名無しの龍は愛されたい。

シュマギナール皇国陰謀編

89

お利口な銀色の精霊は、笑い声にも聞こえる息遣いを立てながら、その背にレイガンとナナシを乗せていた。
エルマーはというと、往復二周目の仕返しだと言わんばかりに、ギンイロによって咥えられている。
　
「流石にこの発想はなかったわなあ。」
「える、へーき？」
「ナナシ、心配なのはわかるが、あまり身を乗り出すな。」
　
頭上からナナシの声が降ってくる。エルマーは、おー。とだけ返事をすると、不安定な視界を少しでも改善しようと、両手でギンイロの顔付近の毛並みを鷲掴む。
　
しばらくして見えてきたのは、城壁の先にある森だ。
ナナシに欲を伴って触れたあの晩が懐かしい。昼間なのでまだ幽鬼は出ないが、人目を避けるには丁度良いそこを着地地点に決めていたようだ。
遠くの方で、呑気なサジがマイコニドを侍らせて手を振っている。白く短い手を上下にばたつかせる理性あるキノコの魔物が、まるで誘導係のように居場所を示していた。
　
「アー、キノコ。」
「うわ馬鹿野郎！」
　
ギンイロが、マイコニドに反応して口を開いた。
サジ達のいる森までは間も無くだと言うのに、エルマーはまさかのギンイロの裏切りによって、その身を宙に投げ出された。
　
「えるう！」
「ニア！出てこい！」
　
エルマーの自由落下は、レイガンによって無事ことなきを得た。
名を紡がれた水の神でもあるニアが、地べたを突き破るかのようにして姿を現したのだ。
地響きとともに、地中から現れた柱のごとく。日に反射して煌めくように光沢を放つ鱗の上へと、　エルマーは慌てて着地する。
　
「やっぱり、地中の方が安全じゃないか。」
　
頭の上にエルマーを乗せたニアが、勝ち誇ったようにレイガンを見る。己の移動手段にケチをつけられたことを、まだ根に持っていたらしい。
　
「いやあ、助かったは助かったんだけどよ……。」
「あらいやだ。」
　
また、別の問題が発生したらしい。城壁の周りで入国待ちをしていたものの一人が、なんだあれ！と大きく声を上げたのだ。
その指先が指し示すのは、紛れもなくエルマーである。
傍目から見れば、ニアの姿は認識されない。エルマーただ一人が空中に浮いていると言う状態であった。
ニアの鎌首が、ゆっくりと声のする方向へと向けられる。騒ぎになるは頂けないと気を遣っての移動手段だったのに、これでは本末転倒である。
　
「ニア、エルマーを森へ投げろ。」
「結局う！？」
「ニアが投げたら、エルマーはで飛んでいくだろ。人だと疑われる心配はないさ。」
「いや心配してんのそこじゃね、」
　
え。まで言い終わるのを、ニアは待ってくれなかった。
レイガンの言葉を聞き終える前に、ものすごい遠心力で視界がぶれる。
呼吸をする暇も与えられず、ニアによって身を投げ出されたエルマーは、空を切り裂くように飛んだ。
　
「オアああああああああアああああアあああああ‼︎」

とんでもない速さで、景色が真横を過ぎ去っていく。空気抵抗に負けて身を反らしたエルマーの体は、しっかりとした弾力のあるものが受け止めた。
ぶるん、という効果音がつきそうなそれに跳ね返えると、情けなく顔から地べたへ落ちる。
土の匂いが一瞬で恋しくなるほどの移動であった。

「っー……！」
「 おかえりエルマー。転移してくればよかったんじゃないか？」
「俺もそう思う……。」
　
受け止めたのはマイコニドの子株だったようだ。
地べたに顔を貼り付けたまま、エルマーがくぐもった声で宣う様子を、面白そうに棒で突いている。
声をかけたアロンダートはというと、今朝の飛行訓練はしておいて良かっただろうと、見当違いな励ましをする。
両脇に手を差し込むようにして、エルマーを地面から引き剥がした。
まあ、着地訓練はしてはいなかったか。
　
日差しが陰り、着地に伴いギンイロが姿を表した。その大きな体高を伏せをするようにしてかがめると、まずはレイガンが降りた。
　
「そうだなエルマー、俺も失念していたが転移をすればよかったんじゃないか。」
「お前もまだ根に持ってんな……。」
　
ギンイロに跨ったまま手を伸ばしてきたナナシを、抱き上げるようにして降ろしてやった。
ナナシは運動神経がないので、ギンイロから降りるのも下手くそなのだ。
エルマーによって無事に地べたへと降ろされると、一仕事終えたと言わんばかりにホッと吐息を漏らす。
　
「ふう……」
「もちっと腹膨れたら、危ねえからギンイロに乗んの禁止なあ。」
「エー！ヤダヤダ！」
「落ちたら危ねえだろうが。」　
　
謎の達成感を顔に出すナナシは可愛いが、鈍臭いのは治らなさそうである。
とかく、なんとか城壁を抜けることができた五人と一匹は、早速地図を広げて道順の確認をすることにした。
　
「ジルガスタントなあ、このまま大地突っ切ってくのが手取り早えんだけど、孕んでるから危険な目に合わせたくねえし。」
「なら、やはりカストール経由だろう。ドリアズからはしばらく野営が続くだろうが、まあ最悪僕とギンイロが騎乗できるからな、何かあっても飛べばいいさ。」
　
節ばったエルマーの指が、地図をなぞる。始まりの大地を横切る指を止めさせたのは、アロンダートの提案であった。
仮にも元第二王子だと言うのに、なんとも心が広いものである。レイガンが関心をするようにアロンダートへと目を向ければ、その顔はやけにご機嫌そうであった。
どうやら己の転化を楽しんでいるらしい。その隣では、サジが実に傲慢な態度で、サジの騎乗獣だからなあ！などと妙な方向で胸を張っていた。
　
「じゃあ、まずは何事もなくドリアズだな。チベット爺さんとこいけんぜナナシ。」
「スーマあえるかなあ……」
「ママ！サトガエリ？アエルネー」
　
エルマーの言葉に、ナナシの素直な尾っぽがゆらゆらと揺れた。
ここからドリアズまでは遠くはない。途中で夜が来るだろうが、まあ朝には着くだろう。
　





