名無しの龍は愛されたい。

再びのドリアズ編

95

その姿は、神話に出てくる生き物のようだった。
紫色の大きな体のほとんどは、蟷螂の姿である。唯一メアリーだろうとわかる部分は、豊かな赤い鬣に豊満な胸を蓄えた、女性らしい曲線を描く上半身だろうか。
　
エルマーはその揺れる乳房を見て、ぶわりと鳥肌を立てた。随分と前に娼館に取り憑いたアンデット系の魔物を倒した時のことを、思い出したからである。
　
「おっぱいはだめだ。あれはいけねえ。」
　
なんとも言えない顔をしながら、そんなことを言う。人間の体についているおっぱいならいいが、魔物のおっぱいは怖い。
思春期真っ只中の若い冒険者ならともかく、意外にもエルマーの最も苦手とする魔物は、女性の特徴を持つキメラ型だった。
　
ー来ます！！馬鹿なこと言ってないで避けてください！
「無理無理きめえええええ」
「えるのばか！もおお！」
　
情けない姿に、声を上げたのはナナシだ。
先程のメアリーとのやり取りも腹に据えかねているのに、ここに来てさらに好き嫌いの話になるなんて。
整った眉を寄せ、眠たそうな瞳をむすりと釣り上げながら、そんな具合にヤキモキしている。ナナシは手のひらを真上に掲げ上げると、振り下ろされた鎌による熾烈な攻撃を防いだ。
　
「かっこいいえるいない！ばかあ！」
「は！？ここにいるわ！見てろよ雌蟷螂、三枚におろしてやらあ！」
ーなんというか、やっぱりエルマーの基準は御使い様のかっこいいが軸なのですね……。
　
ルキーノの呆れた声が脳内に響く。
いかん、これは由々しき事態である。エルマーは、ナナシのかっこいいえるいない！の一言によって、スイッチが入った。
　
他の奴らにならどう思われたっていい。しかし、ナナシの前でダサいのはだめだ。
常に嫁の前ではかっこよく。それが男の矜持というものだろう。エルマーがやる気を見せる動機が、なんとも浅ましいものではある。
エルマーは、ナナシの肩の上で大人しくしていたギンイロを鷲掴むと、一気に結界の外へと駆け出した。道連れは君に決めた。そう言わんばかりに。
　
「エエエ、ナンデギンイロモ⁉︎」
「弔い合戦と行こうや。ジジイ手にかけたのは、あの女だ。」

先程の情けない声色は、すでに鳴りを潜めていた。　
大きなお耳が、ピクンと震える。翡翠の瞳はキュウと細まった。ギンイロはエルマーの手を離れると、瞬く間に青い炎をその身に纏った。
空気が揺れる。エルマーの目の前で、炎を千切るように大型の狼のような本性を現した。
月明かりを浴びて、美しく輝く体毛をブワリと膨らませる。ギンイロは、その身に紫の稲妻を走らせてぐるりと唸った。
　
そうか、こいつが家族を奪ったのか。
　
翡翠のような単眼がきらりと輝く。瞳孔を縦に伸ばし、その豊かなたてがみを奮い立たせた。空気を震わせるように、グワリと咆哮する。
その雄叫びは、旅を共にしてから初めて聞く、ギンイロの獰猛な声であった。
辺りの空気が、ビリビリと震える。放たれたのは、威圧の状態異常を引き起こすハウリングだ。それは、ギンイロがこちら側でよかったと、心底安心してしまうような威力があった。
　
エルマーとナナシでさえ、僅かに身を固くするほどの威力であった。
それを向けられた蟷螂のキメラは、わかりやすく身をこわばらせた。メアリーの声に、歪な複音を混ぜたような不快な鳴き声があたりに響く。
まるで怯えるように鎌を折りたたむと、その六足をぎこちなく動かして後ずさる。
しかし、その機会を逃すほど、エルマーもギンイロも馬鹿ではない。
　
「ギンイロ、」
「オソイ、モウイク」
　
飛び出したエルマーよりも素早く、ギンイロは空へと駈けた。まるで不可視の階段でも駆け上がっていくようなその足取りだ。
エルマーは、素早いギンイロを茶化すように口笛を吹いた。取り出した鎌を素早く展開して、地べたを削るように魔物の足元へと身を滑り込ませる。
　
「崩すぞ！」
「アイヨ。」
　
エルマーの足に、力が入る。身体強化はすでに終えてる。小さく息を吐き出すと、大鎌の柄をキツく握りしめた。
踏み込んだ足を軸に、エルマーは地べたから影を引きずり上げるかのような勢いで、鎌を振り抜いた。瞬時に節目を狙った正確な攻撃に、魔物の体はだるま落としのようにガクンと落ちた。

