名無しの龍は愛されたい。

4

エルマーのしっかりとした背中にしがみついたナナシは、安心する香りに包まれて、少しだけ忙しなくなった心臓を、深呼吸で落ち着かせる。

これが、おんぶ。

ナナシは、このおんぶというのは、なんて素敵なものなのだろうと思った。
以前にナナシが暮らしていたあの村で、主の言いつけで森に薪を取りに行ったとき。見かけた大人が、子供にせがまれておんぶをしていた。
勿論、ナナシは親がいないし、かといって奴隷として買って貰った手前、主におんぶをして、などと言えるわけもない。
あの時は、ただ顔も知らぬ親におんぶをしてもらう。ナナシにできるのは、そんな想像をすることだけだった。

おんぶってどんな感じなのだろう、何も知らないナナシは、触れてもらえることもなかったせいで、他人の体温を分け合うことができるなんてことも知らなかった。
そして、背負ってもらうことをおんぶというのも初めて知った。
いいなあ、と思った。だって、体温が触れ合って、呼吸も近くで聞こえて、寝るときじゃないのにぴったりとくっつくことができるのだ。

エルマーがいいよって言わなきゃしてもらえないだろうから、ナナシはこのひとときを大切にしたいと甘えるように肩口に顎を乗せる。

エルマーのしっかりとした足取りが心地の良い振動としてナナシに伝わる。重くないだろうか、邪魔じゃないだろうか。ナナシは背負われながら、そんな心配ばかりしていた。
それでも力強い歩みは一定で、時折ナナシを気遣うかのように目を合わせてくれるのだ。
それがナナシには嬉しくて、つい肩口から顔をだし、ぎゅうと抱きついてしまう。甘えることが許される幸せは離し難い、エルマーの汗の匂いや心地よい息遣いを聞くのも、ドキドキして好きだった。

エルマーの目論見は当たっていた。力強い歩みの規則的な振動と、心地よいエルマーの体温にあやされるように、ナナシが少しだけうとうとし始めた時だった。


「あ。」
「う？」


エルマーがポロリと零した声に、ナナシは微睡を振り払うかのようにこしこしと目を擦り、前方を見やる。


「魚ばっかじゃあ、飽きるよなあ。」
「あ、ぅ…っ…」


二人の目の前に現れたのは、大木を引きずる様に倒しながら現れた大きな茶色の毛の塊であった。ゆっくりと大地を踏みしめ、姿を現した獣との距離はこんなにも離れているというのに、その存在感に圧倒される。一体どれほど大きいのだろう。
ナナシは牧場で飼育されていた牛よりも大きいものを見たことがなかった。
思わず呆気にとられた顔で前方の獣を見つめていると、どうやらそれは巨大なイノシシのようだった。


「たしかドリアズにもギルドの出張所があったよなあ。もしかしたら討伐依頼でてそうだなあ。」
「え、え、えう、」
「さしずめボアの親玉、この辺の主だったりしてなあ。」
「え…えるまあ…」


なんで腰の紐を縛りなおしてるの？と、言葉にできる程ナナシは頭が良くなかった。
言葉を知らないことが、こんなに不便だなんてと改めて思いながら、ナナシは首を振りながら名前を呼ぶ。

逃げよう、あんなおっきいのに踏み潰されたら死んじゃうよ。
そう言いたいのに言葉がうまく出てこない。


「ひいふうみい、牙が四本、上位種か。なら銀貨百枚はかたいな。よし。」
「えるまあ、や、やあ…」
「ナナシはちーっとおとなしくしててな。大丈夫、すぐに終わるからよお。」


風向きが変わって、ボアと呼ばれる巨大なイノシシの魔物の鋭い嗅覚がエルマー達を捕えた。その巨体に見合った頭を緩慢に動かし、理性の無い四つの金眼が鋭く光ると、二人の姿を瞳に映す。


