上 下
4 / 164

3

しおりを挟む

ぱちぱちと、なにやら爆ぜるような、それでいて耳心地のいい不思議な音がする。ここはどこだろう。たき火の音がするということは、飯炊きの準備か。
だとしたら今は夕刻だ。しまった、飯炊きの準備はご主人様がしているのだろうか?

ありえないことだ。もしそうだとしたら、これがやるべきことだったのだ。恐ろしい、このままじゃ、また折檻されてしまう。
牛追い用の鞭は嫌だ、やせっぽちのこれの体は簡単に皮膚が裂けてしまうからだ。それとも、またあの火かき棒で殴られるのだろうか。


「ご、ぇんぁさ…うぅ…っ…ごぇ、…」


なんだか目の周りがひりひりして、怖い。これから起こるであろう暴力に怯えて、無意識に口から謝罪が零れる。

愚図でごめんなさい、教えてもらったことが出来なくてごめんなさい。汚くてごめんなさい、生きててごめんなさい。

小さな体は悲しいくらい震えが止まらない。せめて、打たれる範囲が広がらないように、頭を腕で守る様かのようにしながら、蹲るしかできなかった。

ごつごつとした重い靴の足音が近づいてくる音がする。その距離が縮まることに比例して、これの体の震えは大きくなっていった。


「ナナシ…?」
「ひ…っ…ごぇんあさいぃ…っ…!」


エルマーが河原で魚を捕まえて帰ってくると、結界の中ではナナシが胎児のように体を丸めて震えていた。
気絶したナナシを、テントの入り口付近に敷いたシートの上で汚れないように寝かせたまでは良かった。まさか帰ってきたらこんなことになっているとは思わなかったが。
この小さな体に深く刻まれた暴力の記憶は、そう簡単には覆せないのだろう。

そっと華奢な体をマントで包んで抱き上げると、そのまま膝に乗せてあやすように頭を撫でる。
可哀想に、顔は涙で濡れていた。せめて熱を持った目元は冷やしてやりたくて、火消し用のバケツの水に布を浸し、硬く絞ったそれを使い、涙で濡れた顔を拭ってやった。

漸く現実を取り戻したらしい。ナナシはその長い睫を震わして、緩慢にその双眸を開けば、大きな宝石のように美しい金眼にエルマーを映した。

「よぉ、大丈夫かナナシ。」
「あ、…っ…ひ、…」

夢だと認識したのか、はたまた安心したせいか、ナナシはせっかくエルマーが拭った顔を再び涙で濡らし、力強く首に抱きついた。

暖かな体のナナシに腕を回すと、その薄い背中を宥めるようにして撫でてやりながら、エルマーは小さく溜め息をついた。

この子はこんなに小さいのに、声を殺して泣くのだ。

河原で体に触れた時も、夥しいほどの暴力の痕を見つけ、思わず腹にくすぶる怒りの感情が表に出そうになり、押し殺すのに苦労した。
背中の傷跡は特に酷い。何度も鞭によって皮膚を剥がされ、熱した鏝で焼かれたような拷問の痕が白い背中を覆っていた。
ナナシは、その小さな体で必死に抵抗したのだろう。腕の裏側にも同じような傷があった。

腕の中で静かに泣く小さな体温が落ち着くまで、エルマーはたき火に取ってきた魚をくべしながら大人しく待った。
自分が何か声をかけても、解決しないことは確かだ。こういう時は時間に任せるのが一番である。

たき火の火によって鱒がいい感じに焼けた。ひときわ大きなそれは脂がのっており美味そうである。腹が減っていては気分がしょげる。これは全員に言えることだろう。
エルマーは胸元でおとなしくしていたナナシの側に焼けた鱒を持っていけば、匂いにつられたのか、きょとんとした顔でそれを見つめた。


「腹減ってねえか?一番美味そうに焼けたから、食っていいぞ。」
「…ななし、こぇ?」
「おう、魚食ったことない?」


戸惑いながら、恐る恐る魚を刺した棒に小さな手を伸ばす。両手でそれを握る。己の顔以上に大きな魚を前に、ナナシはますます困ったようにエルマーを見上げた。もしかしたら、食べ方を知らないのだろうか。

