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シュマギナール皇国編
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屋敷の中は埃避けの布がかけられており、瀟洒な室内は蜘蛛の巣の張ったシャンデリアや、陰気な表情の肖像画がエントランスを見下ろす様に飾ってあった。
蝶番を軋ませながら閉まる扉が不安を煽る。外の僅かな光源も遮る室内は、アランが灯したランタンの灯りだけが頼りだ。
薄暗い室内とその雰囲気に怯えたらしい。ナナシの小さな喉仏がこくりと動き、もはやぬいぐるみのような扱いのギンイロをぎゅっと抱きしめる。怖いけれど、案内をされたと言うことは、ここに人が住んでいるということだろう。ナナシはエルマーの背に隠れるようにしながら、そっと縋るように服の裾を握りしめる。エルマー達三人はトッドとアランの案内で、床を軋ませながら屋敷の中を進んだ。
「ぼろっちい。ほんとにここにいるのか?」
「ここは、王子の部屋から通じている隠し通路の出口なの。アラン、そこの肖像画を外してちょうだい。」
「わかった。」
エルマーの訝しげな問いに、トッドが答える。隠し通路の出口がこの屋敷とはずいぶん趣味がいい。エルマーは腰にくっつくナナシの肩を抱き寄せるようにして手を回す。
トッドの指示で、アランが廊下の行き止まりに飾られた婦人の肖像画を外す。どうやらここが隠し通路に繋がっているらしい。絵の額縁につけられた留め具を決められた方向に動かした後、再び元の位置へ戻すと、仄かに絵の周りが光った。
微かな魔力を感じる、どうやら隠し扉を出現させる為のギミックのようで、アランは額縁を持ったまま、絵を逆さに回転させた。
ガチン、という硬質な音とともに、エルマーたちの真横の壁が微かに揺れ、壁紙に擬態していた扉が現れる。砂壁を潜るように入るジルバの家とは大違いである。慣れているのだろう、淡々と作業をしたトッドたちの背後で、表情には出さなかったが、エルマーは目を見張っていた。見事な技術である。こういうギミックは男心を擽るのだ。
「なあ、俺らにそのギミックを見せていいのか?」
「勿論、だって日によってこのドアの絵と扉は移動するもの。それがわかるのは、アタシとアランだけ。」
「まったく大した職人だな。サジはこんな魔力の使い方をするやつ知らんぞ。」
感心混じりの声ではあるが、その精緻な作りは余程の職人気質でないと作れない。若干の呆れも混ぜながら宣うと、そっと扉が現れた壁に触れる。
なるほど、異空間魔法の応用である。ここの屋敷の壁全体が出口でもあり入口になるらしい。壁紙に混ぜ込まれた魔石の粉末が、それを可能にしていると言うことか。
検分をするサジの横で、ナナシも目を輝かせながら小さな手のひらを壁に添える。どうやらナナシの心も擽ったらしい。
「それは、元気になった王子に直接言ってちょうだい。ここの屋敷のギミックは、全部アロンダート様が趣味で作られたものだもの。」
「こら!御名を軽々と口にするな!」
「あら、アランだって王子が褒められて嬉しいくせに。」
第二王子の卓越した技術は部下である二人も誇りに思っているらしい。職人気質ではあるが、頭でっかちな考えを持つと言うわけでもなく、実に柔軟なものの見方をするようだ。下手な魔道具技師よりも才能がある。市井で暮らしたいという話を聞いた時は、一体どんな世間知らずのお坊ちゃまかと思っていたエルマーは、認識を改めざるを得ない。
ギミックによって壁に現れた扉を開いてくと、地下へと続く階段が姿を現した。数歩先は足元が見えないほどの暗闇だ。エルマーはナナシの手を握ると、トッドを先頭に五人と一匹は王子の私室に向かって歩みを進める。
階段を降りて行けば、魔力に反応して仄かに辺りを緑がかった光が照らす。目を配れば、壁に彫り込まれた溝が、微かな光源を放っていた。
魔力に反応するヒカリゴケの一種を植えているらしく、思っていたよりも歩みはスムーズであった。
溝や天井、靴音を響かせる石畳など、深部に進むに連れてその幻想的な緑の光は少しずつ増えていく。ギンイロはその毛並みに光を反射させながら、ナナシとともにキラキラした目つきで視線を巡らせる。
気づけば石畳の道は終わり、ふかふかとした苔の道になる。弾力性のあるその床は足音を消してくれるようで、靴の汚れも吸い付いて落としてくれるらしい。細かいところまで行き届いた配慮は、部下を慮らなければ思い至らない事だろう。
これも、自身と違い外界への出入りが多いトッドたちが気負わないようにと、王子が自分で気がついて施したらしい。
「すげえな。なんつーか、気を使いまくってる?」
「優しい方なの。いつも私達に謝ってばかりよ。」
「かの方は、すまないが口癖だ。いい意味で王族らしくはない、本当に周りをよく見てくださる方なんだ。」
アランもトッドも、心底己の主に忠誠をつくしているらしい、語る言葉には親愛が滲み出ていた。
