名無しの龍は愛されたい。

カストール編

116

静かな夜だった。いつもと変わらない日常を穏やかに過ごし、その日の終わりに聖遺物を飾るルリケールを磨く。
大聖堂に祈りにくる信徒たちは、この聖遺物が本物の鱗と爪であることは知らない。
古くから伝わるこれは、国が囲むようにして閉ざす始まりの大地に降り立った邪龍のものだと聞いている。その話を先代から聞いた時、、美しいものにはいわくがつきものなのだなと他人事のように思った。
その災いを祀り、大聖堂に飾る。それは強い力でこの国を守ってくださいという意味合いもあるのだろう。こうして大切に扱えば、いつかは応えてくれる。信じるものが救われるようにだ。

「たまには取り出して、月明かりを浴びせてやらなくては」

大袈裟な飾りのついた狭い箱の中。簡単に人の手で触れてしまえる聖遺物が本物なのかと思う時もあったが、それでも祭祀である男は信仰対象へと愛情を持って接してきた。
鱗は、まるで晩餐で使う皿のようにしっかりとした大きさである。それを、乾いた布で丁寧に拭う。長い年月を経ても変わらぬ美しさを放つ虹色の光沢を放ち、月明かりに照らされるように、秘める何かがチカリとあわく光る。
爪は、とても鋭い。しかしながら真珠のような輝きをまとっていた。赤子と同じくらいの大きさのそれは、天鵞絨に守られるかのように固定されている。
ルリケールを開け放ち、月光浴させる。祭祀はこの時間が好きだった。
信仰というのは、信じる心だ。何かを願う対象があるのは、心の拠り所があるのと同じだ。たとえ悲しい過去があったとしても、それを乗り越えるためにはとっかかりが必要である。
きっとこの二つの聖遺物も、その役割を担っているのだろう。

「さて、綺麗になった。」
「ありがとうよ、大切にしてくれて。」

静かな空間で、気配もないままに声をかけられた。
思わず上げそうになった悲鳴を飲み込むと、祭祀は暗闇に隠れる何者かの正体を探るように、ゆっくりと背後へと振り向いた。
月明かりが差し込む光の道を踏みつけるように、大聖堂には不釣り合いな重そうな装備の音が存在を主張する。
闇の中から抜け出すように現れたのは、魔物のような金色の瞳を宿し、長い赤毛を乱雑に縛る男だった。
影を縫い止められるように動けなくなった。目の前の男のゾッとするような顔立ちに、魔物の血が流れているのかと思ったのだ。
人を惹きつけるような、むせかえるような怪しげな魅力を持つ男は、足跡を刻み込むようにゆっくりとした足取りで近づいた。

守らなければ。この聖遺物を。
祭祀の緊張は頂点に達していた。それでも、強い意志が働くままに、その背中で聖遺物を隠すように立ち塞がった。
聖遺物は、民の心の支えである。けして害されてはならぬと、両手を広げて背後に庇う。
震えを堪えるように祭祀が睨みつけた目前の男は、小さく目を見開いたのち、歩みを止めた。

「それは、お前の大事なもんかあ。」

間延びした声は、思いの外優しい。外套を羽織らないまま旅をしているのだろうか。くたびれた姿で現れた男はしかし、鍛えられた体に簡易鎧とインベントリを巻きつけていた。男らしい腕が繋がる手首には、カストールの隷属者を表すバングルが二つ。月の光を浴びて金色に輝いていた。

「……もう、礼拝の時間は終いです。お帰り願えますか。」
「ああ、迷惑かけちまうから、一応許可とっとこうと思ったんだあ。」
「……許可、ですか。」

話が通じないことは覚悟していたが、男は予測に反して許可などという単語を使う。申し訳なさそうな口調に戸惑いの目を向ければ、男の背後には先ほどまで存在しなかったものたちがいた。

「エルマー、穏便に行けよ。」
「わかってる。」

紫色の瞳を持つ男が窘めるように宣った。不穏な言葉から察するに、どうやら穏便でないことのほうが多いらしい。
エルマーと呼ばれた男以外に、気配は四つ。戦いの心得など当然なく、祈ることしかしてこなかった祭祀は、忙しない鼓動を落ち着かせるように深呼吸をした。

「この聖遺物は、渡せません。これは、この民の心の拠り所です。私もこれを守らねばなりません。」
「心の、拠り所。」

小さく呟いた。随分と心許ない声を出すのだなとさえ思った。
エルマーは少しだけ目を伏せると、祭祀へと祈りを捧げるように床へ膝をついた。

「な、なにを…」
「あんたに、協力してもらえねえかなあ。勿論なんも危害は加えねえ。諸事情で武器はすてらんねえんだけど、頼む、この通りだ。」

訳のわからないことを言って頭を下げる。
緊迫感のある空気は変わらなかった。それでも、祭祀が状況を理解するまでの数分間、エルマーは微動だにせず頭を下げていた。
誰かの息を呑む音が聞こえて、ようやく祭祀は覚悟を決めた。

