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シュマギナール皇国編
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こんなに満たされたのは初めてかもしれない。
アロンダートはサジの肢体を抱き込みながら、事後の気だるく甘い余韻に浸っていた。
ずっとこの人を抱きしめて眠りたい。出来ることなら、嫌なことから全て目を逸らして、この人と閉じこもってしまいたい。
広い家は要らない。この人と暮らせるだけの、小さな家でいい。こんな寂しいだけの広い部屋よりも、今はこの狭いベッドの上がアロンダートの幸せだった。
「…アロン、ダート。」
掠れた声で、名前を紡がれる。腕の中のサジは小さく身動ぎをすると、事後の気だるげな余韻を引きずるようにして、アロンダートを見上げた。ラブラドライトの瞳の奥に残る仄かな熱が、己に向いているという優越感。
そのまろい頬に触れようと手を伸ばせば、華奢な体を彩る行為の痕跡に気がつき、アロンダートはサジに触れることを躊躇した。
「サジ様、その…」
「よい、うふふ。…まるで捨てられた犬の様な顔をする。」
散々と己の体を好き勝手貪った若い雄が、今更ながらに遠慮をしようとするのが少しだけおかしい。サジは触れることを戸惑うアロンダートの手のひらに指を絡ませると、その血管の浮いた男らしい手の甲に頬を寄せる。
遠慮することなどないというに、サジはそのままアロンダートの腕の中に身を任すようにして寄り添う。
腕の中のサジが、美しい褐色の肌に手を滑らせる。そのままゆっくりと造作の整った顔を見上げると、獣じみた瞳で見つめ返された。火傷してしまいそうなほどの熱い視線は心地よく、唇をなぞるように触れる節張った指は、そのまま紅を引くようにサジの唇を柔らかく辿ると、一呼吸を飲み込むようにアロンダートの唇が重なった。
「っ、ん、ふふ、戯れるな。まだ何も解決していない。」
「…わかっています。が、まだ貴方とのひと時を浸っていたい。」
「何を不安がる、アロンダートはサジのものだ。そんな顔をせずとも、もう印はつけたしなあ。」
サジはくつくつと声を引きずるようにして笑う。とても魔女らしい笑みであった。
均整のとれた美しい体を確かめるように、サジはその逞しい背中に己の腕をゆっくりと回した。収まりの良い位置を探るように、その首筋に擦り寄った。サジの指先が、探るように己のつけた背中の傷に触れる。
行為中、前後不覚の中で爪を立てたのは無意識だ。こんなことをしなくても、もう魔力譲渡はなされていたし、アロンダートの体はサジのものだという匂いづけも済んでいる。
つまり、背中に爪痕を残してしまうほど、サジにも余裕がなかったということだ。
通常なら、王族の御体へと、物理的に爪痕を立てるなどあってはならないことである。しかし、アロンダートにとって、その身に刻まれたサジの爪痕は、この上ない喜びであった。
細い指先が、美しく割れた腹の筋を覆うかのようにして下腹部に触れる。その指先の行き着く先を目で追いかけたアロンダートは、己の体に生じたわかりやすい変化を前に、言葉を失った。
「サジの魔力が宿っているな。お前の二本目の腕が浮かび上がっている。」
「これは、っ…」
サジの手のひらが添えられた下腹部には、見慣れない刺青のようなものが刻まれていた。己の腰の辺りから伸びるその模様は、まさしく猛禽の鉤爪を模している。
王族として、その体に図案を入れるなど、したことは一度もない。もしやこれが纏った呪いの代償かと閉口するアロンダートを前に、サジはそれがどういうものなのかを諭すような口調で語る。
「っ、」
「アロンダート。半魔の母から産まれた子よ。お前は先祖返りをしたのだな。王の持つ聖属性と交わったことで、歪なお前が生まれた。」
アロンダートの母親は、半魔である。そして、その母親から生まれたアロンダートは一際魔力量が多く、忌諱されるべき存在となってしまった。生まれてから物心つくまで、当たり前のように与えられるはずであった母親の愛情はおろか、触れてもらったことすらもなく、今に至る。故に、直接母親から己がどういう存在なのかというのは、聞いたことがなかった。
「先祖、返り…?」
