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シュマギナール皇国編
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「ひ、っーーーーーーぁあ、あ!!」
その知らせは突然のことだった。身の内側から、無理やり何かを引き剥がされるかのような鋭い感覚に、サジは悲鳴を上げた。
膝を折るように、崩れ落ちた華奢な体をアロンダートが咄嗟に受け止める。触れた体は、まるで何かに怯えるかのように震えていた。
「サジ、サジ!!」
「え、える…えるまー‥」
「赤毛の彼か、どうした…」
「ちが、…う!!フオルンだ、サジの子が、ああ、あああ…っ…」
サジは酷く狼狽えていた。いつもの飄々とした姿からは程遠い、慟哭した様子で取り乱し、譫言のように己の魔物の名前を紡ぐ。
エルマー。赤毛の青年と同じ名を与えらえた魔物が、一体どうしたというのだ。唇は戦慄き、震える手のひらは耐えられないというように己の頭を抱える、そのサジの様子を、アロンダートは戸惑ったように見つめる。
「ひ、ひ…だ、だめだ…もえ、る…っ、もぇ、る、…っ」
ラブラドライトの瞳から大粒の涙を零す。燃える…と、か細く呟く声を拾い、アロンダートはゴクリと喉を鳴らす。
「死んじゃった…サジの、子…っ、…」
「な、…っ…」
腕の中で震えるサジが、喉を引き絞るかのような泣き声で呟いた。サジが一番長く連れ添い、愛情を注いで育ててきた魔物の一つが、その役目を全うして空に帰った。
ひっく、と嗚咽を漏らしなから、サジが胸元から取り出したのは、一つの種子だ。震える手のひらの上でパキリともろく崩れ去ったそれは、フオルンがサジの元に来たときに現れた命の種子だった。
植物の魔物を生み、育てて使役する。その魔物から与えられる種子は、いわば心臓のようなものだった。それが黒くホロホロと崩れて消える。
フオルンはエルマーの元、突然現れた少女によってその身を焼かれて死んだのだ。離れているサジは、側にいてやることすら出来なかった。最期を看取ってやることすら、出来なかったのだ。
「…急ごう、フォルンの亡骸を拾ってやらねば。」
アロンダートによって、支えられるように立たされたサジが、声も出ぬまま小さく頷く。そうだ、親である自分が迎えに行ってやらねばならない。
サジは、もう泣いていなかった。しかしその瞳に宿るのは、明確な怒りであった。ラブラドライトの瞳を研ぎ澄まし抜け落ちた表情のままに宣う。
「許さぬ、けして…!決して許してはならぬ!」
サジの怒りとともに、身から滲んだ魔力によって庭木がざわめく。葉擦れの音に急かされるかのようにして、焦げ臭い匂いのする方向へ、アロンダートとサジは急いだ。
カタン、
サロンの扉の外側から、なにかの音がした。
ナナシはギンイロを抱きしめたまま、ビクリとその体を跳ねさせた。静まり返った室内では些細な音すら違和感の一つへと姿を変える。一瞬にして張り詰めた空気は、一呼吸さえ許されぬ雰囲気である。
「お、おい!おまえ、見てこい!」
「トッドかもしれない、ナナシはここで待っていろ。」
けして外務大臣であるフローレンスに言われたからでない。アランは立ち上がると、己のインベントリから剣を取り出して装着をした。
エルマー同様インベントリを仕込んでいたのだ。剣を使うことなどないようにと願っていたが、どうやら事態は甘くはないらしい。
渋い顔をして、ソファに張り付いたまま離れないフローレンスは、その身を縮こませるかのようにして喚く。この男は、別室で対応されている息子の心配など微塵もしていないようだった。
アランが慎重にの横に立つ。そっと聞き耳を立てると、微かな声が聞こえた。
「トッドか!」
「あけて、」
「ならば、合言葉を言うが良い!」
「あけて、」
アランが訝しげな表情をつくる。扉の向こう側にいる声の主は、あけて、しか言わないのだ。誰とも名乗らずに、あけて、のただ一言だけ。
ナナシは息を詰めたままその扉を凝視した。こくりと生唾を飲み込む小さな喉仏が上下に動く。何かがおかしいと、敏感に感じ取っていた。
「あけてやればいいだろう、も、もしかしたら応援かもしれん!!」
「いや、危険すぎる。名も名乗りもしないだなんて…」
ずりゅ、と大きなものが這いずるかのような音が聞こえた。水分を含んだ何かが、床を摩擦して近づいてくる。耳障りの悪いその音が扉の向こうで動きを止めると、僅かな隙間からじんわりと鉄臭い何かが広がった。
「ひ、…ひい!!ち、血だ!!」
「な、っ…」
ガタン!と大きな音が立つ。扉を揺らすようにして何かがぶつかってきたのだ。緊張感が室内を支配した瞬間。続いたのは聞き慣れた声だった。
「あんたたち!そこにいるのね!?」
「っ、トッドか!?」
「アラン!良かった、無事なのね、っ…」
地震かと思うくらいの揺れが、室内に響く。異様な空気だ。ナナシはその身を竦ませるように反応すると、次いで体を支配したのは悪寒であった。
「っ、と、とっどぉ!!とっどぉだめぇ!!」
「っナナシくん!?」
悲鳴混じりの叫び声に、アランが振り向いた。小さな体は駆け寄るかのようにソファから離れると、その扉に張り付いた。
