバを通してグレイシスの耳に入っていた。身を持って体験した恐ろしいまでに周到な男の画策を、牽制する意味も含めて命令を出したのはジルガスタントへの大使である。
ダラスがそれを受けざるを得なかったとはいえ、少しのボロさえ出そうものなら、すぐにでも糸に絡めて吊るし上げるつもりでいたのだ。
それなのにだ。
「貴方は……あのか弱きお方に無茶な指示を出されたのです!!火急の件とは言え……あの大地を横断させるなど、貴様は不要と申し立てているのと同じではありませんか!!」
「この、……!!」
グレイシスの言葉に激昂した祭祀が、飛びかかるように胸ぐらを掴んだ。もつれ合うように、グレイシスの体は執務机へと押し倒される。
ダラスにつかえていたこの男は、最後までジルガスタントへと向かわせることを良しとはしなかった。妄信的な信仰をダラスへと向けているのだ。
「私は……っ!!この身が死しても構いませぬ!!貴方は理解すればいい!!御自分がどれ程までに冷酷なことをなさったのかを……!!」
「この……っ!!」
グレイシスへと振り上げた祭祀の手は、阻まれるように強く掴まれた。腕を制止するように握り込んだ黒革の手袋。グレイシスへの恫喝じみた行動を良しとしなかったのは、ジルバであった。
「触れるな。」
「ーーーーっぁあ…!?」
グレイシスの体を守るように、その影から現れたジルバは怒気を孕む瞳で祭祀を睨みつけた。
男を制した手とは逆の手でグレイシスの体を引き寄せる。ジルバの影から伸びたいくつもの影が、襲いかかった祭祀の体を天井へと貼り付けた。
「っ殺せばいい!! 死して、あの方のもとに侍ることができるのであれば、それが私の本望です!!」
「本当に宗教だなあ。まったく、あいつの教育は実に行き届いている。」
「殺すなジルバ。後々面倒だ」
ジルバの腕を外すと、グレイシスはひどく苛立った様子で男を見上げる。
祭祀は唇を噛み締め、しずしずと泣いていた。こいつは、たしかダラスが土下座をして許しを請うた男であった。
一体何が起きている。グレイシスは小さく舌打ちをした。
ジルバは喉奥でくつりと笑うと、その灰の目を怪しく光らせた。
影によって拘束した祭祀は、見えぬ神へと祈りを捧げていた。それを、暗闇に取り込むようにして執務室から追い出した。殺してはいない、そのままお帰り願った。それだけである。
「あの狡猾な男が、ついになりふり構わなくなったということだ。グレイシス……、ああ、楽しいなあ。ついにことが動き出すときが来たようだぞ。」
「随行者は、ジクボルトか。なるほど、あいつもなかなかに腹の中が読めない。」
ジルバの蜘蛛毒で、その玉座をすげ替えた。しかし、葬儀屋であるジクボルトは、王族の死因について淡々と処理をした。たった一言だけを残して。
ー女性なので、皇后の体は柔らかいままにしておいてくださいね。
口元を抑え、深く息を吸う。ジルバがグレイシスの薄い腹を抱き寄せると、その耳に唇を寄せながら甘く囁いた。
「餌をやって終わりとはいかんだろう。グレイシス、ジクボルトは間違いなくダラスに深く関わっている。なにせ、俺に進言してきたくらいだからな。」
「ジルバ……」
「柔らかいままにしてやったさ、きちんと、丁寧に処理してやった。あいつの望みを叶えたんだから、今度は俺が叶えてもらう番だ。」
ジルバの腕の力が強くなった。悪魔のような男は未だ掴みかねるときがある。こんなにもグレイシスの胸のざわつきが収まらないというのに、ジルバは気にも止めずに宣うのだ。
「城には居ないほうがいい。グレイシス、もはやダラスの巻いた種はそこらで芽吹いている。実に信仰というのは怖いものだなあ。」
「……、」
ジルバの言う通り、ダラスによる緩やかな支配に盲従する信徒は、この事態を良しとしないだろう。