己の母親のことを口伝に聞く。幼い頃の自分は、一体どういう心境で大人の話を聞いていたのだろう。己が母親と同じ半魔だと聞いた時は、繋がりがあることをまず喜んだ。それだけは覚えている。
しかし、半魔であることは、この城においては異分子として扱われる。それは、王の子を孕んだはずのアロンダートの母親でさえ例外ではなかった。
第二皇子として、陽の目を浴びることは愚か、祝福されることもなかった。母親からは疎まれ、城のものからは怯えられる。己の望まぬ玉座をめぐる諍いにも巻き込まれた。
己が半魔だから、愛されないのだろうか。母親は、望まぬ妊娠だったから、愛してくれぬのだろうか。アロンダートの歪さは、年を重ねるごとに顕著になっていった。
そして、制御できぬままに晒した本性、それは、口伝に聞いた母親の本性と、なんら変わりない。己が人間ではないということまざまざと突きつけられ、そして慟哭した。
アロンダートは自身の禍々しい姿を思い出していた。眉間に寄せた皺に、サジの唇が触れる。
たとえどんなに醜い姿でも、目の前の男のために使えるのなら受け入れられると思った。アロンダートを認めてくれ、愛を与えてくれたサジの為ならば、己が魔獣になったとしても構わないと。
アロンダートをまっすぐに見つめるサジは、そのラブラドライトの瞳で心の中を見通すかのようにして、口を開く。
「お前は強い。聖獣のように気高く生きろ。」
「聖獣などと、」
「魔物は元々精霊が侵されて転じる。魔獣とて同じよ。災い転じれば福をなす。先人の言葉はすべてを語る。お前はサジだけの聖獣になればいい。」
黒い毛皮の聖なるもの。サジが口にした言葉が、ゆっくりと体に染み渡る。
そんなこと、言われるとは思っても見なかった。じわりと涙を滲ませたアロンダートが、擦り寄るかのようにしてサジを抱きしめる。
その男らしい体を受け止めたサジは、愛おしむかのようにその黒髪に指を通すと、優しく撫でる。
この人はどうして、欲しい言葉をくれるのだろうか。
サジの言葉に、アロンダートは答えなかった。その華奢な体を腕の中に閉じ込めながら、答える代わりにその頭に鼻先を擦り寄せた。
翌日のことである。
ガタン、という音に反応したアロンダートは、枕の中に隠していた短剣を片手に飛び起きた。
寝込みを襲われないようにと常日頃から意識してきたせいか、体が反応するようになっているのだ。
隣に寝ていたサジがその勢いで起きたらしい。衣擦れの音を立てながら身動ぐと、アロンダートの引き締まった腹に腕を回して、顔を上げる。ボサボサの髪の毛の隙間からアロンダートに目を向けるその表情は、まだ少しだけ眠たそうだった。
「うう、なんだというのだ…」
「サジ様、すみません。」
「くぁ、ふ…」
ぎゅうと抱きついてくるサジの髪の毛を整える。あの後もまた少しだけ盛ってしまい、気絶したサジに回復魔法をかけたのだ。白い肢体に散らされた噛み跡をチラリと見る。やり過ぎたと少しだけ落ち込んだ。
しかし今はそれどころではない。アロンダートは再び室内へと目を向ける。何も見えないが、何かの気配を感じるのだ。
敵意は無く、ただ観察しているようなその視線。
探るように視線を巡らせると、エルマーたちが消えていった隣のドアが独りでに開いた。僅かにできた隙間から、その隙間を縫うようにして気配が遠ざかり、そして再びぱたんと扉が締まった。
「…なんだ、」
「んん、ギンイロだ。…サジたちが終わったかな、と見に来たのだろう。」
気だるげな声で紡がれた言葉に、ギンイロ?と聞き返そうとしたとき、それはもう蹴り開けたといってもいいくらいの大きな音を立てて、勢いよく扉がひらいた。
「おはようクソ野郎。サジ!テメェ途中で空間遮蔽解いてんじゃねえよ!!あんあんあんあんくっっそやかましい!ナナシに聞かせねえようにすんの大変だったんだからなァ!?」
腰にアランをしがみつかせたエルマーが、こめかみに血管を浮かせながら大いにキレていた。仁王立ちをするかのように腕を組み、王族の前でも変わらぬ不遜な態度の不届きものに、アランが悲鳴をあげるように抗議する。
「おはよう御座います殿下。おい!おまえのご挨拶は乱暴すぎる!!あれほど僕は空気を読めと言っただろう!!」
「やかましい!てめぇもいつまで腰に引っ付いてんだ!いい加減離れろってんだこんにゃろ、っ」
くぎぎ、とアランの頭を掴んで無理やり引き剥がすエルマーの背後で、今度は控えめに扉が開く。顔を覗かせたのは顔を赤らめたトッドと耳栓をしたナナシであった。
