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シュマギナール皇国編
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エルマーとやら。貴様、アロンダートの護衛と言ったな。ならば奴が寝ている部屋まで案内せよ。」
人を従わせることに長けた声が言った。
見たところ、第二王子である筈のアロンダートの部屋には侍従の姿は見当たらず、そして第二王子本人もこの場にはいないようであった。
本来ならば王族の住まう私室に、こんな粗野なものを入れるなど、と思ったが。皇子の住まう部屋にしては簡素なこの場所では、逆にアロンダートのほうが浮いてしまうだろう。
「部屋っても隣だし。なにくんの?仕方ねえなあ。」
「今は貴様とナナシだけか。」
「おうよ。アランとトッドは買い出し。ここには、なぁんも、届かねえらしいからなあ。」
エルマーの嫌味じみた言葉に、グレイシスはぴくりと眉が跳ねた。こんなに腹が立つやり取りをしているというのに、不思議と殺してやろうとは思わない。むしろ、この男との会話は少しだけ中毒になりそうな気配すらする。
ニルギアたちは、グレイシスが怒りの裏側にそんな気持ちを抱いていることすら知らず、顔色は悪いままだったが。
「ならよ、あんただけで来いよ。大勢で来たら休まんねえだろう。」
「…致し方ない。」
「なりません殿下!!御身になにか御座いましたら、」
「余の身は自身で守る。弱いものの守りなど邪魔なだけだ。」
吐き捨てるように言うグレイシスに、エルマーは面白そうに笑う。余程その自信家な態度が好ましかったらしい。思わずがしりと肩を抱くと、その身を引き寄せて豪快に笑った。
「いいねぇ!俺ァあんたのこと好きだぜ!アロンダートは自信家じゃねえのに、似てねえ兄弟だなおい。」
「おい、余に触れるなど許した覚えはないぞ!」
「あっはっは!おまえ友達いねえだろ。」
「友達などと…!!」
ぐっ、とグレイシスが詰まる。友達と言えるものは居なかったからだ。
そんなもの、作る暇もなかったというのが正しいが。
エルマーに肩を抱かれながら、冷酷な皇子が部屋に連れて行かれる姿を、大人たちは呆気に取られるようにして見つめていた。
パタンと閉じられた扉の奥で、何が起きてしまうのかはわからない。互いに顔を見合わせ、今見たあり得ない現実を共有する。
冷徹な第一王子が年頃の若者のように扱われている姿を見たのは初めてであった。しかし、こけにされたグレイシスが機嫌を損ねる事だけが無いように、御身の無事と同時に、どうか問題が起きませんようにと祈ることしかできなかった。
一方で、グレイシスはというと、この距離感が友達と言うものなのかと混乱していた。
「余に友達などいらぬ。貴様の言う友達とは、こうした不敬を許さねばならぬものなのか。」
「不敬って考えがかったりぃよな。お前の弟のほうがよっぽど性格がいいぜ?」
己の体へと不躾に腕を回し、乱暴に部屋の中に引き入れたエルマーは、悪戯な笑みを浮かべながら、グレイシスを言葉で煽る。乗ってはいけないというのは頭で理解はしていたが、グレイシスのその瞳にはありありと苛立ちが浮かんでいた。
「余がアロンダートなどに劣っていると申すのか!!」
「すぐキレるとことかなあ。あいつのが大人だぜ兄ちゃんよ。劣りたくねえなら少しは周りの顔色見てやれば?」