やがて一行は第二王子の部屋の前に到着した。塞がれた石の扉を一枚隔てたその場所からは、仄かに煤のような嫌な匂いが漂う。
見知ったそれは、呪いの香りだ。濃ければ濃いほどその呪い強いことを意味する。
サジもエルマーも、嫌というほど鼻に記憶させられた。幽鬼とやり合えば自然と覚える。つまりはそれほどそう言った危険な戦闘が多かったということだった。
くん、と鼻を鳴らしたギンイロが、その瞳に警戒の色味を宿す。精霊にとって呪いの穢れは忌諱すべきもの。その身に纏う銀色の毛並みをブワリと逆立てると、その犬歯を剥き出しにして威嚇した。
「ギンイロ、っ」
「下がってな、サジ。お前はこい。」
「うげ。」
ギンイロの毛並みを撫でるようにして宥めるナナシを、背後に回すようにして二人が歩み出る。サジもエルマーも、おそらくこの先の戦闘が面倒臭いものになるだろうということは理解した。
様子の変わった二人に、トッドとアランは戸惑ったような反応を返す。緊迫感のある空気が、静かにその場を支配した。
「やだ、ちょっとまって…なんでそんな戦闘態勢なのよ。」
「俺らと合流する前、王子はどんな様子だった。」
「顔色は悪いけど、いつも通りだったわ。」
いつも通り、というのはあてにならない。扉の向こう側にいる第二王子が部下に気を使う人物だということは、ここに来るまでの道中で散々に聞かされている。
エルマーは中身のない返事を装いながら逡巡した。石の扉から滲み出るほどの呪いの匂いだ。一体どこまで侵食しているのかと。
「ふうん、サジ。」
「五分五分だ。煤の臭いが強い。精神が強ければ、軽度で済むだろう。」
「まて、お前たちはなにを…っ、」
アランが警戒するように、腰の得物に手をかける。トッドも習うように身構えようとした瞬間、ズシン、という重々しい音と共に、背後の石の扉が揺れた。相当な重さのものがぶつかったのだろう。振動が響いたことで、五人の頭上から埃に混じって礫も降ってくる。
扉の内側からでもわかる異常な状況に、トッドはごくりと喉を鳴らす。急かされるように、扉を開くためのギミックである、突き出た石の一つに手をかけると、それを強く押し込んだ。
壁の内側で、太い鎖の巻き上がる音が響く。埃混じりの煙が石の扉を飲み込んでいくと同時に、噴き上げるように下から煤の匂いが流れ込む。
本来ならば、漏れ出るであろう光に備え、トッドとアランが視界を守るように顔の前に手を翳す。その真横を、滑り込む勢いで、エルマーとサジが通り抜けた。
「誰だ五分五分って言った奴はァ!」
「さて、なんのことやら。」
目の前に広がった黒く煤臭い靄の中から、影から引きずり出るかのように、第二王子だったであろう魔獣が姿を表す。サジの白いローブを、黒く覆うほどの呪いだ。エルマーは手早くインベントリから大鎌を取り出す。
「い、ぁ゛、ああーあ、ぁい、いた、うぐ、あ、あ、あー‥は、ぁは、は」
金属を傷つけるかのような不快音を、何重にも重ねたかのような複音の声が木霊する。
瘴気混じりの蠢く体毛を壁中に張り巡らせた魔獣は、喘ぐように呼吸を繰り返す。太い首から出ているとは思えないほどの細い音は、肺が酷使されている証拠だった。
その身を隠すかのように、鉤爪のついた大きな手で頭を抱えて蹲る。背中から飛び出した棘のようなものからは、夥しい量の血を滴らせ、部屋の中には、黒い靄をちぎり取ったかのような黒い羽が散らばっている。
時折反射で極彩色の光沢を放つそれは、魔獣がのたうち回るたびに幻想的に舞っていた。
部屋全体が、その漆黒の体毛と不気味な羽の色で占められていた。極彩色の光沢が輪郭をなぞるようにして、その巨躯を縁取る。
この部屋にいるのが王子と言われなければ、ひと息に殺していただろう。それくらいの醜悪さを伴って、呪いはその身を犯していた。
「名前を言え!理性があるのなら、己の名を叫ぶがいい!」
背後で悲鳴をあげるトッド達に見向きもせず、エルマーよりも早く飛び出すと、サジはその両手を重ね、水平に空を切るかのように振り抜いて杖を召喚する。捻れたような太い木の枝で出来たそれは、生命の大樹の枝で作られたものだ。それが、光源を纏いながらサジの手に収まる。
「ぁ、あは、あ、あぎゅ、っ、ぐ、う、う、ぇ、あ、」
「戻りたいのだろう!お前の名はなんだ!」
己の目の前に躍り出たサジを見下ろすようにして、魔獣が首をもたげる。嘴のような部分からゴパリと吐き出された体液が、足元に血溜まりを作る。それすら厭わずに足を踏み出すと、その白いローブにじんわりと黒い血が滲む。
声に魔力を乗せているのだろう。サジの声は不思議な揺らぎを纏い、魔獣化した王子の元へと運ばれる。
時間は一刻を争う、その金色の瞳に理性が宿っているうちに、全てを終えなくてはならない。
「あ、アど、ぉ、おっんん、グァ、あ、あド、ーー‥ぁ、あは、ハ」
「ふむ、まだいけるな。」
「あ、あど、ぉ、オぁ、あは、あー‥ハは、 は、ドォ、お、っ」