己の体へと飛びかかる、ギンイロの体を捕食しようと伸ばした顎は空振りに終わった。
切り離された大蟷螂の四肢が、勢いよく飛んでくる。結界に迫る勢いで近づくそれに、ルキーノは小さく悲鳴を漏らした。

「へいき。」

ナナシは、指先でそっとポシェットを撫でた。金色の瞳がキラキラと輝く。飛んできた大蟷螂の足の先端が結界に触れたその時、弾き飛ばされるように軌道をずらした。
ナナシの結界があれば、攻撃は当たらない。エルマーもそれをわかっているから、思う存分切り刻める。
　
夜の闇が、優しく地上を覆う。今宵は満月で、この大地に潜む者どもの魔力が高まる満月だ。野暮な鈍色の雲が掠める満月を、大蟷螂は見上げるかのように鎌首を伸ばした。
　
「いいとこは譲ってやるよ。」
　
手で庇を作るように夜空を仰いだエルマーが、楽しげに宣った。
　
空を蹴り、しなやかな四肢を伸ばして飛び上がったギンイロが、大きな満月を背負う。
月の光が煌めき、銀のたてがみを黄金に縁取る。大きな魔物と対峙するように飛びかかるその一瞬は、神話を切り取った絵画のように美しくもあった。
　
バチリとその身に魔力を纏う。夜空を照らすほどの雷光が、轟音と共に辺りを包んだ。地べたへと、紫電は大きな魔物へと吸い込まれる。
雲がゆっくりと月を通り過ぎる頃には、ギンイロはすでに地上へと降り立っていた。
　
静寂が辺りを包む。大地の怒りの如く轟いていた雷鳴は、もう消えている。夜の静かな空気が、この場に戻ってきたのだ。
　
ギンイロの背後で、夜空を見上げたままの歪な影が、その身をゆっくりと崩していく。
ふさりとした銀色の尾っぽが地べたを撫でると、後ろ足でむずがるように耳の後ろをかいた。
へっへっへ、と笑い声のような息遣いの後、体を震わして立ち上がる。響いた地響きに一度だけ背後を振り向いたが、興味を削がれたかのように、鼻先を前へと向けた。
魔物は、そんな犬らしい行動をみる事もなく、砂が落ちるかのような音を立ててその体を消失させる。影の代わりに残ったのは、聖石だけだった。
　
「ギンイロ！」
「ナナシ！！」
　
一人と一匹が、互いの自慢の尾をブンブンと振り回して駆け寄った。ナナシの華奢な体がギンイロに飛びつくものだから、エルマーは腹の子に障らないかと少しだけ慌てた。
とは言っても伝わってはなさそうだ。ナナシは心配するエルマーをよそに、すりすりとギンイロに頬擦りをしていた。

「ミテタ？ギンイロ、カッコヨカッタデショ？」
「かっこよかた！ギンイロ、とってもかっこよかたよう！」
　
ナナシが、興奮を表すように尾を振り回す。まろい頬を薔薇色に染める嫁の背後に、エルマーは疲れたような顔で歩み寄る。大きな手のひらが、髪質を楽しむようにナナシの頭を撫でた。
　
「ひとまず、合流すっぞ。ルキーノ、気配はわかるか。」
ーはい、今のところ、魔物特有の気配はありませんが、まだ夜は開けていないので油断なさらない方が宜しいかと。
「だよなあ。ナナシ、俺も頑張ったんだけどご褒美ねえの？」
「ナナシさっきやなおもいした。おんなのひとのにおい、おちるまでおあずけ。」
　
ぷん、とむすくれたまま宣った。どうやら愛しき番いはご機嫌斜めらしい。
エルマーは、なん……だ、と……。と顔色を悪くして蹌踉めいたが、こればっかりは自業自得である。ナナシの腕の中のギンイロの顔が、シンプルに腹が立つ。人はこれをドヤ顔というのだろう。


　
　
　
　
　
「ニア、水う！」
　
ギルドの前で、仲間たちと合流したエルマーの第一声はこれだった。
ご指名を受けた水の神様は、嫌がるでもなくニヤついたような雰囲気でエルマーに近づく。どうやら嗅覚で嗅ぎ取ったらしい。
　
「雌のご機嫌とりかあ。情けなく振り回される男も、ニアは嫌いじゃない。」
　
キャハキャハと、揶揄い混じりに言ったかと思えば、ドバシャアッと滝のような量の水を頭上から落とした。
頭の傷にえらい染みる。エルマーは痩せ我慢をするようにグッと唇を引き結ぶと、その顰めっ面のまま顔を上げる。