一行は、水場の近くで野営をすることにした。
体力のないナナシを心配して、休み休み移動することにしたのだ。西陽があたりを赤く染め始めた頃合いには、すでに今日の寝床は決まっていた。
　
「いやあ、行商の一派くらいいるだろうと思ってたんだけどなあ。」
　
そうすれば、金払えば馬車に乗せてもらえたかもしれない。エルマーは鱒を齧りながら、呑気にそんなことを言った。
　
「うー……」
「まだ気持ち悪いのか、ううむ。」
　
ナナシは悪阻にへたっていた。やはり、定期的にこうなってしまうらしい。レイガンが魔力視で腹の具合を確かめると、昨日エルマーが与えた魔力の余剰分が凝っていたのだ。
　
「まだ子も小さいからな、全て取り込めないのだろう。与えるなとは言わないが、加減をしてやれ。」
　
サジの膝に頭を乗せたナナシは、エルマーからもらったぼろ布をあぐあぐしながらぐったりだ。
エルマーは落ち着かない様子で、レイガンの言葉に空返事をしている。己の嫁が心配なのだろう、そそくさとナナシの隣へと腰掛ける。
　
「来るな馬鹿者。お前の魔力が漏れている限り、ナナシの体は取り込むのだぞ。悪阻が心配なら、距離を保て。」
「ぐう……ナナシ、悪い……」
「いい、よう……」
　
ここに来るまでに、エルマーと手を繋いでいたナナシが蹲ってしまったのだ。顔色の悪い様子に気がついたレイガンが診たところ、エルマーの龍眼から漏れ出た魔力をナナシが無意識に取り込んでいた。
ナナシはそれに気付いていたらしい。それでも離れたくなくて痩せ我慢をしたら、ついには目眩で動けなくなったと言うのがことの顛末だ。
それを聞いた時のエルマーの顔といったら、実に笑えた。
まさにこの世の終わりもかくやと言わんばかりの青褪めた表情で、両手をあげてジリジリとナナシから後ずさったのだ。
　
「腹の子がある程度大きくなるまでは、性行為も頻度を下げろ。ナナシの為だぞ。」
「はい……」
　
なんともしおらしい。エルマーが大人しく返事をするものだから、アロンダートはちょっと笑った。
　
ー御使い様、その……差し出がましいようですが、その余剰分を、魔石に移すと言うのはどうでしょう……？
　
そんな会話に恐る恐る口を挟んだのは、ルキーノであった。ナナシのポシェットのどんぐりの隙間から、静かに主張する。
ルキーノの言葉を聞くなり、エルマーは忙しなくなくインベントリを漁る。一縷の望みを託すかのように、実に素早く空魔石の入った袋を取り出した。
　
「ちょ、サジ、サジやって。これ使っていいからよ！」
「えー！　構わんが成功したとしても程々にするのだぞ。ほんとに、わかっておるのかこの絶倫。」
「おうともよ。やらかしたらレイガンが殴ってくれ。」
「いや、殴る前提の話なら請け負わんからな…。」
　
袋から取り出した空魔石を、ナナシの腹へとかざすサジを見る。紫の瞳が捉えたのは、金色に光る美しい魔力が、吸い寄せられるようにして魔石の内側に収まっていく様子だった。
　
「うっわ……。恐ろしいほどの純度の高さよな、売っぱらったら家が買えるぞ……」
「ん……」
「ナナシ、体調どうだ……？」
　
宝石のように輝く魔石を前に、サジが引き攣り笑みを浮かべている。
エルマーはと言うと、そんなこと興味もないといわんばかりにナナシを覗き込んだ。
先程よりも顔色がいい、どうやらルキーノのアドバイスは功を奏したようである。
　
「える、きもちわるくないよう、あかちゃんへーき……？」
　
体調が良くなったからか、ナナシの顔色は少しだけ血色を取り戻していた。あどけない表情のまま、エルマーを見上げる。
己の具合を気にする番いに照れ臭そうにすると、ナナシはおずおずとレイガンへと視線を向けた。
　
「よかったあああ……」
　
頷くレイガンの様子に、息を詰めて様子を伺っていたエルマーも大いに脱力した。
心底ホッとしたらしい。エルマーの手が、恐る恐るナナシの小さな手に触れる。
思わず引き寄せて抱きしめようとすれば、それはいけないとサジによって阻止はされたが。
　
「もう、ナナシに魔力制御を教えてもらえ。それか、ドリアズでそういう首輪とか作ってもらえ馬鹿者め。」
　
レイガンが溜め息混じりに宣う。道すがら話した、魔道具を作るチベットのことを覚えていたようだ。
それもいいかもしれん。エルマーは、割と本気でそんなことを思った。
　
「さあて、ナナシはサジとアロンダートの三人で寝よう。エルマー、お前はレイガンと二人で見張りだぞ。良いな。」
「おい、俺もか……まあ、構わないが。はあ……」
「んだ、俺じゃ不服ってのか。」
「違う、お前と二人だと、なんかありそうで嫌なんだ。」
　
レイガンの言葉に、エルマーはむすりとした顔をする。まだ何も警戒するようなことは起っていないと言い返そうとして口を引き結ぶ。そういえば、市井でのこととニアのことがあったか。
エルマーからしてみれば、レイガンからの言われのない言葉は非常に不本意であったのだが、不本意なのはレイガンもまた一緒である。
　
「さて寝る前に水浴びでもするかな。」
「ナナシもいく。」
「ナナシは体冷えっから、水汲んできて清拭にしようや。」

