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シュマギナール皇国陰謀編
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なんでこうなった。
エルマーは、サジからの唐突なキラーパスを、それも構えるような時間すら与えられずに受け止める羽目となった。
物理的に飛んできたギンイロはというと、今はナナシの腕の中でご機嫌に尾っぽを振っている。ざっくりではあるが、目立たぬように皇国から出る為の作戦会議だってしたのになあ。と、そんなことを思った。
「赤毛!貴様は……ああ!?なんと可憐な……」
サジからのキラーパス。基、謎の貴族の男は、突然雄叫びを上げながらエルマーたちの前まで走り寄ってきたかと思えば、ナナシを前にしてわかりやすく表情をだらしのないものに変える。
不躾な視線に晒されたナナシはというと、怯えたようにエルマーの後ろに隠れた。どうやら鬼気迫る表情がよほど怖かったらしい。
貴族の男から赤毛と呼ばれたエルマーは、現実逃避もそこそこに、貴族の背後にいるサジへ向けて覚えていろよ。という目線だけは忘れずに送った。
「エルマー、なんだこいつは。知り合いか?」
「こんな不届きもの知るかってんだ。」
「君、ナナともあろう可憐なお方がありながら、また別のお嬢様とお近づきになっているだと!?こんなことが許されるとお思いか!!」
「ナナシのおはなし……?」
「馬鹿、下がってろって。」
見知らぬ貴族に名前を呼ばれた気がして、ナナシがひょこりと顔を出す。
金色の二つの宝石を男へ向けながら、大きなお耳でお話を聞いていたナナシは、エルマーの背後から恐々と反応した。
「な……き、君があの時の……?いや、そうなのだな……、あの夜会での君は仮初の姿……大丈夫、僕はき」
「うるせえなあ……。俺はお前に用はねえからどっか消えてくれや。」
自分の世界に入り込む、男の演技じみた喋り口調がうざったい。エルマーは、ほじりと小指で耳の穴を弄りながら、辟易とした顔で言った。
ナナシはというと、レイガンによって、変な人とは目を合わせないようにと、往来でのお約束ごとを再確認させられた。
そのうち、貴族を連れてきた元凶のサジたちも、周囲に集まりつつある野次馬を散らしながら合流した。
「決闘だ!赤毛、彼女をかけて僕と勝負しろ!!」
どうやらエルマーの失礼な態度は、男の神経を逆撫でするものだったらしい。憤慨した様子で決闘を申し込む男の声に、一時は散り始めた人ごみも再び集まり始めた。
どうやら己は男の自己顕示欲に巻き込まれたらしい。
察したエルマーが、不機嫌そうに顔を歪めた。例にも漏れず、ルキーノが言っていた治安の悪い顔で。
「える、けんかするのう?いたいのやだよう……」
「おい金髪。ナナシが喧嘩は嫌だってよ。ここは潔く身を引いてくんねえかなあ。」
「潔く身を引くのは貴様だ赤毛!!貴様は彼女との甘やかなひと時を邪魔した!!あの時のこと、僕は忘れていないぞ!!」
どうやらあの時の夜会で感覚共有をした時のことを、しっかりと覚えているようだった。
要するに、ヤれなかったからムカつくということらしい。感覚共有をしたのはエルマーの方なのに、決闘の申し込み理由も含めていちいち苛立ちを覚える。
「僕は貴様に勝ち、彼女を妻とする。痛い目に遭う前に逃げても構わないぞ。」
「妻あああああああ!?」
男の言い草に、頭が痛そうな顔をしたのはアロンダートとレイガンだ。
この仲間内で、人の感情の機微を察することができる理性的な二人だけは、今の言葉のせいでエルマーの導火線に火がついたことを悟った。
「やばい、ナナシ止めろ。エルマーを止めろ。」
「はわ……え、える……けんかだめ!いたいのやだでしょう?」
「僕の可愛いナナ。すまない、男には時に、引けない戦いというものがあるのだよ……」
なんだか面白そうだぞ、どうやら女を賭けての争いらしい。
賭けられる女はどこだ、ああ、あの別嬪さんかい。
野次馬からの揶揄い混じりの話し声に、ナナシはびくりと体を跳ねさせる。怖い、一体なんだというのだ。
レイガンが、好奇心混じりの視線を遮るように前に立つ。小さな舌打ちは、狂ってしまった予定に対してだ。
