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シュマギナール皇国編

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最初に、その小さな異変を敏感に嗅ぎ取ったのはギンイロだった。

「ギィイ!!!」
「うわ、っ…なんだこの声!?」

ナナシの側で大人しくしていたギンイロが、その顔をガバリと上げたのだ。聞いたこともないような警戒音地味た声を張り上げ、突然鳴きだしたギンイロの声に真っ先に反応したのはアランだった。

「ギンイロ、」
「え、ぎんいろ?え!?!?」

銀のファーに扮していたギンイロが、床に降り立った。
アランは動かないはずの毛皮にぎょっとはしたものの、流石に異常を感じたらしい。こころなしか重くなった空気に息を詰める。
外務大臣の禿頭を拝んでいたエルマーも、その金色の相貌を光らせた。何かが来たことを悟ったのだ。つまり、このまま穏やかには閉会させてくれないということ。

「な、なんだ!?地震か…っ、」

ズシン、と軋むような揺れだ。思わずアランが狼狽える横で、エルマーはジュストコールのなかに隠していたインベントリから大鎌を取り出した。

「な、武器の持ち込みは禁止なはずだぞ!?」
「話は終わりぃ、やべえのがきた。」
「…まさか、敵襲か?」
「アラン、お前はナナシを頼む。おっさんたちと部屋にいな。」

部屋はカタカタと小刻みに振動している。テーブルの上に置かれた、水の入ったデキャンタグラスの波紋が忙しなく揺らめいているのがその証拠だ。
空気が重い。床に降り立ったギンイロの毛並みが、ピリピリと静電気を纏うようにして膨れる。よほど禍々しい気配がするらしい。ナナシは怯えた様子ながら、落ち着かせようと優しくギンイロの毛並みを撫でた。

ドアを睨みつけていたエルマーが振り返る。ナナシの側にいくとその華奢な体をきつく抱きしめた。

「ナナシは絶対無理をしないこと。ギンイロが守ってくれるから、お前はここから離れるな。」
「える、」
「アラン、やべえのきたら燃やせ。」
「おう、丸焦げにしてやるとも!」

呆気にとられたままの大臣はそのままに、エルマーはナナシの首からネックレスを取り出した。そのペンダントトップに口付けると、ナナシの頭をわしりと撫でてから扉に向かう。
ドアノブを握る手がぴりりと痺れる。久しぶりの感覚だ。
そのまま、張り詰めた空気ごと握りしめるようにドアノブを鷲掴むと、ガチャリと扉を開けた。通路は夜のせいだけではなく、暗く重々しい。煤臭い匂を嗅ぎ取ると、エルマーは明かりすらも闇に飲み込まれそうなほど、闇が支配する通路へと、飛び出していった。




ギンイロが魔物を感じ取ったのと同時刻、サジ扮するエルダ達もその異質な空気を感じ取っていた。

「…アロンダート、気づいているか。」
「ああ、なんだか外がやけに騒がしい。」

宴の会場では、穏やかな時間が流れていた。異変に気づいたのは二人だけだ。
どうする、まずは使者殿とグレイシス兄上だ。じゃあ、他の貴族は?外側からはエルマーが守る。そう、目線だけで会話をする。
サジはエルマーの気配を感じ取ることが出来る。神使として繋がっているからだ。スッと目を伏せると、サジは細い糸を手繰り寄せるようにして、エルマーの動きを追う。

エルマーは今、サロンへの回廊を抜けて、中庭に向かっている。この会場までは二つのポイントを抜けた先だ。
エルマーがうまく足止めをできるなら重畳。もし出来なかったらサジが出る。

「アロンダート、バルコニーに行きたい。サジの使い魔を向かわせる。」
「わかった、こちらだ。」

サジの言葉を、アロンダートは二つ返事で了承する。二人きりになるために、その細腰を抱くとバルコニーに向かった。グレイシスは、先程と一転して表情を変えたアロンダートに不審げな目を向けた。
一見、二人の様子は睦まじい恋人同士の当たり前の様子にも見える。
違和感を感じたのは、少しだけ難しい顔をしたアロンダートの表情だ。グレイシスはそっと後を追おうとしたが、突然城を揺らす地震に、思わずその足を踏み留めた。