その瞳は、アロンダートに背負われているサジへと向けられた。　
もたれ掛かるように、体の力を抜いてぐったリとしている。己の中にあるサジとの繋がりを辿ると、恐ろしく体の魔力を消費しているようだった。
　
「おい、サジ大丈夫か……。」
「腹を貫かれたのだ。神使でなければ死んでいたかもしれない。今は眠って、魔力を練っているようだ。」
　
レイガンが口を開く。端的にまとめられた言葉に、エルマーはグッと眉を寄せた。
幸い、神使についてはニアが詳しいおかげで、サジの体に異常はないという事はわかった。しかし、ずっとおぶっている訳にもいかないだろう。
エルマーは、どこか休めるところに行こうと、珍しくまともなことを言う。
　
「ギルドの地下に行って、シェルターで休ませてもらえねえか交渉してくらあ。」
「まて、俺もいく。お前一人だと不安でしかない。」
　
失礼なことを言うレイガンに、エルマーは引き攣り笑みを浮かべた。まあ、事実なので仕方がない。
エルマーがいくならナナシも、と、ついて行きたがったが、万が一魔物の残党が現れたときに、サジを抱えているアロンダートは戦えない。
ここで待機して、ギンイロと二人で守ってくれとお願いをすると、ナナシは与えられた役割に嬉しそうに頷いた。
　
ギルドの地下シェルターは、受付の机を大きくずらした所に入り口があった。
レンガで形作られた降りづらい階段をくだり、硬質な鉄の扉で閉ざされた扉を叩く。暫くして、細い光が漏れるように扉が開くと、中から顔を出したのは換金所で世話になった受付の女だった。
　
「あ、アレえええ偽Fランクの人！！！！」
　
「偽Fランクの人……？」

顔見知りかと言わんばかりに、レイガンが訝しげにエルマーを見やる。
間違いではないのだが、そう言われると少しだけ腹が立つ。偽ってなんだ。正真正銘のFである。更新してないだけで、嘘でも偽でもない。
　
「随分な物言いだなあ嬢ちゃん、こっちは魔物倒してきたっつーのによ。」
「え、もしかして皇国からの応援って貴方達だったんですか！？」
「応援？んな話聞いてねえけど。」
　
目配せをすれば、レイガンも小さく頷いた。大体皇国は今それどころじゃないだろう。エルマーは不審に思い、問いただす。
どうやら、ドリアズを訪れた見知らぬ冒険者の男によって、万一に備えて皇国から力のあるものを派遣すると言われたらしい。
特別な契約書などはなかったが、昨夜の襲撃のこともある。もしかしたらエルマーたちのことなのではと思ったらしい。
　
「念のため聞くが、そいつはどんな身なりだった。」
「えっと、軽装で、黒い瞳の二十代くらいの男性と赤毛のメイドさんみたいな人たちでしたけど……。」
　
エルマーとレイガンは顔を見合わせた。互いの脳裏に、同じイメージが浮かび上がる。どうやら先程やり合った奴らのことで間違いはなさそうだ。
自分たちが遭遇した奴らが元凶だったことを伝えると、女は一気に顔を青褪めさせた。

「う、そ……なら私、犯人にあっていたってことですか……。」
「使いのものなら、証書の一枚くらい持ってくんだろ。」
「エルマー、彼女だって予想していた訳じゃない。あまり攻めるな。」
　
冷たい声色になってしまったのは、チベットのことがあったから、余計にだった。
レイガンは小さく震える女を慰めるかのように、気落ちするなと気遣った。しかし、起きてしまったことは事実である。
共通の知り合いとまではいかないものの、既知が命の灯火を終えたのだ。泣きそうになった女が俯くのを前に、かけてやる言葉もそれ以上は出てこなかった。
　
「すまないが、仲間が一人重症なんだ。休ませてくれないか。」
「そ、それはもちろ、」
「お断りだよ！」
　
女の言葉を遮るかのように、若い男が吠えた。
傷だらけで、腕を肩から吊っているその男は、扉に凭れ掛かるようにして、棘のある眼差しをエルマーたちへと向けてくる。
　
「あんたら、聞いてないっていうけど、皇国から来たんだろう。なんでもっと早く来なかった……！あんた達がもっと早くくりゃあ、息子は……ッ……」
　
ウッと喉を詰まらせ、嗚咽を漏らす男を視界に収める。確かにエルマー達は知らなかった。しかし、お膳立てをされたかのように先回りをされていたのだ。
長閑な街で、起こるはずのない魔物の奇襲は、エルマー達を待ち伏せしていたものによってもたらされた。
　
「すまない、だが」
「いい、レイガン謝んな。言わせておけばいい。」
「言わせておけば、だと……？」
　
エルマーの一言に、大柄な男が反応する。
男はその瞳に怒りを宿しながら、肩で風を切る。扉を支えていた女の肩を鷲掴み、そのままレイガンの方へと突き放した。