ぽんぽんと組まれた肩を叩かれる。こんな距離で話したことなどないグレイシスは、苛立ちと同時に戸惑っていた。グレイシスは優秀だ。しかし完璧を求められて、人としての道徳心には欠けていた。
まるでそのことを指摘されているような気がして、思わずその手を振り払おうとする。
しかし、それを阻んだのはナナシだった。
「な、」
唐突な、己よりも小さな手のひらの温もりに、グレイシスはぽかんとした顔で見下ろした。
ナナシは、きゅ、とグレイシスの手を握りしめてふにゃりと笑う。
なんの警戒心も抱かぬナナシの、気の抜けた笑みを向けられる。そんな無垢な様子を怒るに怒れず、グレイシスは唇を真一文字に引き結んだ。
母の手を握りしめることもなかった、グレイシスにとって、手を繋ぐだけの行為も戸惑いの一つだったのだ。
「おてて、つなぐのすき?ナナシはね、すきだよう…」
「しらぬ。」
「あのね、あったかいのもすき。」
「聞いておらぬ。」
気の抜ける間延びした喋り方で話しかけられる。振りほどいてもいい筈なのに、グレイシスの手から離れた武器を呑気に持ってきた。その間抜けとも言える少年の行動と、肌の色は違えど身に纏う色合いが幼き日のアロンダートと重なってしまう。せめてもの矜持として、握り返すことだけはしなかった。
「おい、起きてるか?」
エルマーが、容赦なくアロンダートの寝具を剥ぎ取る。枕に頭を預けていたアロンダートは、その暴挙にも怒ることはなく、むくりとその身を起こした。
「エルマー、せめてノック位はしてくれないか。」
「まどろっこしいの嫌なんだよ。男同士だしいいだろ別に。」
「親しき仲にも礼儀あり…という言葉が…、」
少し掠れた、耳心地の良いテノールに混じる甘さが、やけに耳に残る。
同じ敷地内に住んでいるというのに、久方ぶりに邂逅した弟は、寝乱れた黒髪を手櫛で整えながら、見事な腹筋をガウンから覗かせていた。
気怠げな目元を飾る琥珀色の瞳が、グレイシスを捕らえる。す、と細まる様子を見て、己が歓迎されていないことを理解した。
「ご無沙汰しております、兄上。」
「…アロンダート。」
立ち上がると、男として厚みのある身体が威圧する様に目の前に晒される。グレイシスも第一騎士団を統べる者として鍛えているが、アロンダートに比べるとグレイシスは細身だ。
これのどこが病弱な第二王子だと言うのか。アロンダートを前にすると、グレイシスのほうが余程病弱に見えた。
「体調があまり優れず…寝汚く寝こけておりました。このような格好で御前に立つことをお許し下さい。」
「…貴様、いつの間に入れ墨などいれた。」
そしてグレイシスが動揺したのは、アロンダートの腹を飾る勇ましい獣の脚のような入れ墨だった。
野性的な肌の色には、たしかによく似合う。男らしい魅力を強調しているかのようにも見えた。
しかし、いくら服で隠れるからといって、曲がりなりにも王族としての自覚はあるのかと睨みつける。
グレイシスのもの言いたげな視線に気がついたのか、アロンダートはキョトンとした後、合点がいったように数度頷くと、困ったように微笑んだ。
「何分半魔を親に持つもので、これは体に浮かび上がったのです。」
「浮かび上がった…?」
何を言っているのかという顔でアロンダートを見る。ナナシはというと、にこにこしながら呑気に「かこいい。」などと言っていた。
グレイシスが戸惑っている顔に気づいたのか、アロンダートはその模様を隠すようにして服装を正す。
「それで、ご用件は。」