エルマーは、食べ方を教えるかのように、ナナシの持つ魚に横からかぶりついた。
ジワリと塩気と混じって口の中で鱒のうまみが広がる。もくもくと咀嚼しながらナナシを見つめると、恐る恐るといった具合でエルマーの真似をしたナナシが、小さい口で一口かじる。もむもむと口を動かしながら、次第に目をキラキラと輝かせるその表情がやけに可愛く、思わず笑ってしまった。

「それ、全部食っていいぞ。鱒ならまだまだあるし。気に入ったんならよかったよ。」
「…、」

口元を、ちんまい手のひらで押さえながらもぐもぐ、ごくん。エルマーの顔を見ながら、きちんと食べたよと言うようにぱかりと口を開ける。
そんなナナシの頭をよしよしと撫でながら、自分の分を食べようとすると、ナナシがエルマーの口元に先ほどの食べかけの鱒を当ててきた。


「これ、お前のだぞ?俺はほら、こっちにもあるし。」
「えるまー、ななし、たべぅ。」


首をかしげながら困ったように見上げてくる。一体何のことだかわからなかったが、要は一緒に食べろということかと思い至る。
ナナシが差し出してくれた鱒を、またぱくりとエルマーが食べれば、どうやらそれが正解だったようで、嬉しそうに微笑む。
続くようにナナシも同じものをぱくりと食べては、また先程のようにお口を抑えて咀嚼する。

自分とは口の大きさが違うナナシの一口は、酷く小さい。細い体をなんとか太らせたいエルマーは、ぜひとも一本まるまる食べてもらいたい。
しかし、ナナシはその鱒をエルマーと交互に二三度ぱくついた後は、お腹がいっぱいになったのか、差し出してもふるふると首を振るだけだった。

結局ナナシは鱒一匹を食べきることができず、大食らいのエルマーからしてみれば心配の種が増えただけである。
体格からして十代前半だと思うが、それにしても細い。近くの町に行くまではしばらくかかりそうだし、栄養のあるものを少しずつでも食わせなければ、流行り病などにかかったらひとたまりもなさそうだ。

エルマーは出会って二日目だというのに、自分がナナシに対して過保護になってしまっていることに気が付いていた。

「名付け親、だからかねえ。」

ナナシの頭の上に顎を乗せながら呟くと、ナナシが嬉しそうな声でくふんと笑った。



大量とはいかないものの、とってきた魚はすべて焼いた後インべントリに突っ込んだ。
これで腹が減っても食料は確保できた。明日の朝は森の中を抜けて、聖シュマギナール皇国を目指そう。まずはそこに行くためには森の出口にある大橋を渡って、皇国へと繋がる城門を目指さねばならない。

まずは一番皇国に近い村、ドリアズで一泊してから向かう算段をつける。エルマー一人なら村に立ち寄らずともいいのだが、ナナシの体力が持つかわからなかったのだ。

それならば急ぐ旅でもなし、皇国に入ってさえしまえば魔物は出ないし安全である。
それにいい加減温かいお湯も浴びたいし、ナナシの服も買ってやりたいのだ。
何より、エルマーがこうして皇国を目指すのには、一つの目的があった。

それは大切な約束を果たすためだった。インべントリの中に保管されているクラバット。それを正しい持ち主に返すようにと、エルマーが在軍中に駐留していた土地でお世話になった神父からの頼まれたのだ。

たき火を消しても結界があるので、魔物がこちらを襲ってくることはない。必要な明かりはテントの中の魔道ランプに光魔石をセットすれば点灯するので、それでいいだろう。

念のため魔物避けとして、以前倒した大物の魔物の血を水に溶かしてテントの周りに撒いておく。ここいらじゃお目にかかれないアンデット系のミノタウロスの血だ。錬金術師垂涎の貴重なものだが、べつに錬金術師でもないのでエルマーにとっては痛くもなんともない。

エルマーのインべントリの中には、貴重な素材や魔物の核などが乱雑に保管されていた。戦場で片っ端から倒したものもあるが、討伐依頼を受けて刈り取った魔物からドロップしたものもある。それを売れば家だって買えるのに、それをしないのは関心がないからだ。

