名無しの龍は愛されたい。

シュマギナール皇国陰謀編

84

エルマーたちが光明を見出している頃、ジルバは私室で居心地が悪そうに縮こまっていたルキーノを連れて、己の隠れ家へと足を運んでいた。
グレイシスは、凛とした雰囲気を纏うように紫の花弁を広げていた。その根本は、直接根付くように開いた本へと伸ばされている。
困り顔のルキーノが、花の前に腰掛けて説教をされる様子は、なかなかに愉快だった。

ー仮にも余の体を使っているのだ。せめてその自信のなさそうな面はやめろとさんざん言っているだろう。何故できぬ。
「ああ……その、すみません……しかし、僕にはグレイシス様のような威厳はどうにも出せそうにありません……」
ーならばさっさと体を返せ。余にはやらねばならぬことが山積している。このような心もとない花の姿ではろくに動けぬ。それと貴様、きちんと鍛錬はしているのか。
「……いえ、ペンしか握ったことがなく、騎士団の方にはジルバ様から公務で忙しいと顔出しを控えさせて頂く様に申し上げました。」
ーなんたる体たらく！！話にならぬ！現状に甘んじているのではないか！？久方ぶりの肉体を得、浮かれているなどと申したら貴様を冥府へと突き返すぞ！！
「そんな、こと……！！」

グレイシスの憤りは、鋭くルキーノへと向けられる。予測できなかった事態とはいえ、ルキーノも決して現状に甘んじていたわけではない。
城では、ダラスと会わないように常に気を張り詰めさせている。精神的にも摩耗を強いられているルキーノが、グレイシスの苛烈な性格を受け止めるには、心のゆとりがなかった。

「グレイシス、何を焦る。今は時期を待つしかなかろうよ。それにルキーノだって戸惑っている。少しは寄り添ってやらねば。」
ー……ジルバ。貴様はどちらの味方なのだ。
「今は二人の味方だ。どちらかへつけと選択を迫るほど、お前も心のゆとりがないのだな。」
ーお前は、俺のものだろう……！！

グレイシスは、ジルバがルキーノの側から離れないことも腹立たしかった。理由をきちんと理解はしているが、それを許せる程、まだ心は大人ではない。
突然の理不尽によって隣を奪われたのだ。第一皇子として我慢を強いられることばかりだったグレイシスが、この複雑な感情を処理することが出来ないのも、当たり前だった。

「案ずるな、いずれ時は満ちる。俺の言うことが信じられぬのか。」

ルキーノの目の前で、ジルバの指先がグレイシスの宿る花弁に触れる。ルキーノはわかっていた。ジルバが親切にしてくれるのは、この体がグレイシスのもので、いずれ王になる身だからだ。
間借りしているルキーノが、勘違いしてはいけないということも、きちんとわかっていた。

「すみません、本当に……」

胸の奥が、ちくりと痛む。この込み上げてくる感情すら、自分のものなのかも分からない。こんなことになるくらいなら、あの時魂ごと消してくれたほうが良かった。
俯いたルキーノの眦に、涙が滲む。悲しくて悲しくて、グレイシスの体なのに涙が出てくる。
そんな様子を、ジルバは静かに見つめていた。

「……ルキーノ、少し話そうか。グレイシスはそこで少し大人しくしていろ。」
ーふん、どちらにせよ動けぬ。じっくり話し合うがいいさ。
「拗ねるな。」
ー拗ねてなどおらぬ！！馬鹿者、早く消えてしまえ！！

ルキーノの腰を抱いて、部屋の奥に消えていくジルバに、グレイシスの憤りは抑えようにも難しい。
醜い感情が、なかなかに消えないのだ。
今まで感じたことのない、焦りにも似たそれが何かはわからない。それでも、グレイシスの苛立ちの理由の一つは、己自身でも理解していた。

そこは自分の居場所なのに。あの部屋には、ジルバに抱かれたベッドがある。そこにルキーノを連れ込むのが、グレイシスにはどうしても許せなかった。

ー誰が、一番我慢していると思っている……！

グレイシスの心もまた、疲弊していた。花は涙を流せない。ルキーノが長きに渡りこの本の中で縛られてきたのは、理解している。
最近まで人の体だったグレイシスですら、この複雑な感情を形にして吐き出せない事が苦痛なのだ。
それを、ルキーノはずっと、望まぬ方向に目まぐるしく展開が変わるのを、涙の一粒すら出せずに燻って見てきたのだ。