人が集まり始める。大衆の意識が途端にそれたら、衛兵を呼ばれるだろう、そうなれば密やかに皇国を出るのは難しい。
こちら側に有利な状況で進めなくては、この人ごみからは抜け出せないだろう。
エルマーはというと、チラリと辺りを見渡した。早く片をつけないと面倒臭いことになるのは明白だ。
本来の予定から、随分と大きくそれてしまった。エルマーが頭を痛めたように溜め息を吐くと、それを隙と捉えたらしい。
腰に差した華美な剣に手をかけた男が、それをエルマーへ向けて引き抜こうとしたその瞬間であった。
「往来でそんな物騒なもん抜くんじゃねえ!!」
「いっ…!!」
男の行動は、エルマーの蹴りによって阻止された。
ばきりと鈍い音を立てて、蹴り上げられた男の手が反動で振り上がる。
ジン、とした骨に響くような鈍痛の後、カッとした熱が手首を包む。
何が起きたのだろうか。
大衆が静まり返る中、ガシャンという音を立てて地べたに落ちた剣を前に、大衆はようやく男が何をしようとしたのかを理解した様子だった。
「な、」
エルマーの反撃に、驚いたのはサジだった。今までなら先手必勝、一発お見舞いしての沈めて終わりという手法が多かった。
しかし、今回はあくまでも正当防衛の範囲内での攻撃のみだ。
ガキくさいステゴロの一発をお見舞いするでもなく、今回はきちんと周りに対する配慮も考えたものである。
なんだどうした、まさかそういう配慮ができるようになったとは。エルマーが知らないうちに大人になっている。
蹴り上げたまま動きを止めていた長い足を、ゆっくりと地べたに下ろす。いつになく真剣な顔をするエルマーを前に、サジが感心したのも束の間の話であった。
そう、エルマーは実にずる賢い理由で大衆へと配慮をしていた。この野次馬の中にはご婦人方も混ざっていたのである。
「馬鹿野郎、人のもんに手ぇ出そうとしやがって……、てめえみてえな勘違い野郎にやるわけねえだろうが……。」
エルマーが、そんなセリフじみたことを言い出した時点で、サジを含め息を呑んで状況を見つめていた仲間内は、なんか違うな。と思ったのである。
「人のもん……だと!?ナナが君のものという証拠は、どこにもないだろう!!」
「腹ん中にあるよ。俺のいっとう大切なもんがな……。」
憂いをまとうようなエルマーの言葉に、サジ達はわかりやすく唇を噛み締めた。こうでもしなければ、己の表情を取り繕うのは無理だと思ったのである。
まるで、メロドラマ調の感傷的な一幕を見ているかのようだ。ご婦人方の甘い吐息が漏れる。
エルマーの計算された色気の混じる凛々しい表情に、大衆に混じる女性陣達はうっとりとその頬を染めたのだ。
ずる賢さは一級品である。エルマーは、この場所でご婦人方を味方につけることで、自分の立場を有利なものに変えたのだ。
「な……、は、孕んでいる……だと……」
「ナナの腹ん中には、俺の子供がいる。ナナにも子供にも、もう恥じねえようにしようって決めたんだ。だから、絡むんじゃねえよ。……放っておいてくれ。」
背後に隠れていたナナシに体を向けると、その華奢な体を抱き寄せる。
顔のいい男が、歳の離れた恋人に触れる手は優しい。
ご婦人方は悟った。ああ、この男はやんちゃそうな見た目にそぐわぬ輩だったのだろう。
そして、恋人の為に己の生き様まで変えてしまえるほど、深く愛してしまったのだろう、と。
「える……?」
ナナシは、こんな往来で抱き締められると思わなかったようだ。
まろい頬を染めながら、おずおずとエルマーの顔を見上げる。
銀色の美しい耳をヘニョりとさげ、照れてはいるが尾は揺れている。恥ずかしいけど、嬉しいのだ。
そんな、獣人の恋人の幼気な様子もまた、ご婦人方の心の柔らかな部分を刺激する。
ああ、種族を超えた先の愛。それのなんと美しいことか。辿々しい口調で名を呼ぶ恋人の美しい顔に、ご婦人方は思った。
演劇の山場のようなシーンが、今目の前に繰り広げられている。しかしこれは作られたものではない。確かな真実の愛が、そこにあるのだと。
「そ、それは……本当に君の子か……?」
そして、金髪の男は発言を誤ってしまった。感覚共有の弊害か、ありもしない現実に取り憑かれてここまできてしまったのだ。
当然童貞である。契りすら交わしていないのだが、男はナナシが己を選ぶと信じてやまなかったようだった。