「なんだ、地震…?」

初期微動もなく、突然揺れた。宴の参加者も不安げな様子で、カシャカシャと音を鳴らし、光を散らすシャンデリアを見上げている。
グレイシスは近衛に、念の為外を見守るようにと指示出しをした。第一王子として、その場を取り仕切るのが当たり前だからだ。

一方で、バルコニーについたサジは、その目を見開いた。
魔物の気配が思ったよりも大きく、ここまで淀んだ空気が広がっていたからだ。煤臭い、腐った卵のように不快な匂い。アンデッド種特有の特徴が、分かりやすくその存在を主張する。

「アンデッド種だ。いる。…いけるか。」

バルコニーに立つサジの足下。欄干に絡みつくようにして、焦げ茶色の蔦が顔を出す。サジの言葉に答えるように、その蔦を細いサジの指先に絡ませると、地べたへと返っていくようにして、その姿はスッ、と消えた。

「サジ、」
「この子がサポートをする。城の周りに漂う空気はあまり吸わないほうがいい。中に向かうぞ、アロンダート。」

二人が険しい顔で中に戻る。そして、まるで見計らったかのようなタイミングで、若い近衛がグレイシスが指示した外の見回りにから、急ぎ足で戻ってきた。
表情はわかりやすく青褪め、その姿は会場の不安を静かに煽った。

「ご、ご報告いたします!!城の中庭に正体不明の魔物が現れました!!現在、こちらも不明の人物と交戦中!!ご来場者様におかれましては、決して外には出ぬように!!」
「な、」

悲鳴混じりの来場者の声が上がる。当たり前だ、ここにいるのは優雅な日常を是とする脆弱な者たちだけである。アロンダートは舌打ちをした。こうして会場内がパニックに陥ることなど、少し考えればわかることだったからだ。
そしてその考えもまた、兄であるグレイシスも同様であった。
マントを翻し、肩を怒らせ眉を寄せた険しい表情で若い近衛に近寄ると、その怒りように気圧されるかのようにへたり込む近衛の胸ぐらを鷲掴み、怒気を含んだ声で叱責する。

「貴様!!誰がパニックにさせろといった!!先ずは上からの指示を仰げ!!他の者どもは来場者方を大広間へと避難させろ!城の奥へだ!!僕は出る!」
「なりませぬ!!!兄上、お待ちを!!」

グレイシスの指示によって近衛は動き出す。あろうことか自ら危険な場所へと赴くと言い出したグレイシスに、待ったをかけたのはアロンダートだった。
強い光を宿したグレイシスの瞳が、アロンダートへと向けられる。まるで、でしゃばるなとでもいうように。

「アロンダート!貴様の指図は受けぬ!」
「なりませぬ、貴方はこの国を担う方。ここはアロンダートにお任せください。」
「戦も知らぬ青二才に、剣が使えるとでもいうのか!?」
「いいえ。」

グレイシスの言葉をサジが遮る。アロンダートを背に庇うようにして前に出ると、そのラブラドライトの瞳で真っ直ぐにグレイシスを見つめた。

「アロンダートのことは、エルダがお守りする。」
「なんだと…?」
「エルダは、この為に此方にいるのだから。」

美しい顔が、魔女らしく口元を吊り上げてニヤリと笑う。それは、取り繕うことを止めたいつものサジの笑みだった。
嫋やかな手のひらが薄く光った。その光源を零すかの様にしてを床に向けたと同時に、パキリと木の皮が捲れるような音がした。足元から、緑色の蔦が現れる。手のひらの光に誘われるようにその蔦は背を伸ばし、互いを絡ませながら形を作ると、サジの手元には生命の大樹の枝で作られた、ねじれた杖が握られていた。
アロンダートの時と、同じ形の杖だ。己の背丈ほどはあろうかというそれで、大理石の床をトンと突く。

「サジはサジの仕事をする。」

艶然と微笑み、呟いた。足元に現れた緑色の魔法陣が、浮かび上がるかのようにしてサジの身を光とともに取り込んでいく。
眩い光に顔を背けるものも多い中、グレイシスはその光景を呆然とした顔で見つめていた。やがて光が収束してくれば、いつものように衣服を着崩したサジが姿を現したのだ。
あの、美しく気品のある男はもういない。踵の高いサンダルが一歩踏み出す音が、静かに響いた。