狭い室内の壁を這うように、黒い体毛が蜘蛛の巣のように侵食していく。真っ黒の巨躯の魔獣は、喉奥からギィギィと不気味な声で何かを訴えるかのようにして、サジにその嘴を向けるのだ。
「ひぅ、…っ」
「大丈夫だ、多分な…」
エルマーは、怯えるナナシを庇うように、前に歩み出る。戦闘要員でもあるはずのトッドとアランは、その身を縛られたように動けなくなっている。よほどショックな光景だったらしい。エルマーは、戦いになった場合を仮定するように思考を巡らせる。握りしめた大鎌が、出番を待つようにちゃきりと鳴いた。
不快だ、不快な音だ。
黒曜石のようなつるりとした嘴をぐぱりと開き、背中の棘を威嚇の様に震わせながらズルズルと後退りする。
相対するように真っ白なサジは、怖じることなくその巨躯へ歩み寄った。大きな嘴を撫でるかのように嫋やか手で触れると、その手のひらを滑らせて、鋭利な魔獣の嘴をその身で抑え込むようにして抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だ可愛い子よ。産まれたての者が何もわからないのは当たり前だろう。ほら、ゆっくりと呼吸をしてごらん。この音に耳を傾けよ。」
サジの細腕が、耳と思われる飾り羽の部分に触れる。魔力で作り上げた音に乗せた、ピンクノイズだ。まるで母の胎内にいるかのような不思議な音は、華奢な男に抱きしめられたことで巨躯を縮こませた魔獣の荒い呼吸を、徐々に落ち着かせる。
やがて鉤爪のついた手がゆるゆると己の頭から外されると、魔獣を抱き込むサジの体に、恐る恐る腕が回された。
「サジ、」
「だあいじょうぶだ。サジは死なない、うふふ、泣き虫な赤子だなあ。よしよし、お前の名前をサジに教えてくれ。」
優しげな声が緊迫感を和らげる。サジの体に危害を加えるかと身構えたエルマーを制すと、サジはそっと頬を嘴に寄せた。
エルマーの目の前で、サジは胸に抱いた魔獣の毛並みに沿って体を撫でてやる。
その巨躯からは想像し得ないか細い声を喉から漏らすと、その背中に突き出た棘は、徐々に折りたたまれていく。
魔獣はまるで犬のようにお座りをしたまま、その二本目の腕でサジをしっかりと抱き締め離そうとしない。恐慌状態から落ち着いたその瞳は、先ほどのように揺らいではいなかった。
その頭をゆっくりともたげたかと思えば、サジの胸元に擦り付けるようにして首を垂れる。服從の証だ。サジはうっとりと目を細めると、魔獣の顔をその手でゆっくりと引き寄せる。
「いいこ、」
嘴の僅かな隙間から、手を差し込み開かせる。分厚い舌を手で掬い上げるようにして持ち上げると、舌先に甘く吸い付いた。
魔獣の金色の瞳が、キュウと細まる。その身を震わすようにして体毛を逆立てると、その身に纏う毛並みの中に黒い羽も混じっていることが見てとれた。極彩色の羽が数枚落ちる。
嘴を閉じてしまったら、サジを傷つけてしまうだろう。それを気にしているのか、魔獣はサジにされるがまま、お行儀よく足を揃えて縮こまる。
サジは満足そうにその身をゆっくりと離すと、大人しくなった魔獣を前に緩く微笑みを浮かべた。
「もう一度聞こう。サジに名前を教えてくれ。」
「あ、ロん…だぁ、」
「うまいぞ、その調子だ。」
人間と、舌の作りが違うせいだろうか。魔獣は嘴を下手くそに動かしながら、何度も辿々しく言葉を紡ぐ。求められるままに、名前を差し出したかったのだ。
サジは待った。たとえ時間がかかったとしても、己の名前をきちんと口にすることが、本来の姿を忘れさせないための縁だと知っていたからだ。
「あ、ロンだ、ァー、と、」
「アロンダート、ふふ、可愛いサジのアロンダートよ。お前は頭がいい。受けた呪いを魔獣になることで祓おうとしたのだな。」
サジはきちんと理解していた。第二王子であるアロンダートが、一体どんな思いでその身を転化させたのかを。
きっと、その身を犯されて恐ろしかったに違いない。日に日に侵食していく呪いに抗う為には、それ以上の力で振り払わなくてはいけない。
アロンダートは、トッドたちが市井にでた今日がチャンスだと思ったのだ。そうして、不慣れな転化を行ったせいで体に負荷がかかった。
喉を鳴らして答えるアロンダートの瞳は、段々と落ち着きを取り戻す。未だ立ち尽くしたまま、絶句しているアランとトッドは、目の前の魔獣の変わりようを、呆気に取られたように見つめていた。
サジの胸にその嘴を擦りつけて甘える姿なんて、猫のようだ。その喉から響く複音も、徐々に王子の声と重なるようにして戻ってきていることに気がついた。
「さ、ジ」
「なんだ。」
「も、ドリ、たイ」
親から転化を解く方法を教わらなかったアロンダートは、どうやら呪いを祓うことには成功したが、その後のことは考えてはいなかったらしい。聡明な第二王子も、それほどまでに恐慌していたということだ。
煤の匂いは祓った直後の呪いが充満していたものだったようで、急な転化に体が持たずに苦しみのたうち回ったらしい。
「アロンダート、サジの子よ。お前はトリガーワードでその身を縛らねばならない。ふむ、そうだなあ。」