エルマーがインベントリから桶を取り出す。
なんでも入っているこの袋の中身を、全て晒してみたいものだと、アロンダートはしげしげと見つめた。
　
「ん。」
「なんだよ？」
　
サジは、そんなエルマーを前に無言で己の手を突き出した。
一体なんのつもりなのだろう。向けられた手のひらを訝しげに見つめるエルマーを前に、サジは顔を歪めて宣った。
　
「なんだよ、ではないわ。エルマーが盛らぬように、世話はサジがする。その桶を寄越せ。」
「うん……？」
　
真顔のサジの言葉を前に、エルマーはわからないふりをして桶を背後に隠した。
だって、そんな。ナナシの世話はエルマーの至福なのに。
エルマーの桶は、無常にも背後へと回っていたレイガンによって回収されてしまった。
アロンダートがナナシを促すように、二人で泉の方へと消えていく。どうやらエルマーが我が儘を言う前にナナシを引き離そうと言うことらしい。
　
「エルマー。」
「………。」
「拗ねるな。大人気ないぞ。」
「俺のナナシなのに……。」
　
うわめんどくさ。
隣で暗雲を背負うエルマーに、レイガンは辟易とした顔をする。たった数時間、触れないと言う状況だけでこんなにも落ち込むものだろうか。こいつら、まじで共依存しすぎだろう。レイガンはありありと辟易とした表情を浮かべる。
　
「……戦で離れていた時もあるのだろう。それよりもマシだろ……」
「マシじゃねえ……触れられる距離なのに触れらんねえってとこが嫌なんだあ…。ましてや原因俺だしよ。」
ーエルマーは、御使い様が大好きなんですね。
「ああ、って一緒に行かなかったのか。」
ーまあ、魂のみですし、沈んでそこが墓場がわりになるのも嫌なので、辞退いたしました。
　
なるほど道理である。空気の読める健気な魂の友人は、分かりやすく不貞腐れるエルマーを見かねたらしい。
　
ー好きな方を思う気持ちは、とても尊いことです。彼の方は大変なご苦労がありましたから……、お二人が相思相愛だという様子を見るだけで、なんだか報われた気持ちになってしまいますね。
　
ルキーノは、ナナシの本質を知っている。優しい人外の龍。辛い過去を抱くその華奢な体が、エルマーによって大切に愛されていることが嬉しいのだ。
エルマーはルキーノの言葉を聞きながら、なんだかむず痒くなって鼻の頭を掻いた。
照れた時に行うその仕草は、ナナシにはもうバレている。
　
「……なんつーか、……」
　
そんなことを言われると、どう言う顔をしていいかわからない。不器用な男は、唇を真一文字に引き結ぶ。
もしサジがママなら、ルキーノは優しい婆さんだろうか。ナナシの家族が増えるのは嬉しいが、それでも旦那の立ち位置はやはり譲れないわけである。
　
「……寝る。」
「嘘だろう⁉︎」
　
ルキーノの言葉に、祝福された気持ちになってしまったのだ。
エルマーは、愕然とするレイガンを無視して地べたに横になる。仕方ないだろう。このふわふわの気持ちの消化の仕方を、エルマーは知らないのだから。