「キャ、っ」
「っ、おい！！」

レイガンの腕が、女を受け止めた。いくら苛立ちが優っていても、女性にしていいことではない。
文句の一言でも言ってやろうと顔をあげたレイガンの瞳に映ったのは、男の振りかぶった拳がエルマーの頬に振り下ろされた瞬間だった。
　
「な、……ッ、エルマー！」
「ダンさん！！！なんてことを……！！」
「うるせえ！さっきから聞いてりゃ他人事みてえな面しやがって！！てめえらがこの町にこなきゃ、こんなことにはならなかったんだろうがああ！！」　
　
振り下された二打目も、エルマーは避けずに頬で受け止めていた。
よろめいた体を、男の無骨な手のひらが壁に押し付ける。鈍い音は、しばらく続いた。赤土の床にビシャリ散らばる赤は、履き潰された靴によって踏み躙られる。

なんで、避けないのだ。
レイガンの目の前で、ダンの一方的な暴力を、エルマーは抵抗もせずに受け止める。
鈍い音を響かせる地下に、扉が開く音が聞こえた。遅い二人を心配してか、サジを背負ったアロンダートと共に、ナナシが地下へと顔を出したのだ。

「っ、……」
「へ、」

見られたい場面ではなかった。
ポカンとした顔で、視線を向ける。ナナシのあどけない表情が、みるみるうちに顔色を悪くした。
エルマーは口の中に溜まった鼻血を吐き捨てると、パシリと乾いた音を立てて、ダンの拳を受け止めた。髪を鷲掴まれたまま、額から流れた血で開きづらい目でダンを見上げる。
　
「離してくれ。もうわかったからよ。」
　
酷く掠れた声でエルマーは宣った。誰かの息を呑む音がする。
エルマーは、ダンの気持ちも、子を失った名も知らぬ男の気持ちもわかっていた。わかっていたからこそやるせなく、その消化しきれない思いが落ち着くならと拳を甘んじて受けたのだ。
それでも、ナナシにだけは、こんなダサいところを見られたくはなかった。
　
「え、る……える、エルマー！！」
「貴様、彼になんてことを……！！」
　
狭い階段を、二人が駆け降りてくる。
そんなに急いだら腹の子に触ると思ったが、ナナシはそれすらも気を回せぬままに己へと駆け寄った。
金色の瞳を、涙で潤ませるナナシの小さな手のひらが、流れる血を受け止めるようにしてエルマーの顔に触れた。
　
「お前らも、こいつの仲間か。」

己の間に割って入るかのように現れた、ナナシの美しい姿にダンがたじろいだ。その様子を悟られたくはなかったらしい。語気を強めた口調は、明らかな敵意をナナシたちへと向ける。　
　
「俺の仲間に危害を加えたら殺す。」
「ッ……」
　
エルマーの鋭い瞳が、威圧を込めるように睨みつける。
先程までおとなしく殴られていた姿は鳴りをひそめ、その腕は泣きじゃくるナナシを抱き寄せるように腰へと回されていた。
壁伝いに、よろめきながら体勢を整える。それでも、体重をかけるように傾いてしまった体を、ナナシが慌てて支えた。
エルマーの肩に、レイガンの腕が回る。孕んでいるナナシに障らないようにと気を回してくれたらしい。エルマーは小さく礼を口にした。
　
「お前達ばかりが……、悲しんでいると、思うなよ……。」　
「あ？何言ってんだ……、こいつ。」
　
レイガンが、絞り出すような低い声で宣った。
紫の瞳に含まれるのは、明確な怒りだ。それでも、この場はエルマーを立てたらしい。それ以上深くは言わなかったものの、支えるようにエルマーの方に回された腕から、その悔しさが伝わってくるようだった。

ダンと、その一部始終を見ていたもの達は、皆一様に消化のしきれない思いを胸に抱えながら、ボロボロの五人と一匹を見送った。
自分たちは、何も間違ってはいない。そう、確証もない何かに縋りながら。