サジはその手で労わるようにアロンダートを撫でながら、思考を巡らせる。あのジルバでさえも、恐れを成した者の怯える声でトリガーワードを紡がれなければ、魔力の抑制が出来ずただの蜘蛛の魔物として理性を無くす恐れがあるのだ。
つまり、トリガーワードとは、半魔のものが転化しても理性を保つのに必要な言葉の枷である。
初めての転化で、その身を魔獣に変えたアロンダートの理性が焼き切れなかったのは、相当な精神力によるものだ。
いち早くその手を差し伸べたサジが、アロンダートを真っ直ぐに見つめる。
「お前は、愛を込めて名前を呼ばれることを望むか。」
嘴のついた、猛禽にも似た顔をそっと撫でる。半魔のものを縛る言葉の枷は、その物によって様々だ。ジルバは他者からの畏怖を、アロンダートは、与えられなかった愛を欲しがった。
トリガーワードは自分で見つけるものだ。そして、サジはその答えを知っていた。
「アロンダート、サジはお前を呼ぶよ。愛しているとお前の名前を呼ぶ。トリガーワードは、アロンダート。お前の名前だ。」
その瞬間、アロンダートの体内を駆け巡った感覚は、筆舌にしがたい。細胞の一粒でさえ震えてしまうほどの歓喜は、身の内の乾いた土壌を潤す。こんなにも満たされることが、許されるのだろうか。今なら、口に出来なかった言葉を、請い願っても許されるのだろうか。
「あ、いしテ。」
「勿論だ、アロンダート。」
サジの言葉に、アロンダートの瞳からはぼろりと大粒の涙が零れ落ちた。不遇の第二王子は、与えられるはずだった母からの愛を、ずっと求めていた。
母から愛を持って名前を呼ばれたかった。愛されたかったのだ。
当たり前を与えられなかった心を満たしたのは、目の前の一人の魔女であった。
醜悪な見た目も厭わずに、手を差し伸べてくれた、サジその人であった。
空気に溶けるように、黒い羽毛が消えていく。サジを抱きしめていた猛禽の腕が、男らしい褐色の青年の腕に変わった。背中の棘が消え、まるで黒い炎を纏っていたかのように広げていた羽までもが跡形もなく消え去った。
エルマー達の前に、本来の姿を取り戻したアロンダートが姿を表す。その腕は、サジの細い腰に回されたまま、肩を震わせながら嗚咽を漏らす。
「…っ、アロン、ダート…!僕の名は…っ、アロン、ダートだ…!」
「知っている、アロンダート。うふふ、サジのものになれ。サジをその身で守れ、アロンダート。」
アロンダートの顔を覆うように、サジがその掌で包み込む。手のひらは暖かかった。そして、優しかった。
向けられたラブラドライトの瞳には、涙で濡れた己の顔が写り込んでいる。今、サジの視界にいるのは己だけなのだ。その事実が、アロンダートの心を満たす。
金色だった瞳は、いつしかとろりと輝きを帯びる琥珀の色に変わっていた。サジはそっとその胸にアロンダートの頭を抱き込むと、まるで甘やかすように髪を手で梳きながら頬擦りをする。
「アロンダートよ。お前の身体は大人でも、まだまだ内側は子供だなあ。お前の中の獣がずっと泣いている。」
「サジ様、」
「その身の内に仕舞い込んでいるのがお前の本性だ。何も恥じることはない、これからサジがお前を愛して、怖いものから守ってやろうなあ。」
間伸びした声は、もしかしたら悪魔の囁きなのかもしれない。そう思ってしまうほど、サジがアロンダートへと向ける言葉は麻薬的な睦言に聞こえるのだ。
ぐすりと鼻を啜る。暖かな腕の中は、ずっと焦がれてきたものだった。
半魔の母から産まれたアロンダートは、その腕の暖かさを知らなかった。豊かな金髪の父と赤い髪を持つ母から産まれた黒い髪のアロンダート。
男で、しかも王の血筋だ。第一王子はいたが、一人じゃ心許ないと、予備として召し上げられた。
産まれたときから母から疎まれてた。物心ついてから耳にしたのは、口差がない物たちの囀るような憐憫の言葉。
どうやら母親は、王によって無理やり手籠めにされたらしい。その事実を知ってから、全ての物事が一つの線で繋がった。
思えば、与えられるのは恨みのこもった言葉ばかり向けられてきた。乳母は居たが、半魔の母に怯えてまともに育ててはくれなかった。
同じ後宮につかえていた年老いた侍女が、こそりと面倒を見てくれなければ、アロンダートはこうして今も生きてはいなかったかもしれない。
「サジ様、」
「眠れ。お前は疲れているだろう。体だってボロボロだ。なあに、寝ている間に治してやる。今はゆっくりと休むが良い。」
額に唇を落とされ、まるでそれが呼び水の様にして、アロンダートの体を睡魔が襲う。
ああ、まだ眠りたくないな。アロンダートは微睡む視界の中で、サジを見つめる。その頬に触れようとして持ち上げた手は、頬を掠めることもなく降ろされた。整った顔から一粒涙を零し、その身は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。アロンダートの体を、サジが細腕で受け止めた。
エルマーは、サジがアロンダートを抱きしめながら口付けを落とす姿を、黙って見つめていた。