「いいねえ！金眼の魔物は金になる。ナナシ、今日はボアシチューといこうや。」
「や、や、わぁああ！！」


ナナシの必死の抵抗も虚しく、前足で地面をかき鳴らしながら突進しようとしてくる魔物に向かって、あろうことかエルマーが突っ込んでいく。慣れた手つきで脚に身体強化の術をかけたらしい、エルマーはナナシをしがみつかせたまま、あっという間に魔物の正面に躍り出る。恐ろしく大きく、鋭い四つの瞳がぎょろりとナナシに向けられる。

ジワリと恐怖で涙が滲んだ瞬間、そのままグルンと四つ眼がばらばらの方向にに向けられた。
ナナシが次の呼吸をする頃には、その巨体は地響きを立てながら地面に横倒しになって倒れた。
ちょっとした地震のような揺れが、寄生木に身を寄せながら見物していた鳥たちを忙しなく飛び立たせる。
ナナシは目の前で起きたことが理解できなかった。ただわかったのは、爆発しそうなくらいの心音が自分のなかの恐怖を物語っているということだけだった。


「いやあ、楽勝楽勝。って、ナナシ？」


エルマーは、魔物の目前に飛び込んだ瞬間、一息に腕を魔物の太い首に深く突き刺して頸椎を砕き割っていた。手に纏わせた身体強化の魔法でそこに繋がるあらゆる神経や髄液を沸騰させて綺麗なままに仕留めたのだが、おかげで突っ込んだ右腕は肩付近まで血で汚れていた。


「心配し、…あ。」
「う、…っ、ひっく…」


大人しすぎるナナシにどうしたのかとエルマーが心配して体をゆすって反応を見る。小さな嗚咽を漏らして肩口に顔を埋めるナナシに、エルマーはどうやら無理をさせ過ぎたらしい。
宥めようと抱えなおすために触れたナナシの尻はびっしょりと濡れており、エルマーの腰を伝い、足元には見事な水たまりが広がっていた。


「あー…、ええと、気にすんな。俺も水辺に血抜きしに行かにゃならんし、な？」
「え、る…ごぇ、あさ…っ…」
「つか、悪い。俺が普通に悪いわ。ちょっと気持ち悪いだろうけど、我慢な。」


そういって腰ひもを緩めてそっとナナシを降ろす。顔を真っ赤にしながら涙を流すナナシの細い脚は可哀想なくらいに震え、濡れそぼった下半身から太ももへ伝ういく筋もの水流が目に毒だった。


「もうでないか？でるなら、ここで全部漏らしちまえ。な？」
「ひぅ、う、うー…」


しゃがみこみ、泣いているナナシの目元をそっと拭ってやると、ぐしぐしと泣きながら首に腕を回してギュッと抱きついてきた。エルマーはよしよしとその小さな頭を撫でてやりながら、ぴちゃぴちゃとちいさく聞こえる水音に兆しそうになる自身を堪える。


「いいこだなあ、ナナシは。…目覚めそうでちいっとやべえ。」
「える…、うぇ、…ひぅ、う…」
「ああ、もう泣くなってえ！大丈夫だからよぉ！」


結局ナナシとエルマーを繋いでいた抱っこ紐は、今は魔物の両手両足に結び付けられた。
エルマーが試行錯誤して、なんとかボアの親玉をインベントリにぶち込むと、一仕事終えたといわんばかりに溜め息をついた。
幸いだったのは、森の主が通ってきた道の先に泉があり、ナナシに恥ずかしい思いをさせたまま村を訪れなくて済んだことだった。


泉について真っ先に行ったのは、ボアの血抜きである。エルマーは内臓やらを取り出したものを火にくべて簡単に片付けると、綺麗に皮と肉塊へその身を分けた。
獲物の討伐部位である頭を切り下すと、残りの大きな肉は細かく切り分け、自生していた臭み取りの大きな葉にくるんでインべントリに突っ込んだ。
放浪の旅も長くなってくると、こうした野営作業や剥ぎ取りも手際が良くなってくる。とは言っても、今はほぼ裸に近い状態で作業をしていたわけなのだが。