「……危害を加えぬと言うなら、話は聞きましょう。殺しなどをしないと神に誓えるなら、武器もそのままで構いません。」
「ああ、あんたは殺さねえ。」

含みのある言い方ではあったが、エルマーはゆっくりと顔を上げて祭祀を見上げた。
いつまでも話づらい床に座られるのは気がひける。祭祀は仕方なく大聖堂に備え付けられているベンチの一つを進めた。

「その聖遺物に、触らせてくんねえか。」
「……理由を、」
「あんた、信心深いってえことは、口も固え？」
「そこがどう繫がるのかはわかりませんが、まあ秘密は守ります。」
「これから起こることも、誰にも言わねえでくれるか。」
「場合によります。」

何かを確認するかのような受け答えがしばし続いた。気がつけば闇に潜むように隠れていたものたちは姿をあらわし、各々が話を待つようにベンチへと腰掛けていた。

「それに触れた後、俺の代わりに持ち主が来る。」
「聖遺物の、持ち主……ですか？」

何を言っているのかはわからなかった。それでも、エルマーは真っ直ぐに聖遺物へと目を向けていた。まるで、何かに思いを馳せるかのようにだ。

「……彼の番が拐かされた。縁を辿って追いかけるには、聖遺物に触れる必要がある。彼が行った後は、代わりにこちらにくる者がいる。巻き込んですまないが、貴方はこれから起こる事を口外しないでほしい。」

褐色の肌の美丈夫が、聞きたかった理由を補足するように教えてくれた。
しかし、そんな説明を受けてもなお戸惑いは拭い切れない。祭祀は念を押すように確認をする。

「触れるだけ、なのですね。」
「ああ、それ以上は危害も加えねえ。」

真剣な顔つきだった。嘘か真かは当事者にしかわからないだろう。疑いの気持ちが晴れたわけではなかったが、それでもまっすぐな瞳を前に曖昧な返事を返せるわけもなかった。

「わ、かりました」
「……ありがとう、じゃあ行ってくるからよ。ギンイロ、受け止めろよ。」
「アイヨ」

現れた大きな単眼の魔物を目の前に、思わず引き攣った声を漏らしそうになった。
祭祀の背後には、女神像が描かれるステンドグラスが、月の光を受け止めていた。
エルマーは、しばらくそれを目に焼き付けるように見上げていた。ギンイロに怯える祭祀の横を通り、聖遺物へと手を伸ばす。無骨な手のひらが。いたわるように鱗の一枚を撫でたその時だった。

「え、」

祭祀は、思わず母音を口からこぼした。柔らかな風が背中を撫でたかと思い振り向けば、もうそこにエルマーの姿はなくなっていた。
横を抜けるように、ギンイロと呼ばれた魔物が体を膨らませるように転化する。
あ、と思うまもなく大聖堂が眩い光に包まれた瞬間。光を散らすようにして、真っ白な人物が虚空から姿を現した。

白磁の人形のように人外的な美しさを持つその人は、白銀の髪から捻れた角を生やしていた。
細い体は、仲間によって支えられるように床へと下ろされる。
髪の隙間から見えた聖遺物と同じ色合いの鱗を前に、祭祀は呆気に取られるように見つめていた。







「っ、」

ナナシの魔力に引き寄せられるようにして、エルマーは転移をした。
膝から力が抜けるように体勢を崩す。術の行使が思った以上に病み上がりの体に負担をかけたのだ。
四方を板で囲まれるように視界を閉ざされた箱の中。エルマーが触れた床板には、まだナナシの温もりが残っていた。

「まだ温けえ、っ……」

床についた手を握り込む。無事の証に、心底安心した。
額に脂汗が滲む。口の中に感じる鉄錆味に、体が抗議をあげているのだと自嘲する。むせて濡らした手のひらには、どろりとした赤い血が混じっていた。

「……ナナシ」

掠れた声で呟く。離れてしまって、泣いてはいないだろうか。子は無事だろうか。エルマーの心配は尽きることはないのだが、それでも早く終わらせるに越したことはない。
深呼吸を繰り返して痛みを逃す。そのままインベントリから取り出したのは、大鎌だ。
ゆっくりと瞼を閉じる。耳に魔力を集めて、そっと外の状況を探る。じわりと手のひらに滲ませた魔力が、床に染み込むようにして霧散した。どうやらこの箱自体に魔力を吸収、そして場所によっては排出する作りになっているらしい。となればやはり箱自体に魔力を流し込むのは愚の骨頂だ。

外に気配はない。エルマーの鋭い瞳の奥に、仄暗い何かが宿った。

「やべえ、手土産忘れちまったよ。」

冗談めかしの言葉を宣う声は低かった。エルマーを中心に、円を描くように光が巡ったかともえば、板張りの部屋はあっけなく檻としての役割を終えた。
放射線状に広がった板が、唐突な出現を飾る。開けた視界、感じ取ったのは潮風だ。
木端の破片を散らかしながら、エルマーは鎌を引き摺るようにして立ち上がった。