わかっている。グレイシスは、そんなルキーノに比べると感情を吐き出せていたし、花のままでもジルバに意志を伝えることもできている。それが、贅沢なこととは、思いもよらなかった。

それでも、奪われたくない。ジルバの隣は。奪われたくないのだ。

扉の向こうは静かなままだ。この位置では、会話を聞くことすらできないだろう。一人残された部屋は見慣れているというのに、随分と広く感じた。






「ルキーノ、グレイシスがすまぬ。どうしようもないことは頭で理解しているのだろうが、認めたくないようだ。」
「いえ……、僕が、取り縋らなければよかったのです……」

ルキーノは後悔していた。
グレイシスがあの本を手に取り、己を呼び覚ましてくれた時。解放されたルキーノは、助けを求めるように縋ってしまったのだ。
きっかけは、グレイシスの言葉で読み上げられた、己が死ぬ前の日記。

あの日、祭司が日記に施した術は、ルキーノの姿を隠蔽してくれていた。
しかし、施された術の強さから、ルキーノの魂はあの本に縛られてしまったのだ。
祭司が事故にあってから、ルキーノはずっと書庫で燻り続けていた。兄によって変えられていく未来を、歯がゆく思いながら。
そんな、自分の意思では語りかけることが不可能な状態は、長く続いた。
悲しみと絶望に暮れていた最中、ルキーノの日記をグレイシスが読んだ事で、繋がりができてしまったのだ。


「一つ聞くが、書庫から城の状況を把握できていたのは何故だ。」
「あそこには禁書の部屋があるでしょう。兄はそこで、よく調べ物をしていました。おそらく破り取られた陣の本も、そこから持ち出されたもの。僕はずっと側で見ていたというのに、止められなかった。」
「そうか。」

ルキーノが縛られていた本も、禁書の棚に収まっていたのだ。
人の出入りはいつの間にか規制されていた。とはいっても、誰も立ち寄ることもしなかったその場所は、ダラスによっては物思いに耽るには適した場所であったことには変わりない。

一介の祭司であるダラスが、そこまで許されていたのはおかしい。それでも、城での信頼を勝ち得たダラスを疑うものはいなかったのだろう。
禁書の棚に入り込んだダラスが口にした、他国の聖遺物の話。
消えた龍眼の一つを闖入者のせいにしてしまうという、馬鹿げた話ですら簡単に受け入れられてしまう。
それほどまでにダラスの信頼は厚かったのだろう。

ジルバは、思考をゆっくりと巡らせる。己なら、失われた龍眼について、どう言い訳をするか。無論、闖入者のせいにするための、疑われぬ理由が必要だ。
条件は、皇国建国と同じく長い歴史を持ち、他国を拠点としているもの。そして、確かな存在感と、不確かな人物像を違和感なく混じり合わせることができる、そんな都合のいい存在。

「……。」

ジルバの思考の片隅に、呪いの土を使ったあの時の魔女の存在が浮かび上がった。
灰の瞳がくらりと揺れる。呪いの土、それは龍の血肉だ。ジルバが読んでいた通り、エルマーの左目が龍眼になった今、聖石を取り込むことができるナナシが御使いという仮定は誤りではなかった。
そして、呪いの土はナナシに会う前から少しずつ出回っていた。

「魔女、のせい……」

魔女協会の歴史は長い。そして、その歴史は皇国が建国された時期に重なる。
他国に散らばる協会の本部が決まったのも、国の重要な人物が馬車で移動中に襲撃にあったからだ。他国との国境で、証拠はなかった。
ただ、車輪の一部に残された魔力の残滓から、一人の魔女が吊るし上げられた。
たしか、名前を与えられたばかりの魔女だった気がする。馬車の整備不良という選択肢もあった筈なのに、有無を言わさずに責任を取らされた。
魔女協会は、こうした理不尽な行いに目を光らせる為に本部を皇国に置いたのだ。

「ジルバ？」
「……、」

ルキーノの言葉を、ジルバが手で遮る。もう少しで、なにかが掴めそうだったのだ。

呪いの土は龍の血肉が染みたもの。
その土で出来た魔物から取り出される、純度の高い聖石。
従軍中、魔女に襲われたと言っていたエルマー。
城の襲撃を、他国の魔女が刺客だったと報告した自分。