もはや、この国にダラスの名を知らぬものは居ない。若き祭祀は慈愛を持って国民を導いてきたのだ。信仰は、果たして本当にこの国の神に対してのものだったのか。今となってはそれすらもわからない。
空想上の生き物よりも、眼の前の縋れる生きた神として君臨し続けてきたダラス。
まるで、毒のようだとジルバが例えるくらいには、言葉による巧みな支配であった。
「余は逃げぬ。城から王が離れるなどと、そのような愚かなことがあっていいわけがない。民が道を間違えたなら、導くことが王の努めだ。」
「グレイシス、いいのか。ダラスの手中に収まることと同義だぞ。」
ダラスの一報は、グレイシスよりも先に市井に広まったであろう。若き王と民に寄り添ってきたダラスとでは、その信頼に大きな開きがあった。
苛烈な若き王と、民によって選ばれ続けたダラス。思えばこの国の祭祀が指名制になったのも、あの厄災の後だったか。
「また同じことが繰り返された。あの時代を生き伸びた貴族が、まずは動き出すだろう。心優しき祭祀は二度死ぬ。民を煽るには実に良いストーリーだ。」
「笑えてくる。ニ度どころではないだろうに、化け物め…」
ざわつく廊下の気配に頭が痛くなってくる。血相を変えて現れたのは、城の主要を担う貴族たちであった。
グレイシスは城で戦う。そう決めた。化け物による支配で視野が狭くなった者共をふるい分けるいい好機だ。
冷たい目線で、扉を開け放った面々を見据える。これはグレイシスにしかできない戦いだった。
「お前らがここまで毒されているとは思わなかった。」
「それはこちらのセリフです、陛下。もう国民は我慢なりません。貴方が座してから、我々の国は脅かされるばかりです。ダラス様の御身を、無碍にはいたしません。かの方のこの国を思う尊き思いの灯は、我々の導きの灯として受け継ぎます。」
「灯火…?腐ったイデオロギーに侵食された馬鹿共めが。誘蛾灯の間違いだろうが…!!余は逃げぬ。好きにするが良い!」
獰猛な笑みだった。ジルバは目を細めると、とぷりと影になって消えた。時間稼ぎは、王であるグレイシス自らが行うということを、正しく理解したからだ。
手を広げ、まるで堂々とした風体でその身を拘束してみろと煽る。グレイシスの王としての矜持は、決して揺らいではいけない。
この身が使えるうちならば、喜んで捧げよう。これが、グレイシスにとっての王としての在り方。
人であるなら、常に個であれ。
誇り高きは、その身で作った道で示せ。
この躯が導となるならば、喜んで投じる王となれ。
「この国の礎は、誰がなんと言おうともこのグレイシス以外は許されぬのだから!!」
ジルバは笑った。己の嫁はやはり美しい。
グレイシスが礎となるなら、ジルバはその場所を綺麗に整えてやらねばなるまい。
「さあて、やるか。」
俺は俺の、グレイシスと言う名の誇り高き王の為に。
蜘蛛の巣は其の為に張り巡らされているのだから。
死したあと、エルマーの手によって幽鬼にされたミュクシルは、実に使い勝手が良かった。
幽鬼の恐ろしい身体能力は、エルマーの純粋な魔力の恩恵だ。船から陸地までは距離があったのだが、ミュクシルはなんなく跳躍すると、夜闇の水面から口を開けるように浮かび上がった水路の入口に降り立った。
「久々に昂ってきた。ミュクシル、お前が俺の言うことをどれだけ聞けるか、試させてもらうぜえ。」
ミュクシルの体は、歪な形へと変わっていった。黒く変色させた体に、長く鎌のように折れ曲がった腕。そして瞬発力を補うかの様に筋肉のついた体躯は、人であった頃より随分と屈強になっていた。
エルマーの耳が、かすかな羽音を捉えた。古めかしい水路だ。どれほど長く使われているかはわからないが、満潮になる前に出口までは行きたい。エルマーは足に強化の術をかけると、一気に羽音のする方へと駆け上がっていく。