「よぉ」

金色の瞳が真っ直ぐに射抜いたのは、闘技場にいた男だ。おそらくミュクシルだろう、その男は現れたエルマーを前に笑みを浮かべると、距離をとるかのように飛び退る。

「きた、本当に来てくれたなあエルマー！うははは、俺は今喜んでいる！思い通りに動いてくれたお前に、俺は感謝をしているぞエルマー！！」
　
ミュクシルの纏う黒い外套がバサリと広がった。放射線状に放たれた魔力の糸は、空気を裂くようにして素早くエルマーへと向かう。
大鎌の柄を握る手に力が入った。細く息を吐き出したエルマーは、足の力を抜くようにして体勢を低くとる。鋭い鎌の先端が支えるように床板へとつき刺さる。体を捻るように足を伸ばすと、床を摩擦する勢いで足払いをかけた。
それは、ほんの一瞬の出来事であった。ミュクシルの足は、鉄塊をぶつけられるような衝撃を受け止めきれず、そのまま無様に転がった。
視界に夜空が広がる。状況を理解する間も無く、わずかな風圧を顔に浴びると、頬を掠めるように鎌の先端が床に突き刺さった。

「ヒ……っ……」

魔力の糸で捉えていたはずだった。外すわけがないと思っていた驕りが、素早いエルマーの動きについていけなかったのである。
糸は残滓が無に還るように光を放ちながら辺りに漂っていた。あの一瞬で切り刻む恐ろしいまでの身体能力を、ミュクシルに見せつけたのだ。
　
「俺の嫁誘拐してくれたツケを払ってもらわなきゃなあ。」
「ふは、お前が相手にしているものはただの人外ではないぞ。」
「おう、お前の遺言はそれでいいのな。」

大鎌が、青い光を放つように切先をミュクシルの首筋に当てる。
エルマーの動じない様子を前に冷や汗を噴き上げた。嫁が人ではないと聞いて、顔色ひとつ変えない。ミュクシルの計算とは違うことが起きたのだ。


「俺を殺したら、遠回りになるぞエル、」
「自分で探すからいいぜ。じゃあな。」
　
鎌の柄を蹴るようにして喉を掻っ捌く。跳ねた血飛沫がエルマーの頬を汚すと、男の口の中へと徐に手を突っ込んだ。
グチリと音を立てて、男の奥歯をむしりとる。切先を喉に当てた時点で噛み締めようとしていたのを見抜いていたらしい。エルマーは手のひらに乗せた奥歯を握り潰す。
　
「部下で人体実験しておいて、てめえで怖気付いてちゃ世話ねえだろう。」
　
歯に擬態したケースだったのだろう。それが握りつぶされ、エルマーの手のひらの上には茶色い土が零れていた。
潮騒の音が静かに響く。どうやらここはジルガスタントに向かう途中の航路のようだった。
小型の船舶は主人を失い、海を静かに漂っている。
随分面倒なところに来たようだ。エルマーはしばらくミュクシルの死体を眺めた後、手にしていた土を傷口に突っ込んだ。
　
「聖石ってよすがになんのかな。」
　
そんなことをぼやきながら、コキリと首を鳴らす。エルマーが死体を背に一歩踏み出せば、ミュクシルの体が不自然に膨れ上がる。
船の欄干まで歩むと、それを背もたれにするように振り返る。
死体だったはずのミュクシルの体は、黒い体に木の根を這わすかのような醜悪な幽鬼へと変わっていた。
　
「おめえが読んでた禁書に、面白い術があってよ。」
　
よろよろとおぼつかない足取りで近づいてくる。太い腕が粘着質な音を立てながら、命を刈り取る形へと変化する。それでもエルマーは、ただ静かに見つめていた。
　
「無属性魔法の禁術、お前が調べた空間移動よりエグいやつ教えてやるよ。」
　
そういうと、エルマーは無防備に近づいた。大振りな手の一撃を頭を下げることで避けると、目を見開く直前で幽鬼の顔面を鷲掴んだ。
　
「ホメオスタシスを操るんだと。身体掌握、緊縛。お前の主人はこの俺だ。」
　
エルマーの言葉は、不思議な反響音を伴って幽鬼へと侵食した。掴んだ顔を通して、純粋なエルマーの魔力を一気に流し込んだのだ。
幽鬼としての体の作りを無理矢理歪ませていくその術は、脳の一部に隷属の印を刻み込む。痛覚を呼び覚まし、魔物としての生理的欲求を司る部分を作り替えていく。
文字通り、躾のための恐怖を植え付けるのだ。無理に馴染ませた魔力で、誰が主人かをわからせる。
　
ゆっくり手を離す。変化を終えた幽鬼はドサリと音を立てて崩れると、数分後にゆっくりと起き上がった。
　
「お前を差し向けた奴の元へ連れて行け。」
　
魔力を乗せた声が言葉を紡ぐ。幽鬼の長い腕がエルマーの体を支えるように引き寄せると、同じ金色の瞳をグパリと開く。まるで行き先を定めるように一点を睨みつけると、エルマーを抱え一息に跳躍した。