様子を見る限り、どうやら迷惑をかけたらしい。アロンダートは、ひとまずサジの身体を寝具で隠すと、申し訳無さそうに頭を掻いた。どうやら行為が終わるまで丸一日待たせたらしい。
アロンダート自身も、初めての行為に舞い上がっていた分サジには随分と無理をさせたような気がする。
「すまない、その…」
「い、いえ…無事成されたようで何よりですわ…」
トッドはそう言うと、準備をしていたのかお湯を入れた桶とタオルを持ってくる。侍従二人が気を使う空気の中、呑気なサジは優雅に枕に凭れかると、長い足を組んでエルマーを見た。
「おやまあ、空間遮蔽が切れておったとは。サジをそこまで翻弄させるとはなかなかやりよる。なあ、アロンダートよ。」
「恐れ入ります…といえばいいのですか?」
戸惑いながら顔を赤らめるアロンダートの様子に、エルマーは疲れたような溜息を吐く。そりゃ初めての男がサジならえらいことになっただろう。アロンダートへと向ける視線は、労わり混じりのそれだ。
エルマーからの視線に気がついたアロンダートはというと、少しだけ困ったような表情であった。
「んで、回復したのか。」
「ああ、そうだな…今はすごく、満たされている気分だ。」
「まる一日ヤッてりゃそうなるだろうよ。で、腰のそれ何。」
「…すまない、というか君は誰だ。」
エルマーの問いに質問で返したのは忍びないが、アロンダートは元の姿に戻った後には気絶してしまったので、エルマーもナナシも知らなかった。
恐らくトッド達が連れてきたサジの連れなのだろうが、それにしてもまずは説明が欲しい。
当たり前の反応を返したアロンダートに対してボカンという顔をしたエルマーは、ようやくこちらが一方的に知っていただけだったと思い至ると、バツが悪そうに口をつぐんだ。自己紹介として、まさかサジとの穴兄弟ですというわけにもいくまい。エルマーは少しだけ迷った挙げ句、隣にいたナナシを抱き寄せた。
「安心しろ、俺にはナナシがいるからよ。」
「んえ、あい。ナナシです。」
ギンイロを抱えていたナナシは、トッド達が準備する朝ごはんにきゅるきゅると可愛らしい腹の音を響かせている。食事に気を取られており、あまり話を聞いていなかったのだろう。自己紹介をするのかと元気よくご挨拶をしたが、その反応は相変わらず多少ずれていた。
アロンダートは困ったように、なるほど…。と曖昧に頷くと、助けを求めるようにサジに視線を向ける。
第二皇子であるアロンダートがいくら穏やかだと言っても、粗野なエルマーを前にどうしていいか分からなかったようだ。
「んん?まあ、エルマーには使役してもらってる関係だ。」
「使役…ですか。」
「妙な意味ではないさ。サジはこの通り好きにさせてもらっている。何かあれば力を貸す以外は自由だ。」
「そーそー、毎日一緒にいるわけじゃねえしな。」
「ふふ、そうだなあ。サジは根無し草よ、安心しろ。」
少しだけ不穏さを残す使役という言葉に、もやりとした気持ちを察されたのだろう、ニヤリと笑われて少しだけ尻の座りが悪い。
二人のやりとりを辟易とした顔で見つめていたエルマーの自己紹介は、至って端的であった。
「エルマーだ。悪いやつじゃねえ、多分。」
「それって自分で言うことじゃないと思うわよ。」
呆れた声でトッドに水を差される。話を聞きながら体の清拭をサジの分まで甲斐甲斐しく終わらせたアロンダートは、トッドが用意してくれていたガウンを羽織る。
もの言いたげなトッド達の目が腰から腹にかけて刻まれた入れ墨のような模様に注がれる。そんなに見られたってアロンダートだって説明できない。これは突然現れたのだから。
「んで、どうすんだこれから。」
トッドとアランが用意してくれた人数分の食事を囲みながら、フォークにウィンナーを刺したエルマーが言う。アランは態度を変えないエルマーにタコの魔物のように顔を赤くして怒っているが、不思議な魅力のある男だ。アロンダートはそんなエルマーの態度も腹に据えかねると言うこともなく、そうだなとかえした。
「そもそも呪いを解けって話だったろ。なら解いた今俺らは用済み、見たところ土も関係ねえし。」
「その土が何を指すのかはわからないが、僕を心配してくれてありがとう、二人共。」
「お礼など不要ですわ。ただ、アタシたちの主を無くしたくなかった。それだけのエゴですもの。」
