名無しの龍は愛されたい。

カストール編

118

戦う者の手のひらだ。無骨な手を拡げるようにして、ユミルの小さな手が重なる。皮膚が破れて、それでも剣を握り続けてきたのだろう。ゴツゴツとした手のひらは歪な形で、お世辞にも綺麗な手とは言いづらい。
　
自分よりも年下の、ひどく老成した精神を持つレイガン。自分の小さく、そして苦労の知らない手とはあまりにも違う。指の太さや、少し曲がった関節。細かい傷跡が散らかるその手のひらは少しだけ汗ばんでいる。
　
ユミルはその手を取ると、己の頬に当てた。暖かい、生きている。
　カサついた手が、恐る恐るユミルの小さな顔に添うようにして、親指で頰を遠慮がちに撫でられた。
真昼間の、大聖堂の裏っかわ。雑草が生えている地べたで二人してあぐらをかきながら、ムードもへったくれもない。
レイガンは戸惑ったように、ユミルにされるがままになっていた。無骨な手のひらが、まろい頰を傷つけてしまうんじゃないか。そう思いながら。
　
「頑張ってるよ。」
「なんだ、急に。」
「レイガンは、頑張ってる。」
　
月並みな言葉しか言えない。それでも、この我慢を強いられた男の心が、悲鳴をあげていることはしっかりと理解していた。
　
「お前が、自分のことをどうでもいいって思ってんなら、僕が大事にしてもいいでしょ。」
「…でも俺は、お前も守れなかったんだぞ。」
　
脳裏によぎったのは、あの闘技場でのユミルの姿だ。小さい体を取り込まれて、血を吐いて。心身ともに限界だったはずなのに必死で伝えようとしてくれた。
あの瞬間、レイガンは血の気が引いた。小さな体がこのまま消えて無くなるのではないかと思ったのだ。
　　
「年下のくせに、カッコつけなくたっていいでしょ。それに、助けてくれたじゃん。」
「そりゃ、助けるだろう……。」
　
ユミルの形のいい目が、真っ直ぐにレイガンを見つめる。薄い緑の瞳は、どうやら光の加減で深みを増すらしい。影の合間を光が縫うたびに変化する虹彩が気になって、気づけば目が離せないままでいた。

「お前、俺にチャームを使っているか？」
「使ってないけど。」
「……そうか。」
「なんだよそれ、ったく……ん？」
　
ほんとは、肩の力を抜けとアドバイスしたかったのに、レイガンが急に話の腰を折るから言い逃した。瞳を揺らしながら、何かを逡巡するように一瞬だけ目を伏せる。
　むすくれたユミルの顔を、レイガンは両手のひらで引き寄せた。　
ざわりと葉擦れの音がする。地べたに膝をついたユミルの薄緑と、紫の虹彩が重なるように光を散らした。
　
なんだ、なんかさっき、ひっかかったことがあったんだけどな。
ユミルの脳内に、先程のやりとりが思い浮かんだ。

ーお前、俺にチャームを使っているか？

はくりと唇が震えた。鼻先が触れ合うほど、距離が縮まったときだった。
　
「レイガン、サジヨンデル。」
「……今行く。」
　
ユミルとレイガンの間を陣取るように、ギンイロが収まっていた。
レイガンの体温がユミルの頰から離れる。わしりとひと撫でだけされた頭を、まとまらない思考のまま手で抑える。
じゃりじゃりとした地面を踏みしめる音がして、ユミルが慌てて顔を上げた。瞳の先のレイガンが、ギンイロと共に出ていく姿がそこにあった。
　
　
「っ、レイガン……！！」
「なんだ。」
「おま、僕になに……ッ、し、」
　
何をしようとした。と続けようとした。その言葉は飲み込まれた。
顎をがしりと指先で掴まれ、無理矢理顔を引き寄せられたのだ。
慣れない角度に、首が悲鳴をあげる。しかしそれよりも大騒ぎをしたのは、ユミルの心臓だった。
少しだけ濡れた唇が、数秒重なった。長いまつ毛が触れ合ってしまいそうな距離に、レイガンがいる。息をするのも忘れて目を見開くと、ちゅ、と音を立てて唇が離れた。
　
「……。」
　
そっと唇が離れる。
ユミルの視線の先、レイガンの背後では呆気にとられた表情のアロンダートとサジがいた。
ユミルにいきなり口付けたレイガンに絶句したのだ。
ほうけたユミルの口に、先ほどのロリポップを突っ込まれる。なんの説明もないまま、レイガンは無言でサジたちのところに合流した。
　
「れ、れれ、レイガン。お、おま、お前、」
「うん、なるほど。」
　
サジもアロンダートもひどく狼狽えてしまったのは、そんなことをレイガンがするはずないと思っていたからだ。
ナナシだけは呑気に尾を振ると、ユミルもついてくのう？ととんでもないことを抜かす。
　
「置いていく。着いてきたって戦えないだろう。」
「そ、そうなんだけど、そうじゃないだろう！？」