「…カストール共和国の使者が、お前の発明した生地を流通させてくれと言ってきた。席を設ける、貴様も三日後の宴に参加しろ。」
「三日後…ですか。」
アロンダートは、グレイシスの言葉に眉根を寄せる。三日後は、自分が王族を辞めると決めた日だ。
自身の発明したものを知ってもらえるのは嬉しい。しかもカストール共和国はどこの国にも属していない。となれば陸地続きの皇国が、海からの物流のパイプを欲しがるのは頷けた。
「国の為になるのなら、喜んで。」
「…お前はこうして遠ざけられていて尚、国を想ってくれるのか。」
アロンダートの後ろで、エルマーが面倒くさいといった顔でソファーに腰掛けていた。
グレイシスのその問いかけに混じる、本人すら気づかぬ悔恨を感じ取ったのだ。
ナナシはグレイシスとアロンダートを交互に見上げると、空いている方の片手でアロンダートの手を握りしめた。
「なかよし、する?ナナシおてつだいするよう」
キョトンとした顔で、長年会話すら怠っていた兄弟を前に当然のように言ってのけたナナシに、吹き出したのはアロンダートの方だった。
「く、…君は、ほんとうに強い子だな。」
「…別に、喧嘩をしていたわけでは…。」
「そうなのですか?僕は嫌われているものだと思っておりましたが。」
「………普通だ、」
くすりと笑ったアロンダートは、グレイシスの手を取る。手のひらに感じた少し硬い感触は、剣を握る者の手だ。
触れた手は、その態度とは裏腹に怯えたように手を引こうとする。それを、軽く指に力を入れるだけで制すると、不器用でプライドの高い兄を見つめた。
「グレイシス兄上。…僕は玉座などいらない。勝手に騒ぎ立てている外野になど、惑わされぬように。」
「生意気な、いつも達観したような面をして…。お前に俺の悔しさがわかるのか。」
「わかりませぬ、教えてもらわねば。兄上の御心の内など誰にも、わかりませぬ。」
グレイシスは揺るぎないアロンダートの瞳から、目を逸らせなかった。兄として、第一王子として、決して目の前の相手に劣ってはいけない。そう、グレイシスは言われ続けていた。
久しく会わなかった相手が、突然取り沙汰されて己の玉座を揺るがした。なんの情報もない、第二王子の姿は幼き日のまま更新されることもない。グレイシスにとってのアロンダートの立ち位置は、歯牙にもかけずにいられる格下の相手だったのだ。
それなのに。アロンダートは全て理解した上で、己の度量を見せつけるかのようにアドバイスをしてきた。グレイシスにとって、その言葉が一番神経を逆撫でするものであるとも知らずに。
「貴様は、悠々としているな。玉座は要らぬだと?ならばその言葉を民へ述べてみよ!貴様の顔など知らぬ民へとな!」
「兄上…」
「アロンダート、貴様の慈悲などいらぬ!!名も知らぬ、顔も知らぬ第二王子と争い事をすることになった、余の気持ちなど、貴様にはわかってもらいたくなどない!!」
民衆は実に素直だった。ミステリアスな第二王子が冷酷な第一王子と玉座を争う事を、市井の者たちは知っていたのだ。
王の血を引く正当なグレイシスは、実に王族らしく育ってきた。しかし市井の者たちが求める王と、貴族が求める王は違う。
後の未来を見据え、一度も信念を曲げずにやってきたグレイシスは、決して腐った輩を許さなかった。
城の内側から貴族の膿を出してきたグレイシスの氷のような冷たさは、やがて市井の者が耳にする頃には恐れへと変わっていた。
第一王子は苛烈らしい。なら、第二王子は?
