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ドリアズ編

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暖かな湯気が浴室に広がる。ナナシは今、エルマーの手によって温かい水が出る大きな瓶の中、ふよふよなのに少しだけ硬い綿のようなもので、体を泡泡にされていた。その泡がナナシにとっては不思議で仕方がない。まるで空に浮かんでいる雲のようなのだ。興味に抗えずに、エルマーが声をかけるよりも早く、唇を近づけた時だった。

「う゛。」
「たべ、あーあ…」

ナナシの好奇心が、エルマーの静止を待たずに先走ったのだ。ワクワクしながらぱくりと食べたその泡が、酷く苦くて顔が青褪める。甘いと思っていたそれは、苦いだけでなく若干の酸味さえある気がして、とにかく不味い。
お空に浮かんでいる雲のような見た目のくせに、とんでもなく苦い。なんだか訳がわからなくて、べって吐き出したいのに、エルマーが見ているからそれも出来ない。ナナシはくちゃっとした顔になりながら耐えていれば、頭からばしゃりとお湯をかけられて泡を流された。

「もっと早く言えばよかったなぁ。食えねーって。ほら、口に水入れて濯げ。」
「んう、ぐ…」

苦笑いするエルマーによって、桶に溜めた水を渡される。渋い顔をしながらずずっと口に含むと、そのまま口の中を濯いで排水口に吐き出した。

ナナシを丸洗いしたエルマーはというと、見事に割れた腹筋を晒しながら、帽子の中に髪を収めるかのように、もこもこにした泡を頭に乗っけたままであった。体はすでに洗っているので流すだけなのだが、ナナシが楽しそうに見上げていたので、自分を洗うのをそこそこにナナシを洗ったのだった。

「口ん中さっぱりしたかぁ?」
「うん…あゎ、つおぃ…」
「おうよ、俺もよく泣かされる。」
「ひぇ…」

泡が目に入って出る涙なのだが、ナナシは冗談としては受け取らなかったらしい。
確かに自分も泡だらけにされたときは、傷口が酷く滲みて涙が出た。泡って怖い。かわいいけど怖い。ナナシは怯えた顔をして泡の出どころである石鹸を見て、しょんもりした顔をする。

ザパンと勢い良くお湯を被ると、エルマーは溜めておいた湯船にその身を浸した。旅路では湯船にはなかなか入れない。宿に泊まるときは、こうしてゆっくり入るのが好きだった。

「ナナシもおいで、一緒に入ろうぜ。俺の足の間に来いよ。」
「うー‥、」

バスタブの真横でしゃがんで様子を伺っていたのだが、エルマーに呼ばれて恐る恐る指先を湯船に浸す。ナナシはこの温度を知らなかった。ずっと浸かっていたら、茹だってしまうんじゃないだろうかと思うくらい熱い。でもエルマーは気持ち良いよと言うのだ。熱いお水を浴びるのは良い、すぐ終わるから。だけど、身を浸すと言うのはちょっと怖い。

でも、エルマーのお膝には座りたいのだ。どうしよう。そんな具合に、ナナシは先程の泡を食べたときよりも悩ましい顔で、うんうん唸る。その様子をエルマーは面白そうに見ていた。

疑り深い目で、おずおずと指先から手首までゆっくり浸す。そのままお湯の中で手をわきわきさせてみたり、お湯から上げて茹だってないかまじまじ見たりと満足の行くまで試してみてから、ナナシはゆっくりとつま先から湯船に浸かる。

エルマーの足の間、そこに座るようにまろい尻を向けながら、おじいちゃんのようなへっぴり腰で全身を浸した。エルマーはというと、浴室の天井を見上げて眉間にシワを寄せている。
予想以上にナナシの白い尻をみて煽られたのだ。
今は下肢にぎゅるりと集まりそうな熱を、無駄に魔力を使って分散させている。これには意外と集中力が必要なのだと、くだらないことを知る羽目になるとは思わなかった。

「ふわぁ…」

エルマーの葛藤を知ってか知らずか、ナナシはエルマーの足の間に腰掛けると、膝を抱えて目を輝かせた。エルマーと一緒に寝るよりも温かい。
茹だることもないし、心做しか足の強張りも解れている気がする。エルマーはというと、やっとこさ下肢の熱を散らすことに成功すると、ナナシの薄い腹に手を回して体に寄りかからせた。