くありと一つ欠伸をすると、そろそろいい時間である。ナナシはしっかりとエルマーの服を握りしめながら、テントの中におずおずと入る。
そのまま招かれるように、横になったエルマーの腕の中にもぞもぞと入りこむ。エルマーは纏っていたマントを毛布代わりにして、その細い体を包んでやった。
腕の中のナナシが、眠そうな目で見上げてくる。


「さ、今日はもう寝るぞ。明日は起きたら森を抜ける。今のうちにゆっくり体を休めた方がいい。」
「…、えるまー、」
「起きてもいるからよ。ゆっくりお休み。」


横になったエルマーの胸元に、その擦り寄せた。ナナシはしっかりとエルマーの胸元の服の握りしめると、目を瞑る。
エルマーがナナシを一人ぼっちにしないように。目が覚めて、置いていかれないように、ナナシは縋るようにエルマーにくっついた。優しいエルマーの手を知った今、また一人ぼっちになったら、きっと寂しくて泣いてしまう。
ナナシは言葉がうまく出てこないから、代わりに行動で示すしかないのだ。

エルマーは服の裾を小さな手で握りしめて、胸元に顔をうずめるナナシの必死な姿が哀れだ。エルマーは無言でその背に腕を回すと、ナナシが安心できるように抱きしめてやった。

「…、っ…」


背中を優しく撫でる手のひらに、一瞬身をこわばらせる。それもほんのひとときで、宥めるような優しい手のひらに少しずつ促されるように力を抜くと、ナナシはエルマーの腕の中で小さくなった。エルマーがくれた襤褸布を噛みながら、まるで身を守るのが癖のように。

夜になると、ナナシはいっつも泣いている。
静かに、迷惑にならないようにと嗚咽を堪え、涙をぼろぼろと零しながら、エルマーの優しい体温にくっついて、声を殺すのだ。

ここは、なんて息がしやすいのだろう。心の中はこんなにも饒舌なのに、口をついて出るのは下手な言葉ばかり。
自分は何もできない。だから、ナナシは名前をくれたエルマーの為に何かをしたかった。
ナナシは痩せっぽちで使えない愚図だ。だから早く元気になって、エルマーの役に立ちたかった。


「ナナシはいい子だなあ。なんも心配ねえ。明日の朝も、おはようって返してくれな。」
「…うぅ、…。」


大きな手のひらで頭を撫でられると、涙が止まらない。エルマーは陽だまりのような声でナナシに優しくしてくれる。
明日の約束をしてくれて、沢山お話をしてくれる。

ぐすぐす泣いていたら、頭上からすー…、と寝息が聞こえてきた。鼻を啜りながらそっと見上げると、エルマーがナナシをあやし疲れて寝息を立てていた。

無防備な寝顔をしばらくじいっと見つめてから、ペロリとエルマーの唇をひと舐めする。
ごめんなさい、うれしい、ありがとう。そんな意味を込めた、ナナシの気持ち。

もぞりと頭を胸元に押し付けて、あぐ、とエルマーの服を咥えて目を閉じる。
こうすると落ち着くのだ。ナナシは途中何度も目を覚ましては、寝ているエルマーがいなくなってないかを確認をした。
寝相で背中から腕が離れると、寂しくて自分から抱きついて目を閉じる。
そうすると、また抱きしめてくれるのだ。何度か繰り返すうちに、ナナシも気が付けば眠っていた。

皇国に向かうための野宿の間、ナナシの睡眠はずっとこんな具合で目の下の隈も濃くなっていったが、折檻されていたころよりも億倍ましだった。

だからナナシからしてみたら、寝付けないことが多くても体の不調は特に感じていなかったのだが、それを良しとしなかったのがエルマーだった。


「ナナシ、また濃くなってる。」
「…?」
「うーん、首かしげてんのかぁいいな。」
「う。」
 

エルマーは丸太の上に座りながら、細っこいナナシの腰を抱いて、己の足の間に引き寄せる。
ナナシはエルマーが寝ている間はなかなか眠れていないようで、寝ていたとしても必ず体や服の一部を掴んでいないと駄目だった。
さて困った、どうしよう。そう考えて出た結論は、大雑把なエルマーらしく、極端なものだった。

