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再びのドリアズ編

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「……、……こ……、こは……」

静かな夜の室内、耳を澄まさねば聞き取れぬほどのかすれた声が空気を震わせる。
背中に感じたのは、地べたとは違う柔らかさと温もりだ。
抗いがたい疲労を振り払うように、サジは張り付く喉を酷使する。

「……ぃ、っ……?」

暖かな木目調の室内は、見知らぬ部屋だった。身動げば、下腹部に引き攣るような痛みを感じる。
亡羊とした思考の中ではあったが、驚くくらい身体が言うことをきかない。
体内の魔力を探っても、全身に行き渡る前に霧散してしまう。余程内蔵にダメージを食らったようだ。
サジは記憶を探るように目を閉じると、蘇った記憶に小さく息を震わした。

「……っ、ひ、……」

サジの瞳が、きゅうと縮んだ。
内蔵を摩擦するように、己の体を貫く針を思い出す。強く体を押されたかと思った次の瞬間には、もう空中にいたのだ。
己が神使でなければ、きっと死んでいただろう。
俗世から離れたのに、明確な悪意にここまで怯えさせられたのは初めてだった。

「っ、ぅ……く、っ、」

肺が熱い。目の奥も、とろけてしまいそうだった。
己の感情が制御できない。生を実感した今、サジは子供のように怯えていた。
嫌だ、ださい。なんでこんな、
心の中の己は、泣くなと喚いている。それでも、手の震えも涙も止まりそうにはなかった。

「ぁ、ぁ、ろ、っ……」

幼子が愚図るかのような、情けない声が漏れた。
ここはどこだ。なんで隣にアロンダートがいないのだ。
いやだ、いやだ。一人?一人はいやだ。悲しい、怖い、辛い。

腹がジクジクと疼く。指一本動かせない、己の体なのに己の意志が伝わらない。
アロンダート、来て、サジの手を握りしめて、怖くないよと言ってくれ。

「っ、ぐす、……ぁ、ろん……だー……、と……」
「サジ。」
「ぅ、うぅー……」

きゅうん、と喉が鳴った。己の求めるアロンダートが、情けなく泣く姿を覗き込むように顔を出したのだ。
ベッドの下にも寝具を敷いていたらしい。褐色の、サジが安心する大きな手のひらが、そっと眦を撫でる。

「サジ、サジ……どうした。やはり、腹がまだ痛むのか……」
「っ……ひ、ん……っ……」
「泣くな、ああ……こわかったな、サジ。もう大丈夫だ、ここは安全だから。」
「ふ、ぅ……、ぁ……ぁ、っ……」

箍が外れたかのように、ラブラドライトの瞳から涙が溢れる。
幼子のように顔を歪ませ、嗚咽を漏らして泣く姿は、今までの不遜な態度からは考えられない程であった。

もっと近くに来てほしい。なのに、体が動かない。腕を伸ばして縋りたいのに、それが出来なくて嫌だった。

「サジ、どうしてほしい?僕にできることは、なにかあるだろうか。
「っ……、さ、わり……たい…」
「ああ、ああ……勿論だサジ。なら、手を握ろうか……、温かいな。血が通っている。」
「だっこ……しろ……っ……」
「かわいい、かわいいなあサジ、お望みとあらば、なんでもしよう。」

安心するアロンダートの香りが、サジを包み込む。ベッドがきしりと鳴き、背中に手のひらが差し込まれた。そっと抱き上げられると、サジはその膝に乗るような形で横抱きにされた。

「ぅ、っ……」
「すまない、だけどこちらのほうが安心するだろう。」

腹の傷は治したといえど、やはりかすかな揺れでも疼くらしい。アロンダートがサジを抱いたまま腰を落ち着ける頃には、額には汗が滲んでいた。

アロンダートの体が、近くにある。その肩に頭を凭れさせながら、サジは安心したように吐息を漏らした。

「……さすがに、参った……。」


サジを抱き締めるアロンダートの手に、僅かに力が込められた。苦しいほどの抱擁ではなかったが、それでも声色からは言葉の意味が受け取れた。
切ないまでの声だった。あの光景がどれほど恐ろしいものだったのか、手の震えで伝わってくる。