「……ギルバート……てめえ、本気で」
「なんで、そんなひどいこと言うのう……」
あ、名前覚えてたんだ。と、アロンダートがエルマーに関心をしたのも束の間だ。
エルマーに庇われていたナナシが、泣きそうな声で口を開いた。
まさか、こんな場面でナナシが前に出てくるだなんて思わない。サジ達は勿論だが、何よりも一番驚いたのはエルマーだった。
「ナナシ……?」
「な、ナナシが……えるのあかちゃんほしいようって……いったの……に、……っ」
「な、」
「なんで……そんなひどいこと……いう、のう……っ、ひう、ぅー……っ」
大粒の涙を流しながら、ついにはえぐえぐと泣き出す。
それくらいギルバートの言葉はナナシの心を傷付けたのだ。
エルマーの胸に顔を埋めるように抱きついて、拙い言葉で宣う。
獣人だろうか。美しい恋人の健気な様子に、さらに胸を打たれたのは、野次馬で冷やかしていた男達だった。
もし己が、美しい人に貴方の子供が欲しいと強請られたら。
そして、孕んだことが嬉しいとばかりに微笑みかけられたら。
己なら、きっと堪らないだろう。連れの男の言い草からして、その過去は相当やんちゃだったのだろう。
それを隣でずっと見つめてきたであろう美しい恋人は、きっと苦労してきたに違いない。
「え、えるの……こと……いじめ、ないで……え……、…っ……」
「ナナシ……、こんくらい構わねえって……泣くな、怖くねえから、」
「ひぅ、あー……っ……える、やだぁ……っ……」
その華奢な身をキツく抱き締めているエルマーを、男たちは自分に重ね、そして美しい恋人が美貌の男に抱き締められている姿を、ご婦人方は自分に重ねた。
この場の形勢は、紛れもなくエルマー達へ軍配が上がった。
一部始終を見ていたサジ達も、笑いを堪えるのに必死だった。
身を震わせ、そして涙を堪えるように口元を覆うほかはない。
エルマーの連れも、ただひたすらに顔がいい。大衆は、別の意味で震えるサジ達へと目を向けると、きっと苦労を共有したに違いないと信じてやまなかった。
髭面の、顔に年輪を深く刻んだ大男は、まるでエルマーたちを庇うかのように歩み出て宣う。
「兄ちゃんよ……愛し合ってる若いもんを引き剥がすってぇのは野暮ってもんだぜ。」
恰幅のいい女将は、その豊満な胸を突き出すようにしながら、髭面の男に並ぶ。
この二人は他人だ。しかし、いたいけな恋人達を守るという強い志の上では、確かに二人は同志だった。
「前からあんたのことは気に食わなかったんだ!どこぞのお貴族様だか知らないがね、あんた金があるからって人を選り好みできるようなツラかい!!笑わせんじゃないよ!!」
「なっ……ご婦人!なんという失礼な物言い!」
「失礼はどこのどいつだぁ坊主、喧嘩売っておきながら往来で物騒なもん抜くとは、ここは貴族街じゃねえんだぞ。市井には市井の喧嘩のやり方ってやつがあんだよ。男なら拳で語りやがれってんだ。」
「親爺っさん……女将さん……」
あんたら誰だ。
エルマーはそう思った。しかし、市井の顔役のような二人が味方についてくれるのなら有り難い。
ナナシも突然の参戦者にキョトンとした顔である。
エルマーの戸惑い混じりの声色に、いいって事よと背中で語った親父は、その太増しい筋肉質な二の腕を晒すように袖を捲り上げる。
「ほら、あんたたちはもう行っちまいな、ここはパン屋の親父に任せときゃあいいよ。ね?」
女将さんが泣いているナナシの背中を優しくさすってやる。
くすんと鼻を鳴らしたナナシがノロノロと顔を上げて涙目で見上げると、母性本能を刺激されたらしい。微かに頬を染めた。
「女将さん、いいのか……任せちまっても、」
「若いもんが、遠慮すんじゃないよ。かわいい恋人じゃないか……幸せになんな。」
「っ……ありがとう……。」
「おやまあ……!」
こっちの都合通りに動いてくれて。
という、本音を隠したエルマーは、その整った顔で不器用に笑うと、がしりと女将の手を力強く握り締めた。
若い男の強い力で握られた己の手を見て、女将は自分が若くなったような気さえした。エルマーの笑顔すら、計算され尽くした物だとは知らずにである。
ナナシの尾が嬉しそうに揺れる。涙に濡れた金色の瞳で見つめられれば、庇護欲を掻き立てられるのだろう。働き者の女将の手をその小さな頭で受け止める。