「ナナシちゃん、…決してここを開けては駄目よ、いいわね、お姉さんとの約束。」
トッドは、荒い呼吸混じりの声で宣った。トッドは外の見回りを任されていた。もしかしたら、何か厄介な魔物と対峙をしているのかもしれない。アランの頭の中には、嫌な考えがよぎる。
足元に広がる赤い血が、トッドのものかもしれない。だとしたら、状況は一刻を争うのは明白であった。
「あらん!!あらんとっどたすけてぇ!!」
「もちろ、」
「開けるなって言ってるだろうが!!」
「ん、っ…」
ナナシの言葉に、アランが反応を返したその瞬間、聞いたこともないトッドの荒い口調での怒鳴り声が飛んできた。扉に手をかけ、開けようとしていたアランの手が止まる。
驚いたように口を噤む二人に、トッドは慎重さを滲ませる声で、ゆっくりと口を開いた。
「幽鬼が出た。ここの部屋に入りたがっている。だから、開けないで。」
「っ、…なら燃やそう!!僕ならそれができるよトッド!!」
「こんな狭い廊下で、っ…火なんか使ったらみんなを巻き込むだけよ!」
「やだ、やだやだ!なんでえ!!やだあ!!」
トッドが犠牲になろうとしている。ナナシはそれを敏感に感じ取ると、ガチャガチャと音を立てるようにしてドアノブを引っ張った。しかし、扉はびくともしなかった。僅かに開いた隙間はあれど、トッドが背中で抑えるようにして扉を閉めてしまったのだ。
「開けるなって言っている!!」
「っ、」
「あ、こら!!」
トッドの叱責に、ナナシはその顔を歪めるようにして涙を堪えた。ひっく、と喉が震える。嫌だ、こんなことがあっていいはずがない。ゆるゆると首を振ると、ナナシはギンイロを抱え、扉から離れる。
向かったのは、壁際だ。腕に抱えていたギンイロを壁に向けると、意気込むように叫んだ。
「ギンイロ、びーむ!!!」
「アイヨ」
「はあ!?!?!?」
きゅぴ、という不思議な音がした瞬間、銀色の毛玉からギョロリとした緑の目玉が現れた。
あっという間にその壁をぶち抜くほどの熱線を浴びせたかと思うと、内側から弾けるようにしてサロンの壁が破られた。
埃が舞う暗い通ろの真ん中で、トッドが守っていた筈の扉の横から、大泣きしたナナシが飛び出してきた。
「はああ!?」
「トッド、無事か!?」
己が必死で守り抜いてきた扉の横の壁が破壊されたかと思うやいなや、飛び出してきたのは泣きじゃくったナナシと、血相を変えたアランの二人だ。一体何が起こったというのだ。頭の中で完結しない状況の、整理すらままならないまま、幽鬼の口にサーベルを突っ込んで応戦していたトッドは、素っ頓狂な声を上げた。
「なんでくんのよ馬鹿!!!」
「トッドぉ!!」
「馬鹿はトッドだ!!君だけで守るって無理言うな!!」
三人の目の前には、黄土色をした巨体の幽鬼が立ちはだかっていた。異形な魔物は、その長い腕をしならせてトッドの身を壁に叩きつけた。
強かに体を打ち付けた壁には罅が入る。かは、と、肺の空気を絞り出すかのように呼気を吐き出し、崩折れたトッドの姿を見て、アランは吠えた。
「貴様ァ!!あまり調子に乗るなよ!!」
アランが腰に刺していた剣を引き抜いた。己に向かって勢いよく伸ばされた幽鬼の腕に突き刺すと、アランは剣を持つ腕に力を込めた。
柄をキツく握り直す。幽鬼の腕をその腕を切り裂くようにして肉薄すると、アランは剣に魔力を込めた。
この一撃で、仕留めて見せる。アランの剣は、込められた炎属性の魔力によって陽炎を纏うかのように輝く。魔法騎士としての力は、一線を引いても未だ衰えてはいなかった。
そのまま、真横に切り裂いて終わらせてやる。アランの一撃に待ったをかけるように、トッドは叫んだ。対峙する幽鬼が他とは違うということを、トッドが一番わかっていた。
「やめなさいアラン!そいつは、っ」
「は、」
幽鬼の膨らんだ腹に、横一文字の切れ込みが入った。
アランがその身を真横に切り裂こうとした瞬間、その腹が割れるかのようにして、大きな口がぐぱりと開いたのだ。
「え、」
腹に口がある幽鬼なんて、見たこともなかった。擂粉木状に細かく並んだ鋭い歯。それが、まるで見せつけるかのように、剣を持つ腕を丸呑みにした。
アランの瞳には、その瞬間がスローモーションで写っていた。柔らかく口を閉じるようにして飲み込まれた腕へと、次いできたのは鋭い痛みであった。
「ーーーーーーーーーーーっ」
いくつもの刃が、己の腕を削ぎ落としていくかのような衝撃が、右腕に走った。幽鬼の口は、アランの腕をすり潰してやろうと言わんばかりに、忙しなく動かされる。
冷や汗が噴き出る。今まで経験したことのないような、想像を絶する痛みが、右腕から響くように全身の神経を支配する。
腕にかけられる圧力は徐々に増し、ミシミシという音が立つ。歯が、骨にまで食い込む感覚がした。どうやらこのまま、腕を食い千切る気のようであった。
「アラン!!!」
ナナシが叫ぶ。悲鳴まじりの主の声を聞いたギンイロが、幽鬼に飛びかかろうとしたときだった。
「っ、僕は…!!弱くない…!!!」
腹の底から出されたような、アランの鋭い声が響いた。
酷い痛みに耐えながらも、アランのその瞳は諦めてはいなかった。右腕の感覚は、もう無い。今、アランの精神を支えているのは、己の主から与えられた使命だけであった。