あの夜は、地獄そのものだった。
アロンダートの眼の前で、己が貫かれる姿を晒してしまったのだ。
声が聞こえた時、サジの頭に真っ先に浮かび上がったのは、アロンダートのことだった。
恐ろしいまでの怒りが、薄れゆく意識の中でも感じ取れたのだ。
強い衝動に突き動かされてしまえば、アロンダートは制御を失って魔獣化してしまう。それを、サジは一番理解しているといういのに。

体の隙間を埋めるように縋り付く。今は、互いの体温を感じることが、何よりも嬉しかった。

「……レイガンに感謝をしなくてはいけない。僕は怒りに身を任せて、彼にサジを託した。……情けないことだ。あれだけ、誰にも触れられたくないと思ったのに、それを許すほど余裕がなかった。」
「……、っ……サジは、っ……お前が無事で、」
「……良くない。僕は最後まで、この手でサジを守りたかった。」

レイガンがサジを守らなければ、アロンダートは余裕のないまま魔獣化していたに違いない。あり得た未来は、二人の心に傷として残る。
褐色の肌に、サジの手が触れた。頬を撫で、黒髪をよけるようにして耳にかける。
溶けたラブラドライトの目元に、無骨な指がそっと触れた。涙を受け止めた指先は、そのまま頬に添えられる。

「サジは、おまえが……無事でよかった……。魔物化をせず、ほんとうに……」
「魔獣になんてなるものか。僕はサジのものだぞ。それに、サジが跨がる騎獣は、僕だけでいいのだからな。」
「元第二王子の騎獣とは、なんとも贅沢なものだな……」
「だろう。僕はサジがいれば立っていられる。だからこそ、死ぬなサジ。お前の声が僕を守るのだから。」
「ああ、そうだな……そうだ、……」

額を重ね、鼻先が触れ合う。小さな顎を上げるようにして、サジはアロンダートへと口付けた。
重ねた唇は、すこしだけしょっぱい。涙の味がした。

「ふ、……っ、」

薄い舌が、厚みのある舌に掬われる。味蕾を擦り合わせるようなそれは腰に響く。唾液に乗せられた魔力が、ゆっくりとサジの内側に浸透した。

「……これ以上は、いけないな。傷に障る…」
「っあ、……や、いやだ……お前がほしい、……」
「だめだ。治癒したばかりだぞ。それに、抱くのなら激しく抱きたい……それならやはり、体が万全でないと。」
「アロンダート……、」

サジの尖った耳に、厚みのある唇が触れた。
掠れた声で甘やかに囁かれるだけで、その身は勝手に喜んでしまう。
あんなにも動かなかったのに、アロンダートに縋りたい一心で腕を動かした。
大概素直な自分の体を、サジは笑った。
ただ温もりを分け合うだけで、身のこわばりが楽になる。
接触による魔力譲渡がこんなにも心地よいなんて知らなかった。
性的なやり取りではない。それでも、体温を近くに感じるだけで、こんなにも気持ちがいい。

「たしかに、今抱かれたら……死んでしまうかもしれないな。」
「サジ、洒落にならないぞ。」
「ばかもの、気持ちが良すぎてだ。」

厚みのある唇に吸い付く。己よりも逞しい体に甘えるように凭れかかった。
指を通した黒髪には、羽根が混じっていた。魔物化は防げたが、余程緊張していたらしい。
常に冷静なアロンダートを、己のことで慌てさせたのだと理解して、すこしだけそわりとした。
嬉しいなどと口にすれば、きっと怒られるのだろう。

「サジ、もっと顔をみせてくれ。」
「いやだ、恥ずかしい。」
「つれぬことを言うな。その微笑みは、僕だけが知っていればいい。そうだろう?」
「……う、」

大きな手のひらによって、サジの頬を包まれる。琥珀色の中に映る姿は、随分と情けない顔をしていた。
カサついた指が、柔らかく唇に触れた。視線に混ざる感情に促されるように、サジは目元を緩めた。

いつもの不遜な笑みではない。気恥ずかしげに向けられたその表情は、美しく慈愛に満ちていた。

「愛している、サジ。この笑みは、僕だけにしか許さないでくれ。」

サジの喉が、きゅうと鳴いた。込み上げてきたものが溢れないように、必死でせきとめていたのだ。
泣き顔で、アロンダートの言葉を噛み締める。
愛している、の言葉はサジだけのものだ。そのくせ、サジは上手く言えた試しはないが。
だから言葉のかわりに態度で表す。サジは手のひらに擦り寄るように唇を寄せると、本当に小さな声で、サジも……と言った。