ワナワナしたサジが、訳のわからないことを言う。お前、一体いつからそんな関係になったんだと言わんばかりである。
レイガンからしてみれば、そんな関係も何もない。ただなんとなく確かめたくて口付けたのだから。
周りが動揺している中。ロリポップを口に突っ込まれたユミルは、悔しそうに表情を歪めた。制止の言葉はなく、砂利を散らすようにして駆け寄るやいなや、レイガンの手をグイッと引っ張った。

「お前、帰ってきたら絶対責任取らせてやるからな！」
「……わかった。」
「だから、絶対に帰ってこいよ。僕が待ってるんだからな。死んだら許さん。」
「誓おう。」

そんなやり取りをする。レイガンは飴を加えたままキレているユミルがなんだか面白くて、ふす、と空気の抜けたような笑いを漏らした。

「ああ！？」
「レイガン、そんな笑い方するんだなあ……」
「かあいい。」
「……。」

見せるつもりのない笑みだったようだ。レイガンは口元を覆うと、いつもの顔に戻る。
大体虫を噛み締めたような顔や、疲れた表情しかみせないのだ。だからこそ、この笑みはユミルだけに向けられたものだった。
薄緑の瞳が輝きながらレイガンを捉える。本人はその視線から逃げるようにして顔をそらしていたが。

「レイガン？」
「なんでもない、行こう。」

疲れた表情を貼り付けるサジ達を引き連れて、振り返らずに歩いた。振り返ってしまうと、なんだか少しだけ名残惜しく感じてしまうからだ。

レイガンは不器用だ。本当に頭が固くて、無骨で、なんともまあ、鈍感である。
口付けをしたのは、己の気持ちを確認をしたかったからだ。
チャームを使われたから、こんな気持ちになったのかと。しかしそれは確認するまでもなかった。
レイガンにはニアの加護が付いている。だから、最初からチャームなんて効かないと言うのに。

「レイガン、」
「………。」
「レイガン、あのぅ…」

無言であるき続けるレイガンに、ナナシがさっきから声をかけてくる。アロンダートもサジも、なにか言いたげに見つめてくるのがうざったい。
理由なんて言われなくても、痛いほど良くわかっていた。

「ゆ、」
「言うな。」

面倒くさいことは嫌いなのだ。それに、気持ちに気がついても、使命を全うするまではうわつけない。
くい、と服の裾を引かれる感覚に、レイガンの眉間にぐぅうっ、と深いしわが寄った。

「離せ、ユミル。」

低く呟くレイガンに、服を握りしめる小さな手がぴくんと揺れた。
弱いものを連れて行くのは邪魔になる。レイガンは突き放すようにユミルの手を払おうとして、近づいてきたサジにしたたかに殴られた。

「ぐっ！？」
「馬鹿者。」
「ああ！？」

ギョッとした顔で思わずサジを振り返ると、心底腹が立つという顔で見つめ返された。
このキチガイじみた魔女を、レイガンは苦手としている。
手綱を握っているはずのアロンダートへと目を向ければ、肩をすくめられただけであった。

「罪な男だな、君は。」
「は！？」
「やっぱりなしだなし！お前、あとからこい。これはお前が悪いんだから、始末をつけてからにしろ！」

どうやら、サジはレイガンの無責任な態度に苛立ったらしい。お前は、出来もしない約束をするのかと言わんばかりに睨みつけられる。
実際、レイガンだってカストールに戻るとは言ったが、そもそも密入国をしている時点で戻れるかはわからないのだ。
曖昧な言葉で期待をさせるなと、その拳は語っていたらしい。

「ユミル、ついてくのう？」
「つ、……」

ついて、いきたい。

震える声で呟くユミルの言葉に、レイガンは額に血管を浮かせると苛立った。

「ここにいろ！！」
「っ、いやだ！！」
「おまえになにができる！！」
「できないよ!!」

べしりと腹を叩かれる。痛くも痒くもない。こんな非力な力で攻撃をされても、レイガンにとってはなんの痛手にもならない。
エルマーが単身で向かってる今、こんなところでユミルに時間をつかうわけにはいかないのだ。
目に涙を浮かべるナナシが、ユミルの胸ぐらを掴んだレイガンの手を外させる。
その涙が、レイガンに怒鳴られただけではないことに、ナナシは気がついていた。

「ユミル、あのね、こわいこといっぱいあるよう」

ナナシが、きつく握りしめられたユミルの手を包むようにして持ち上げる。

「まもの、たくさんでる。いたいことも、あるかもしれない」
「うん、」
「レイガン、ユミルいたいの、やだなんだよう。」

ぐすっ、と鼻を啜る。ユミルは小さな体を震わせながら頷いた。返事をする気力もなさそうだ。
ユミルだって、こんなワガママを言うなんて思わなかった。使えるのは風魔法だけだ。闘ったこともない。足で纏い以外の、何者でもないことは、重々承知している。