全身の魔力を、右腕に集中させる。全身の細胞が奮い立ち、己の血液が沸き立った。アランの魔力は窮地に立った今、鋭く研ぎ澄まされていた。
幽鬼の腹の中に取り込まれた右腕から、一気に灼熱の炎を吹き上がる。決して逃げるものか。崩れるものか。己の背中には守ものがあるのだ。
背後で、トッドの叫ぶ声が聞こえる。大丈夫だ。自分の魔力で出来た炎に、身を焼かれることはない。
身の内から焼かれた幽鬼が、腹とは別の口かr編みにくい悲鳴をあげた。その不気味な体は首をしならせ、顔に切れ込みを入れるかのようにして、八つの目玉を見開いた。
「ぁ、くっ!」
「トッドみちゃだめえ!!」
アランに気を取られ、トッドが幽鬼の赤い八つ目を食らった。状態異常を与えるその瞳に捉えられたトッドが、アランの背後で体を硬直させて倒れ込んだ。
「トッドォ!!ぐ、っ…!、」
骨は、もう折れたのかもしれない。アランは失った腕の感覚をそのままに、全身で押し返すかのように幽鬼へと体当たりをした。
ぐらりと幽鬼の体が傾いた。アランの作った隙を逃さぬと言わんばかりに飛び出したギンイロが、大きな狼のような姿に転化し、その顎で幽鬼の体に食らいついた。早く倒さなくては、トッドが危なかった。
「ナナシがトッドたすけるから、あらんがんばってぇ!!」
背中に感じたのは、聖属性の魔力だ。アランの背後で、ナナシがトッドにかけられた状態異常を解こうとしている。一人で戦っているのではない。アランは幽鬼に噛み付く獣と目があった。壁を突き破った、あの時の光線で焼けばすぐなのに、それを行わないのはアランに当てないようにという配慮からだろう。ギンイロと呼ばれた単眼の獣は、答えるかのようにアランをその瞳に映す。
「勿論、…っ…倒す!!」
幽鬼の腹の内側から、アランの魔力が漏れる。
美しい色をした魔力だった。
豊富な魔力を持っていたアランは、昔からコントロールが下手だった。
だからいつも出力を間違える。慎重に行えば問題ないのだが、気が散ったりすると駄目だ。でも今は、我慢などしたらこちらがやられる。
放つ炎を一息に圧縮する。炎を司る精霊に愛されたアランは、誇り高き人だった。
魔女になる道もあった。しかし、己の信念のもと、ただひたすらに剣の道へと突き進んだ。魔法騎士として活躍した時期はごく僅かであったが、その腕は他の追随を許すことはなかった。今は、その功績さえも奪われたが、求めてくれる人がいたから、今も矜持を捨てずにここにいる。
「僕は、……っ、アロンダート様の騎士だぞ‼︎」
お荷物と言われて、居場所を失ったアランの帰る場所。
アロンダートが信じてくれるなら、アランは決してその期待を裏切ることはしない。第二王子付きの騎士としての誇りは、誰にも負けはしないのだ。
高い魔力出力を感じたギンイロが、慌てて口を離して飛び退る。アランは見計らった嘉のように圧縮した炎を解放した。透き通った、美しい灼熱の炎が幽鬼の腹の中を舐めるようにして広がった
その炎は、幽鬼の鼻や目玉を焼き、体の外側へと炎を噴出させる。物凄い威力だった。
焼かれ、のたうち回る幽鬼に釣られるように、アランのその体は遠心力で持ち上がる。
ナナシによって状態異常を解いてもらったトッドが、目の前の光景を見て悲鳴を上げた。
「アラン…!!」
「っ、ギンイロ!」
トッドが駆け出すよりも早く、ナナシの声に弾かれるようにしてギンイロが飛びだした。アランが腕を千切られて投げ出される前に、ギンイロは幽鬼の腹を削ぐように光線を放つと、宙へと身を投げ出されたアランの体をその背で受け止めた。
銀色の背から、抱えられるようにして降ろされたアランの腕は、酷い有様であった。
かろうじて繋がってはいるが、骨は露出し、千切れかけている。切断はまぬがれない状態に、トッドもナナシも直ぐには言葉が出なかった。
そっと、その体を壁へと凭れかからせる。その体温は、まるで温度を失ってしまったかのように低く、重度の魔力枯渇に陥っていた。
「アラン、アラン!!」
「ト…ッド、無事か…、っ…」
「莫迦!!あんたの腕が…っ、」
自分のことよりも先に体を気にかけるアランの様子に、トッドは声を荒げた。血に塗れ、素肌も見えぬままのアランの腕をキツく縛り上げ、止血を試みる。ナナシは慌てて二人に駆け寄ると、ぼろぼろと涙を溢しながらアランの腕に触れた。
「やめ、…きたな、い…から、っ…」
「とっど、うでもってて…くっつけといてえ!」
「ナナシ、これはもう…っ、」
「やだ、やる!」
千切られかけたアランの腕の筋繊維は露出し、見るのもおぞましいほどの傷跡だ。でも、この腕が二人を守ってくれたのだ。
ナナシの治癒術は、まだ始めたばかりで下手くそだ。それでも、自分に出来ることをしなくてはいけない。ただ守られるだけでは嫌だった。
ギンイロが毛を逆立てながら、辺りを警戒している。きっと、まだ幽鬼はいるのだろう。
怖い、怖いけれど、やらねばならない。ナナシはアランの腕を正しい位置に抑えてもらいながら、その傷口の上を往復するように魔力を注ぐ。骨を繋げ、足りない部分を補い、やがて温かな血が通うように。元通りに動きますようにと願いながら。
「っ、…ありがとう、充分だ…」
「やだ、っ…」