「えるぅ、こぇ、あたかいおみず。つおい…」
「つおい、ああ…す、ご、い。すごいだな」
「えるぅ、すごい…」

エルマーの胸元に寄りかかりながら、楽しそうにする。さっきまで借りてきた猫のように警戒していたくせに現金なやつだと笑うが、白い頬が血色良く染まるのは見ていてホッとした。
ナナシの背に残る傷跡だけが野暮だ。

「えるぅ…」
「ん?」

ナナシは、エルマーのお腹に回った手をにぎにぎと弄って遊びながら、昼間のことを思い出していた。
あの枝をたくさん出してきた人と、なんでちゅうしたの。
そう聞きたいのに、なんて言えばいいかわからない。ナナシはもにもにと自分の唇に触れながら、唇を合わせる行為の意味を考える。

「くち、あいっこ、えるすき?」
「くちあいっこ…キスか?」
「きす、すき?」

いじいじとエルマーの指を弄りながら言う。あの枝の人としてたのはキス、ナナシにしたのもキス。一緒の意味があるのかが知りたかった。

「キス、キスかあ…嫌いじゃねえよ。なんで?」
「うー‥」

なんでと聞かれると、ほとほとに困った。ナナシはウンウン唸りながら、なんで?なんでだろう?と首を傾げる。なんで意味を知りたかったのか、そこからもうわからない。わからないならもう一度してもらえばいいのではないか。
ナナシは閃いた顔をしていそいそとエルマーの方へ向き直ると、そっと細い指でエルマーの唇に触れた。ふにりと柔らかい。キョトンとした顔のエルマーのそこに触れながら、ナナシはいけないことをしている気分になった。
指先で触れた感触から、自分の熱がバレてしまうのではないかと思うくらい、とくとくと心臓が早鐘を打つ。
ふにふにとその柔らかさを指先で確かめては、とろりとした蜜で心を包まれていく様な、不思議で甘やかな感情が、ナナシの目を微かに潤ませる。

「な、ナナ…シ…?」

エルマーの喉がゴクリと鳴る。水に濡れた髪が、細い首筋や頬に張り付く様は目に毒だったし、その繊細な容貌にはめ込まれた、トパーズの瞳を持つナナシは、まるで非の打ち所がないほどに美しい。
汚してはいけないような、そんな無垢な容姿に潜む色気は、どう表現していいかわからない。わからないけど、ひとつだけわかったことがある。

「ん、む…」

ナナシの近づいた唇を、エルマーの手が遮った。

「ストップ。」
「ぇ、…あ…」

わかったこと。それは、クズな自分がナナシを汚してはいけないということだった。

「う、あぇ?」
「キスはしねぇ。」

エルマーには少年性愛はない。…と、信じている。元々虐げられてきたナナシに、自分までその欲を向けるのは駄目だと思っている時点で、もう手遅れなのだが。
ナナシはエルマーの手を唇に当てたまま、自分が今何をしようとしたのかをじわじわと理解していった。

それは、拾われた自分が優しくされて付け上がってしまったという羞恥心と、自分の興味を満たすような行動してしまったという事実。ナナシは奴隷だ。そこを履き違えてはいけない。エルマーに拾われた今は、優しくされてその線引が曖昧になっているが、奴隷として売られていた以上、いくら前の主が死亡して自由を得たとしても、命を救いあげてくれた眼の前のエルマーに自分から望んで行動を起こすなど、間違っている。

「ご、ごぇ、んぁさ…」
「ちげえ、これはナナシのためっつーか…くそ、んな顔するなって。」

泣くのは駄目だ。駄々っ子のよう思い通りに行かぬ我儘を、相手に押し付けるようでいけない。
ナナシはきゅっと口を一文字に引き結ぶと、うるうるする目から涙を零さないように、もそもそとエルマーに背を向ける。これ以上エルマーの顔を見ていたら、甘えからくる我儘がボロボロと溢れてしまいそうである。

ちゃぷんと湯船が波打つ音がした。さっきまでこんなに楽しい気持ちだったのに、ナナシがその空気を壊したのだ。ナナシは駄目な子だ。膝を抱えるようにしてエルマーから体を離す。そうしないと、縋ってしまいそうだった。