「魔女は、国に縛られぬ。……まさか」

ジルバは目を見開いた。もしや、この俺が踊らされたとでもいうのかと。
まさかはゆっくりと確信へと変わっていく。
口元に、笑みが浮かんだ。己が踊らされたことよる、久方ぶりの高揚感がそうさせたのだ。

その時、城内に巡らせた蜘蛛の糸に何かが引っかかった。ジルバは感情の昂りを抑えるように一呼吸つくと、ゆっくりと背後へと視線を向ける。

「丁度いい。ルキーノはそこにいろ。」
「え、……」

ジルバは、狼狽えるルキーノの横を通り抜けると、そのまま扉を開けた。
小さなテーブルの上、グレイシスがこちらに気づいて顔を上げる気配がする。
その横を、真っ直ぐに通り抜けたジルバは、両開きの扉を開け放った。

「エルマー、迎えに行こうかと思っていた。」
「おう、時間ねえんだろ。ナナシがやってくれるってよ。」
「ジルバ！」

扉の先には、エルマーとナナシがいた。アロンダートたちの気配もするが、グレイシスのことを考えて、中には入らないようだった。
ナナシは、最後にジルバが見たときよりも、大きく容姿が変化していた。
保有魔力は計り知れない。なるほど、確かに今のナナシなら、グレイシスのことをどうにかできる気がした。

「ナナシ、やはりその姿のがよく似合う。」
「ん、……へんじゃない？」
「無論。こっちだ、お前に紹介したい奴もいる。」

きょとんとしたナナシが、ジルバに促されるまま室内へと足を踏み入れる。小さなテーブルの上に、開いた状態で置かれた本へ視線を向けると、すぐにそ菫がグレイシスだと理解したらしい。
ナナシは床を撫でるように尾を揺らすと、金色の瞳に魔力を宿して繋がりを探す。

そんな様子を前に、ジルバは静かに瞠目していた。何も言わずとも、ナナシは何をすべきかを理解していたからだ。
向けられたナナシの金の瞳の先には、ルキーノがいる。ゆっくりと扉へ近付くと、ジルバに確認するかのように振り向いた。

「ジルバ、ここ……グレイシスのそとがわがいる……」
「わかった、ルキーノ。」

ナナシの問いかけに小さく頷くと、ジルバはルキーノを呼んだ。
少しの物音の後、カチャンというドアノブの回る音がして、恐る恐るといった具合にルキーノが顔を出す。
僅かに開いた扉の隙間、ひょこりと顔を出したナナシを前に、ルキーノは余程驚いたようだ。目を見開いて驚愕を表すと、びしりと背筋を伸ばした。

「え……あ、……っ……！」
「んと、るきーの？こっち」
「お、御使い……さま……！」

ルキーノの顔を見て、ふにゃりと笑う。
ナナシはその手を握り締めると、ルキーノと共にグレイシスのもとへと向かった。
そんな二人を、エルマーだけは不機嫌に見つめている。

「るきーの、ここにいて……んと、グレイシスは、まりょく、わかる？」
ー無論。こいつの中に流れているのは、余の魔力だからな。
「んーと、ううん……うつわ、が……こまった……」

ナナシの問いかけに、グレイシスが頷く。
己自身の魔力が認知できるのなら、魂を入れ替えることは容易い。とはいっても、ナナシにとっては、だが。
しかし、グレイシスの体に魂を戻したら、ルキーノの魂の行き場がなくなってしまう。
おそらく獣の耳を出していたら前に下がっていることだろう。ナナシがキョロキョロするのをみて、エルマーが助け船を出す。

「うつわって、あの器か？なんか探してんのか？」
「あのね、おはながうつわなの。だから、るきーのをはずしたら、うつわがなくてきえちゃう…」
「本が器だろう？」
「ちがうよう、おはな。」

ふるふると首を振り、グレイシスを指差す。ナナシが言うには、本はあくまでも外側で、グレイシスがくっついている花が重要だという。
曰く、菫には微かな魔力が宿っているらしく、それが本に根付いている為に剥がれないのだという。