痛みを堪えるように、アランが浅い呼吸を繰り返す。痛みを引き摺るような声ではあるものの、アランはナナシに向けて、小さく感謝を呟いた。ナナシの力は薄い光の皮膜となり、じんわりと傷口を包み込んでくれている。しかし、おそらくもう無理だということは、アランが一番わかっていた。
必死に直そうとしてくれている、その姿だけでも、アランには十分だった。
「ふ、…早くいけ、」
ゆっくりとした口調は、掠れた声も相まって今にも眠ってしまいそうだった。痛みを遠ざけようとしてくれる暖かな魔力が、優しく体を包み込むのを感じながら、アランはその口元に柔らかく笑みを浮かべた。
トッドが、震える唇を惹き結ぶように閉ざす。逞しい腕で濡れた目元をゴシリと擦ると、肩で息をするようにして、熱くなった吐息を吐き出した。
アランの瞳は、もうほとんど見えてはいなかった。それでも、小さな体で、ちぎれかけた己の腕すらも厭わずに治癒をかけ続けるナナシの姿は、その体温から感じていた。
こうして、自分のために必死になってくれる存在がいるという幸福を、アランは忘れたく無いなと思った。
「ぼくは、…きし、だったろ、う…?」
「最高に、馬鹿でかっこよかったわよ、っ…」
「だろ…、…じまん、だろうか…。あろん、だーとさま、の…」
穏やかな声だった。ナナシは、アランの声を聞きながら、胸に込み上げてくるものが溢れるかのように、ぼたぼたと涙を零す。もう、声も出なかった。修復して、お願いだから、きれいに治って。ぐずぐずと情けなく泣きながら、少しずつ、下手くそながら繋げていく。
その必死な姿を、アランは見えぬ瞳に映していた。もう、体には痛み感じてはいなかった。
「自慢に決まってるじゃない、あんたの炎を褒めたのは、殿下なのだから。」
何かを堪えるかのようなトッドの言葉に、アランは目元を緩める。目の奥から滲んだ涙が、ゆっくりと血に濡れた頬を撫でるかのようにして伝った。
そうだ、自分の炎を綺麗だと褒めてくれたのは、紛れもない彼だったのだ。
「ああ、…あろん、…だーと、さま…」
…ーーお前の炎は、まるで火の化身が宿ったかのように見事だな。
失敗して吹き上げた火柱を見て、彼は怒りもせずにそう褒めてくれたのだ。
アランが微笑む。まるであの日のことを思い出すかのように。
もし欲を言えるのなら、最期に名前を紡いでほしかった。
骨は繋がった、神経と、筋肉もだ。あとは、血を補って、それから、
「ナナシちゃん、」
「うぅ、うー‥っ…」
「もういいから、っ…」
「ひ、や、やだ、やだよう…っ、」
暖かな光が、薄い被膜となって腕を包む、魔力を使いすぎて、ナナシの体は悲鳴を上げるように鼻血が出た。それでも、止めることは出来なかった。
桃を食べさせてくれたこの手を、綺麗にしてあげたかった。守ってくれたこの腕を、ナナシはちゃんと覚えていたかったのだ。
「もう、必要ないから…っ、」
「や、うぅ、うぇ、っ…やだ、…やだよぉ…っ、」
ぼたぼたと涙が溢れる。漸く繋げられた腕の表面は酷く歪で、傷跡までは綺麗に消してあげることは出来なかった。トッドの手のひらが、ナナシの背中に添えられた。お願いだから、必要無いだなんて言ってほしくはなかった。
「アランは、…もう充分…、っ…」
「や、だ、ぁあ、あー‥っ…う、ぇっ…えぇっ…」
アランの手は、もう握り返されることはなかった。出血の量が多すぎたのだ。
力の抜けた体を、壁に凭れかからせる。綺麗な顔は眠っているようだった。
ナナシは、一体どうしたら良かったのだ。トッドが死ぬのは嫌だった。それは、アランだって同じだ。
なんで、こんなことにならないといけないの。どうして、どちらかを選ばなくてはいけないの。そんな残酷な選択肢を向けられて、ナナシはどうしたらよかったのだ。
「やだ、よぉ…お、…っ…!!」
ここは城なんかじゃない、トッドはそう思った。
まるで地獄だと。
幽鬼はまだいる、あと一体を仕留めなければ、アランが報われない。
絶対に迎えに来るから。トッドはその瞳を亡骸に向けると、拳を握りしめる。蹲るナナシをゆっくりと立たせると、アランの亡骸を抱き上げる。こんな廊下の片隅に、放っては置ける訳がなかった。
二人は使われていないサロンに入ると、アランの体をベッドの上に横たえる。
アランと共に戦ったその剣を胸に抱かせて、血が飛び散った頬を、布で綺麗に拭う。
「あらん、…あらん…っ、…」
「まだいるの、他にも幽鬼が。今はここを離れなくてはだめ。」
「っぅ、うぅ…っ、…」
ぐしりと涙を拭う。本当は、ここを離れたく無いのはトッドだって同じだった。アランが生きていたら、きっと早く行けと怒るだろう。それがわかっているからこそ、必ず帰ってくると心に誓って、今はここから離れるのだ。
眠っているようにしか見えないアランの額に、ナナシがそっと口付ける。
その旅路が、どうか穏やかでありますように。そう願いを込めるかのように。
「いく、…っ…」
泣き腫らした顔のナナシが、こくんと頷く。トッドはその頭を優しく撫でると、本性を表したギンイロの背にナナシと共に跨った。
穏やかな夜を取り戻すためには、まだ終わらせなくてはならないことがある。
タールのような黒く重い悪意は、じわじわと追い詰める様に背後まで迫ってきている。