その背後には、付随するように四つん這い出かけてくるミュクシルの姿があった。エルマーの魔力で制御している。躾も問題ないようであった。
「目の前にフェルメラくんぞ、やってみな。」
エルマーの声にミュクシルは一気に加速をした。指示は言葉を紡ぐのみ。羽の生えた水黽のような魔物へと、ミュクシルが飛びかかる。小物の相手は任せることにしたらしい。エルマーが素早くその横を駆け抜けていった。
「俺の道を塞ぐんじゃねえ。」
金色の瞳が、蠢く闇を捉える。水路から引きずり出てくるように姿を現した水魔を、エルマーの足が勢いよく蹴り上げる。
ミュクシルと共闘をする分には、問題が無さそうだ。ミュクシルの攻撃が手で掴んで食べるという独特なもので笑えたが、まだ伸び代はあるだろう。
「お前、属性魔法つかえるか。魔女上がりなら出来るだろう。」
エルマーの言葉に、ミュクシルはひくりと反応を示した。口からはみ出ていたフェルメラの羽を手で押し込むと、真っ黒な顔に根が張るように筋を浮かばせる。やがて肉が盛り上がるように三本の切れ目が入ると、グパリと音を立ててそれが割れた。真っ赤な目玉に、エルマーとそろいの金色の瞳孔がギラリと輝く。
状態異常を付与する魔物の瞳だ。ミュクシルのやる気が答えと受け取ったのか、エルマーは満足げに口端を釣り上げた。
「お前のそれで、露払いをしろ。この水路を一気に駆け抜けるぞ。お前が使えることを、俺に示してみろ」
ぎゃ、ぎゃ、ミュクシルが、エルマーに応えるように鳴いた。幽鬼にしては大きすぎるミュクシルの巨躯に、エルマーが跨った。手綱はない。それでも構わないのは、ミュクシルの主人が誰かを理解させているからだ。
ぎょろぎょろと動いていた目玉が、真っ直ぐに続く水路の向こうへと集中する。耳まで避けている口を醜く釣り上げると、ミュクシルは擂粉木状の歯を見せつけるかのように歪に笑った。
ミュクシルは、奇妙な鳴き声を発しながら蹲った。硬い皮膚の下で、筋肉が収縮している。エルマーはインベントリから取り出したロープをミュクシルの首へと括り付けると、顔を上げさせるように手綱を引いた。
「行け」
エルマーが一言つぶやいた瞬間、ミュクシルはすでに走り出していた。恐ろしいまでの勢いで、水路を駆け抜けていく。小さな魔物の気配はするが、ミュクシルの相手にはならない。
金色の目をグパリと開く。ミュクシルの放った状態異常をまともに受けた幽鬼が、どさりと音を立てて崩れた。
「それでいい。お前、死ぬ前より仕事ができるんじゃねえのか。」
見えてきた出口へと、エルマーを乗せたミュクシルが一気に跳躍した。光が迫り、開けた場所へと飛び出した。水路の出口はジルガスタントにほど近い、始まりの大地の森の中にあるようだった。
もう直ぐ太陽が昇る。エルマーはミュクシルから飛び降りると、あたりを見回した。
水路を辿り、国を移動したのだ。結構な距離があったのにも関わらず、日の出前につくことが出来た。そのスピードはギンイロとほぼ同じくらいだろう。
エルマーの目下の悩みは、このままミュクシルを殺すか使役するかであった。
何も知らぬ従順なミュクシルは、首から縄をぶら下げたまま大人しくしている。長い舌を垂らし、三つ目の金色はせわしなくぐるぐると動いている。犬のように座り込む姿は、幽鬼の見た目にはあまりにも不釣り合いであった。
「お前、これ終わるまでちっとつきあってくれや。」
悩むこと数分、エルマーはようやく腹を括ったらしい。この幽鬼はある意味エルマーが喚び出したものだ。ミュクシルがエルマーの指示で姿をを消すことができれば、もう契約は完了しているにちがいない。
「ミュクシル、消えろ。」
エルマーが声に魔力を乗せて言う。ミュクシルの体はたちまち溶けると、黒い水たまりへと姿を変えた。それはするりとエルマーの影の中に移動をすると、鳴りを潜める。