市井の興味が、日の目を浴びなかったを第二王子に注がれるのは必然的だった。
そしてアロンダートが開発をした生地を使った日常着を販売すると、農作業を生業とする者たちがこぞって買いに来たらしい。
泥で汚れても買い換える必要はない、消耗品の衣服を長く使えるように清潔魔法が施されたその商品は、大通りの一角のみでしか買えないということもあり、瞬く間に広まった。市場に卸すため、流通関係の人間と関わりの深い農業を営むものたちにターゲットを絞ったのも成功の秘訣だった。
どこで手に入るのか。から、城内でお張り子をしている店主のお店へと繋がり、そのお針子は第二王子の側仕えとして出仕することもあると聞いて、アロンダートの名前は徐々に広まった。
人徳の為せる技だ。グレイシスが教えてこられた威圧政治ではない。
自身の預かり知らぬところで広まっていたアロンダートの名が、グレイシスを焦らせる。
「貴様が望まずとも、皆がそう望むのだ。皆が、余と貴様の争いごとを望むのだ。」
「兄上、兄上はどなたの縛りも受けてはなりません。」
「わかっている!!しかしそう続いてきた風潮は今更変えられぬ、もはやこの玉座争いなどという下らん行為は、王族の伝統のようなもの。余は世論に縛られているのではない。このくだらぬ、伝統に縛られているのだ!」
グレイシスの声は、震えていた。冷酷で怜悧な第一王子は、この城の伝統すべてを憎んでいた。
幼き頃、たった一つの選択肢を無視してしまった。黒髪の忌み子と呼ばれた第二王子へ、手を差し伸べなかった自身の過ち。
周りの大人がそうさせた。グレイシスだけが悪いのではない。
それでも、王族らしくと教育されてきたグレイシスは、腹違いの兄弟であるアロンダートを、弟として求めていた。
出来の悪い第二王子の代わりにと言われ続けてきた。グレイシスは、一人で全部行った。皇后はグレイシスを第一王子としては愛してくれたが、子と母の関係ではなかった。
視察で父王と市井に出たときに見た、手を繋いで歩く兄弟に憧れた。
市井にいる者たちは、兄弟でも助け合って生きているのだ。
この小さな手で、あの黒髪の弟の手を握れたらどんなにいいだろう。しかし、助けてあげると口に出せば皇后が許さない。
もし、あの茶会の後、ただ黙って手を握るだけでも出来ていれば、何かが変わったのだろうか。
「お前など、大嫌いだ!余に兄弟などおらぬ!宴が終わればお前など用無しだ、どうとでも好きにするが良い!」
「…兄上、」
「余の名すら口にせぬ貴様など、…っ」
思わず溢れた本音に、グレイシスは目を見開いた。
それは、アロンダートも同じであった。ごくりと喉を鳴らした音は、一体誰のものだったのだろう。
踵を返して扉へと消えていく細い兄の背中を、アロンダートはただ黙って見つめることしかできなかった。
人を従わせることに長けた声が言った。
見たところ、第二王子である筈のアロンダートの部屋には侍従の姿は見当たらず、そして第二王子本人もこの場にはいないようであった。
本来ならば王族の住まう私室に、こんな粗野なものを入れるなど、と思ったが。皇子の住まう部屋にしては簡素なこの場所では、逆にアロンダートのほうが浮いてしまうだろう。
「部屋っても隣だし。なにくんの?仕方ねえなあ。」
「今は貴様とナナシだけか。」
「おうよ。アランとトッドは買い出し。ここには、なぁんも、届かねえらしいからなあ。」
エルマーの嫌味じみた言葉に、グレイシスはぴくりと眉が跳ねた。こんなに腹が立つやり取りをしているというのに、不思議と殺してやろうとは思わない。むしろ、この男との会話は少しだけ中毒になりそうな気配すらする。
ニルギアたちは、グレイシスが怒りの裏側にそんな気持ちを抱いていることすら知らず、顔色は悪いままだったが。
「ならよ、あんただけで来いよ。大勢で来たら休まんねえだろう。」
「…致し方ない。」
「なりません殿下!!御身になにか御座いましたら、」
「余の身は自身で守る。弱いものの守りなど邪魔なだけだ。」
吐き捨てるように言うグレイシスに、エルマーは面白そうに笑う。余程その自信家な態度が好ましかったらしい。思わずがしりと肩を抱くと、その身を引き寄せて豪快に笑った。
「いいねぇ!俺ァあんたのこと好きだぜ!アロンダートは自信家じゃねえのに、似てねえ兄弟だなおい。」