飲み込みきれない思いを抱えたまま、二人と一匹は朝日を取り戻すために駆け出した。
その知らせは突然のことだった。身の内側から、無理やり何かを引き剥がされるかのような鋭い感覚に、サジは悲鳴を上げた。
膝を折るように、崩れ落ちた華奢な体をアロンダートが咄嗟に受け止める。触れた体は、まるで何かに怯えるかのように震えていた。
「サジ、サジ!!」
「え、える…えるまー‥」
「赤毛の彼か、どうした…」
「ちが、…う!!フオルンだ、サジの子が、ああ、あああ…っ…」
サジは酷く狼狽えていた。いつもの飄々とした姿からは程遠い、慟哭した様子で取り乱し、譫言のように己の魔物の名前を紡ぐ。
エルマー。赤毛の青年と同じ名を与えらえた魔物が、一体どうしたというのだ。唇は戦慄き、震える手のひらは耐えられないというように己の頭を抱える、そのサジの様子を、アロンダートは戸惑ったように見つめる。
「ひ、ひ…だ、だめだ…もえ、る…っ、もぇ、る、…っ」
ラブラドライトの瞳から大粒の涙を零す。燃える…と、か細く呟く声を拾い、アロンダートはゴクリと喉を鳴らす。
「死んじゃった…サジの、子…っ、…」
「な、…っ…」
腕の中で震えるサジが、喉を引き絞るかのような泣き声で呟いた。サジが一番長く連れ添い、愛情を注いで育ててきた魔物の一つが、その役目を全うして空に帰った。
ひっく、と嗚咽を漏らしなから、サジが胸元から取り出したのは、一つの種子だ。震える手のひらの上でパキリともろく崩れ去ったそれは、フオルンがサジの元に来たときに現れた命の種子だった。
植物の魔物を生み、育てて使役する。その魔物から与えられる種子は、いわば心臓のようなものだった。それが黒くホロホロと崩れて消える。
フオルンはエルマーの元、突然現れた少女によってその身を焼かれて死んだのだ。離れているサジは、側にいてやることすら出来なかった。最期を看取ってやることすら、出来なかったのだ。
「…急ごう、フォルンの亡骸を拾ってやらねば。」
アロンダートによって、支えられるように立たされたサジが、声も出ぬまま小さく頷く。そうだ、親である自分が迎えに行ってやらねばならない。
サジは、もう泣いていなかった。しかしその瞳に宿るのは、明確な怒りであった。ラブラドライトの瞳を研ぎ澄まし抜け落ちた表情のままに宣う。
「許さぬ、けして…!決して許してはならぬ!」
サジの怒りとともに、身から滲んだ魔力によって庭木がざわめく。葉擦れの音に急かされるかのようにして、焦げ臭い匂いのする方向へ、アロンダートとサジは急いだ。
カタン、
サロンの扉の外側から、なにかの音がした。
ナナシはギンイロを抱きしめたまま、ビクリとその体を跳ねさせた。静まり返った室内では些細な音すら違和感の一つへと姿を変える。一瞬にして張り詰めた空気は、一呼吸さえ許されぬ雰囲気である。
「お、おい!おまえ、見てこい!」
「トッドかもしれない、ナナシはここで待っていろ。」
けして外務大臣であるフローレンスに言われたからでない。アランは立ち上がると、己のインベントリから剣を取り出して装着をした。
エルマー同様インベントリを仕込んでいたのだ。剣を使うことなどないようにと願っていたが、どうやら事態は甘くはないらしい。
渋い顔をして、ソファに張り付いたまま離れないフローレンスは、その身を縮こませるかのようにして喚く。この男は、別室で対応されている息子の心配など微塵もしていないようだった。
アランが慎重にの横に立つ。そっと聞き耳を立てると、微かな声が聞こえた。
「トッドか!」
「あけて、」
「ならば、合言葉を言うが良い!」
「あけて、」
アランが訝しげな表情をつくる。扉の向こう側にいる声の主は、あけて、しか言わないのだ。誰とも名乗らずに、あけて、のただ一言だけ。
ナナシは息を詰めたままその扉を凝視した。こくりと生唾を飲み込む小さな喉仏が上下に動く。何かがおかしいと、敏感に感じ取っていた。
「あけてやればいいだろう、も、もしかしたら応援かもしれん!!」
「いや、危険すぎる。名も名乗りもしないだなんて…」
ずりゅ、と大きなものが這いずるかのような音が聞こえた。水分を含んだ何かが、床を摩擦して近づいてくる。耳障りの悪いその音が扉の向こうで動きを止めると、僅かな隙間からじんわりと鉄臭い何かが広がった。
「ひ、…ひい!!ち、血だ!!」
「な、っ…」
ガタン!と大きな音が立つ。扉を揺らすようにして何かがぶつかってきたのだ。緊張感が室内を支配した瞬間。続いたのは聞き慣れた声だった。
「あんたたち!そこにいるのね!?」
「っ、トッドか!?」
「アラン!良かった、無事なのね、っ…」
地震かと思うくらいの揺れが、室内に響く。異様な空気だ。ナナシはその身を竦ませるように反応すると、次いで体を支配したのは悪寒であった。
「っ、と、とっどぉ!!とっどぉだめぇ!!」
「っナナシくん!?」
悲鳴混じりの叫び声に、アランが振り向いた。小さな体は駆け寄るかのようにソファから離れると、その扉に張り付いた。
「ナナシちゃん、…決してここを開けては駄目よ、いいわね、お姉さんとの約束。」
トッドは、荒い呼吸混じりの声で宣った。トッドは外の見回りを任されていた。もしかしたら、何か厄介な魔物と対峙をしているのかもしれない。アランの頭の中には、嫌な考えがよぎる。