サジに救われたのが幸か不幸かはわからない。ただ、母のように微笑むサジを見て、この流れが計算ではないことを祈った。
蝶番を軋ませながら閉まる扉が不安を煽る。外の僅かな光源も遮る室内は、アランが灯したランタンの灯りだけが頼りだ。
薄暗い室内とその雰囲気に怯えたらしい。ナナシの小さな喉仏がこくりと動き、もはやぬいぐるみのような扱いのギンイロをぎゅっと抱きしめる。怖いけれど、案内をされたと言うことは、ここに人が住んでいるということだろう。ナナシはエルマーの背に隠れるようにしながら、そっと縋るように服の裾を握りしめる。エルマー達三人はトッドとアランの案内で、床を軋ませながら屋敷の中を進んだ。
「ぼろっちい。ほんとにここにいるのか?」
「ここは、王子の部屋から通じている隠し通路の出口なの。アラン、そこの肖像画を外してちょうだい。」
「わかった。」
エルマーの訝しげな問いに、トッドが答える。隠し通路の出口がこの屋敷とはずいぶん趣味がいい。エルマーは腰にくっつくナナシの肩を抱き寄せるようにして手を回す。
トッドの指示で、アランが廊下の行き止まりに飾られた婦人の肖像画を外す。どうやらここが隠し通路に繋がっているらしい。絵の額縁につけられた留め具を決められた方向に動かした後、再び元の位置へ戻すと、仄かに絵の周りが光った。
微かな魔力を感じる、どうやら隠し扉を出現させる為のギミックのようで、アランは額縁を持ったまま、絵を逆さに回転させた。
ガチン、という硬質な音とともに、エルマーたちの真横の壁が微かに揺れ、壁紙に擬態していた扉が現れる。砂壁を潜るように入るジルバの家とは大違いである。慣れているのだろう、淡々と作業をしたトッドたちの背後で、表情には出さなかったが、エルマーは目を見張っていた。見事な技術である。こういうギミックは男心を擽るのだ。
「なあ、俺らにそのギミックを見せていいのか?」
「勿論、だって日によってこのドアの絵と扉は移動するもの。それがわかるのは、アタシとアランだけ。」
「まったく大した職人だな。サジはこんな魔力の使い方をするやつ知らんぞ。」
感心混じりの声ではあるが、その精緻な作りは余程の職人気質でないと作れない。若干の呆れも混ぜながら宣うと、そっと扉が現れた壁に触れる。
なるほど、異空間魔法の応用である。ここの屋敷の壁全体が出口でもあり入口になるらしい。壁紙に混ぜ込まれた魔石の粉末が、それを可能にしていると言うことか。
検分をするサジの横で、ナナシも目を輝かせながら小さな手のひらを壁に添える。どうやらナナシの心も擽ったらしい。
「それは、元気になった王子に直接言ってちょうだい。ここの屋敷のギミックは、全部アロンダート様が趣味で作られたものだもの。」
「こら!御名を軽々と口にするな!」
「あら、アランだって王子が褒められて嬉しいくせに。」
第二王子の卓越した技術は部下である二人も誇りに思っているらしい。職人気質ではあるが、頭でっかちな考えを持つと言うわけでもなく、実に柔軟なものの見方をするようだ。下手な魔道具技師よりも才能がある。市井で暮らしたいという話を聞いた時は、一体どんな世間知らずのお坊ちゃまかと思っていたエルマーは、認識を改めざるを得ない。
ギミックによって壁に現れた扉を開いてくと、地下へと続く階段が姿を現した。数歩先は足元が見えないほどの暗闇だ。エルマーはナナシの手を握ると、トッドを先頭に五人と一匹は王子の私室に向かって歩みを進める。
階段を降りて行けば、魔力に反応して仄かに辺りを緑がかった光が照らす。目を配れば、壁に彫り込まれた溝が、微かな光源を放っていた。
魔力に反応するヒカリゴケの一種を植えているらしく、思っていたよりも歩みはスムーズであった。
溝や天井、靴音を響かせる石畳など、深部に進むに連れてその幻想的な緑の光は少しずつ増えていく。ギンイロはその毛並みに光を反射させながら、ナナシとともにキラキラした目つきで視線を巡らせる。
気づけば石畳の道は終わり、ふかふかとした苔の道になる。弾力性のあるその床は足音を消してくれるようで、靴の汚れも吸い付いて落としてくれるらしい。細かいところまで行き届いた配慮は、部下を慮らなければ思い至らない事だろう。
これも、自身と違い外界への出入りが多いトッドたちが気負わないようにと、王子が自分で気がついて施したらしい。
「すげえな。なんつーか、気を使いまくってる?」
「優しい方なの。いつも私達に謝ってばかりよ。」
「かの方は、すまないが口癖だ。いい意味で王族らしくはない、本当に周りをよく見てくださる方なんだ。」
アランもトッドも、心底己の主に忠誠をつくしているらしい、語る言葉には親愛が滲み出ていた。
やがて一行は第二王子の部屋の前に到着した。塞がれた石の扉を一枚隔てたその場所からは、仄かに煤のような嫌な匂いが漂う。
見知ったそれは、呪いの香りだ。濃ければ濃いほどその呪い強いことを意味する。