「…ナナシぃ?」
「あぃ…っ」

返事は、きちんと返せた。エルマーが呼んでくれるのが嬉しいからだ。ただ、泣きそうな気持ちを押し隠すようにして、無理やり誤魔化すような声色で返してしまったことには、気づかなかった。
エルマーの大きな手が優しくナナシの頭を撫でる。この手がナナシに触ってくれるから、欲が出た。
はふりと吐息を漏らす。ゆっくり呼吸をすれば、涙が出ないことをずっと前から知っている。なにかを堪える背中は、小さく震えていた。

「えるぅ、」
「ん?」
「…ねむぃ」

全然眠たくなかったけれど、はやくこの話を終わりにしたかった。口元は先程から少しだけ痺れていた。顔にお水をつけて、この思い事溶けてしまいたい。
エルマーはしばらく黙ってその様子を見つめていたが、出るか。と一言言うと、ナナシを抱っこしてお風呂から上がった。

エルマーと濡れた体を拭きっこする。もう飲み込んだ涙は出なかった。いつも通りのナナシになれたのが、自分でも驚くくらいにはほっとした。
濡れた体を拭ったあと、エルマーは少しだけ迷ってから、バスローブをナナシに巻き付けた。着ていた服は薄汚れていたし、それをまた身に着けさせるのが嫌だったからだ。

「ナナシは、いいこだなぁ。」

胸元までしかない低い背丈で、エルマーよりもずっと痛いことに耐えてきた、可愛くて可哀想な子。こんな薄玻璃のような繊細な子をどうこうするという勇気を、エルマーは持たなかった。

「ふひ…」

エルマーの大きな手がナナシの頭を撫でる。小さく漏れた声が、愛おしい。我慢を強いるのはお互い様かもしれないが、ずるいエルマーはナナシの気持ちを見ないことにしたのだ。これが矜持だった。情けない男の矜持だった。

エルマーはナナシを抱き上げてベッドに寝かせると、寝付くまでそっと背中を撫でてやった。
ナナシの目の下の隈は、恐らく自分が原因だ。
あの過酷な環境から抜け出すきっかけを作ったエルマーは、ナナシにとってのひとつの縁だ。だから、自分には責任がある。

怯えたまま、眠れぬ夜を過ごすナナシに必要なのは安心と信頼だ。エルマーは、それに答えたい。
孤独にはさせないよ。そう、少しでも伝わればいい。エルマーは自分の体温を分け与えるように背中を撫でる。

ナナシが寝入ったのを見届けると、そっとその瞼に唇を落とした。

「…いるんだろう。サジ。」

静かに虚空に問いかける。エルマーが、そのまろい頬をひと撫でしてから起き上がると、ベッドから離れた。
寝ているナナシを守るかのように立ち上がると、淡々と宣う。
ふくよかで濃厚な花の香がしたかと思うと、まるで待ちくたびれたと言わんばかりに、白く細い腕が男らしい体に回された。

「おや、サジに気づくとはさすが。」
「おめーがわかりやすくマーキングなんかしてんからだろうが。」
「その花粉のことかい?童は気づかなかったみたいだなあ。」

くすくすと笑いながら、日中にナナシの服にくっつけておいた魔物の花粉を見つめる。サジは後ろからエルマーの服に手を侵入させると、男らしく割れた腹を撫でては、その割れ目を辿るようにして下肢に手を侵入させる。

「サジのものになれよう、そうしたら沢山セックスだってさせてやるし、サジはいいこだからエルマーの敵を殺してやる。」
「生憎今はナナシの面倒で手一杯でなぁ。だいたいお前は俺のこと素材程度の目でしか見てねえだろ。」
「いやらしい目でもみている。」

サジの手がエルマーの性器に触れようとした瞬間に手首を掴む。無理やりそこから手を引き抜くと、エルマーは足払いをしてサジの尻を床に落とさせた。
敵意がないサジは、ただのしつこい男娼だ。エルマーは上下関係の立ち位置を解らせるようにしてサジの肩に足を置くと、床に押し付けるようにして体を踏み降ろした。