「おい、余に触れるなど許した覚えはないぞ!」
「あっはっは!おまえ友達いねえだろ。」
「友達などと…!!」
ぐっ、とグレイシスが詰まる。友達と言えるものは居なかったからだ。
そんなもの、作る暇もなかったというのが正しいが。
エルマーに肩を抱かれながら、冷酷な皇子が部屋に連れて行かれる姿を、大人たちは呆気に取られるようにして見つめていた。
パタンと閉じられた扉の奥で、何が起きてしまうのかはわからない。互いに顔を見合わせ、今見たあり得ない現実を共有する。
冷徹な第一王子が年頃の若者のように扱われている姿を見たのは初めてであった。しかし、こけにされたグレイシスが機嫌を損ねる事だけが無いように、御身の無事と同時に、どうか問題が起きませんようにと祈ることしかできなかった。
一方で、グレイシスはというと、この距離感が友達と言うものなのかと混乱していた。
「余に友達などいらぬ。貴様の言う友達とは、こうした不敬を許さねばならぬものなのか。」
「不敬って考えがかったりぃよな。お前の弟のほうがよっぽど性格がいいぜ?」
己の体へと不躾に腕を回し、乱暴に部屋の中に引き入れたエルマーは、悪戯な笑みを浮かべながら、グレイシスを言葉で煽る。乗ってはいけないというのは頭で理解はしていたが、グレイシスのその瞳にはありありと苛立ちが浮かんでいた。
「余がアロンダートなどに劣っていると申すのか!!」
「すぐキレるとことかなあ。あいつのが大人だぜ兄ちゃんよ。劣りたくねえなら少しは周りの顔色見てやれば?」
ぽんぽんと組まれた肩を叩かれる。こんな距離で話したことなどないグレイシスは、苛立ちと同時に戸惑っていた。グレイシスは優秀だ。しかし完璧を求められて、人としての道徳心には欠けていた。
まるでそのことを指摘されているような気がして、思わずその手を振り払おうとする。
しかし、それを阻んだのはナナシだった。
「な、」
唐突な、己よりも小さな手のひらの温もりに、グレイシスはぽかんとした顔で見下ろした。
ナナシは、きゅ、とグレイシスの手を握りしめてふにゃりと笑う。
なんの警戒心も抱かぬナナシの、気の抜けた笑みを向けられる。そんな無垢な様子を怒るに怒れず、グレイシスは唇を真一文字に引き結んだ。
母の手を握りしめることもなかった、グレイシスにとって、手を繋ぐだけの行為も戸惑いの一つだったのだ。
「おてて、つなぐのすき?ナナシはね、すきだよう…」
「しらぬ。」
「あのね、あったかいのもすき。」
「聞いておらぬ。」
気の抜ける間延びした喋り方で話しかけられる。振りほどいてもいい筈なのに、グレイシスの手から離れた武器を呑気に持ってきた。その間抜けとも言える少年の行動と、肌の色は違えど身に纏う色合いが幼き日のアロンダートと重なってしまう。せめてもの矜持として、握り返すことだけはしなかった。
「おい、起きてるか?」
エルマーが、容赦なくアロンダートの寝具を剥ぎ取る。枕に頭を預けていたアロンダートは、その暴挙にも怒ることはなく、むくりとその身を起こした。
「エルマー、せめてノック位はしてくれないか。」
「まどろっこしいの嫌なんだよ。男同士だしいいだろ別に。」
「親しき仲にも礼儀あり…という言葉が…、」
少し掠れた、耳心地の良いテノールに混じる甘さが、やけに耳に残る。
同じ敷地内に住んでいるというのに、久方ぶりに邂逅した弟は、寝乱れた黒髪を手櫛で整えながら、見事な腹筋をガウンから覗かせていた。
気怠げな目元を飾る琥珀色の瞳が、グレイシスを捕らえる。す、と細まる様子を見て、己が歓迎されていないことを理解した。
「ご無沙汰しております、兄上。」
「…アロンダート。」
立ち上がると、男として厚みのある身体が威圧する様に目の前に晒される。グレイシスも第一騎士団を統べる者として鍛えているが、アロンダートに比べるとグレイシスは細身だ。
これのどこが病弱な第二王子だと言うのか。アロンダートを前にすると、グレイシスのほうが余程病弱に見えた。
「体調があまり優れず…寝汚く寝こけておりました。このような格好で御前に立つことをお許し下さい。」
「…貴様、いつの間に入れ墨などいれた。」
そしてグレイシスが動揺したのは、アロンダートの腹を飾る勇ましい獣の脚のような入れ墨だった。