「トッドは優しい。僕はお前たちに甘えてばかりだな。」
優しい目で微笑むアロンダートは、確かに王子の器だ。まあ、エルマーは第一王子がどういう奴だかわからないので、あくまで一個人としての意見だが。
「というか、アロンダートはもうサジのものだ。王族を辞めたいのならサジが手伝ってやるぞ。」
もきゅ、とパンを齧りながらサジが言う。なんならサジの子として養子に貰ってもいいぞとまで言いのけた。エルマーはナナシに出された魚の骨を取ってやりながら、またこいつは周りを振り回すことを言うと頭の痛い思いである。
「何度も言ってるけど、そう簡単に王族からは抜けられないの。ここから出るには、死ぬか結婚の時くらいしかないもの。…それに、穏便に王族を抜けるだなんて…リアルじゃないわ。」
「そうだな、やはり…僕が市井に出る術は。」
「なら死ねばいいだろ。殺されたことにすりゃあいい。」
もしゃもしゃとサラダを食べていたエルマーのあり得ない発言に、六人で囲んだ食卓は静まり返った。
パンをギンイロと分けて食べていたナナシはというと、唐突なエルマーの発言にぽかんとした顔で見上げ、慌てたように嗜める。
「える!だめ!ひどいこという、わるいこ!」
「いや。サジもそう言おうと思っていた。」
「貴方までですか…」
こうして全てを見られ、埋まらない隙間を埋めてくれたサジまでもがそんなことを言うのだ。アロンダートは少しだけ動揺をした。
治安の悪い発言を、王族の私室で宣ったのだ。ピリついた空気に急かされるように席を立った侍従二人は、酷く狼狽えながら、まるで守るかのようにアロンダートの前に立つ。
こんな姿を見られても忠義を尽くす彼らに、少しだけ泣きそうになった。
「まって、そんな発言許されないわ。」
「そうだ!殿下は僕らの主だぞ!?あまり舐めた真似をしてくれるなよ!?」
悪気なく、不敬極まりない発言を口にしたエルマーとサジはお互いに顔を見合わせた。二人だけ、なんで怒られているのかがわからないといった具合にだ。
しかし、アロンダートが悲しそうに俯くのを見て、ようやくエルマーは合点がいった。
毎回後になって気がつくが、エルマーは説明を省く節がある。サジはじとりとエルマーに目配せをすると、何故か舌打ちで返された。解せぬ。
エルマーは少しだけばつが悪そうにすると、もう一度端的に、そして今度こそきちんとわかりやすく宣った。
「だから、あるじゃん。仮死薬。」
アロンダートはサジの肢体を抱き込みながら、事後の気だるく甘い余韻に浸っていた。
ずっとこの人を抱きしめて眠りたい。出来ることなら、嫌なことから全て目を逸らして、この人と閉じこもってしまいたい。
広い家は要らない。この人と暮らせるだけの、小さな家でいい。こんな寂しいだけの広い部屋よりも、今はこの狭いベッドの上がアロンダートの幸せだった。
「…アロン、ダート。」
掠れた声で、名前を紡がれる。腕の中のサジは小さく身動ぎをすると、事後の気だるげな余韻を引きずるようにして、アロンダートを見上げた。ラブラドライトの瞳の奥に残る仄かな熱が、己に向いているという優越感。
そのまろい頬に触れようと手を伸ばせば、華奢な体を彩る行為の痕跡に気がつき、アロンダートはサジに触れることを躊躇した。
「サジ様、その…」
「よい、うふふ。…まるで捨てられた犬の様な顔をする。」
散々と己の体を好き勝手貪った若い雄が、今更ながらに遠慮をしようとするのが少しだけおかしい。サジは触れることを戸惑うアロンダートの手のひらに指を絡ませると、その血管の浮いた男らしい手の甲に頬を寄せる。
遠慮することなどないというに、サジはそのままアロンダートの腕の中に身を任すようにして寄り添う。
腕の中のサジが、美しい褐色の肌に手を滑らせる。そのままゆっくりと造作の整った顔を見上げると、獣じみた瞳で見つめ返された。火傷してしまいそうなほどの熱い視線は心地よく、唇をなぞるように触れる節張った指は、そのまま紅を引くようにサジの唇を柔らかく辿ると、一呼吸を飲み込むようにアロンダートの唇が重なった。
「っ、ん、ふふ、戯れるな。まだ何も解決していない。」
「…わかっています。が、まだ貴方とのひと時を浸っていたい。」
「何を不安がる、アロンダートはサジのものだ。そんな顔をせずとも、もう印はつけたしなあ。」
サジはくつくつと声を引きずるようにして笑う。とても魔女らしい笑みであった。