サジもエルマーも、嫌というほど鼻に記憶させられた。幽鬼とやり合えば自然と覚える。つまりはそれほどそう言った危険な戦闘が多かったということだった。
くん、と鼻を鳴らしたギンイロが、その瞳に警戒の色味を宿す。精霊にとって呪いの穢れは忌諱すべきもの。その身に纏う銀色の毛並みをブワリと逆立てると、その犬歯を剥き出しにして威嚇した。
「ギンイロ、っ」
「下がってな、サジ。お前はこい。」
「うげ。」
ギンイロの毛並みを撫でるようにして宥めるナナシを、背後に回すようにして二人が歩み出る。サジもエルマーも、おそらくこの先の戦闘が面倒臭いものになるだろうということは理解した。
様子の変わった二人に、トッドとアランは戸惑ったような反応を返す。緊迫感のある空気が、静かにその場を支配した。
「やだ、ちょっとまって…なんでそんな戦闘態勢なのよ。」
「俺らと合流する前、王子はどんな様子だった。」
「顔色は悪いけど、いつも通りだったわ。」
いつも通り、というのはあてにならない。扉の向こう側にいる第二王子が部下に気を使う人物だということは、ここに来るまでの道中で散々に聞かされている。
エルマーは中身のない返事を装いながら逡巡した。石の扉から滲み出るほどの呪いの匂いだ。一体どこまで侵食しているのかと。
「ふうん、サジ。」
「五分五分だ。煤の臭いが強い。精神が強ければ、軽度で済むだろう。」
「まて、お前たちはなにを…っ、」
アランが警戒するように、腰の得物に手をかける。トッドも習うように身構えようとした瞬間、ズシン、という重々しい音と共に、背後の石の扉が揺れた。相当な重さのものがぶつかったのだろう。振動が響いたことで、五人の頭上から埃に混じって礫も降ってくる。
扉の内側からでもわかる異常な状況に、トッドはごくりと喉を鳴らす。急かされるように、扉を開くためのギミックである、突き出た石の一つに手をかけると、それを強く押し込んだ。
壁の内側で、太い鎖の巻き上がる音が響く。埃混じりの煙が石の扉を飲み込んでいくと同時に、噴き上げるように下から煤の匂いが流れ込む。
本来ならば、漏れ出るであろう光に備え、トッドとアランが視界を守るように顔の前に手を翳す。その真横を、滑り込む勢いで、エルマーとサジが通り抜けた。
「誰だ五分五分って言った奴はァ!」
「さて、なんのことやら。」
目の前に広がった黒く煤臭い靄の中から、影から引きずり出るかのように、第二王子だったであろう魔獣が姿を表す。サジの白いローブを、黒く覆うほどの呪いだ。エルマーは手早くインベントリから大鎌を取り出す。
「い、ぁ゛、ああーあ、ぁい、いた、うぐ、あ、あ、あー‥は、ぁは、は」
金属を傷つけるかのような不快音を、何重にも重ねたかのような複音の声が木霊する。
瘴気混じりの蠢く体毛を壁中に張り巡らせた魔獣は、喘ぐように呼吸を繰り返す。太い首から出ているとは思えないほどの細い音は、肺が酷使されている証拠だった。
その身を隠すかのように、鉤爪のついた大きな手で頭を抱えて蹲る。背中から飛び出した棘のようなものからは、夥しい量の血を滴らせ、部屋の中には、黒い靄をちぎり取ったかのような黒い羽が散らばっている。
時折反射で極彩色の光沢を放つそれは、魔獣がのたうち回るたびに幻想的に舞っていた。
部屋全体が、その漆黒の体毛と不気味な羽の色で占められていた。極彩色の光沢が輪郭をなぞるようにして、その巨躯を縁取る。
この部屋にいるのが王子と言われなければ、ひと息に殺していただろう。それくらいの醜悪さを伴って、呪いはその身を犯していた。
「名前を言え!理性があるのなら、己の名を叫ぶがいい!」
背後で悲鳴をあげるトッド達に見向きもせず、エルマーよりも早く飛び出すと、サジはその両手を重ね、水平に空を切るかのように振り抜いて杖を召喚する。捻れたような太い木の枝で出来たそれは、生命の大樹の枝で作られたものだ。それが、光源を纏いながらサジの手に収まる。
「ぁ、あは、あ、あぎゅ、っ、ぐ、う、う、ぇ、あ、」
「戻りたいのだろう!お前の名はなんだ!」
己の目の前に躍り出たサジを見下ろすようにして、魔獣が首をもたげる。嘴のような部分からゴパリと吐き出された体液が、足元に血溜まりを作る。それすら厭わずに足を踏み出すと、その白いローブにじんわりと黒い血が滲む。
声に魔力を乗せているのだろう。サジの声は不思議な揺らぎを纏い、魔獣化した王子の元へと運ばれる。
時間は一刻を争う、その金色の瞳に理性が宿っているうちに、全てを終えなくてはならない。
「あ、アど、ぉ、おっんん、グァ、あ、あド、ーー‥ぁ、あは、ハ」
「ふむ、まだいけるな。」
「あ、あど、ぉ、オぁ、あは、あー‥ハは、 は、ドォ、お、っ」
狭い室内の壁を這うように、黒い体毛が蜘蛛の巣のように侵食していく。真っ黒の巨躯の魔獣は、喉奥からギィギィと不気味な声で何かを訴えるかのようにして、サジにその嘴を向けるのだ。
「ひぅ、…っ」
「大丈夫だ、多分な…」