理由は実に簡単で、その答えは岩場におとなしく座ってこちらを眺めているナナシにあった。
布でくるまったまま、泣き後のままの赤らんだお目目とお鼻で、ぼんやりとエルマーの作業を見つめている。

そんなナナシはというと、漏らしたせいで汚れた衣服ごと、エルマーと共に体を清めたばかりであった。
巨大なボアの親玉との邂逅がよほど怖かったらしい。体を洗われている最中も、しっかりとエルマーにしがみついたままであった。
エルマー自身もボアの血に塗れていたし、洗濯も出来るかと考えて、それなら一石二鳥だからと服のまま体を洗ったのだ。
その後は、血抜きをしてまた汚れるかもしれねえからと、下着一枚での解体作業に移り、今に至る。
そんな適当なエルマーからもらった異国のお菓子、名前はわからないがパンの中にジャムが入っているものをもそもそと食べながら、ナナシは岩場にちょこんと座り、おとなしくエルマーが作業を終えるのを待っていた。

「っくしょい！…あー、やっぱさすがに全裸はさみいわ。開放感はあるけど。」

解体で再び汚れたエルマーは、くるりとナナシの方を向くと歩みより、パンを持ったまま手を伸ばしてくるナナシをひょいと抱き上げた。


「泣き止んだかよかわいこちゃん。なに、くれんの？」
「う、」


ボアの血は簡単に洗い流しはしたが、匂いまでは取れていない。そんな状態でも、気にせず手を伸ばしてきたナナシをかわいく思っていると、エルマーの口元に与えた菓子を押し付けられた。
大泣きして、未だぐずっていたナナシのご機嫌取りに、インベントリに入っていた菓子を与えたのだ。
それは以前エルマーが欲を発散しに立ち寄った娼館で出された異国の菓子で、あまりこういった甘味を食べないエルマーは、そのままインベントリに突っ込んで放置していたのだ。
ナナシが口元に運んでくれた甘い菓子を齧る。中に入っていた果実のジャムがぶちゅんとエルマーの口端を汚した。


「ン、と。喰いずれぇ…。」
「んう、」


ナナシを抱き上げていたので、それを拭いたくても今は両手が塞がっていた。ならばとエルマーが口端についたジャムを舌で舐め取ろうとすれば、微妙に舌先がジャムを掠めるだけで届かない。
そんな様子をおとなしく見つめていたナナシはというと、ぺしょ、と薄い舌でエルマーの口端についていたジャムを舐めとった。


「んえ。ナナシ…」
「…？」


そのまま何事もなかったかのように、はぐ…、と再び菓子を齧るナナシに、今度はエルマーがぽかんとする番だった。
お漏らしは恥ずかしがるのに、これは恥ずかしくないのか。と思いはしたが、まあいいかとエルマーは考えることを辞めた。その代わり、仕返しのように菓子を味わうナナシの唇に己の唇を重ねると、エルマーはその柔らかな唇を割り開いて、咀嚼途中のナナシの甘い舌を味わうかのようにして、ねろりと絡めた。
ひくんと震えた体を支えながら、縮こまった薄い舌に甘く吸い付く。


「っ、んむ、ふ…っ…、あ…」
「ん、やっぱ甘えなあ。」


ナナシが食べていたものを舌で遊び、互いの唾液を交換するようにして飲み込むと、エルマーは唇を離した。
ナナシは口を半開きにしたまま、飲み込みきれなかった唾液を口端から垂らし、恍惚とした表情でぼんやりとしていた。
酸素が足りなかったのか、頬が赤い。くたりとエルマーの肩に顔をうずめると、余程恥ずかしかったのか、食べかけの菓子を握りしめたまま、エルマーの首にぎゅうと抱きついてきた。