試しに来いと言うと、ぼこりと土から顔だけを出したので、どうやら成功のようだ。
まさか己が幽鬼を使役する日が来るとは思わなかったのだろう、頭が痛そうに額を抑える。
「マ、いーや。」
足ができたなら御の字だ。あまりにも使う魔力が多かったので、ミュクシルに施した禁術はもう使わないだろうが。
エルマーは日が昇るのを確認すると、ふむ、と進行方向を決めた。おそらく、この周辺にダラスに関わる何かが潜んでいる事だろう。
相変わらず、この大地は魔素が強い。エルマーはインベントリからポーションを出すとグビリと飲んだ。内臓の悲鳴は落ち着いてきているが、騎乗をした際に少しだけ引き攣れたのだ。
普段なら気にかけない体の痛みも、万全を期するのは死ねない理由があるからだ。
「親父がすげえんだってこと、教えてやんねえとカッコつかねえしなあ。」
大鎌を肩で支えて体をほぐす。先程から、エルマーを検分するかのようないくつもの自然の気配を感じるのだ。数は数えなくてもいいだろう、どうせすぐにわからなくなるのだから。
エルマーは小さく息を吐くと、その金眼を爛々と輝かせた。誰もいないこの場で、楽しく遊ぶのも随分と久方ぶりだ。こんな機会は、早々あってほしくはないが。
「申し上げます!!」
グレイシスの執務室の扉は、唐突に開け放たれた、勢いよく飛び込んできたのは、ダラスの不在の間を取り仕切る大聖堂の祭祀であった。
その顔には、悲痛をにじませている。祭祀は膝を床につくと、力が抜けたように座り込んだ。
「祭祀を……!ダラス祭祀を載せた馬車が、っ……」
不躾な訪問に顔を歪めていたのもつかの間だ。祭祀から続く言葉に、グレイシスの目は見開かれた。
「まて、まさかそのまま大地を渡ったのか……!」
「貴方は……!!貴方が、おっしゃったからでしょう!?」
「貴様、なにを…!!」
ダラスの謀りごとについては、ジルバを通してグレイシスの耳に入っていた。身を持って体験した恐ろしいまでに周到な男の画策を、牽制する意味も含めて命令を出したのはジルガスタントへの大使である。
ダラスがそれを受けざるを得なかったとはいえ、少しのボロさえ出そうものなら、すぐにでも糸に絡めて吊るし上げるつもりでいたのだ。
それなのにだ。
「貴方は……あのか弱きお方に無茶な指示を出されたのです!!火急の件とは言え……あの大地を横断させるなど、貴様は不要と申し立てているのと同じではありませんか!!」
「この、……!!」
グレイシスの言葉に激昂した祭祀が、飛びかかるように胸ぐらを掴んだ。もつれ合うように、グレイシスの体は執務机へと押し倒される。
ダラスにつかえていたこの男は、最後までジルガスタントへと向かわせることを良しとはしなかった。妄信的な信仰をダラスへと向けているのだ。
「私は……っ!!この身が死しても構いませぬ!!貴方は理解すればいい!!御自分がどれ程までに冷酷なことをなさったのかを……!!」
「この……っ!!」
グレイシスへと振り上げた祭祀の手は、阻まれるように強く掴まれた。腕を制止するように握り込んだ黒革の手袋。グレイシスへの恫喝じみた行動を良しとしなかったのは、ジルバであった。
「触れるな。」
「ーーーーっぁあ…!?」
グレイシスの体を守るように、その影から現れたジルバは怒気を孕む瞳で祭祀を睨みつけた。
男を制した手とは逆の手でグレイシスの体を引き寄せる。ジルバの影から伸びたいくつもの影が、襲いかかった祭祀の体を天井へと貼り付けた。
「っ殺せばいい!! 死して、あの方のもとに侍ることができるのであれば、それが私の本望です!!」
「本当に宗教だなあ。まったく、あいつの教育は実に行き届いている。」
「殺すなジルバ。後々面倒だ」
ジルバの腕を外すと、グレイシスはひどく苛立った様子で男を見上げる。