足元に広がる赤い血が、トッドのものかもしれない。だとしたら、状況は一刻を争うのは明白であった。
「あらん!!あらんとっどたすけてぇ!!」
「もちろ、」
「開けるなって言ってるだろうが!!」
「ん、っ…」
ナナシの言葉に、アランが反応を返したその瞬間、聞いたこともないトッドの荒い口調での怒鳴り声が飛んできた。扉に手をかけ、開けようとしていたアランの手が止まる。
驚いたように口を噤む二人に、トッドは慎重さを滲ませる声で、ゆっくりと口を開いた。
「幽鬼が出た。ここの部屋に入りたがっている。だから、開けないで。」
「っ、…なら燃やそう!!僕ならそれができるよトッド!!」
「こんな狭い廊下で、っ…火なんか使ったらみんなを巻き込むだけよ!」
「やだ、やだやだ!なんでえ!!やだあ!!」
トッドが犠牲になろうとしている。ナナシはそれを敏感に感じ取ると、ガチャガチャと音を立てるようにしてドアノブを引っ張った。しかし、扉はびくともしなかった。僅かに開いた隙間はあれど、トッドが背中で抑えるようにして扉を閉めてしまったのだ。
「開けるなって言っている!!」
「っ、」
「あ、こら!!」
トッドの叱責に、ナナシはその顔を歪めるようにして涙を堪えた。ひっく、と喉が震える。嫌だ、こんなことがあっていいはずがない。ゆるゆると首を振ると、ナナシはギンイロを抱え、扉から離れる。
向かったのは、壁際だ。腕に抱えていたギンイロを壁に向けると、意気込むように叫んだ。
「ギンイロ、びーむ!!!」
「アイヨ」
「はあ!?!?!?」
きゅぴ、という不思議な音がした瞬間、銀色の毛玉からギョロリとした緑の目玉が現れた。
あっという間にその壁をぶち抜くほどの熱線を浴びせたかと思うと、内側から弾けるようにしてサロンの壁が破られた。
埃が舞う暗い通ろの真ん中で、トッドが守っていた筈の扉の横から、大泣きしたナナシが飛び出してきた。
「はああ!?」
「トッド、無事か!?」
己が必死で守り抜いてきた扉の横の壁が破壊されたかと思うやいなや、飛び出してきたのは泣きじゃくったナナシと、血相を変えたアランの二人だ。一体何が起こったというのだ。頭の中で完結しない状況の、整理すらままならないまま、幽鬼の口にサーベルを突っ込んで応戦していたトッドは、素っ頓狂な声を上げた。
「なんでくんのよ馬鹿!!!」
「トッドぉ!!」
「馬鹿はトッドだ!!君だけで守るって無理言うな!!」
三人の目の前には、黄土色をした巨体の幽鬼が立ちはだかっていた。異形な魔物は、その長い腕をしならせてトッドの身を壁に叩きつけた。
強かに体を打ち付けた壁には罅が入る。かは、と、肺の空気を絞り出すかのように呼気を吐き出し、崩折れたトッドの姿を見て、アランは吠えた。
「貴様ァ!!あまり調子に乗るなよ!!」
アランが腰に刺していた剣を引き抜いた。己に向かって勢いよく伸ばされた幽鬼の腕に突き刺すと、アランは剣を持つ腕に力を込めた。
柄をキツく握り直す。幽鬼の腕をその腕を切り裂くようにして肉薄すると、アランは剣に魔力を込めた。
この一撃で、仕留めて見せる。アランの剣は、込められた炎属性の魔力によって陽炎を纏うかのように輝く。魔法騎士としての力は、一線を引いても未だ衰えてはいなかった。
そのまま、真横に切り裂いて終わらせてやる。アランの一撃に待ったをかけるように、トッドは叫んだ。対峙する幽鬼が他とは違うということを、トッドが一番わかっていた。
「やめなさいアラン!そいつは、っ」
「は、」
幽鬼の膨らんだ腹に、横一文字の切れ込みが入った。
アランがその身を真横に切り裂こうとした瞬間、その腹が割れるかのようにして、大きな口がぐぱりと開いたのだ。
「え、」
腹に口がある幽鬼なんて、見たこともなかった。擂粉木状に細かく並んだ鋭い歯。それが、まるで見せつけるかのように、剣を持つ腕を丸呑みにした。
アランの瞳には、その瞬間がスローモーションで写っていた。柔らかく口を閉じるようにして飲み込まれた腕へと、次いできたのは鋭い痛みであった。
「ーーーーーーーーーーーっ」
いくつもの刃が、己の腕を削ぎ落としていくかのような衝撃が、右腕に走った。幽鬼の口は、アランの腕をすり潰してやろうと言わんばかりに、忙しなく動かされる。
冷や汗が噴き出る。今まで経験したことのないような、想像を絶する痛みが、右腕から響くように全身の神経を支配する。
腕にかけられる圧力は徐々に増し、ミシミシという音が立つ。歯が、骨にまで食い込む感覚がした。どうやらこのまま、腕を食い千切る気のようであった。
「アラン!!!」
ナナシが叫ぶ。悲鳴まじりの主の声を聞いたギンイロが、幽鬼に飛びかかろうとしたときだった。
「っ、僕は…!!弱くない…!!!」
腹の底から出されたような、アランの鋭い声が響いた。
酷い痛みに耐えながらも、アランのその瞳は諦めてはいなかった。右腕の感覚は、もう無い。今、アランの精神を支えているのは、己の主から与えられた使命だけであった。
全身の魔力を、右腕に集中させる。全身の細胞が奮い立ち、己の血液が沸き立った。アランの魔力は窮地に立った今、鋭く研ぎ澄まされていた。
