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始まりの大地編

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おまえに仕事をやる。と言われたので、これは土下座をして返事をする。話しかけられたら、こうするようにと躾けられたのだ。
これは、これだ。親父はこれと呼ぶようになった。与えられた名前だ。

土下座をすると、背中が丸まり、骨と皮のような体が気持ち悪いと殴られた。其れでも、火かき棒よりはずっといい。

「お前ぴったりな仕事だ。なあに、寝ているだけでいい。」
「あ、い…」

本当にそんな仕事があるのだろうか。
虚ろな視線が気に食わなかったのか、麻袋を顔に被せられた。ずれないようにとその首で結ばれた紐には、心臓をひやりとさせられたが、動かず大人しくしていれば、何も怖いことはされなかった。

「この仕事が終わったら、パンをやる。」
「ぱ、ん…」

これの心はとくんとなった。ぱん。食べたい、最後に食べたのは、牧場の外に生えていた草の茎だけだったからだ。
ひどく苦くて酸っぱかった。それでも、飢えを満たせればいいと思っていたのに、あの後は腹を下して大目玉を食らったのだ。
人の食料はいい。下さないし、飢えも満たされる。これのちいさな喉仏はこくりとなり、期待に胸が甘く鳴いた。

「まあ、そうだなあ。ハマれば好きになるだろう。」

そう言うと、親父はこれの体から服を剥いた。服と言っても襤褸布を巻き付けたようなものだったのだが、その一切を取り払い裸にすると、何故か抱え上げられて外へと連れて行かれたのだ。

ふかりとした芝生を踏む。この上で寝られたら、どんなに気持ちがいいだろう。そう思っていたら、突然バシャリと水をかけられた。
ああ、布さえ顔を覆っていなけれぱ、手についた水を舐めることが出来たのに。

「お前は少し臭う。だからまずは洗ってやらんとなあ。なに、痛いことはしないよ。」
「ひ、…」

しゅこ、と空気の抜ける音がしたかと思うと、肉厚な手が、その身を這う。布でゴシゴシと擦られ、まるで牛を洗うかのように磨かれた。
何度か水で流される。ここに来てから、こんなにスッキリとした気持ちになれたのは初めてだった。
体が、べたべたしない。忘れていた感覚に、今日が最後の日なのではと思うくらい、人としての尊厳を取り戻すことができたように思えた。

こんなに沢山の水を使って貰えるなんて、と嬉しかったのだ。
今日は、いい日だ。なんだか親父もご機嫌で、もしかしたら殴られることもないのかもしれない。
なにかご褒美を貰えることをしただろうかと考えたが、全く思い至るものはなかった。

倉庫に戻ってくると、布の上に寝かされた。土ではない、布だ。
その手触りにどきどきして、麻袋が無ければまじまじと見つめていただろう。
藁も、布を被せれば極上だ。チクチクしないし、痒くならない。薪割りを頑張れば、貰えたりしないだろうか。それは流石に、おこがましいだろうか。

「あぃ、が…と、…ご、ざ…」
「ふん、礼の一つ位は言えるようになったのか。」

親父は満足気に頷いた。薄い肉付きの足を割り開くと、その太い体を足の間に収める。 
これは、わけがわからなかった。

チャリ、と何か聞こえた気がした。耳に聞こえた、鎖が小さく鳴く音と、胸元を滑る感触。

これの股の間に、なんだか弾力のある何かが押し付けられる。グニグニと、腰を押し付けながら荒い呼吸を繰り返す親父に揺さぶられると、自分の足がぷらぷらと揺れている感覚がして、自発的ではないその感覚が不思議に思えた。

頭に靄がかかっているようだった。

「あ、」
「おう、もう感じているのか淫乱め、もっと声を聞かせなさい。」

くん、と麻袋の匂いをかぐ。前にも、こんなことがあった。そんなことないと思う自分もいる。
こんなことが繰り返されているとしたら、それを甘んじて受け入れているなんて、馬鹿のすることだからだ。

「あ、あ、あ、」

それでも、これは虚ろな思考で思い出そうと必死だった。麻袋の荒い布目の隙間から、光が溢れる。
そうだ、確か目を開けて、閉じて、息をしたときに出会ったのだ。

会いたい。

誰に?