図らずとも素直なナナシの様子が、エルマーの嘘くさい芝居の信憑性を担う結果となった。
周りの大衆も、気づけばエルマーたちの前に出ていた。何やら訳ありの若者達を守ってやろうという、大人の矜持がそうさせたのだろう。
サジは白い目でエルマーを見ながら、人身掌握術は他の追随を許さないエルマーの手腕に引いていた。
エルマーはそんな目線すらものともせず、腰の角度を直角にするように一礼をした。
泣き止んだナナシのお手てが大衆に別れを告げる。それをしっかり頷くことで受け止めた親父とその一派は、エルマー達を肉の壁で守った。
不躾な若者もとい、敵認定されたギルバートが追えないように立ち塞がったのだ。
さて、ここから先は、一歩も通さねえ。そう言わんばかりに、バキボキと指の関節を鳴らしながら。
「さて、市井のルールってぇもんを、てめえに教えてやらんとなあ……?」
エルマーは、ギルバートの悲鳴を背後で受け止めながら、ナナシを抱き上げ全力疾走だ。
歩いて逃げるのは最高に締まらないだろう、こう言う時こそ脱兎のごとくである。
エルマー率いる五人は、滑り込むように裏路地へと逃げ込んだ。ここなら人目も憚れる。
ポヒュンと音を立ててギンイロが姿を表すと、その体躯をブワリと膨らませた。どうやらここで飛ぶつもりらしい。
「あー、楽に終わってよかったあ。しかも人目ねえじゃん、さっさと乗れサジ。」
「ドン引きである。まじで、ちょっとばかし感心したサジの清らかな心を返せ。慰謝料として大金貨一枚。」
「やかましいわ。ほら、もうちっと詰めろ。アロンダートも後ろから落っこちねえようにな。」
「詐欺師もかくやと言わんばかりだったな、エルマー。非常に楽しかった。」
「おーおー、そらよかった。ほらいけ!」
二人が跨ったのを確認すると、ギンイロの尻を叩いて合図を送る。
ギャインと情けない声を上げるほど、力強く叩きすぎたらしい。ギンイロは恨めしそうにエルマーを見た後、空を駆け上がるようにして飛び上がった。
相変わらず便利な体である。二人を乗せたギンイロの姿は、すっと見えなくなった。
エルマーは手で庇を作るようにして見送ると、己の背中に額をくっつけるように抱きついてくる、ナナシの腰を引き寄せた。
ルキーノがナナシのポシェットから恐る恐る声をかけてきたのも、同じ頃合いだった。
ーあのぅ、孕まれているというのは……
「んあ、まじ。」
ーえぇ!御使い様は女性体でいらっしゃるのですか!?
「いや、ちげえけど。」
ーなるほど……願いを叶える龍だから……かもですね……。
孕んでいることを知らなかったらしい。ルキーノは感慨深そうに頷いているようだが、エルマーはその言葉に僅かに頬を染めた。
よくよく考えてみれば、エルマーはナナシに孕ませたいと言ったことがあったのだ。
今更それを思い出すが、わざわざ言わなくてもいいだろうと反応を示すのをやめた。
しかし、ナナシが妊娠していることをルキーノに言っていなかったのは失念していた。ルキーノはずっとナナシのポシェットの中で過ごしていたのにだ。
まあ、寝る時はレイガンによってポシェットは預かられていた。
単純にエルマーが盛るせいで、あられもない声は聞かせられないと気を遣われたのだ。まあ、それ以前に察したルキーノから、僕は離れて寝たいですと自己申告があったらしいのだが。
ーだとしたら、尚更兄にはバレないようにしなくては……、何をされるか分かりません……。
「させねえよ。」
ナナシが、エルマーの手のひらに頬を寄せる。そっと甘える様子に答えるように額に口付けると、大きな手のひらで髪を梳くようにして頭を撫でる。
なんとなく、そんな気配が伝わったのか、ポシェットの中のルキーノは、照れたように小さく揺らいだ。
「誰にもやらねえ、ナナシの全部は、俺のだからな。」
先程の三文芝居とは違う。エルマーは真っ直ぐにナナシを見つめて言った。
薄っぺらい愛は囁かない。ナナシは、こうしてエルマーと視線を合わせることが愛だと思っている。
言葉よりも雄弁な瞳に、尾を揺らしたナナシが応えるようにエルマーの唇を舐めた。
二人の間には、確かな深い繋がりがある。