「な…!?」

グレイシスは目を見開いた。今目の前にいるのは、消えたと言われている種子の魔女、その人だったからだ。
ざわつく会場内を鎮めるかのように、サジが杖を降る。一陣の風がサジを中心に吹き荒んだかと思えば、夥しい蔦が会場の窓ガラスを覆い尽くした。

「この会場には何も入ってはこられぬ。サジが死ぬまでな。お前たちは終わるまで、大人しく震えて待っておればいい。ゆくぞアロンダート。」
「御意。」
「な、まて!っ、…く、…!!」

グレイシスは駆け出した。しかし、その距離を隔てるかのようにして、目も開けられない程の激しい旋風が、葉嵐となって吹き荒れる。激しい風圧に蹌踉めきながら目を開ける頃には、グレイシスの目の前から二人はいなくなっていた。
あんなに激しい風が吹いたというのに、不思議にも会場内は何事もなかったかのように、整然としていた。
グレイシスの脳裏に、アロンダートの言葉が蘇る。貴方は、この国を担うお方。この大衆の面前で、アロンダートは玉座はいらないと公言したようなものだった。
握りしめた拳が微かに震える。このまま、弟によって守られるだけか。
二人が消えた会場内、徐々に安堵の声が出始める無責任な貴族たちの真ん中で、グレイシスはそのやるせなさをぶつけるかのように、第一王子の証である青のマントを床に叩きつけたのであった。







「よっと、ぅお、あ、っ!」

ひゅう、と、空を切り裂くようにして、飛んできた鋭利な棘が軽い音を立てて柱に突き刺さる。
狙いをエルマーに定めたそれを、体をひねることでなんとか躱したのだ。大理石で出来た美しい柱へと、吸い寄せられるように刺さった棘は、恐らく身に喰らえば毒で苦しむことになるのだろう。何かが溶けるような不快な音を立てながら、柱の一部は抉れてしまった。

「おやまあ猿みたいに身軽。」
「っ、と…お陰さんで身体能力だけが取り柄でなあ。」

魔物の頭上で胡座をかきながら、此方を見下ろしていた男は笑う。
表情は読めない。まるで見せるつもりは無いと言わんばかりに黒いマスクをつけており、夜闇も相成り顔なしの怪人のようにも見える。

エルマーが駆けつけた時には既に居り、此方の姿を見るなり、待ってましたとばかりに両手を広げて喜んだ。
笑えることに同じ無属性、それも召喚したのかは知らないが、厄介なアンデット種の魔獣に跨っている。
流石に今回はやばいかもしれん。エルマーの表情からはいつもの余裕さが抜け落ち、真剣な色だけが瞳に宿っていた。

「うーん?なんだか癖があるねえ。左側、怪我でもしてるのかい?」
「ああ?」
「ほら、右はこんなにも俊敏なのに、」

にたりと笑う男の黒い手袋に覆われた指先が、エルマーの左側を指差す。たったそれだけの、些細な動作だ。その指の動きを知覚した瞬間、エルマーの左脇腹の古傷が、弾けるようにして血を噴き上げた。

「っ…、あ、くっ、」

ぶつ、と鈍い音がした。唐突に感じたのは引き連れた感覚と熱。そして追って体を支配するような、骨身に響く鈍痛だ。冷や汗が吹き出る。エルマーは脇腹を押さえると、ぐらりとその体をよろめかせた。なぜ、塞がったはずの傷が弾けたのかはわからない。しかし、目の前の仮面の男が己と同じくらい性格が良く無いということだけは理解した。

「ありゃ。ごめんごめん、加減間違えちゃったかなあ。」
「っ…まぇ、…ぁに、した…っ、…」
「なにしたって、君と同じさ。左の腹の傷の細胞を部分的に活性化させて、爆発させただけ。」
「っ、はっ…、」