均整のとれた美しい体を確かめるように、サジはその逞しい背中に己の腕をゆっくりと回した。収まりの良い位置を探るように、その首筋に擦り寄った。サジの指先が、探るように己のつけた背中の傷に触れる。
行為中、前後不覚の中で爪を立てたのは無意識だ。こんなことをしなくても、もう魔力譲渡はなされていたし、アロンダートの体はサジのものだという匂いづけも済んでいる。
つまり、背中に爪痕を残してしまうほど、サジにも余裕がなかったということだ。
通常なら、王族の御体へと、物理的に爪痕を立てるなどあってはならないことである。しかし、アロンダートにとって、その身に刻まれたサジの爪痕は、この上ない喜びであった。
細い指先が、美しく割れた腹の筋を覆うかのようにして下腹部に触れる。その指先の行き着く先を目で追いかけたアロンダートは、己の体に生じたわかりやすい変化を前に、言葉を失った。
「サジの魔力が宿っているな。お前の二本目の腕が浮かび上がっている。」
「これは、っ…」
サジの手のひらが添えられた下腹部には、見慣れない刺青のようなものが刻まれていた。己の腰の辺りから伸びるその模様は、まさしく猛禽の鉤爪を模している。
王族として、その体に図案を入れるなど、したことは一度もない。もしやこれが纏った呪いの代償かと閉口するアロンダートを前に、サジはそれがどういうものなのかを諭すような口調で語る。
「っ、」
「アロンダート。半魔の母から産まれた子よ。お前は先祖返りをしたのだな。王の持つ聖属性と交わったことで、歪なお前が生まれた。」
アロンダートの母親は、半魔である。そして、その母親から生まれたアロンダートは一際魔力量が多く、忌諱されるべき存在となってしまった。生まれてから物心つくまで、当たり前のように与えられるはずであった母親の愛情はおろか、触れてもらったことすらもなく、今に至る。故に、直接母親から己がどういう存在なのかというのは、聞いたことがなかった。
「先祖、返り…?」
己の母親のことを口伝に聞く。幼い頃の自分は、一体どういう心境で大人の話を聞いていたのだろう。己が母親と同じ半魔だと聞いた時は、繋がりがあることをまず喜んだ。それだけは覚えている。
しかし、半魔であることは、この城においては異分子として扱われる。それは、王の子を孕んだはずのアロンダートの母親でさえ例外ではなかった。
第二皇子として、陽の目を浴びることは愚か、祝福されることもなかった。母親からは疎まれ、城のものからは怯えられる。己の望まぬ玉座をめぐる諍いにも巻き込まれた。
己が半魔だから、愛されないのだろうか。母親は、望まぬ妊娠だったから、愛してくれぬのだろうか。アロンダートの歪さは、年を重ねるごとに顕著になっていった。
そして、制御できぬままに晒した本性、それは、口伝に聞いた母親の本性と、なんら変わりない。己が人間ではないということまざまざと突きつけられ、そして慟哭した。
アロンダートは自身の禍々しい姿を思い出していた。眉間に寄せた皺に、サジの唇が触れる。
たとえどんなに醜い姿でも、目の前の男のために使えるのなら受け入れられると思った。アロンダートを認めてくれ、愛を与えてくれたサジの為ならば、己が魔獣になったとしても構わないと。
アロンダートをまっすぐに見つめるサジは、そのラブラドライトの瞳で心の中を見通すかのようにして、口を開く。
「お前は強い。聖獣のように気高く生きろ。」
「聖獣などと、」
「魔物は元々精霊が侵されて転じる。魔獣とて同じよ。災い転じれば福をなす。先人の言葉はすべてを語る。お前はサジだけの聖獣になればいい。」
黒い毛皮の聖なるもの。サジが口にした言葉が、ゆっくりと体に染み渡る。
そんなこと、言われるとは思っても見なかった。じわりと涙を滲ませたアロンダートが、擦り寄るかのようにしてサジを抱きしめる。
その男らしい体を受け止めたサジは、愛おしむかのようにその黒髪に指を通すと、優しく撫でる。
この人はどうして、欲しい言葉をくれるのだろうか。
サジの言葉に、アロンダートは答えなかった。その華奢な体を腕の中に閉じ込めながら、答える代わりにその頭に鼻先を擦り寄せた。
翌日のことである。
ガタン、という音に反応したアロンダートは、枕の中に隠していた短剣を片手に飛び起きた。
寝込みを襲われないようにと常日頃から意識してきたせいか、体が反応するようになっているのだ。