レイガンは、そんな様子を黙って見つめていた。こっちの方がさっきよりもずっといい男だと思う。悔しいから、口には出してやらないが。
エルマーは、サジからの唐突なキラーパスを、それも構えるような時間すら与えられずに受け止める羽目となった。
物理的に飛んできたギンイロはというと、今はナナシの腕の中でご機嫌に尾っぽを振っている。ざっくりではあるが、目立たぬように皇国から出る為の作戦会議だってしたのになあ。と、そんなことを思った。
「赤毛!貴様は……ああ!?なんと可憐な……」
サジからのキラーパス。基、謎の貴族の男は、突然雄叫びを上げながらエルマーたちの前まで走り寄ってきたかと思えば、ナナシを前にしてわかりやすく表情をだらしのないものに変える。
不躾な視線に晒されたナナシはというと、怯えたようにエルマーの後ろに隠れた。どうやら鬼気迫る表情がよほど怖かったらしい。
貴族の男から赤毛と呼ばれたエルマーは、現実逃避もそこそこに、貴族の背後にいるサジへ向けて覚えていろよ。という目線だけは忘れずに送った。
「エルマー、なんだこいつは。知り合いか?」
「こんな不届きもの知るかってんだ。」
「君、ナナともあろう可憐なお方がありながら、また別のお嬢様とお近づきになっているだと!?こんなことが許されるとお思いか!!」
「ナナシのおはなし……?」
「馬鹿、下がってろって。」
見知らぬ貴族に名前を呼ばれた気がして、ナナシがひょこりと顔を出す。
金色の二つの宝石を男へ向けながら、大きなお耳でお話を聞いていたナナシは、エルマーの背後から恐々と反応した。
「な……き、君があの時の……?いや、そうなのだな……、あの夜会での君は仮初の姿……大丈夫、僕はき」
「うるせえなあ……。俺はお前に用はねえからどっか消えてくれや。」
自分の世界に入り込む、男の演技じみた喋り口調がうざったい。エルマーは、ほじりと小指で耳の穴を弄りながら、辟易とした顔で言った。
ナナシはというと、レイガンによって、変な人とは目を合わせないようにと、往来でのお約束ごとを再確認させられた。
そのうち、貴族を連れてきた元凶のサジたちも、周囲に集まりつつある野次馬を散らしながら合流した。
「決闘だ!赤毛、彼女をかけて僕と勝負しろ!!」
どうやらエルマーの失礼な態度は、男の神経を逆撫でするものだったらしい。憤慨した様子で決闘を申し込む男の声に、一時は散り始めた人ごみも再び集まり始めた。
どうやら己は男の自己顕示欲に巻き込まれたらしい。
察したエルマーが、不機嫌そうに顔を歪めた。例にも漏れず、ルキーノが言っていた治安の悪い顔で。
「える、けんかするのう?いたいのやだよう……」
「おい金髪。ナナシが喧嘩は嫌だってよ。ここは潔く身を引いてくんねえかなあ。」
「潔く身を引くのは貴様だ赤毛!!貴様は彼女との甘やかなひと時を邪魔した!!あの時のこと、僕は忘れていないぞ!!」
どうやらあの時の夜会で感覚共有をした時のことを、しっかりと覚えているようだった。
要するに、ヤれなかったからムカつくということらしい。感覚共有をしたのはエルマーの方なのに、決闘の申し込み理由も含めていちいち苛立ちを覚える。
「僕は貴様に勝ち、彼女を妻とする。痛い目に遭う前に逃げても構わないぞ。」
「妻あああああああ!?」
男の言い草に、頭が痛そうな顔をしたのはアロンダートとレイガンだ。
この仲間内で、人の感情の機微を察することができる理性的な二人だけは、今の言葉のせいでエルマーの導火線に火がついたことを悟った。
「やばい、ナナシ止めろ。エルマーを止めろ。」
「はわ……え、える……けんかだめ!いたいのやだでしょう?」
「僕の可愛いナナ。すまない、男には時に、引けない戦いというものがあるのだよ……」
なんだか面白そうだぞ、どうやら女を賭けての争いらしい。
賭けられる女はどこだ、ああ、あの別嬪さんかい。
野次馬からの揶揄い混じりの話し声に、ナナシはびくりと体を跳ねさせる。怖い、一体なんだというのだ。
レイガンが、好奇心混じりの視線を遮るように前に立つ。小さな舌打ちは、狂ってしまった予定に対してだ。
人が集まり始める。大衆の意識が途端にそれたら、衛兵を呼ばれるだろう、そうなれば密やかに皇国を出るのは難しい。
こちら側に有利な状況で進めなくては、この人ごみからは抜け出せないだろう。