地べたを汚すのは、ドロリとした血液だ。脇腹から伝ったそれは、エルマーの左足を染めながら地面に広がる。その拳は、痛みをのがそうと血管が浮き出るほどキツく握りしめられている。
傷口を抑える手のひらの内側では、心臓の脈と呼応するように、今もなお指の隙間から血液が溢れ続ける。痛みに集中が散らされる。魔力を使い、修復のための細胞を活性化させてはいるが、治癒をかける時間を与えてはくれなさそうである。

片膝を、土で汚した。その金色に移るのは、振り上げられた魔物の鉤爪だ。せめて受け止めようと、体勢を低くしたその時だった。

「おやあ。」

ざわ、と中庭の木々が揺らめいた。葉擦れの音を立てながら、何かが地面を突き破り姿を表す。魔物がエルマーに向けて振り下ろした一打を、木の蔦が何重にも捻れてできたかのような腕が巻き付いて、拘束をした。
見慣れたサジの手懐ける木の魔物が、その背にエルマーを庇うようにして現れたのだ。

「…フオルン、」

地面から次々と木の蔦が姿を表す。それらはシュルシュルと集まり、牛骨を被ったかのような化け物へと姿を転じた。蝶番を軋ませるような音を立てながら、その逞しい人型の上半身を地べたから引き摺り出すと、フオルンは己の蔦を触手のように操り、瞬きの間に腐った魔獣を捕らえる。
新たな刺客の出現には動じないようだ。仮面の男は興味深そうにフオルンを見つめると、辟易したかのように舌を見せた。

「うわあ、何その魔物、フオルン?なんだか混じってるなあ。きもちわるっ」
「お前のが跨ってる奴も相当気持ちわりいぜ…、」

蹌踉めきながら、なんとか立ち上がる。左脇腹の止血は済んだ。神経も麻痺させたので痛みはもうない。エルマーは疲れた顔をしたものの、頼もしい助っ人に口元の血を拭いながら気合を入れ直す。
己と同じ名を与えられた既知の魔物の腕の辺りに手を添えると、小さく礼を言った。
チャキ、と音を立てて、獲物である鎌を握り直す。再び全身へと魔力を行き渡らせた。
治癒をするなら先に殺してから。エルマーの金眼は爛々と輝く。きゅう、と狭まった瞳孔で、その仮面の男を捉えた。

「おや、火つけちゃったかんじ?」

ひくっ、と引きつり笑みを浮かべる。エルマーのスイッチが入ったことを正しく理解したらしい。仮面の男は再び深手を負わせようと、エルマーに向かって指を突きだす。
しかし、一拍遅かった。フオルンがその蔦で魔獣の翼を締め上げ、へし折ったのだ。巨躯の魔獣はバランスを崩すと、劈くような絶叫を上げる。ぐらりと揺れた体。当然、仮面の男もまた体勢を崩すこととなった。
指先に込めた魔力が散る。その瞬きの間を、エルマーが逃す筈はなかった。

「その首くれよ。」
「うっ、」

仮面の男の背後から声が降ってきた。エルマーは、前に向かって飛び込んできた筈である。仮面の男が目を見開くと、頭を下げるようにして背後から一閃された刃を避ける。

「転移か!?」
「ちげえ。」

エルマーの赤毛が風に遊ばれる。降り立った場所はフオルンの蔦の上である。答えは簡単だった。魔獣が体勢を崩した時点で、エルマーは既に頭上へと身体を捻って飛んでいた。その移動を手助けしたのはフオルンの蔦である。エルマーの足場を作るように組み上げられたそれが、しゅるしゅると解けて土に戻る。

「まったく、これだから無属性持ちは嫌いなんだ。」
「奇遇だなあ。俺もだよ。」

跳躍の高さは、エルマーが瞬きの間に施した身体強化も一端を担う。
どうやら仮面の男も同じ属性同士、思うところがあったらしい。そのこめかみから汗を伝わせた。

「おしえてやるよ。無属性は身体強化は防御だけじゃねえってな。」

蔦から落ちるようにして飛んだエルマーが、鎌を大ぶりに振るった。遠心力にその身を任せるようにして体をひねったエルマーが、その柄を長く持つように身を滑らせた。
男の目の前に迫ってきたその鋒は、己の目測よりもずっと早く到達する。