隣に寝ていたサジがその勢いで起きたらしい。衣擦れの音を立てながら身動ぐと、アロンダートの引き締まった腹に腕を回して、顔を上げる。ボサボサの髪の毛の隙間からアロンダートに目を向けるその表情は、まだ少しだけ眠たそうだった。
「うう、なんだというのだ…」
「サジ様、すみません。」
「くぁ、ふ…」
ぎゅうと抱きついてくるサジの髪の毛を整える。あの後もまた少しだけ盛ってしまい、気絶したサジに回復魔法をかけたのだ。白い肢体に散らされた噛み跡をチラリと見る。やり過ぎたと少しだけ落ち込んだ。
しかし今はそれどころではない。アロンダートは再び室内へと目を向ける。何も見えないが、何かの気配を感じるのだ。
敵意は無く、ただ観察しているようなその視線。
探るように視線を巡らせると、エルマーたちが消えていった隣のドアが独りでに開いた。僅かにできた隙間から、その隙間を縫うようにして気配が遠ざかり、そして再びぱたんと扉が締まった。
「…なんだ、」
「んん、ギンイロだ。…サジたちが終わったかな、と見に来たのだろう。」
気だるげな声で紡がれた言葉に、ギンイロ?と聞き返そうとしたとき、それはもう蹴り開けたといってもいいくらいの大きな音を立てて、勢いよく扉がひらいた。
「おはようクソ野郎。サジ!テメェ途中で空間遮蔽解いてんじゃねえよ!!あんあんあんあんくっっそやかましい!ナナシに聞かせねえようにすんの大変だったんだからなァ!?」
腰にアランをしがみつかせたエルマーが、こめかみに血管を浮かせながら大いにキレていた。仁王立ちをするかのように腕を組み、王族の前でも変わらぬ不遜な態度の不届きものに、アランが悲鳴をあげるように抗議する。
「おはよう御座います殿下。おい!おまえのご挨拶は乱暴すぎる!!あれほど僕は空気を読めと言っただろう!!」
「やかましい!てめぇもいつまで腰に引っ付いてんだ!いい加減離れろってんだこんにゃろ、っ」
くぎぎ、とアランの頭を掴んで無理やり引き剥がすエルマーの背後で、今度は控えめに扉が開く。顔を覗かせたのは顔を赤らめたトッドと耳栓をしたナナシであった。
様子を見る限り、どうやら迷惑をかけたらしい。アロンダートは、ひとまずサジの身体を寝具で隠すと、申し訳無さそうに頭を掻いた。どうやら行為が終わるまで丸一日待たせたらしい。
アロンダート自身も、初めての行為に舞い上がっていた分サジには随分と無理をさせたような気がする。
「すまない、その…」
「い、いえ…無事成されたようで何よりですわ…」
トッドはそう言うと、準備をしていたのかお湯を入れた桶とタオルを持ってくる。侍従二人が気を使う空気の中、呑気なサジは優雅に枕に凭れかると、長い足を組んでエルマーを見た。
「おやまあ、空間遮蔽が切れておったとは。サジをそこまで翻弄させるとはなかなかやりよる。なあ、アロンダートよ。」
「恐れ入ります…といえばいいのですか?」
戸惑いながら顔を赤らめるアロンダートの様子に、エルマーは疲れたような溜息を吐く。そりゃ初めての男がサジならえらいことになっただろう。アロンダートへと向ける視線は、労わり混じりのそれだ。
エルマーからの視線に気がついたアロンダートはというと、少しだけ困ったような表情であった。
「んで、回復したのか。」
「ああ、そうだな…今はすごく、満たされている気分だ。」
「まる一日ヤッてりゃそうなるだろうよ。で、腰のそれ何。」
「…すまない、というか君は誰だ。」
エルマーの問いに質問で返したのは忍びないが、アロンダートは元の姿に戻った後には気絶してしまったので、エルマーもナナシも知らなかった。
恐らくトッド達が連れてきたサジの連れなのだろうが、それにしてもまずは説明が欲しい。
当たり前の反応を返したアロンダートに対してボカンという顔をしたエルマーは、ようやくこちらが一方的に知っていただけだったと思い至ると、バツが悪そうに口をつぐんだ。自己紹介として、まさかサジとの穴兄弟ですというわけにもいくまい。エルマーは少しだけ迷った挙げ句、隣にいたナナシを抱き寄せた。
「安心しろ、俺にはナナシがいるからよ。」
「んえ、あい。ナナシです。」
ギンイロを抱えていたナナシは、トッド達が準備する朝ごはんにきゅるきゅると可愛らしい腹の音を響かせている。食事に気を取られており、あまり話を聞いていなかったのだろう。自己紹介をするのかと元気よくご挨拶をしたが、その反応は相変わらず多少ずれていた。