インべントリからロープを取り出すと、ナナシに背中に抱きつくように促した。くっついていないと寝ないのであれば、道中存分に寝てもらおうという算段だ。要するにおんぶ紐代わりに使うのである。

ナナシは最初、紐を見てびくりと体を硬直させた。その様子に、エルマーは安心させるように頭を撫で、ナナシに向かって背を向け屈み込む。


「…?」
「ナナシ、背中乗ってくんね?おんぶ。わかる?」
「おんぶ、…おんぶ?」


聞きなれない言葉だったのか、はたまたされたことがないのか。ナナシは良くわからないままエルマーの正面に回ると、頭に抱きついた。


「うーん、おしいな。後ろから頼む。」


ぽんぽんとあやすように尻を叩くと、ナナシはようやく合点が言ったとばかりに頷いた。
よたよたとエルマーの後ろに回ると、その細い腕を首に回して、エルマーに後ろから抱きつく。


「おーし、いいこだ。しっかりつかまってくれよお。」
「ぎゅう?」
「ぎゅう。そう、よしよし、よいせっと。」


ナナシの細い腕をしっかり掴み、前傾姿勢で立ち上がる。慌てたナナシは、離れれまいとエルマーの腰に足を絡める。
それを狙っていたエルマーが手早く自身とナナシの体をロープで固定をすると、二、三度体を揺らすようにして位置を調整した。
きょとんとしていたナナシが状況を理解したのか、いつもよりも高い目線に少しだけ楽しそうにしながら辺りを見回している。

天気は晴れているし、ナナシはご機嫌だし。スムーズにいけばドリアズも今日中に着くだろう。エルマーは簡単な装備の確認だけすると、漸く皇国に向けての一歩を踏み出したのであった。


しおりを挟む
感想 45

あなたにおすすめの小説

いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜

きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員 Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。 そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。 初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。 甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。 第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。 ※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり) ※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り 初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。

異世界転移して美形になったら危険な男とハジメテしちゃいました

ノルジャン
BL
俺はおっさん神に異世界に転移させてもらった。異世界で「イケメンでモテて勝ち組の人生」が送りたい!という願いを叶えてもらったはずなのだけれど……。これってちゃんと叶えて貰えてるのか?美形になったけど男にしかモテないし、勝ち組人生って結局どんなん?めちゃくちゃ危険な香りのする男にバーでナンパされて、ついていっちゃってころっと惚れちゃう俺の話。危険な男×美形(元平凡)※ムーンライトノベルズにも掲載

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

4人の兄に溺愛されてます

まつも☆きらら
BL
中学1年生の梨夢は5人兄弟の末っ子。4人の兄にとにかく溺愛されている。兄たちが大好きな梨夢だが、心配性な兄たちは時に過保護になりすぎて。

嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!

棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。

市川先生の大人の補習授業

夢咲まゆ
BL
笹野夏樹は運動全般が大嫌い。ついでに、体育教師の市川慶喜のことも嫌いだった。 ある日、体育の成績がふるわないからと、市川に放課後の補習に出るよう言われてしまう。 「苦手なことから逃げるな」と挑発された夏樹は、嫌いな教師のマンツーマンレッスンを受ける羽目になるのだが……。 ◎美麗表紙イラスト:ずーちゃ(@zuchaBC) ※「*」がついている回は性描写が含まれております。

【BL】国民的アイドルグループ内でBLなんて勘弁してください。

白猫
BL
国民的アイドルグループ【kasis】のメンバーである、片桐悠真(18)は悩んでいた。 最近どうも自分がおかしい。まさに悪い夢のようだ。ノーマルだったはずのこの自分が。 (同じグループにいる王子様系アイドルに恋をしてしまったかもしれないなんて……!) (勘違いだよな? そうに決まってる!) 気のせいであることを確認しようとすればするほどドツボにハマっていき……。

平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです

おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの) BDSM要素はほぼ無し。 甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。 順次スケベパートも追加していきます

処理中です...