祭祀は唇を噛み締め、しずしずと泣いていた。こいつは、たしかダラスが土下座をして許しを請うた男であった。
一体何が起きている。グレイシスは小さく舌打ちをした。
ジルバは喉奥でくつりと笑うと、その灰の目を怪しく光らせた。
影によって拘束した祭祀は、見えぬ神へと祈りを捧げていた。それを、暗闇に取り込むようにして執務室から追い出した。殺してはいない、そのままお帰り願った。それだけである。
「あの狡猾な男が、ついになりふり構わなくなったということだ。グレイシス……、ああ、楽しいなあ。ついにことが動き出すときが来たようだぞ。」
「随行者は、ジクボルトか。なるほど、あいつもなかなかに腹の中が読めない。」
ジルバの蜘蛛毒で、その玉座をすげ替えた。しかし、葬儀屋であるジクボルトは、王族の死因について淡々と処理をした。たった一言だけを残して。
ー女性なので、皇后の体は柔らかいままにしておいてくださいね。
口元を抑え、深く息を吸う。ジルバがグレイシスの薄い腹を抱き寄せると、その耳に唇を寄せながら甘く囁いた。
「餌をやって終わりとはいかんだろう。グレイシス、ジクボルトは間違いなくダラスに深く関わっている。なにせ、俺に進言してきたくらいだからな。」
「ジルバ……」
「柔らかいままにしてやったさ、きちんと、丁寧に処理してやった。あいつの望みを叶えたんだから、今度は俺が叶えてもらう番だ。」
ジルバの腕の力が強くなった。悪魔のような男は未だ掴みかねるときがある。こんなにもグレイシスの胸のざわつきが収まらないというのに、ジルバは気にも止めずに宣うのだ。
「城には居ないほうがいい。グレイシス、もはやダラスの巻いた種はそこらで芽吹いている。実に信仰というのは怖いものだなあ。」
「……、」
ジルバの言う通り、ダラスによる緩やかな支配に盲従する信徒は、この事態を良しとしないだろう。
もはや、この国にダラスの名を知らぬものは居ない。若き祭祀は慈愛を持って国民を導いてきたのだ。信仰は、果たして本当にこの国の神に対してのものだったのか。今となってはそれすらもわからない。
空想上の生き物よりも、眼の前の縋れる生きた神として君臨し続けてきたダラス。
まるで、毒のようだとジルバが例えるくらいには、言葉による巧みな支配であった。
「余は逃げぬ。城から王が離れるなどと、そのような愚かなことがあっていいわけがない。民が道を間違えたなら、導くことが王の努めだ。」
「グレイシス、いいのか。ダラスの手中に収まることと同義だぞ。」
ダラスの一報は、グレイシスよりも先に市井に広まったであろう。若き王と民に寄り添ってきたダラスとでは、その信頼に大きな開きがあった。
苛烈な若き王と、民によって選ばれ続けたダラス。思えばこの国の祭祀が指名制になったのも、あの厄災の後だったか。
「また同じことが繰り返された。あの時代を生き伸びた貴族が、まずは動き出すだろう。心優しき祭祀は二度死ぬ。民を煽るには実に良いストーリーだ。」
「笑えてくる。ニ度どころではないだろうに、化け物め…」
ざわつく廊下の気配に頭が痛くなってくる。血相を変えて現れたのは、城の主要を担う貴族たちであった。
グレイシスは城で戦う。そう決めた。化け物による支配で視野が狭くなった者共をふるい分けるいい好機だ。
冷たい目線で、扉を開け放った面々を見据える。これはグレイシスにしかできない戦いだった。
「お前らがここまで毒されているとは思わなかった。」
「それはこちらのセリフです、陛下。もう国民は我慢なりません。貴方が座してから、我々の国は脅かされるばかりです。ダラス様の御身を、無碍にはいたしません。かの方のこの国を思う尊き思いの灯は、我々の導きの灯として受け継ぎます。」
「灯火…?腐ったイデオロギーに侵食された馬鹿共めが。誘蛾灯の間違いだろうが…!!余は逃げぬ。好きにするが良い!」