あ、これは照れるのか。とエルマーは思った。

こんな初心みたいな反応をされるとは思っておらず、エルマーも自分から口付けたくせに照れる。処女ではないのは見たから知っているが、まさかキスは初めてだったのだろうか。普通にあり得る。だとしたら自分はまずいことをした。
少年性愛の趣味はないが、ナナシは可愛い。エルマーは早々に手を出してしまった自分に少し落ち込んで、次の村では絶対女を抱こうと心に決めた。


泉で体の汚れを落とした後、服の乾燥を待っているうちに、とっぷりと日が暮れた。旅とは思うようにいかないものである。
夜は視界も悪いし、暗闇に紛れて悪意のある魔物が出やすい。なのでドリアズまで一日で行ける行程ではあったのだが、急ぐ旅でもない。エルマーは泉のほとりで野宿することに決めた。


「パンツ乾いたのに、他は生乾きかあ。まあ、火の近くに干してりゃあすぐか。」


結局日中のほとんどを全裸で過ごしていたが、先に乾いた下着だけを身に着けた状態で、エルマーは適当な木の枝を拾ってきた。
ナナシと協力して火をつけたたき火の上を跨ぐようにしてロープを張り、濡れた衣服を吊るし上げる。
たき火と言っても服が燃えたらまずいので、そこまで火は大きくしていない。ナナシは大きなシャツのみをワンピースのように纏いながら、膝を抱えてうとうとしている。
パンツ一枚のエルマーとは大きな差だ。文明的な恰好をするにはまだ服は湿気っており、かといって火の番をするには無防備すぎる。結局エルマーは服の内側に張り付けていた暗器のホルスターだけ纏っておくことにした。
端からみたら武装した変態だ。シャツ一枚でもいいから早く乾いてほしい。小枝を火にくべながら切に願った。


「える、んん、…」
「ん。」


ナナシが眠そうにしながらおずおずとくっついてくる。エルマーの腕に小さな手を添えながら、眠たそうな目でぱちぱちと枝がはじける様子を見ていた。
眠たければ寝ればいいのに、エルマーが起きている限りは寝ようとしない。
くちんとかわいらしいくしゃみをするナナシに、エルマーはインべントリから毛布を引きずり出してナナシの体にかけてやろうとした。


「や。」
「なんだあ、いらねえの？」
「える、ななし、」
「ああ、そういうこと。」


ナナシは二人で使いたいと言っているようだった。長さ的にはいけなくもないが…と悩んで思いついたのは、ナナシを足の間に座らせて自分の体ごと巻きつけるという選択だった。


「寒くねえ？」
「う…、すき…」
「すきかあ。そらよかった。」


エルマーの肩に頭を預け、横抱きにされ、膝の間に尻を落ち着けたナナシは照れ臭そうにしながらもご機嫌だ。
ナナシのやりたいことができて嬉しかったのか、エルマーの顔を見上げると可愛らしくふにゃふにゃと笑う。


「ナナシ、あったかい。いえるか？」
「あ、…あた、かい…？」
「そ、ナナシと俺、二人で温かい。これな？」


ぎゅっと抱きしめると、眠たそうにしながらも、甘えるように擦り寄ってくる。エルマーの教えてくれた言葉を練習するかのように、口元を小さくもごつかせると、ナナシは小さな手でエルマーの服を握りながら、辿々しく宣った。

「え、え、える。あたかい。ナナシ、えるすき…」


ぱちぱちとはじける火花を見ながら、ぽそぽそとナナシが呟く。たき火のせいか、首まで赤らめながら、一句一句間違えないようにたどたどしく呟く。

えるすき、と好意を伝えてくるナナシがなんだか健気でしおらしい。恐らく深い意味はないだろうと思いつつ、エルマーはなんだかむず痒くなってその後頭部に口づけた。