「ぁあ、っ…くふっ、エルマーから見下されるの大好きだ。」
「頭まで侵食されてンじゃねーの?」
「ぐ、っ…」

エルマーはサジの胸元にどかりと腰を下ろし、その薄い唇を指で押し開いた。サジの目がとろりとしたものになると、男らしい節ばった指を擽るかのように、舌を這わせた。

「ぁ、ん…エルマー‥、サジにくれよ、もっかい…そんな童じゃあエルマーの欲は満たされないだろ?なあ、サジを使えよ。」
「淫乱なサジは、俺を苗床にするんだろう?なんで強い魔物が必要になった?教えてくれりゃあ抱いてやらんこともねえ。」
「オトナノジジョーと言えと言われた。サジは難しいことはわからん。」
「お前、抱かれて無理やり契約でも結ばれたか。」
「やはりエルマーは頭がいい。サジにはエルマーの種が必要だ。」
「テメェに必要なのは倫理観と思考力だなぁ。」

クソめんどくさい。エルマーは眉間にシワを寄せた。サジが昔から変態なのは知っていたが、ここまで執拗に求めてくることはなかった。
幸い、頭が悪いお陰である程度事情はわかってきたが、向こう側もサジのようなぶっ飛んだ魔女に力を借りるほど切羽詰まっているらしい。

大方、なにかに使うための大型の魔物を用意する代わりに、サジを抱いたのだろう。種子の魔女であるこの男は、頭のネジが緩んでいる。思考を鈍らせる術を施した上で、サジが喜ぶものを対価として、契約を取り付けたといったところか。

ただしこいつが実に短絡的に行動する本能直結型の馬鹿だとは知らなかったようだ。そこから鑑みるに、知り合ったのは数日程度だろう。

「名前持ちの魔女とどうしても知り合う必要があったのかねぇ。」
「サジにとっても美味しいお花をくれたよ。」
「花?」
「食らうと!とてもふわふわするものだ!」
「…種子の魔女なら麻薬くらい分解しろよなァ。」

どうやらこの馬鹿者は、キメセク中に契約を結ばされたということか。ならばサジにとってその契約者よりも魅力的な内容で上書きをすれば簡単にそれは破棄されるだろう。一番安全に契約を解くなら、相手の望むとおりに強い魔物が必要だが。
まあこの場合、もっとも危険に晒されているのはエルマーの貞操か。こいつなら絶対体を寄越せと言うに違いない。

「エルマーの精液をくれるなら、破棄してもいい。」
「お前のフオルンをやりゃいいじゃねぇか。」

見たところ植物の魔物としては強い方なのではないかと見ていた。
一体何を苗床にしたのやら。魔物とも平気でセックスする男だ。好奇心だけで行動して出来た産物には違いない。

「いやだ。あれはとある場所に落ちていたミノタウロスを使ったんだぞ。なかなかに作れまいよ。」
「とある、場所?」
「サジが見つけた。始まりの大地でな。首のないミノタウロスがご丁寧に血抜きされていた。据え膳だろう。つい燥いで死霊術で操ってセックスした。」
「……あ。」

始まりの大地でアンデッド系上位種のミノタウロスといえば、心当たりしかない。エルマーは自分が放置した魔物の死骸をを思い出し、渋い顔をした。
フオルンはそれを使って育てられたということか。エルマーが処理した、それを苗床にした魔物。

「ある意味俺が親じゃねえか!」
「サジは、はじめから言っているだろう。切り口を舐めたらエルマーの魔力の味がした。そう、パパはお前だよエルマー!」
「処理面倒くさがるんじゃなかったァ…」

まさかのエルマーきっかけで生まれたとは思わず、フオルンを愛でるサジの執着の理由もよくわかった。
フオルンを手放すなら対価として抱くしかないぞ。どうする?と、言わんばかりにドヤ顔だ。腹立つ顔でニヤつくものだから、頭が痛そうに顔を顰めた。
エルマーはボサボサの髪を掻き毟り苛立ちを顕にさせると、ちらりと寝ているナナシを見た。

部屋を離れている間に起きたら、きっと泣くだろう。

「空間遮蔽、使えるか。」

サジの口角が上がる。その言葉が合図、つまりはエルマーがこの提案に乗ったということだった。


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