エルマーは、怯えるナナシを庇うように、前に歩み出る。戦闘要員でもあるはずのトッドとアランは、その身を縛られたように動けなくなっている。よほどショックな光景だったらしい。エルマーは、戦いになった場合を仮定するように思考を巡らせる。握りしめた大鎌が、出番を待つようにちゃきりと鳴いた。
不快だ、不快な音だ。
黒曜石のようなつるりとした嘴をぐぱりと開き、背中の棘を威嚇の様に震わせながらズルズルと後退りする。
相対するように真っ白なサジは、怖じることなくその巨躯へ歩み寄った。大きな嘴を撫でるかのように嫋やか手で触れると、その手のひらを滑らせて、鋭利な魔獣の嘴をその身で抑え込むようにして抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だ可愛い子よ。産まれたての者が何もわからないのは当たり前だろう。ほら、ゆっくりと呼吸をしてごらん。この音に耳を傾けよ。」
サジの細腕が、耳と思われる飾り羽の部分に触れる。魔力で作り上げた音に乗せた、ピンクノイズだ。まるで母の胎内にいるかのような不思議な音は、華奢な男に抱きしめられたことで巨躯を縮こませた魔獣の荒い呼吸を、徐々に落ち着かせる。
やがて鉤爪のついた手がゆるゆると己の頭から外されると、魔獣を抱き込むサジの体に、恐る恐る腕が回された。
「サジ、」
「だあいじょうぶだ。サジは死なない、うふふ、泣き虫な赤子だなあ。よしよし、お前の名前をサジに教えてくれ。」
優しげな声が緊迫感を和らげる。サジの体に危害を加えるかと身構えたエルマーを制すと、サジはそっと頬を嘴に寄せた。
エルマーの目の前で、サジは胸に抱いた魔獣の毛並みに沿って体を撫でてやる。
その巨躯からは想像し得ないか細い声を喉から漏らすと、その背中に突き出た棘は、徐々に折りたたまれていく。
魔獣はまるで犬のようにお座りをしたまま、その二本目の腕でサジをしっかりと抱き締め離そうとしない。恐慌状態から落ち着いたその瞳は、先ほどのように揺らいではいなかった。
その頭をゆっくりともたげたかと思えば、サジの胸元に擦り付けるようにして首を垂れる。服從の証だ。サジはうっとりと目を細めると、魔獣の顔をその手でゆっくりと引き寄せる。
「いいこ、」
嘴の僅かな隙間から、手を差し込み開かせる。分厚い舌を手で掬い上げるようにして持ち上げると、舌先に甘く吸い付いた。
魔獣の金色の瞳が、キュウと細まる。その身を震わすようにして体毛を逆立てると、その身に纏う毛並みの中に黒い羽も混じっていることが見てとれた。極彩色の羽が数枚落ちる。
嘴を閉じてしまったら、サジを傷つけてしまうだろう。それを気にしているのか、魔獣はサジにされるがまま、お行儀よく足を揃えて縮こまる。
サジは満足そうにその身をゆっくりと離すと、大人しくなった魔獣を前に緩く微笑みを浮かべた。
「もう一度聞こう。サジに名前を教えてくれ。」
「あ、ロん…だぁ、」
「うまいぞ、その調子だ。」
人間と、舌の作りが違うせいだろうか。魔獣は嘴を下手くそに動かしながら、何度も辿々しく言葉を紡ぐ。求められるままに、名前を差し出したかったのだ。
サジは待った。たとえ時間がかかったとしても、己の名前をきちんと口にすることが、本来の姿を忘れさせないための縁だと知っていたからだ。
「あ、ロンだ、ァー、と、」
「アロンダート、ふふ、可愛いサジのアロンダートよ。お前は頭がいい。受けた呪いを魔獣になることで祓おうとしたのだな。」
サジはきちんと理解していた。第二王子であるアロンダートが、一体どんな思いでその身を転化させたのかを。
きっと、その身を犯されて恐ろしかったに違いない。日に日に侵食していく呪いに抗う為には、それ以上の力で振り払わなくてはいけない。
アロンダートは、トッドたちが市井にでた今日がチャンスだと思ったのだ。そうして、不慣れな転化を行ったせいで体に負荷がかかった。
喉を鳴らして答えるアロンダートの瞳は、段々と落ち着きを取り戻す。未だ立ち尽くしたまま、絶句しているアランとトッドは、目の前の魔獣の変わりようを、呆気に取られたように見つめていた。
サジの胸にその嘴を擦りつけて甘える姿なんて、猫のようだ。その喉から響く複音も、徐々に王子の声と重なるようにして戻ってきていることに気がついた。
「さ、ジ」
「なんだ。」
「も、ドリ、たイ」
親から転化を解く方法を教わらなかったアロンダートは、どうやら呪いを祓うことには成功したが、その後のことは考えてはいなかったらしい。聡明な第二王子も、それほどまでに恐慌していたということだ。
煤の匂いは祓った直後の呪いが充満していたものだったようで、急な転化に体が持たずに苦しみのたうち回ったらしい。
「アロンダート、サジの子よ。お前はトリガーワードでその身を縛らねばならない。ふむ、そうだなあ。」
サジはその手で労わるようにアロンダートを撫でながら、思考を巡らせる。あのジルバでさえも、恐れを成した者の怯える声でトリガーワードを紡がれなければ、魔力の抑制が出来ずただの蜘蛛の魔物として理性を無くす恐れがあるのだ。