「僕は、本に取り憑いたと思ったのですが……」
「おはな、これ。んんん……うう！あ、あー！」
「うおっ、なんだどうした！」

しばらくうんうんと唸っていたナナシが、エルマーを見て目を輝かせた。
キラキラした顔で駆け寄ると、ルキーノの魂を移す為に、空魔石をくださいとおねだりをする。

ー空魔石？そんなもので何をどうするつもりだ。
「まかせろするして……」

エルマーにおねだりをして選ばせてもらったのは、一際大きな空魔石だ。手のひらで包み込むようにしてそれに触れると、むんっと魔力を込める。
純粋な聖属性魔力が、手の内側で行使される。空魔石は瞬く間に薄い金色へと変わると、ナナシはひと仕事終えたと言わんばかりに、ふう、と息をついた。
どうやら魂の入れ替えで押し出されるルキーノの魂を、この魔石に移すことにしたらしい。

「でけた。あとは、グレイシスがまりょくつなげる！ルキーノでたら、ナナシがこれにうつすね。」

さあ来い！という具合にナナシがニコニコと微笑む。グレイシスはというと、でけたではなく、できただ。などと小言をはさみながらも、内心は半信半疑だった。

散々ルキーノと魔力を繋げて体に戻ろうとしたのだが、うまく出来なかったのだ。一度は戻れたこともある。しかし、戻った体で花から離れた瞬間に、再びその身から剥がれるように魂が菫へと引き摺り込まれた経験がある。
ナナシには悪いが、これで駄目でも仕方がない。グレイシスは半ば諦め気味である。

「そ、れでは……いきます、ね……」
「いいよう」

ルキーノが、緊張した様子でグレイシスの花弁に触れた。花の香りが強くなると共に、ルキーノの意識はどんどんと引っ張られていく。
二人の間を不思議な光の明滅が散らされる。
カクリと力が抜けたルキーノの体をジルバか受け止めると、ナナシが聖属性の魔力を込めた魔石を掲げた。

グレイシスの胸元から浮かび上がった青白い光が、ひゅう、と魔石の中に吸い込まれる。
ナナシは、すぐさまその魔石の輪郭に沿うようにして、魔石の中に結界を施す。
万が一割れても、魂が外れることのないように硬化したのだ。

ナナシの手のひらの上には、マーキースカットのような結晶がころりと残されていた。
その内側は、秘めた力を宿す様な、不思議な光がそっと反射を繰り返している。
聖属性を宿した魔石は浄化を常に繰り返す。ルキーノとの意思疎通も、これによって隔たりなく取れるようにした。
こんな繊細な術は、人間には到底できない。展開図もなく一瞬でやってのけたナナシに、ジルバはごくりと動揺を飲み込んだ。

「っ、は……ああ、くそ、感覚が掴めぬ……」

まるで、ずっと水中で息を止めていたかのような心地だった。
グレイシスは、ジルバに支えられながら立つのがやっとであった。
全身が気だるい。億劫そうに、手のひらを顔の前に翳すと、感触を確かめるように握り開くを繰り返した。

「変わりないな、まあ数日程度で落ちる筋力ではないか。」
「グレイシス、ナナシ、えらい？」
「ああ、褒めてやろう。よくやった。」

わし、とナナシの頭を撫でたグレイシスが小さく微笑む。
ルキーノはというと、結晶の中で魂の灯火を踊らせながら、高揚感を抑えきれないと言わんばかりに語りかける。

ーすごい、すごいです！こんなに抵抗も無くだなんて！それで、僕はどうしたらいいでしょう……
「いやあ、念話やべえな。頭ん中直接語られるから、なんか変な感じ。」

耳を穿りながら、エルマーが言う。ルキーノの声は、脳内に直接響くようなものである。
ナナシは、悩んだ末に結晶を己の小さな鞄にいれた。
エルマーの薬を買いに行ったときに、サジに選んでもらったものだ。それの中には、どんぐりしか入っていない。
突如どんぐりと同居することになったルキーノは、若干の抵抗を感じるような雰囲気で、ひとまずありがとうございますとだけ宣った。

「ルキーノ、ナナシがもってる。まだ、おそらいくの、やだでしょぅ？」
ーええ、可能であれば兄を止めたい。微力過ぎてお力には添える気はしませんが……
「ううん、ナナシもがんばるの、えるがね、たすけてくれるよう。」

鞄を撫でながら、ナナシはふくふくと笑う。
エルマーが褒めるようにナナシの頭を撫でると、嬉しそうにその手にすり寄った。

「エルマー、ちょっといいか。」
「あん？」

これで終わりかと帰る気でいたエルマーを、ジルバが引き止めた。
いつになく真剣な顔で見つめてくる様子に、エルマーも何か察したようで、無言でナナシの腰を抱く。
なんとなく、聞きたくないなと思った。