幽鬼の腹の中に取り込まれた右腕から、一気に灼熱の炎を吹き上がる。決して逃げるものか。崩れるものか。己の背中には守ものがあるのだ。
背後で、トッドの叫ぶ声が聞こえる。大丈夫だ。自分の魔力で出来た炎に、身を焼かれることはない。
身の内から焼かれた幽鬼が、腹とは別の口かr編みにくい悲鳴をあげた。その不気味な体は首をしならせ、顔に切れ込みを入れるかのようにして、八つの目玉を見開いた。
「ぁ、くっ!」
「トッドみちゃだめえ!!」
アランに気を取られ、トッドが幽鬼の赤い八つ目を食らった。状態異常を与えるその瞳に捉えられたトッドが、アランの背後で体を硬直させて倒れ込んだ。
「トッドォ!!ぐ、っ…!、」
骨は、もう折れたのかもしれない。アランは失った腕の感覚をそのままに、全身で押し返すかのように幽鬼へと体当たりをした。
ぐらりと幽鬼の体が傾いた。アランの作った隙を逃さぬと言わんばかりに飛び出したギンイロが、大きな狼のような姿に転化し、その顎で幽鬼の体に食らいついた。早く倒さなくては、トッドが危なかった。
「ナナシがトッドたすけるから、あらんがんばってぇ!!」
背中に感じたのは、聖属性の魔力だ。アランの背後で、ナナシがトッドにかけられた状態異常を解こうとしている。一人で戦っているのではない。アランは幽鬼に噛み付く獣と目があった。壁を突き破った、あの時の光線で焼けばすぐなのに、それを行わないのはアランに当てないようにという配慮からだろう。ギンイロと呼ばれた単眼の獣は、答えるかのようにアランをその瞳に映す。
「勿論、…っ…倒す!!」
幽鬼の腹の内側から、アランの魔力が漏れる。
美しい色をした魔力だった。
豊富な魔力を持っていたアランは、昔からコントロールが下手だった。
だからいつも出力を間違える。慎重に行えば問題ないのだが、気が散ったりすると駄目だ。でも今は、我慢などしたらこちらがやられる。
放つ炎を一息に圧縮する。炎を司る精霊に愛されたアランは、誇り高き人だった。
魔女になる道もあった。しかし、己の信念のもと、ただひたすらに剣の道へと突き進んだ。魔法騎士として活躍した時期はごく僅かであったが、その腕は他の追随を許すことはなかった。今は、その功績さえも奪われたが、求めてくれる人がいたから、今も矜持を捨てずにここにいる。
「僕は、……っ、アロンダート様の騎士だぞ‼︎」
お荷物と言われて、居場所を失ったアランの帰る場所。
アロンダートが信じてくれるなら、アランは決してその期待を裏切ることはしない。第二王子付きの騎士としての誇りは、誰にも負けはしないのだ。
高い魔力出力を感じたギンイロが、慌てて口を離して飛び退る。アランは見計らった嘉のように圧縮した炎を解放した。透き通った、美しい灼熱の炎が幽鬼の腹の中を舐めるようにして広がった
その炎は、幽鬼の鼻や目玉を焼き、体の外側へと炎を噴出させる。物凄い威力だった。
焼かれ、のたうち回る幽鬼に釣られるように、アランのその体は遠心力で持ち上がる。
ナナシによって状態異常を解いてもらったトッドが、目の前の光景を見て悲鳴を上げた。
「アラン…!!」
「っ、ギンイロ!」
トッドが駆け出すよりも早く、ナナシの声に弾かれるようにしてギンイロが飛びだした。アランが腕を千切られて投げ出される前に、ギンイロは幽鬼の腹を削ぐように光線を放つと、宙へと身を投げ出されたアランの体をその背で受け止めた。
銀色の背から、抱えられるようにして降ろされたアランの腕は、酷い有様であった。
かろうじて繋がってはいるが、骨は露出し、千切れかけている。切断はまぬがれない状態に、トッドもナナシも直ぐには言葉が出なかった。
そっと、その体を壁へと凭れかからせる。その体温は、まるで温度を失ってしまったかのように低く、重度の魔力枯渇に陥っていた。
「アラン、アラン!!」
「ト…ッド、無事か…、っ…」
「莫迦!!あんたの腕が…っ、」
自分のことよりも先に体を気にかけるアランの様子に、トッドは声を荒げた。血に塗れ、素肌も見えぬままのアランの腕をキツく縛り上げ、止血を試みる。ナナシは慌てて二人に駆け寄ると、ぼろぼろと涙を溢しながらアランの腕に触れた。
「やめ、…きたな、い…から、っ…」
「とっど、うでもってて…くっつけといてえ!」
「ナナシ、これはもう…っ、」
「やだ、やる!」
千切られかけたアランの腕の筋繊維は露出し、見るのもおぞましいほどの傷跡だ。でも、この腕が二人を守ってくれたのだ。
ナナシの治癒術は、まだ始めたばかりで下手くそだ。それでも、自分に出来ることをしなくてはいけない。ただ守られるだけでは嫌だった。
ギンイロが毛を逆立てながら、辺りを警戒している。きっと、まだ幽鬼はいるのだろう。
怖い、怖いけれど、やらねばならない。ナナシはアランの腕を正しい位置に抑えてもらいながら、その傷口の上を往復するように魔力を注ぐ。骨を繋げ、足りない部分を補い、やがて温かな血が通うように。元通りに動きますようにと願いながら。
「っ、…ありがとう、充分だ…」
「やだ、っ…」
痛みを堪えるように、アランが浅い呼吸を繰り返す。痛みを引き摺るような声ではあるものの、アランはナナシに向けて、小さく感謝を呟いた。ナナシの力は薄い光の皮膜となり、じんわりと傷口を包み込んでくれている。しかし、おそらくもう無理だということは、アランが一番わかっていた。