つまり、トリガーワードとは、半魔のものが転化しても理性を保つのに必要な言葉の枷である。
初めての転化で、その身を魔獣に変えたアロンダートの理性が焼き切れなかったのは、相当な精神力によるものだ。
いち早くその手を差し伸べたサジが、アロンダートを真っ直ぐに見つめる。
「お前は、愛を込めて名前を呼ばれることを望むか。」
嘴のついた、猛禽にも似た顔をそっと撫でる。半魔のものを縛る言葉の枷は、その物によって様々だ。ジルバは他者からの畏怖を、アロンダートは、与えられなかった愛を欲しがった。
トリガーワードは自分で見つけるものだ。そして、サジはその答えを知っていた。
「アロンダート、サジはお前を呼ぶよ。愛しているとお前の名前を呼ぶ。トリガーワードは、アロンダート。お前の名前だ。」
その瞬間、アロンダートの体内を駆け巡った感覚は、筆舌にしがたい。細胞の一粒でさえ震えてしまうほどの歓喜は、身の内の乾いた土壌を潤す。こんなにも満たされることが、許されるのだろうか。今なら、口に出来なかった言葉を、請い願っても許されるのだろうか。
「あ、いしテ。」
「勿論だ、アロンダート。」
サジの言葉に、アロンダートの瞳からはぼろりと大粒の涙が零れ落ちた。不遇の第二王子は、与えられるはずだった母からの愛を、ずっと求めていた。
母から愛を持って名前を呼ばれたかった。愛されたかったのだ。
当たり前を与えられなかった心を満たしたのは、目の前の一人の魔女であった。
醜悪な見た目も厭わずに、手を差し伸べてくれた、サジその人であった。
空気に溶けるように、黒い羽毛が消えていく。サジを抱きしめていた猛禽の腕が、男らしい褐色の青年の腕に変わった。背中の棘が消え、まるで黒い炎を纏っていたかのように広げていた羽までもが跡形もなく消え去った。
エルマー達の前に、本来の姿を取り戻したアロンダートが姿を表す。その腕は、サジの細い腰に回されたまま、肩を震わせながら嗚咽を漏らす。
「…っ、アロン、ダート…!僕の名は…っ、アロン、ダートだ…!」
「知っている、アロンダート。うふふ、サジのものになれ。サジをその身で守れ、アロンダート。」
アロンダートの顔を覆うように、サジがその掌で包み込む。手のひらは暖かかった。そして、優しかった。
向けられたラブラドライトの瞳には、涙で濡れた己の顔が写り込んでいる。今、サジの視界にいるのは己だけなのだ。その事実が、アロンダートの心を満たす。
金色だった瞳は、いつしかとろりと輝きを帯びる琥珀の色に変わっていた。サジはそっとその胸にアロンダートの頭を抱き込むと、まるで甘やかすように髪を手で梳きながら頬擦りをする。
「アロンダートよ。お前の身体は大人でも、まだまだ内側は子供だなあ。お前の中の獣がずっと泣いている。」
「サジ様、」
「その身の内に仕舞い込んでいるのがお前の本性だ。何も恥じることはない、これからサジがお前を愛して、怖いものから守ってやろうなあ。」
間伸びした声は、もしかしたら悪魔の囁きなのかもしれない。そう思ってしまうほど、サジがアロンダートへと向ける言葉は麻薬的な睦言に聞こえるのだ。
ぐすりと鼻を啜る。暖かな腕の中は、ずっと焦がれてきたものだった。
半魔の母から産まれたアロンダートは、その腕の暖かさを知らなかった。豊かな金髪の父と赤い髪を持つ母から産まれた黒い髪のアロンダート。
男で、しかも王の血筋だ。第一王子はいたが、一人じゃ心許ないと、予備として召し上げられた。
産まれたときから母から疎まれてた。物心ついてから耳にしたのは、口差がない物たちの囀るような憐憫の言葉。
どうやら母親は、王によって無理やり手籠めにされたらしい。その事実を知ってから、全ての物事が一つの線で繋がった。
思えば、与えられるのは恨みのこもった言葉ばかり向けられてきた。乳母は居たが、半魔の母に怯えてまともに育ててはくれなかった。
同じ後宮につかえていた年老いた侍女が、こそりと面倒を見てくれなければ、アロンダートはこうして今も生きてはいなかったかもしれない。
「サジ様、」
「眠れ。お前は疲れているだろう。体だってボロボロだ。なあに、寝ている間に治してやる。今はゆっくりと休むが良い。」
額に唇を落とされ、まるでそれが呼び水の様にして、アロンダートの体を睡魔が襲う。
ああ、まだ眠りたくないな。アロンダートは微睡む視界の中で、サジを見つめる。その頬に触れようとして持ち上げた手は、頬を掠めることもなく降ろされた。整った顔から一粒涙を零し、その身は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。アロンダートの体を、サジが細腕で受け止めた。
エルマーは、サジがアロンダートを抱きしめながら口付けを落とす姿を、黙って見つめていた。
サジに救われたのが幸か不幸かはわからない。ただ、母のように微笑むサジを見て、この流れが計算ではないことを祈った。
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