おひさまの匂いだ、まるで秋に色づく美しい枝葉を飾る、葉のような色を髪に宿す人。
これが泣きたくなるような大好きな人が、汚い体を厭わずに、触れてくれたじゃないか。

本当に?
都合のいい夢だろう。

ちがう、ちがう。ゆめなんかじゃない。あったよ、たしかにあった。

あり得ない。なら何でもっと早くに助けに来ない。

きっと、いまはとおいところにいる。

お前を放っておいてか。

ちがう、ほうっておかれてなんかない。

「だ、ぇ…っ、」

誰なのだ、これの思考に入ってくる。不思議な声が、邪魔をする。

「ほうら、次はこっちだ」
「あ、あ、あ、」

くぷ、と尻のあわいに芋虫のような太い指が差しこまれる。薄い腹を震わせ、ずぶ、と根本まで受け入れると、なんだか油のようなものを垂らされて抜き差しされる。

「え、え、ぅ…っ、」
「いいところを擦ってやろう。お前が頑張れば頑張るだけ、ご褒美を増やしてやる。」

とても意地悪な声だ。クスクスと笑って、これのことを見下ろしてくる。

おなかをぐちぐちと掻き回されて、ごぷりと口からは胃液が溢れる。

きもちわるい、いやだ。たすけてほしい。

ほら、助けてくれないじゃないか。

ちがう、ちがう。
おもいだしたい。だいすきな、おひさま。

名前のないお前なんかを、愛するやつなんていないのさ。

なまえ、なまえ…そうだ、ななしのこれに、くれたもの

はく、と唇が震えた。名無し、ななしのなまえ。
じわりと涙が出る。虚ろだった思考が徐々に明瞭になっていく。

そうだ、ひとりじゃない。いまは、ひとりじゃないんだよ。

ーーおっと、余計なことをした。もう一度お休み。

「っ、いやだ!!!」

悲鳴にも似た叫び声だ。パキン、と音がする。弾かれるように飛び起きると、その巨体を押し退けた。
首にくくられた麻紐を取る。叩きつけるようにして袋を投げつけると、そっと胸元を握った。

手の中の、少しだけ冷たい細い鎖が、応えるように鳴く。

エルマー、エルマー…!!

ナナシの大切がくれたネックレスが、確かにそこにある。 

ひとりじゃない、ひとりじゃないんだ。

「おまエ、あルジに、なにヲする!!」
「にせもの、きらい!!」

複音の声が怒鳴り散らす。ナナシを痛めつけていた巨体の男の姿は、どんどんと歪んでいく。
逃げてはいけない、きっとサジもエルマーも戦っているのだ。

向き合わなくては、自分の過去と向き合わなくてはいけない。
ナナシは金色の瞳を輝かせる。ふわりとその身に宿る魔力が、白い揺らぎとなって現れる。これは偽物、トラウマに閉じ込めて、抜け出せなくなる悪夢だ。

「えるまー、ナナシ、がんばる。」

小さく呟く。気づけば何も纏っていなかった体が、堕ちたときと同じ服装に変わっていた。
インべントリの中から、強い光が溢れた。誘われるようにその光を手にすると、それはエルマーが預かると言っていた聖属性の結晶だった。

ナナシはそれを両手で包んだ。ぶわりと溢れる光が、徐々にその仄暗い闇を暴いていく。手に持つそれが、滾滾と出る湧き水のように魔力を吹き上げた。

あの時のように、この身の糧となれ。

その手になみなみと揺蕩う眩いばかりのそれを、一息に身のうちに収める。

ああ、これだ、

「あ、っ…」

ナナシの体が、柔らかな光りに包まれる。泣きたくなるくらい懐かしい気配がした。

エルマー、あいたい、はやくあいたい。

ナナシのその身に深く入り込む魔力は、徐々に変化をしていった。
薄く開いた口から、小さな犬歯が見えた。その体はすらりと手足が伸び、あどけない美しさを持つ顔は、少年から青年へと変わった。ふわりと広がった黒髪が、徐々に薄い灰色へと変わる。蝶の羽根のように、長い睫毛がゆっくりと瞬き、その瞳からは金色の光が溢れた。そうして、漸く変化は止まった。

「…、エルマー」

崩れるようにして床に膝をついたナナシが、甘い声で小さく呟いた。その座り込むナナシへと襲いかかろうとした巨体は、光の粒子となって消えた。

ああ、もう大丈夫だ。悪夢は、おしまい。

す、と目を開ける。漏れ出る木漏れ日のように、金色の瞳が輝いた。
目の前に広がっていたのは、赤い天鵞絨の内装だ。
そっとその嫋やかな手を扉に触れさせると、キィ…と軋む音立てながら、扉を開いた。










すう、と呼吸をする。相変わらずエルフの森は自然豊かで、妖精たちが楽しそうに木の周りで踊るようにして遊んでいる。
清廉な空気を纏うこの森の場所は、誰も知らない。選ばれし者だけが導かれる幻惑の森だ。