野性的な肌の色には、たしかによく似合う。男らしい魅力を強調しているかのようにも見えた。
しかし、いくら服で隠れるからといって、曲がりなりにも王族としての自覚はあるのかと睨みつける。
グレイシスのもの言いたげな視線に気がついたのか、アロンダートはキョトンとした後、合点がいったように数度頷くと、困ったように微笑んだ。
「何分半魔を親に持つもので、これは体に浮かび上がったのです。」
「浮かび上がった…?」
何を言っているのかという顔でアロンダートを見る。ナナシはというと、にこにこしながら呑気に「かこいい。」などと言っていた。
グレイシスが戸惑っている顔に気づいたのか、アロンダートはその模様を隠すようにして服装を正す。
「それで、ご用件は。」
「…カストール共和国の使者が、お前の発明した生地を流通させてくれと言ってきた。席を設ける、貴様も三日後の宴に参加しろ。」
「三日後…ですか。」
アロンダートは、グレイシスの言葉に眉根を寄せる。三日後は、自分が王族を辞めると決めた日だ。
自身の発明したものを知ってもらえるのは嬉しい。しかもカストール共和国はどこの国にも属していない。となれば陸地続きの皇国が、海からの物流のパイプを欲しがるのは頷けた。
「国の為になるのなら、喜んで。」
「…お前はこうして遠ざけられていて尚、国を想ってくれるのか。」
アロンダートの後ろで、エルマーが面倒くさいといった顔でソファーに腰掛けていた。
グレイシスのその問いかけに混じる、本人すら気づかぬ悔恨を感じ取ったのだ。
ナナシはグレイシスとアロンダートを交互に見上げると、空いている方の片手でアロンダートの手を握りしめた。
「なかよし、する?ナナシおてつだいするよう」
キョトンとした顔で、長年会話すら怠っていた兄弟を前に当然のように言ってのけたナナシに、吹き出したのはアロンダートの方だった。
「く、…君は、ほんとうに強い子だな。」
「…別に、喧嘩をしていたわけでは…。」
「そうなのですか?僕は嫌われているものだと思っておりましたが。」
「………普通だ、」
くすりと笑ったアロンダートは、グレイシスの手を取る。手のひらに感じた少し硬い感触は、剣を握る者の手だ。
触れた手は、その態度とは裏腹に怯えたように手を引こうとする。それを、軽く指に力を入れるだけで制すると、不器用でプライドの高い兄を見つめた。
「グレイシス兄上。…僕は玉座などいらない。勝手に騒ぎ立てている外野になど、惑わされぬように。」
「生意気な、いつも達観したような面をして…。お前に俺の悔しさがわかるのか。」
「わかりませぬ、教えてもらわねば。兄上の御心の内など誰にも、わかりませぬ。」
グレイシスは揺るぎないアロンダートの瞳から、目を逸らせなかった。兄として、第一王子として、決して目の前の相手に劣ってはいけない。そう、グレイシスは言われ続けていた。
久しく会わなかった相手が、突然取り沙汰されて己の玉座を揺るがした。なんの情報もない、第二王子の姿は幼き日のまま更新されることもない。グレイシスにとってのアロンダートの立ち位置は、歯牙にもかけずにいられる格下の相手だったのだ。
それなのに。アロンダートは全て理解した上で、己の度量を見せつけるかのようにアドバイスをしてきた。グレイシスにとって、その言葉が一番神経を逆撫でするものであるとも知らずに。
「貴様は、悠々としているな。玉座は要らぬだと?ならばその言葉を民へ述べてみよ!貴様の顔など知らぬ民へとな!」
「兄上…」
「アロンダート、貴様の慈悲などいらぬ!!名も知らぬ、顔も知らぬ第二王子と争い事をすることになった、余の気持ちなど、貴様にはわかってもらいたくなどない!!」
民衆は実に素直だった。ミステリアスな第二王子が冷酷な第一王子と玉座を争う事を、市井の者たちは知っていたのだ。
王の血を引く正当なグレイシスは、実に王族らしく育ってきた。しかし市井の者たちが求める王と、貴族が求める王は違う。
後の未来を見据え、一度も信念を曲げずにやってきたグレイシスは、決して腐った輩を許さなかった。
城の内側から貴族の膿を出してきたグレイシスの氷のような冷たさは、やがて市井の者が耳にする頃には恐れへと変わっていた。
第一王子は苛烈らしい。なら、第二王子は?