獰猛な笑みだった。ジルバは目を細めると、とぷりと影になって消えた。時間稼ぎは、王であるグレイシス自らが行うということを、正しく理解したからだ。
手を広げ、まるで堂々とした風体でその身を拘束してみろと煽る。グレイシスの王としての矜持は、決して揺らいではいけない。
この身が使えるうちならば、喜んで捧げよう。これが、グレイシスにとっての王としての在り方。
人であるなら、常に個であれ。
誇り高きは、その身で作った道で示せ。
この躯が導となるならば、喜んで投じる王となれ。
「この国の礎は、誰がなんと言おうともこのグレイシス以外は許されぬのだから!!」
ジルバは笑った。己の嫁はやはり美しい。
グレイシスが礎となるなら、ジルバはその場所を綺麗に整えてやらねばなるまい。
「さあて、やるか。」
俺は俺の、グレイシスと言う名の誇り高き王の為に。
蜘蛛の巣は其の為に張り巡らされているのだから。
死したあと、エルマーの手によって幽鬼にされたミュクシルは、実に使い勝手が良かった。
幽鬼の恐ろしい身体能力は、エルマーの純粋な魔力の恩恵だ。船から陸地までは距離があったのだが、ミュクシルはなんなく跳躍すると、夜闇の水面から口を開けるように浮かび上がった水路の入口に降り立った。
「久々に昂ってきた。ミュクシル、お前が俺の言うことをどれだけ聞けるか、試させてもらうぜえ。」
ミュクシルの体は、歪な形へと変わっていった。黒く変色させた体に、長く鎌のように折れ曲がった腕。そして瞬発力を補うかの様に筋肉のついた体躯は、人であった頃より随分と屈強になっていた。
エルマーの耳が、かすかな羽音を捉えた。古めかしい水路だ。どれほど長く使われているかはわからないが、満潮になる前に出口までは行きたい。エルマーは足に強化の術をかけると、一気に羽音のする方へと駆け上がっていく。
その背後には、付随するように四つん這い出かけてくるミュクシルの姿があった。エルマーの魔力で制御している。躾も問題ないようであった。
「目の前にフェルメラくんぞ、やってみな。」
エルマーの声にミュクシルは一気に加速をした。指示は言葉を紡ぐのみ。羽の生えた水黽のような魔物へと、ミュクシルが飛びかかる。小物の相手は任せることにしたらしい。エルマーが素早くその横を駆け抜けていった。
「俺の道を塞ぐんじゃねえ。」
金色の瞳が、蠢く闇を捉える。水路から引きずり出てくるように姿を現した水魔を、エルマーの足が勢いよく蹴り上げる。
ミュクシルと共闘をする分には、問題が無さそうだ。ミュクシルの攻撃が手で掴んで食べるという独特なもので笑えたが、まだ伸び代はあるだろう。
「お前、属性魔法つかえるか。魔女上がりなら出来るだろう。」
エルマーの言葉に、ミュクシルはひくりと反応を示した。口からはみ出ていたフェルメラの羽を手で押し込むと、真っ黒な顔に根が張るように筋を浮かばせる。やがて肉が盛り上がるように三本の切れ目が入ると、グパリと音を立ててそれが割れた。真っ赤な目玉に、エルマーとそろいの金色の瞳孔がギラリと輝く。
状態異常を付与する魔物の瞳だ。ミュクシルのやる気が答えと受け取ったのか、エルマーは満足げに口端を釣り上げた。
「お前のそれで、露払いをしろ。この水路を一気に駆け抜けるぞ。お前が使えることを、俺に示してみろ」
ぎゃ、ぎゃ、ミュクシルが、エルマーに応えるように鳴いた。幽鬼にしては大きすぎるミュクシルの巨躯に、エルマーが跨った。手綱はない。それでも構わないのは、ミュクシルの主人が誰かを理解させているからだ。
ぎょろぎょろと動いていた目玉が、真っ直ぐに続く水路の向こうへと集中する。耳まで避けている口を醜く釣り上げると、ミュクシルは擂粉木状の歯を見せつけるかのように歪に笑った。