「っ、く」

慌てて、鎌の軌道に合わせて背を仰け反らして躱す。その鋒がエルマーの手から離れると、次いで来た速度のついた回し蹴りが、男の体の側面へと鋭く打ち込まれた。

「あてたァ!!」
「が、っ…!!」

まさか、鎌を囮に体術を仕掛けてくるとは思わなかった。がら空きだった脇腹は、己がエルマーを痛めつけた左側。狙ったのだろうその的確な位置に、男は魔獣の背中を滑るようにして体を打ち付ける。
このままだと不味い、エルマーの攻撃は己の予測を裏切る無鉄砲なものだ。
男は魔獣のその体毛を鷲掴み落下を止めると、着地をするために手を離そうとした。しかし、それは敵わなかった。地中から現れたフオルンの蔦が、まるで罠にかけるかのように魔獣ごと男の身を拘束し、地面へと引き倒したのだ。

「ぐぁ、っ!」
「おーおー、悪いねえ。うちの子がおたくののベイビーぶっ倒しちゃってえ!」
「っ、人を…ハエみたいに…っ、」

地面に降り立ったエルマーは、魔獣の下敷きになり藻掻く男の前へと歩みを進める。
魔獣の首元を切り下ろした鎌は、フオルンの蔦によってエルマーの手元へと戻ってきた。
それを肩に担ぎ直すと、男の目の前にしゃがみ込んだ。

「くそ、くそくそ…!!」

事切れた魔物の下から出ようと、土を引っ掻くようにして藻掻く。その巨体で下肢を押さえつけられていた為、動くことが出来ないのだ。
フオルンによって魔獣が退かされると同時に、男の体をその蔦で縛り上げる。
己の足が変な方向に曲がっている気がする。それを確かめる間もなく、エルマーによって髪を鷲掴まれる。焦りは仮面で見えぬ表情に出ていた。エルマーと男の形勢が、逆転した瞬間だった。

「ほれ、あーーーーん。」
「ぐ、っ…!?」

頭を鷲掴む手とは逆の手で、握りしめられた砂利を口の中に突っ込まれる。間伸びした独特の口調。それこそがエルマーの苛立っている時の特徴だと言うのは知らないだろう。

「俺さあ、自分のペース乱されんの嫌いなんだよ。」

返事を期待しているのではない。独白をするかのような喋り方に滲む仄かな加虐心に、咥内の砂利を唾液で湿らせる。
嫌な感覚だ。吐き出したいのに、その手が許さないとでも言わんばかりに口を塞ぐのだ。仮面の男は肺を膨らますように何度も呼吸を繰り返す。

「んで、こうやって痛えのも嫌い。見てこれ、こんなんだぜ?ひでえことするよなあ」

口の中に石を詰め終えたエルマーはというと、見せつけるかのようにして己の脇腹を撫でる。男によって破かれたその腹の血は、もうすでに止まっている。相当痛かったのだぞと、深くは語らずともその態度で示すと、今度はその整った顔を柔らかく緩めて微笑んだ。

「痛いことされたら、痛いこと返していいんだって偉い人が言ってた気がするぅ。」
「ん゛んん!!」
「一回、でもさっき殺られそうになったから、出血大サービスで三回にしといてやるなぁ。」

月を背負うかのように見下ろしてくるその顔には、恍惚とした表情にも見える。まるで今から行うことが楽しみでたまらないとでも言うような雰囲気だ。
現実を受け止めたくない。そう態度で示すかのように首を振る男の頬を、柔らかく両手で包み、覗きこむ。
唇が触れそうな距離だった。
エルマーの指先が、男の顔を隠していた仮面の紐を解く。もう二度と拝めないだろう顔を見ておくのもいいかと、そんな出来心の一つだ。

「叫ばずにいれたら、一回にしといてやるな。」

嫣然と微笑むと、男の唇をなぞるように、自分の親指についた血を塗りつける。
砂利を吐き出したい。しかし、それはエルマーの術によって阻まれていた。唇をなぞるだけで癒着させたのだ。己の陥った状況に身を震わせる男は、わかりやすく身を捩る。
エルマーが嗜めるように優しく男の体に手を添えて、地面へと横たえる。青褪めた男の真横では、フオルンが魔物の骸から、養分を奪い取っているところであった。