アロンダートは困ったように、なるほど…。と曖昧に頷くと、助けを求めるようにサジに視線を向ける。
第二皇子であるアロンダートがいくら穏やかだと言っても、粗野なエルマーを前にどうしていいか分からなかったようだ。
「んん?まあ、エルマーには使役してもらってる関係だ。」
「使役…ですか。」
「妙な意味ではないさ。サジはこの通り好きにさせてもらっている。何かあれば力を貸す以外は自由だ。」
「そーそー、毎日一緒にいるわけじゃねえしな。」
「ふふ、そうだなあ。サジは根無し草よ、安心しろ。」
少しだけ不穏さを残す使役という言葉に、もやりとした気持ちを察されたのだろう、ニヤリと笑われて少しだけ尻の座りが悪い。
二人のやりとりを辟易とした顔で見つめていたエルマーの自己紹介は、至って端的であった。
「エルマーだ。悪いやつじゃねえ、多分。」
「それって自分で言うことじゃないと思うわよ。」
呆れた声でトッドに水を差される。話を聞きながら体の清拭をサジの分まで甲斐甲斐しく終わらせたアロンダートは、トッドが用意してくれていたガウンを羽織る。
もの言いたげなトッド達の目が腰から腹にかけて刻まれた入れ墨のような模様に注がれる。そんなに見られたってアロンダートだって説明できない。これは突然現れたのだから。
「んで、どうすんだこれから。」
トッドとアランが用意してくれた人数分の食事を囲みながら、フォークにウィンナーを刺したエルマーが言う。アランは態度を変えないエルマーにタコの魔物のように顔を赤くして怒っているが、不思議な魅力のある男だ。アロンダートはそんなエルマーの態度も腹に据えかねると言うこともなく、そうだなとかえした。
「そもそも呪いを解けって話だったろ。なら解いた今俺らは用済み、見たところ土も関係ねえし。」
「その土が何を指すのかはわからないが、僕を心配してくれてありがとう、二人共。」
「お礼など不要ですわ。ただ、アタシたちの主を無くしたくなかった。それだけのエゴですもの。」
「トッドは優しい。僕はお前たちに甘えてばかりだな。」
優しい目で微笑むアロンダートは、確かに王子の器だ。まあ、エルマーは第一王子がどういう奴だかわからないので、あくまで一個人としての意見だが。
「というか、アロンダートはもうサジのものだ。王族を辞めたいのならサジが手伝ってやるぞ。」
もきゅ、とパンを齧りながらサジが言う。なんならサジの子として養子に貰ってもいいぞとまで言いのけた。エルマーはナナシに出された魚の骨を取ってやりながら、またこいつは周りを振り回すことを言うと頭の痛い思いである。
「何度も言ってるけど、そう簡単に王族からは抜けられないの。ここから出るには、死ぬか結婚の時くらいしかないもの。…それに、穏便に王族を抜けるだなんて…リアルじゃないわ。」
「そうだな、やはり…僕が市井に出る術は。」
「なら死ねばいいだろ。殺されたことにすりゃあいい。」
もしゃもしゃとサラダを食べていたエルマーのあり得ない発言に、六人で囲んだ食卓は静まり返った。
パンをギンイロと分けて食べていたナナシはというと、唐突なエルマーの発言にぽかんとした顔で見上げ、慌てたように嗜める。
「える!だめ!ひどいこという、わるいこ!」
「いや。サジもそう言おうと思っていた。」
「貴方までですか…」
こうして全てを見られ、埋まらない隙間を埋めてくれたサジまでもがそんなことを言うのだ。アロンダートは少しだけ動揺をした。
治安の悪い発言を、王族の私室で宣ったのだ。ピリついた空気に急かされるように席を立った侍従二人は、酷く狼狽えながら、まるで守るかのようにアロンダートの前に立つ。
こんな姿を見られても忠義を尽くす彼らに、少しだけ泣きそうになった。
「まって、そんな発言許されないわ。」
「そうだ!殿下は僕らの主だぞ!?あまり舐めた真似をしてくれるなよ!?」
悪気なく、不敬極まりない発言を口にしたエルマーとサジはお互いに顔を見合わせた。二人だけ、なんで怒られているのかがわからないといった具合にだ。
しかし、アロンダートが悲しそうに俯くのを見て、ようやくエルマーは合点がいった。
毎回後になって気がつくが、エルマーは説明を省く節がある。サジはじとりとエルマーに目配せをすると、何故か舌打ちで返された。解せぬ。