「ミスティアリオス、そんなところにいたのかい?」
「兄上!」

同じ枯葉色の髪をした美しい顔の美丈夫が、声をかける。
ミスティアリオスと呼ばれた少女のような可憐な少年は、花の綻ぶような笑みを向け、兄のもとへと駆け寄った。

「可愛いミスティ、おまえはまた父上を困らせたようだね。人を驚かせるのに力を使ってはいけないと、あれほど言っただろう。」
「いいえ兄上、僕はそんなつもりはありません。与えられた力で実験をしたのです!」
「ほう、ではその崇高な実験とやらを、この兄に聞かせてくれるかい?」

兄のサジタリウスは、歳の離れた弟を愛していた。父が旅先で人間の女と番って出来たハーフエルフのミスティアリオスは、このエルフの森では異質な存在だった。

エルフは、一人の同族の女としか番わないのが通常だ。しかし父は、サジタリウスの母が病で死んだ後、ふらりと森を出たかと思うとミスティアリオスを連れて帰ってきた。

ーー旅先で出来た。お前の弟だ、大切にしなさい。

エルフの男は、年を取らない。正確に言えば人と老化の仕方が違うだけなのだが、父が出ていってから四年。母が死んでから五年目にして、サジタリウスに弟ができたのだ。

十二歳も歳が違う。ミスティアリオスと名付けられたハーフエルフの弟は、それは美しく育った。
サジタリウスと同じの枯葉色の髪、そしてラブラドライトの瞳。長い睫毛を震わせながら、まるで花びらのように薄く色づく指先で爪弾く、ハープに乗せた美しい歌声。
サジタリウスは、その美しい音色の魔力に惹かれるように、歳の離れた弟を愛した。

女性的なその美しさを持つミスティアリオスは、実に目立った。
いい意味でも、悪い意味でも。

「お前は、なんというか…才能がすごいな。」
「えへへ、でもしくじりました。育てるなら、もう少し優しい魔物にすればよかった。」

ミスティアリオスが兄に見せたのは、叫ばないマンドラゴラだった。白い根菜に、悲鳴を上げたような顔をするその魔物は、媚薬にも使われる。
しかし、野生のマンドラゴラは、引き抜くと人を絶命させる絶叫を上げるため、市場に出回る数は極めて少なく、最高ランクの冒険者ですらその依頼を取るのを躊躇うという。

そんなマンドラゴラが、ミスティアリオスの腕の中で赤子のように無邪気に甘えている。異常な光景だ。眼の前でそんな場面を見せつけられれば、驚くなという方が無理な話で、父親だって卒倒するに決まっていた。

「マンドラゴラは、とても臆病な魔物です。知能が高く、それでいて個体数も少ない。この子は偶々森で僕が見つけた野生の個体から、株分けして作ったものなんです。」
「株分け…そんなことが可能なのか?」
「勿論、きちんとした手順を踏まねばなりません。叫ばないようにするなら、その周りの空気を真空にするのです。そして気絶したところに、治癒をかける。」
「治癒を…」

ミスティアリオスはニコリと笑うと、実に博学なその知識を隠すことなくサジタリウスに与えた。
マンドラゴラを手懐けるには、一度気絶させた後に治癒を施してやると、術者の魔力が馴染むのだそうだ。そうすると、目を覚ましたときには自身の体につけられた魔力と同じ波長を感じ取って、魔力の主に懐くのだそう。
サジタリウスも多くのことを学んできたが、今までの文献を調べ漁ってもそんな話は聞いたことはなかった。
そんな学者も驚くようなことをやってのけ、なお眼の前の愛らしい弟は、偶然ですよと言っている。

「兄上、魔女になられるとお伺いしました。良きことです。きっと、兄上なら彼の方が名を与えてくれるに違いありません。」
「可愛いミスティ、まだ不確定な未来だ。こうも期待されると、なんだか面映ゆくなってしまう。」
「ミスティアリオスは、サジタリウス兄上をお慕いしております。大丈夫です、兄上ならきっと。」
「ミスティ…」

木漏れ日が降り注ぐ、ミスティアリオスの秘密の箱庭。そこは深い森の奥にあり、様々な種類の植物の魔物が、穏やかに暮らしていた。
自分なんかよりも、余程お前のほうが相応しい。サジタリウスは口にこそ出さなかったものの、目の前で柔らかく微笑む弟のミスティアリオスに、兄弟以上の感情を抱いていた。



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