ミュクシルは、奇妙な鳴き声を発しながら蹲った。硬い皮膚の下で、筋肉が収縮している。エルマーはインベントリから取り出したロープをミュクシルの首へと括り付けると、顔を上げさせるように手綱を引いた。
「行け」
エルマーが一言つぶやいた瞬間、ミュクシルはすでに走り出していた。恐ろしいまでの勢いで、水路を駆け抜けていく。小さな魔物の気配はするが、ミュクシルの相手にはならない。
金色の目をグパリと開く。ミュクシルの放った状態異常をまともに受けた幽鬼が、どさりと音を立てて崩れた。
「それでいい。お前、死ぬ前より仕事ができるんじゃねえのか。」
見えてきた出口へと、エルマーを乗せたミュクシルが一気に跳躍した。光が迫り、開けた場所へと飛び出した。水路の出口はジルガスタントにほど近い、始まりの大地の森の中にあるようだった。
もう直ぐ太陽が昇る。エルマーはミュクシルから飛び降りると、あたりを見回した。
水路を辿り、国を移動したのだ。結構な距離があったのにも関わらず、日の出前につくことが出来た。そのスピードはギンイロとほぼ同じくらいだろう。
エルマーの目下の悩みは、このままミュクシルを殺すか使役するかであった。
何も知らぬ従順なミュクシルは、首から縄をぶら下げたまま大人しくしている。長い舌を垂らし、三つ目の金色はせわしなくぐるぐると動いている。犬のように座り込む姿は、幽鬼の見た目にはあまりにも不釣り合いであった。
「お前、これ終わるまでちっとつきあってくれや。」
悩むこと数分、エルマーはようやく腹を括ったらしい。この幽鬼はある意味エルマーが喚び出したものだ。ミュクシルがエルマーの指示で姿をを消すことができれば、もう契約は完了しているにちがいない。
「ミュクシル、消えろ。」
エルマーが声に魔力を乗せて言う。ミュクシルの体はたちまち溶けると、黒い水たまりへと姿を変えた。それはするりとエルマーの影の中に移動をすると、鳴りを潜める。
試しに来いと言うと、ぼこりと土から顔だけを出したので、どうやら成功のようだ。
まさか己が幽鬼を使役する日が来るとは思わなかったのだろう、頭が痛そうに額を抑える。
「マ、いーや。」
足ができたなら御の字だ。あまりにも使う魔力が多かったので、ミュクシルに施した禁術はもう使わないだろうが。
エルマーは日が昇るのを確認すると、ふむ、と進行方向を決めた。おそらく、この周辺にダラスに関わる何かが潜んでいる事だろう。
相変わらず、この大地は魔素が強い。エルマーはインベントリからポーションを出すとグビリと飲んだ。内臓の悲鳴は落ち着いてきているが、騎乗をした際に少しだけ引き攣れたのだ。
普段なら気にかけない体の痛みも、万全を期するのは死ねない理由があるからだ。
「親父がすげえんだってこと、教えてやんねえとカッコつかねえしなあ。」
大鎌を肩で支えて体をほぐす。先程から、エルマーを検分するかのようないくつもの自然の気配を感じるのだ。数は数えなくてもいいだろう、どうせすぐにわからなくなるのだから。
エルマーは小さく息を吐くと、その金眼を爛々と輝かせた。誰もいないこの場で、楽しく遊ぶのも随分と久方ぶりだ。こんな機会は、早々あってほしくはないが。
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最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。
(同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!)
(勘違いだよな? そうに決まってる!)
気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
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