必死に直そうとしてくれている、その姿だけでも、アランには十分だった。
「ふ、…早くいけ、」
ゆっくりとした口調は、掠れた声も相まって今にも眠ってしまいそうだった。痛みを遠ざけようとしてくれる暖かな魔力が、優しく体を包み込むのを感じながら、アランはその口元に柔らかく笑みを浮かべた。
トッドが、震える唇を惹き結ぶように閉ざす。逞しい腕で濡れた目元をゴシリと擦ると、肩で息をするようにして、熱くなった吐息を吐き出した。
アランの瞳は、もうほとんど見えてはいなかった。それでも、小さな体で、ちぎれかけた己の腕すらも厭わずに治癒をかけ続けるナナシの姿は、その体温から感じていた。
こうして、自分のために必死になってくれる存在がいるという幸福を、アランは忘れたく無いなと思った。
「ぼくは、…きし、だったろ、う…?」
「最高に、馬鹿でかっこよかったわよ、っ…」
「だろ…、…じまん、だろうか…。あろん、だーとさま、の…」
穏やかな声だった。ナナシは、アランの声を聞きながら、胸に込み上げてくるものが溢れるかのように、ぼたぼたと涙を零す。もう、声も出なかった。修復して、お願いだから、きれいに治って。ぐずぐずと情けなく泣きながら、少しずつ、下手くそながら繋げていく。
その必死な姿を、アランは見えぬ瞳に映していた。もう、体には痛み感じてはいなかった。
「自慢に決まってるじゃない、あんたの炎を褒めたのは、殿下なのだから。」
何かを堪えるかのようなトッドの言葉に、アランは目元を緩める。目の奥から滲んだ涙が、ゆっくりと血に濡れた頬を撫でるかのようにして伝った。
そうだ、自分の炎を綺麗だと褒めてくれたのは、紛れもない彼だったのだ。
「ああ、…あろん、…だーと、さま…」
…ーーお前の炎は、まるで火の化身が宿ったかのように見事だな。
失敗して吹き上げた火柱を見て、彼は怒りもせずにそう褒めてくれたのだ。
アランが微笑む。まるであの日のことを思い出すかのように。
もし欲を言えるのなら、最期に名前を紡いでほしかった。
骨は繋がった、神経と、筋肉もだ。あとは、血を補って、それから、
「ナナシちゃん、」
「うぅ、うー‥っ…」
「もういいから、っ…」
「ひ、や、やだ、やだよう…っ、」
暖かな光が、薄い被膜となって腕を包む、魔力を使いすぎて、ナナシの体は悲鳴を上げるように鼻血が出た。それでも、止めることは出来なかった。
桃を食べさせてくれたこの手を、綺麗にしてあげたかった。守ってくれたこの腕を、ナナシはちゃんと覚えていたかったのだ。
「もう、必要ないから…っ、」
「や、うぅ、うぇ、っ…やだ、…やだよぉ…っ、」
ぼたぼたと涙が溢れる。漸く繋げられた腕の表面は酷く歪で、傷跡までは綺麗に消してあげることは出来なかった。トッドの手のひらが、ナナシの背中に添えられた。お願いだから、必要無いだなんて言ってほしくはなかった。
「アランは、…もう充分…、っ…」
「や、だ、ぁあ、あー‥っ…う、ぇっ…えぇっ…」
アランの手は、もう握り返されることはなかった。出血の量が多すぎたのだ。
力の抜けた体を、壁に凭れかからせる。綺麗な顔は眠っているようだった。
ナナシは、一体どうしたら良かったのだ。トッドが死ぬのは嫌だった。それは、アランだって同じだ。
なんで、こんなことにならないといけないの。どうして、どちらかを選ばなくてはいけないの。そんな残酷な選択肢を向けられて、ナナシはどうしたらよかったのだ。
「やだ、よぉ…お、…っ…!!」
ここは城なんかじゃない、トッドはそう思った。
まるで地獄だと。
幽鬼はまだいる、あと一体を仕留めなければ、アランが報われない。
絶対に迎えに来るから。トッドはその瞳を亡骸に向けると、拳を握りしめる。蹲るナナシをゆっくりと立たせると、アランの亡骸を抱き上げる。こんな廊下の片隅に、放っては置ける訳がなかった。
二人は使われていないサロンに入ると、アランの体をベッドの上に横たえる。
アランと共に戦ったその剣を胸に抱かせて、血が飛び散った頬を、布で綺麗に拭う。
「あらん、…あらん…っ、…」
「まだいるの、他にも幽鬼が。今はここを離れなくてはだめ。」
「っぅ、うぅ…っ、…」
ぐしりと涙を拭う。本当は、ここを離れたく無いのはトッドだって同じだった。アランが生きていたら、きっと早く行けと怒るだろう。それがわかっているからこそ、必ず帰ってくると心に誓って、今はここから離れるのだ。
眠っているようにしか見えないアランの額に、ナナシがそっと口付ける。
その旅路が、どうか穏やかでありますように。そう願いを込めるかのように。
「いく、…っ…」
泣き腫らした顔のナナシが、こくんと頷く。トッドはその頭を優しく撫でると、本性を表したギンイロの背にナナシと共に跨った。
穏やかな夜を取り戻すためには、まだ終わらせなくてはならないことがある。
タールのような黒く重い悪意は、じわじわと追い詰める様に背後まで迫ってきている。
飲み込みきれない思いを抱えたまま、二人と一匹は朝日を取り戻すために駆け出した。
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