エルマーが靴底で砂利を踏み潰すかのように立ち上がる。ぎゅ、と詰まった音が鳴る程、つま先に鉄板が仕込まれたブーツは重い。

「せーのっ」

快活な掛け声と共に、エルマーが長い脚を振りかぶる。勢いをつけたつま先は、なんの防御もない男の顔面をボールの様に蹴飛ばした。
口の中から、聞いたこともないような音がした。咥内を抉るように弾けた砂利が、衝撃から逃げるように内側で暴れる。歯肉から無理やり歯を砕き引き剥がされるような酷い感覚、目の前がストロボのように明滅し、気の遠くなるような痛みが男の意識を再び引き摺り下ろすのだ。痛みと飲み込みきれない唾液混じりの血液に窒息しかける。
男は鼻から血を噴き上げながら、のたうち回った。

「ンンンンンンンンン!!!!!!」
「あ、やべ、カウントしてねえや。ごめんなあ」

もう一回。

「…………!!!」

再びの重い蹴りだ。飲み込みきれない赤黒い唾液が、口の中に逆流する。鼻から血を吹き出し、飲み込みきれずに痙攣する体は陸に打ち上がった魚のように無様だ。
エルマーは、二回目の暴力で叫ばなかったご褒美に、男の口の癒着を解いてやる。大量の砂利と共に折れた齒や血を吐き出すと、足りぬ酸素を補うように、男は肺を膨らませた。

「ぁ、げは、ぁ、あっあ、あー、ぁ、あ!!」
「なあ、一個聞くけど、土つかった?」
「ひ、ひぃ、あ…あ、あっ…」
「つーち、つかったあ?」
「ぁぎっ、っ、づづ、づがいまぢだぁあ゛、あっ!」

フオルンの蔦によって両手は拘束したまま、エルマーは男の両肩に膝を乗せると、頸を抑えるように固定をして肩を外す。これ以上のたうち回られるのも、面倒臭かったのだ。

「ああぁあ、あああーーーーーー!!!!!」
「うわうるさ。」

つんざくような汚い悲鳴が聞こえると、渋い顔をして耳を塞ぐ。エルマーと男の温度差は開いていくばかりか、拷問じみた加虐は回数を重ねるごとに毛色を変えてくる。
苦痛に歪めた表情のまま、喘ぐように呼吸を繰り返す。まるで威嚇にも聞こえる引き攣り声で叫ぶ男の顔を、覗き込むようにしてエルマーは問いかけた。

「誰からもらったのかなぁ、土。お兄ちゃんに教えてくれるぅ?」
「ひ、ひーひひ、ぁ、ま、まま、ままあ!!!」
「あ?ママ?」

まるで幼児のように、身も蓋もなく泣きじゃくる。明確な殺意をコントロールをして、ぎりぎりで意識を保たせる拷問に、もう男の精神は限界であった。
エルマーの問いかけには、叫ぶようにして答えた。大人に言い付けてやるんだからな。そんな、幼稚な口調で喚く男の姿は、実に異様であった。

「ま、まま…ままに、ままにやらかえしてもらうんら、ぁ、あっま、まま、まま…」
「何言ってっかわっかんねーよバァカ。」
「う゛う゛ぁ、あ゛ああ!!ぎでえええええ!!」

引き絞るかのような無様な叫びを上げた瞬間、空気が変わった。エルマーのその背後で、巨大な火柱がなんの前触れもなく噴き上がったのだ。

「っ、」

ーーーーー!!

フォルンの声のない悲鳴が上がる。エルマーは素早く身を捻るかのようにして振り向くと、小さく息を呑んだ。

「ふ、おる…」

紡いだ言葉は、微かに震えていた。
助けを求めるように、一本の蔦が月に向かって伸ばされる。忠実なる牛頭の魔物は、その身を魔力の宿る炎に飲み込まれていた。
黒いシルエットが炎の内側で僅かに揺れる。やがて、一陣の風と共に、その体は炭となってボロボロと崩れ落ちた。
灰となった残骸と、フオルンだった僅かな破片。それを踏み潰すかのように降り立ったのは、茶色の猛禽の羽を広げた一人の少女だった。

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