エルマーはというと、チラリと辺りを見渡した。早く片をつけないと面倒臭いことになるのは明白だ。
本来の予定から、随分と大きくそれてしまった。エルマーが頭を痛めたように溜め息を吐くと、それを隙と捉えたらしい。
腰に差した華美な剣に手をかけた男が、それをエルマーへ向けて引き抜こうとしたその瞬間であった。
「往来でそんな物騒なもん抜くんじゃねえ!!」
「いっ…!!」
男の行動は、エルマーの蹴りによって阻止された。
ばきりと鈍い音を立てて、蹴り上げられた男の手が反動で振り上がる。
ジン、とした骨に響くような鈍痛の後、カッとした熱が手首を包む。
何が起きたのだろうか。
大衆が静まり返る中、ガシャンという音を立てて地べたに落ちた剣を前に、大衆はようやく男が何をしようとしたのかを理解した様子だった。
「な、」
エルマーの反撃に、驚いたのはサジだった。今までなら先手必勝、一発お見舞いしての沈めて終わりという手法が多かった。
しかし、今回はあくまでも正当防衛の範囲内での攻撃のみだ。
ガキくさいステゴロの一発をお見舞いするでもなく、今回はきちんと周りに対する配慮も考えたものである。
なんだどうした、まさかそういう配慮ができるようになったとは。エルマーが知らないうちに大人になっている。
蹴り上げたまま動きを止めていた長い足を、ゆっくりと地べたに下ろす。いつになく真剣な顔をするエルマーを前に、サジが感心したのも束の間の話であった。
そう、エルマーは実にずる賢い理由で大衆へと配慮をしていた。この野次馬の中にはご婦人方も混ざっていたのである。
「馬鹿野郎、人のもんに手ぇ出そうとしやがって……、てめえみてえな勘違い野郎にやるわけねえだろうが……。」
エルマーが、そんなセリフじみたことを言い出した時点で、サジを含め息を呑んで状況を見つめていた仲間内は、なんか違うな。と思ったのである。
「人のもん……だと!?ナナが君のものという証拠は、どこにもないだろう!!」
「腹ん中にあるよ。俺のいっとう大切なもんがな……。」
憂いをまとうようなエルマーの言葉に、サジ達はわかりやすく唇を噛み締めた。こうでもしなければ、己の表情を取り繕うのは無理だと思ったのである。
まるで、メロドラマ調の感傷的な一幕を見ているかのようだ。ご婦人方の甘い吐息が漏れる。
エルマーの計算された色気の混じる凛々しい表情に、大衆に混じる女性陣達はうっとりとその頬を染めたのだ。
ずる賢さは一級品である。エルマーは、この場所でご婦人方を味方につけることで、自分の立場を有利なものに変えたのだ。
「な……、は、孕んでいる……だと……」
「ナナの腹ん中には、俺の子供がいる。ナナにも子供にも、もう恥じねえようにしようって決めたんだ。だから、絡むんじゃねえよ。……放っておいてくれ。」
背後に隠れていたナナシに体を向けると、その華奢な体を抱き寄せる。
顔のいい男が、歳の離れた恋人に触れる手は優しい。
ご婦人方は悟った。ああ、この男はやんちゃそうな見た目にそぐわぬ輩だったのだろう。
そして、恋人の為に己の生き様まで変えてしまえるほど、深く愛してしまったのだろう、と。
「える……?」
ナナシは、こんな往来で抱き締められると思わなかったようだ。
まろい頬を染めながら、おずおずとエルマーの顔を見上げる。
銀色の美しい耳をヘニョりとさげ、照れてはいるが尾は揺れている。恥ずかしいけど、嬉しいのだ。
そんな、獣人の恋人の幼気な様子もまた、ご婦人方の心の柔らかな部分を刺激する。
ああ、種族を超えた先の愛。それのなんと美しいことか。辿々しい口調で名を呼ぶ恋人の美しい顔に、ご婦人方は思った。
演劇の山場のようなシーンが、今目の前に繰り広げられている。しかしこれは作られたものではない。確かな真実の愛が、そこにあるのだと。
「そ、それは……本当に君の子か……?」
そして、金髪の男は発言を誤ってしまった。感覚共有の弊害か、ありもしない現実に取り憑かれてここまできてしまったのだ。
当然童貞である。契りすら交わしていないのだが、男はナナシが己を選ぶと信じてやまなかったようだった。
「……ギルバート……てめえ、本気で」
「なんで、そんなひどいこと言うのう……」
あ、名前覚えてたんだ。と、アロンダートがエルマーに関心をしたのも束の間だ。