市井の興味が、日の目を浴びなかったを第二王子に注がれるのは必然的だった。
そしてアロンダートが開発をした生地を使った日常着を販売すると、農作業を生業とする者たちがこぞって買いに来たらしい。
泥で汚れても買い換える必要はない、消耗品の衣服を長く使えるように清潔魔法が施されたその商品は、大通りの一角のみでしか買えないということもあり、瞬く間に広まった。市場に卸すため、流通関係の人間と関わりの深い農業を営むものたちにターゲットを絞ったのも成功の秘訣だった。
どこで手に入るのか。から、城内でお張り子をしている店主のお店へと繋がり、そのお針子は第二王子の側仕えとして出仕することもあると聞いて、アロンダートの名前は徐々に広まった。
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自身の預かり知らぬところで広まっていたアロンダートの名が、グレイシスを焦らせる。
「貴様が望まずとも、皆がそう望むのだ。皆が、余と貴様の争いごとを望むのだ。」
「兄上、兄上はどなたの縛りも受けてはなりません。」
「わかっている!!しかしそう続いてきた風潮は今更変えられぬ、もはやこの玉座争いなどという下らん行為は、王族の伝統のようなもの。余は世論に縛られているのではない。このくだらぬ、伝統に縛られているのだ!」
グレイシスの声は、震えていた。冷酷で怜悧な第一王子は、この城の伝統すべてを憎んでいた。
幼き頃、たった一つの選択肢を無視してしまった。黒髪の忌み子と呼ばれた第二王子へ、手を差し伸べなかった自身の過ち。
周りの大人がそうさせた。グレイシスだけが悪いのではない。
それでも、王族らしくと教育されてきたグレイシスは、腹違いの兄弟であるアロンダートを、弟として求めていた。
出来の悪い第二王子の代わりにと言われ続けてきた。グレイシスは、一人で全部行った。皇后はグレイシスを第一王子としては愛してくれたが、子と母の関係ではなかった。
視察で父王と市井に出たときに見た、手を繋いで歩く兄弟に憧れた。
市井にいる者たちは、兄弟でも助け合って生きているのだ。
この小さな手で、あの黒髪の弟の手を握れたらどんなにいいだろう。しかし、助けてあげると口に出せば皇后が許さない。
もし、あの茶会の後、ただ黙って手を握るだけでも出来ていれば、何かが変わったのだろうか。
「お前など、大嫌いだ!余に兄弟などおらぬ!宴が終わればお前など用無しだ、どうとでも好きにするが良い!」
「…兄上、」
「余の名すら口にせぬ貴様など、…っ」
思わず溢れた本音に、グレイシスは目を見開いた。
それは、アロンダートも同じであった。ごくりと喉を鳴らした音は、一体誰のものだったのだろう。
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ありがとうございます💞
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