それでも、ユミルは怖かった。レイガンが、レイガン自身のことを放り出してしまいそうで、怖かったのだ。

この国に来て、そんなに日にちも立っていない。そんなレイガンに取りすがったって、口付けを交わしただけの関係なんてすぐに忘れられるに違いない。

わかってる、そんなことは、わかっているのだ。

「お前がついてくるなら、サジは構わん。だがここからは自己責任だ。死んでも文句は言うなよ。」
「ユミル、君の気持ちはわかる。それでも、僕達は先を急がねばならない。」

アロンダートもサジも、ユミルを試している。カストールから出たことのないユミルに、本当に死ぬ覚悟があるのかを。

あるよ。震える声はその三文字を口にすることを躊躇わせる。一筋の涙が、頬を伝ったときだった。

「あの、取り込み中すみませんが…」

酷く気まずそうに声をかけてきたのは、大聖堂の祭祀だ。その手には、随分と古めかしい地図を丸めて持っている。

どうやら、レイガンがサジたちと合流したことを窓から見ていたらしい。なにか伝えたいことがあるようで、大慌てで駆け寄ってきたのだ。
そうしたら、まさかの修羅場である。まさかの藪蛇に己がなるとは、祭祀自身も思わなかっただろう。

言葉を遮られたユミルはというと、先程の勇気が消失してしまったようだった。
震える手が、レイガンの服の裾から離れる。迷惑がられているのがわかったからこそ、縋りたい手を堪えたのである。

「お前には世話になったな。して、なんで慌ててこちらにきた。」
「いえ、あの……サジ様たちが持っている地図は新しくできたものでしたから、省略された場所もありまして…。お仲間が海方向に向かわれたと聞いて、もしかしたらと思って倉庫から持ってきました。」

カストールの祭祀は、サリーという男だ。サリーはエルマーの代わりに現れたナナシを見て、伝説の御使いだと言うことを理解した。
少々先走り、大慌てで祭壇などを作り上げてお供えものまみれにした部屋の主である。

「此処からがちがいます。ほら、水路がありますでしょう。この水路は、はるか昔にカストールのものが始まりの大地から引いてきたと言われているんです。もう随分と古くて、水門は閉じてしまっているのですが。こちらを通っていかれてはどうでしょう。」

ガサガサと音を立てて、サリーが地図を開く。その指先が指し示した場所には、たしかに細い線のようなものが書いてある。サジたちが見た地図にはないそれは、カストールの海側の洞穴から続いているようだった。

「あ、……すごいな、随分と遠くまで続いている。」
「おそらく、潮騒の音を聞かれたと申しますが違います。確かに海には違いないのですが、ここは船でないと行けない場所なんですよ。なんていうか、陸で囲まれた海のような場所になってまして……」

ナナシが指を指した地図の場所は、確かに海でしか無かった。しかし、サリーが言うには、満潮の時には、陸地が見えないと言う。

潮が引くと、水路まわりを囲むようにして陸が出てくる。そして、その道が始まりの大地へと続いているという。

「しかしながら、つぎにその潮が引いて水路と繋がるのは翌日の真夜中、今向かわれても道はできていないんです。」

エルマーが飛んだとき、それは丁度潮が引いて水路が見えたときだったという。この水路沿いに向かうと、丁度ジルガスタント側の大地につくらしい。
なるほど、ミュクシルが言ったのはこの事だ。わざわざ最短ルートまでお膳立てをしてくれたらしい。サジは、ふむ。と考えるように口元に手を当てると、ナナシを見た。

「聞いたな？ならば出立は明日の真夜中に変更だ。文句はあるまい。」
「える、はやくあいたいけど……いいよう……」
「あの、御使い様に聖遺物をお返ししたく……もう一晩宜しければ、こちらに滞在なさいませんか。」
「んと、かえしてくれるのう？」

サリーとナナシがやり取りをする中、呆気にとられていたレイガンの肩に、アロンダートの手が添えられた。
言いたいことはわかる気がした。渋い顔をすれば、泣き顔のユミルからも見上げられる始末だ。なんというか、逃げ場がない。

レイガンは何か言いたげに口を開いたが、言葉が出ずに結局閉じる羽目になった。その様子を見ていたアロンダートが小さく笑うと、助け舟を出すように言った。

「サリー祭祀の大聖堂の空き部屋が、丁度一人分たりないんだ。悪いがユミル、レイガンを頼む。」
「はあ！？」

ギョッとした顔で、思わずアロンダートを見上げる。その顔はしっかりと男を見せてこいといった様子である。
余計な気遣いに文句をつけようとすれば、じわりと耳を赤くしたユミルが、小さく良いよを宣った。

「お、前が良くても……俺は、よくない。」
「やだ。うちにきて。」
「ユミル……しかし、」

弱ったという顔で、レイガンが助けを求めるようにナナシを見る。
ぴるる、と耳を動かしたナナシは、ふにゅりと口元を弛めると、何とも呑気に言ってのけた。

「すきすきってするのう？いてらしゃい」
「す、……」

背中にユミルの体温が移る。そっと握られた手の力があまりにも弱々しくて、レイガンは思わず握り返した。