「ああ、聞こえている。」
「うわ、っ」

アロンダートの鋭い聴覚は、しっかりとそれを受け止めていた。
嬉しそうに、クルルと喉を鳴らして喜んだ。つい勢いでがぶりと鼻へ甘く噛み付いたのは、ご愛嬌である。
転化したときの愛情表現が、ついでてしまったらしい。

目を丸くして驚くサジを抱きしめる。照れたように肩口に顔を埋めたアロンダートの仕草に、胸が甘く締め付けられた。
ああ、これが萌えるというやつかあ。と、サジは身を持って体験したのであった。









翌朝のことである。

「サジ!サジおきた!える!!え、る、まーっ!!」
「う、……うるせ、ちょ……ナナシ、いまおきる……」
「はやくーっ!!ナナシもがんばた!だからはやくおきてえー!」
「な、にをがんばった……ふあ、あー……」

大きな欠伸をひとつ、戦闘の疲れで体が錆びついたように動かないのに、エルマーは朝っぱらから、容赦なくナナシに叩き起こされた。
もぞもぞと寝具に潜り込み、亀のように丸くなる。起き上がるのを待つかのような視線をそのままに、エルマーは再び寝息を立て始める。眠いものは眠いのだ。

「え、る、まー!!」
「ぐえっ」
「おきる、するして!」
「わかった、わかったからこっち、」

起床を催促するように、しびれを切らしたナナシが跨った。朝からの生理現象で、もう一方のエルマーはしっかりと目覚めている。
エルマーはナナシの腰をがしりと掴むと、引き寄せるようにして腰に移動させた。
寝具越しの心地よい圧迫に応えるように、ぐい、と腰を押し付ける。

「ひう、っ」

朝っぱらから元気なご子息を、ごりごりと尻に押し当てられたナナシは、わかりやすく顔を染め上げた。

あさから!!ひとのいえで!!なんということだ!!

「そこなら存分に、跳ねてもいいから……ふあ、ぁあ……っいってえ!!!!」
「えるのばかあーーー!!」

纏まらぬ語彙を手のひらに込めて、勢いよく振り下ろす。
手のひらを顔面で受け止めたエルマーのうめき声と、朝からキャンキャン吠えるナナシの声。

そんな騒がしい二人のやり取りを扉の向こう側で聞いていたレイガンは、呆れたように溜め息を吐いた。


「おお、朝っぱらから元気だねえエルマーさん。」
「ああ、本当に馬鹿なんじゃないのか。」
「レイガンさんは、疲れが残ってるみたいねえ。」

カチャカチャと食器の擦れ合う音がする。
アリシアとナナシが二人で作ったポタージュスープを、器によそう音である。

「ナナシちゃん、朝から手伝ってくれたのよ。裏の畑でとれたお芋をすり潰すの。なんでも、料理を覚えたいんですって。」
「ああ、それで……」

レイガンの記憶に、朝方のナナシの様子が思い返される。普段なら誰よりも寝坊助なくせに、今日に限ってはレイガンの次に早かった。
寝ぼけ眼で、ごはん……つくるする、ぅぬん……、と、もにゅもにゅと口にして、部屋を出ていったのにはそんな理由があったとは。
エルマーは、ナナシが腕から抜け出しても気付かない程に爆睡していたが。

「レイガンさんは朝っぱらから鍛錬とは、やっぱり若い男は元気ねえ。ロンも見習いなさいな。」
「母ちゃん、そりゃあないぜ!そもそも男としての体の作りがちげえもの。お、起きてきた。」

キイ、と音を立てて開いた扉から出てきたのは、顔に真っ赤な紅葉を張りつけたエルマーだ。
ボサボサの髪で、下肢にボトムだけを穿いた姿で出てくるものだから、晒された上半身にマーチもアリシアも少しだけ燥いだ。
やはり、いい男の腹筋は目の保養らしい。