エルマーは少しだけばつが悪そうにすると、もう一度端的に、そして今度こそきちんとわかりやすく宣った。
「だから、あるじゃん。仮死薬。」
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鳥羽ミワ
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ミルはとある貴族の家で使用人として働いていた。そこの末息子・レオンは、不吉な赤目や強い黒魔力を持つことで忌み嫌われている。それを見かねたミルは、レオンを離れへ隔離するという名目で、彼の面倒を見ていた。
そんなある日、魔王復活の知らせが届く。レオンは勇者候補として戦地へ向かうこととなった。心配でたまらないミルだが、レオンはあっさり魔王を討ち取った。
これでレオンの将来は安泰だ! と喜んだのも束の間、レオンはミルに求婚する。
「俺はずっと、ミルのことが好きだった」
そんなこと聞いてないが!? だけどうるうるの瞳(※ミル視点)で迫るレオンを、ミルは拒み切れなくて……。
お人よしでほだされやすい鈍感使用人と、彼をずっと恋い慕い続けた令息。長年の執着の粘り勝ちを見届けろ!
※エブリスタ様、カクヨム様、pixiv様にも掲載しています
【完結】第三王子は、自由に踊りたい。〜豹の獣人と、第一王子に言い寄られてますが、僕は一体どうすればいいでしょうか?〜
N2O
BL
気弱で不憫属性の第三王子が、二人の男から寵愛を受けるはなし。
表紙絵
⇨元素 様 X(@10loveeeyy)
※独自設定、ご都合主義です。
※ハーレム要素を予定しています。
【完結】悪役令息の従者に転職しました
*
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
本編完結しました!
時々おまけのお話を更新しています。
美少年に転生したらヤンデレ婚約者が出来ました
SEKISUI
BL
ブラック企業に勤めていたOLが寝てそのまま永眠したら美少年に転生していた
見た目は勝ち組
中身は社畜
斜めな思考の持ち主
なのでもう働くのは嫌なので怠惰に生きようと思う
そんな主人公はやばい公爵令息に目を付けられて翻弄される
普段「はい」しか言わない僕は、そばに人がいると怖いのに、元マスターが迫ってきて弄ばれている
迷路を跳ぶ狐
BL
全105話*六月十一日に完結する予定です。
読んでいただき、エールやお気に入り、しおりなど、ありがとうございました(*≧∀≦*)
魔法の名手が生み出した失敗作と言われていた僕の処分は、ある日突然決まった。これから捨てられる城に置き去りにされるらしい。
ずっと前から廃棄処分は決まっていたし、殺されるかと思っていたのに、そうならなかったのはよかったんだけど、なぜか僕を嫌っていたはずのマスターまでその城に残っている。
それだけならよかったんだけど、ずっとついてくる。たまにちょっと怖い。
それだけならよかったんだけど、なんだか距離が近い気がする。
勘弁してほしい。
僕は、この人と話すのが、ものすごく怖いんだ。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
【完結】ここで会ったが、十年目。
N2O
BL
帝国の第二皇子×不思議な力を持つ一族の長の息子(治癒術特化)
我が道を突き進む攻めに、ぶん回される受けのはなし。
(追記5/14 : お互いぶん回してますね。)
Special thanks
illustration by おのつく 様
X(旧Twitter) @__oc_t
※ご都合主義です。あしからず。
※素人作品です。ゆっくりと、温かな目でご覧ください。
※◎は視点が変わります。
【完結】伴侶がいるので、溺愛ご遠慮いたします
*
BL
3歳のノィユが、カビの生えてないご飯を求めて結ばれることになったのは、北の最果ての領主のおじいちゃん……え、おじいちゃん……!?
しあわせの絶頂にいるのを知らない王子たちが吃驚して憐れんで溺愛してくれそうなのですが、結構です!
めちゃくちゃかっこよくて可愛い伴侶がいますので!
本編完結しました!
リクエストの更新が終わったら、舞踏会編をはじめる予定ですー!
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