エルマーに庇われていたナナシが、泣きそうな声で口を開いた。
まさか、こんな場面でナナシが前に出てくるだなんて思わない。サジ達は勿論だが、何よりも一番驚いたのはエルマーだった。
「ナナシ……?」
「な、ナナシが……えるのあかちゃんほしいようって……いったの……に、……っ」
「な、」
「なんで……そんなひどいこと……いう、のう……っ、ひう、ぅー……っ」
大粒の涙を流しながら、ついにはえぐえぐと泣き出す。
それくらいギルバートの言葉はナナシの心を傷付けたのだ。
エルマーの胸に顔を埋めるように抱きついて、拙い言葉で宣う。
獣人だろうか。美しい恋人の健気な様子に、さらに胸を打たれたのは、野次馬で冷やかしていた男達だった。
もし己が、美しい人に貴方の子供が欲しいと強請られたら。
そして、孕んだことが嬉しいとばかりに微笑みかけられたら。
己なら、きっと堪らないだろう。連れの男の言い草からして、その過去は相当やんちゃだったのだろう。
それを隣でずっと見つめてきたであろう美しい恋人は、きっと苦労してきたに違いない。
「え、えるの……こと……いじめ、ないで……え……、…っ……」
「ナナシ……、こんくらい構わねえって……泣くな、怖くねえから、」
「ひぅ、あー……っ……える、やだぁ……っ……」
その華奢な身をキツく抱き締めているエルマーを、男たちは自分に重ね、そして美しい恋人が美貌の男に抱き締められている姿を、ご婦人方は自分に重ねた。
この場の形勢は、紛れもなくエルマー達へ軍配が上がった。
一部始終を見ていたサジ達も、笑いを堪えるのに必死だった。
身を震わせ、そして涙を堪えるように口元を覆うほかはない。
エルマーの連れも、ただひたすらに顔がいい。大衆は、別の意味で震えるサジ達へと目を向けると、きっと苦労を共有したに違いないと信じてやまなかった。
髭面の、顔に年輪を深く刻んだ大男は、まるでエルマーたちを庇うかのように歩み出て宣う。
「兄ちゃんよ……愛し合ってる若いもんを引き剥がすってぇのは野暮ってもんだぜ。」
恰幅のいい女将は、その豊満な胸を突き出すようにしながら、髭面の男に並ぶ。
この二人は他人だ。しかし、いたいけな恋人達を守るという強い志の上では、確かに二人は同志だった。
「前からあんたのことは気に食わなかったんだ!どこぞのお貴族様だか知らないがね、あんた金があるからって人を選り好みできるようなツラかい!!笑わせんじゃないよ!!」
「なっ……ご婦人!なんという失礼な物言い!」
「失礼はどこのどいつだぁ坊主、喧嘩売っておきながら往来で物騒なもん抜くとは、ここは貴族街じゃねえんだぞ。市井には市井の喧嘩のやり方ってやつがあんだよ。男なら拳で語りやがれってんだ。」
「親爺っさん……女将さん……」
あんたら誰だ。
エルマーはそう思った。しかし、市井の顔役のような二人が味方についてくれるのなら有り難い。
ナナシも突然の参戦者にキョトンとした顔である。
エルマーの戸惑い混じりの声色に、いいって事よと背中で語った親父は、その太増しい筋肉質な二の腕を晒すように袖を捲り上げる。
「ほら、あんたたちはもう行っちまいな、ここはパン屋の親父に任せときゃあいいよ。ね?」
女将さんが泣いているナナシの背中を優しくさすってやる。
くすんと鼻を鳴らしたナナシがノロノロと顔を上げて涙目で見上げると、母性本能を刺激されたらしい。微かに頬を染めた。
「女将さん、いいのか……任せちまっても、」
「若いもんが、遠慮すんじゃないよ。かわいい恋人じゃないか……幸せになんな。」
「っ……ありがとう……。」
「おやまあ……!」
こっちの都合通りに動いてくれて。
という、本音を隠したエルマーは、その整った顔で不器用に笑うと、がしりと女将の手を力強く握り締めた。
若い男の強い力で握られた己の手を見て、女将は自分が若くなったような気さえした。エルマーの笑顔すら、計算され尽くした物だとは知らずにである。
ナナシの尾が嬉しそうに揺れる。涙に濡れた金色の瞳で見つめられれば、庇護欲を掻き立てられるのだろう。働き者の女将の手をその小さな頭で受け止める。
図らずとも素直なナナシの様子が、エルマーの嘘くさい芝居の信憑性を担う結果となった。