「エルマー!人様の家だぞ!服を着ろ!」
「ああ、ロン、服かしてくれえ……」
「あんた昨日着てたやつは?」
「ナナシのよだれでびちゃびちゃ。」

案の定、叩かれてもしっかりと悪戯はしたらしい。とんだ胆力である。
そんなエルマーを押し退けるように、ナナシはふんだ!とぷんすこしながら戻ってきた。顔が赤いので、どうやらえらいめにあったらしい。

レイガンが、呆れながらもエルマーのインベントリを投げ渡す。

そんなエルマーが着替えている間に顔を出したのは、身なりを整えたアロンダートだ。
どうやら一部始終はしっかりと耳にしていたようで、その顔には苦笑いを浮かべている。

「朝飯はナナシがアリシアさんと作ったらしい。先程大はしゃぎで起こしにくるものだから、寝起きのサジに苦笑いされていたぞ。」
「おー、サジへいきなのか。」
「明け方目を覚ました。魔力譲渡でだいぶ回復はしたが、まだ無理はさせられないな。」
「ほお……、……つくった?」
「エルマー、まだ寝ぼけているのか。」

話の脈絡が整わないまま、着替えを終える。鼻孔を掠めるスープの香りが目覚まし代わりになったようだ。
エルマーはパチリと瞬きをすると、ぎょっとした顔で宣った。


「まじでえ。」
「つくった!」

ふにゃあ!と泣き出したアランを、ナナシの尾が器用にあやす。
ようやくわかったかと言わんばかりに、ふんすと胸を張るナナシは随分と自慢げだ。
アリシアに抱かれたアランに尾を握られて、はわ……となったが、ご機嫌に泣き止んでくれたので良しとしよう。

ナナシががんばった芋のポタージュスープは、たしかに旅先ではなかなか作れないものである。
多少潰し残した芋は浮いているが、とろみのあるそれはコンソメのいい香りがしていた。

「すまない、世話になる……」

いつの間にかサジを呼びに行っていたらしい。アロンダートによって横抱きにされたサジが、用意された椅子を前に気恥ずかしそうに礼を言う。
己の汚した服も洗ってもらったことに気がついたのか、何時になくしおらしく、居た堪れなさそうにするサジに、エルマーが吹き出した。

「おまえってそんな殊勝な態度できんだなあ。」
「うるさいぞエルマー。サジだって常識くらいある。めったに使わないだけで。」

いや、それを非常識と呼ぶのでは。レイガンの頭にはそんな言葉が過ぎったが、面倒くさいので口を噤む。
アリシアによってひざ掛けをかけられると、ますます申し訳無さそうな顔をする。エルマーもだが、サジも大概に親切に弱い。

「いいんですよ、こちらは家の代金をエルマーさんに払ってもらっちゃいましたから。こちらのほうが恩があるんです。」
「あたしの薬代も、エルマーさんにだしてもらったからねえ……ここにいるうちは、恩返しを受け取ってくださいな。」
「エルマー、お前いいやつだったんだなあ。」
「うるせえ!!そんな目で俺を見るな!!」

気を抜けばすぐにこれだ。生暖かい視線が、エルマーに集中する。朝っぱらからなんという羞恥プレイか。
視線を散らすように手を振り回すと、ケッと吐き捨てるように拗ねる。エルマーのひねくれは、ここにきても変わらないらしい。

「える、あーん」

ご機嫌なナナシが、エルマーの口元にスプーンを運ぶ。
エルマーは堂々とそれを口に含むと、おかわりを催促するように口を開けた。
どうやら最後まで食べさせてもらうつもりらしい。

「感謝は照れるのに、それは恥ずかしくないんだな……」
「あ?なにがだ。あぐ、」
「いや、君がいいなら僕はいいんだ、……」

わけのわかんねえやつだなあ。そんな具合で、アロンダートの言葉の意味を理解しない。
うまいうまいと餌付けをされているエルマーを見て、この男の羞恥心は捻くれ過ぎだろうと、引きつり笑みを浮かべる。
そんなレイガンの肩を叩いて諦めろと微笑むアロンダートは、やはり一番大人であった。

ナナシの作ったご飯は、エルマーがおかわりをするほどに美味かったようだ。
これに味をしめたナナシが、一人で料理に挑戦をして色んな意味でエルマーを仕留めることになるのだが、これはまた別の機会に語りたいと思う。




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