周りの大衆も、気づけばエルマーたちの前に出ていた。何やら訳ありの若者達を守ってやろうという、大人の矜持がそうさせたのだろう。
サジは白い目でエルマーを見ながら、人身掌握術は他の追随を許さないエルマーの手腕に引いていた。
エルマーはそんな目線すらものともせず、腰の角度を直角にするように一礼をした。
泣き止んだナナシのお手てが大衆に別れを告げる。それをしっかり頷くことで受け止めた親父とその一派は、エルマー達を肉の壁で守った。
不躾な若者もとい、敵認定されたギルバートが追えないように立ち塞がったのだ。
さて、ここから先は、一歩も通さねえ。そう言わんばかりに、バキボキと指の関節を鳴らしながら。
「さて、市井のルールってぇもんを、てめえに教えてやらんとなあ……?」
エルマーは、ギルバートの悲鳴を背後で受け止めながら、ナナシを抱き上げ全力疾走だ。
歩いて逃げるのは最高に締まらないだろう、こう言う時こそ脱兎のごとくである。
エルマー率いる五人は、滑り込むように裏路地へと逃げ込んだ。ここなら人目も憚れる。
ポヒュンと音を立ててギンイロが姿を表すと、その体躯をブワリと膨らませた。どうやらここで飛ぶつもりらしい。
「あー、楽に終わってよかったあ。しかも人目ねえじゃん、さっさと乗れサジ。」
「ドン引きである。まじで、ちょっとばかし感心したサジの清らかな心を返せ。慰謝料として大金貨一枚。」
「やかましいわ。ほら、もうちっと詰めろ。アロンダートも後ろから落っこちねえようにな。」
「詐欺師もかくやと言わんばかりだったな、エルマー。非常に楽しかった。」
「おーおー、そらよかった。ほらいけ!」
二人が跨ったのを確認すると、ギンイロの尻を叩いて合図を送る。
ギャインと情けない声を上げるほど、力強く叩きすぎたらしい。ギンイロは恨めしそうにエルマーを見た後、空を駆け上がるようにして飛び上がった。
相変わらず便利な体である。二人を乗せたギンイロの姿は、すっと見えなくなった。
エルマーは手で庇を作るようにして見送ると、己の背中に額をくっつけるように抱きついてくる、ナナシの腰を引き寄せた。
ルキーノがナナシのポシェットから恐る恐る声をかけてきたのも、同じ頃合いだった。
ーあのぅ、孕まれているというのは……
「んあ、まじ。」
ーえぇ!御使い様は女性体でいらっしゃるのですか!?
「いや、ちげえけど。」
ーなるほど……願いを叶える龍だから……かもですね……。
孕んでいることを知らなかったらしい。ルキーノは感慨深そうに頷いているようだが、エルマーはその言葉に僅かに頬を染めた。
よくよく考えてみれば、エルマーはナナシに孕ませたいと言ったことがあったのだ。
今更それを思い出すが、わざわざ言わなくてもいいだろうと反応を示すのをやめた。
しかし、ナナシが妊娠していることをルキーノに言っていなかったのは失念していた。ルキーノはずっとナナシのポシェットの中で過ごしていたのにだ。
まあ、寝る時はレイガンによってポシェットは預かられていた。
単純にエルマーが盛るせいで、あられもない声は聞かせられないと気を遣われたのだ。まあ、それ以前に察したルキーノから、僕は離れて寝たいですと自己申告があったらしいのだが。
ーだとしたら、尚更兄にはバレないようにしなくては……、何をされるか分かりません……。
「させねえよ。」
ナナシが、エルマーの手のひらに頬を寄せる。そっと甘える様子に答えるように額に口付けると、大きな手のひらで髪を梳くようにして頭を撫でる。
なんとなく、そんな気配が伝わったのか、ポシェットの中のルキーノは、照れたように小さく揺らいだ。
「誰にもやらねえ、ナナシの全部は、俺のだからな。」
先程の三文芝居とは違う。エルマーは真っ直ぐにナナシを見つめて言った。
薄っぺらい愛は囁かない。ナナシは、こうしてエルマーと視線を合わせることが愛だと思っている。
言葉よりも雄弁な瞳に、尾を揺らしたナナシが応えるようにエルマーの唇を舐めた。
二人の間には、確かな深い繋がりがある。
レイガンは、そんな様子を黙って見つめていた。こっちの方がさっきよりもずっといい男だと思う。悔しいから、口には出してやらないが。
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