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椎葉の沼御前

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「すまぬのう、私の目が行き届かなかったようだ。睡蓮、お前にも随分と気苦労をかけたね。」

 優しい瞳をした沼御前は、今日は老女に化けていた。見慣れぬ装束を身にまとう、楚々とした婆様が居間に居座っていたので、最初は誰だか分からずにポカンとしてしまった。
 天嘉から、これ沼爺。と言われなければ、琥珀はそのまま失礼を働いていたかもしれない。引きつり笑みを浮かべながら挨拶をすると、先の言葉を言われたのだ。

「饒河はね、少々頭が宜しくない。私は此奴がこの首を狙っていると知っていて、あえて侍らせていたのだが、そこの生真面目な睡蓮が心を砕いてくれてね。」

 沼御前の真横には、簀巻きにされた毛並みのいい狐が顔を顰めて転がっていた。沼御前が姿を表して早々にその身を縛られたらしい。まるで荷物のような扱いに、心底不服そうな面であった。

「あ、あえてだったのですか!」
「若いものが、どう画策してこの首を狙ってくるのか気になるだろう。うふふ」
「この婆様もなかなかに食えねえ…」
「いや、本性は爺だよ、若天狗。」
「お、おうすまん…」

 婆様の姿で、爺様が本性だと宣う捻くれた沼御前は、そのしわしわの手の平で饒河の口吻を掴むと、じとりと見下ろした。

「お前さん、私を殺して首をすげ替えるって画策をするなら、ほかを巻き込むな。うまく行かぬのは己の狭量故だといい加減気づきなさい。お前が追いやった睡蓮にまでわざわざ八つ当たりして、恥ずかしいと思わねば。」
「ふぐっ!んむうう!!」
「やかましい。椎葉山の名に泥を塗るなといっているんだ。身から出た錆さ、神格を失ったのはお前自身の怠慢のせいだろうがうつけもの。」

 淡々と語りながら、その柔らかそうな目元から光る瞳の鋭さに、こちら側も身が引き締まる思いであった。琥珀が若干物怖じをしてしまう沼御前を前に、睡蓮はというと実に臆することなく言葉を発する。

「いいえ、僕が早とちりをしなければ、こんなことにはならなかったんだと思います。」
「何を謝る。おまえのその心意気は美徳だよ。それに、私にだって非はあるさ。お前の様子を知りながら、何もしなかったのだから。」

 沼御前は、そう宣うと睡蓮の左腕を目にした。きっと、睡蓮は自分でどうにかしようとして行動した。逃げたくなんかなかったろう、それでも、心の内側の悲痛な叫びを受け取って、自分の為に最善を尽くした。

「こいつがお前にしてきた横暴や無体は、他の玉兎も存じている。皆お前を気にかけていた。何もできなかったからこそ、お前が逃げたとき、誰もが責めずに居たのだよ。」
「み、皆は元気なのですか、」
「今は、私のもとに侍っている。兎は弱くなんかないぞ睡蓮。お前を見て、皆己の意志で行動した。妖かしのしたたかさは、玉兎にもあるのだとお前が証明したのだよ。」

 優しい微笑みで、そんなことを言われた。目の奥が熱い。なんだか泣きたくなくて、顔を伏せる。よかった、という安堵と、そして、そこまで思ってくれた仲間への懺悔。生き汚くあがいていいのだと言われた気がして、睡蓮はえも言われぬその心情に涙腺を叩かれる。

「泣き虫睡蓮、お前は逃げたのではない、抗えると証明したのだ。一度しかない生を、お前はお前の意志で守ったと言ってもいい。」

 沼御前の言葉を、その場にいた天嘉と琥珀も黙って聞いていた。きゅうっと口を噤んで、泣くまいとしている睡蓮の情けない顔を見て小さく笑うと、沼御前はその老いた手で鼻をもにりと摘んで、ちょんと引っ張った。

「マ、一つ小言を言うわせてもらうとすれば、お前が気を回さずとも私は強いということだ。」
「ご、ごめんなさいっ」
「しかしまあ、お前に守られていたというのは笑い話ではあるが、悪くない心地だ。」

 渋い顔をして丸まっている饒河が、きろりと睡蓮を睨む。この使えぬと思っていた玉兎が、ドジのフリをして尽く計画をおじゃんにしてきたのだと思うと、踊らされていたかのようで腹が立って仕方がない。饒河のそんな視線に気がついたのか、睡蓮がちらりと見やると、眉を下げて困ったような顔をした。

「なんだい睡蓮、言いたいことがあるなら言ってしまいなさい。この唐変木が意地悪をしようとしても、今は出来まいよ。」
「いいえ、沼御前様。僕はあの日々を経験して、むしろよかったのかもしれません。」
「ほう、それは自己犠牲精神か?」
「あ、いやちがいます。」

 興味深そうに、その細い目を更に糸のようにした老女は、続きを促すように小さく頷く。睡蓮はちろりと琥珀を見上げると、もぞもぞと口元を動かし、いそいそと立ち上がると、沼御前のとなりにぺたりと座って耳打ちした。

「ぶっ…!うはっ、あっはっは!!これはいい!ひーっひっひっ!」
「な、なんだってんだ…」
「睡蓮、沼爺笑い上戸なんだから笑わせんなって。」
「あ、あわわっ」

 ひとしきり机をバシバシ叩き、そして締めだと言わんばかりに饒河の頭もべしりと一発お見舞いをする。饒河にも聞こえていたらしい、心底衝撃を受けたような顔をした後、まるで羞恥ここに極まれりと言わんばかりに、ぎゃうっと鳴いた。

「ああよかった、フフ、本当にお前は好ましい。惜しいなあ、睡蓮。今からでも私の伴侶にならないか。なに、仲間もおるし、子は何人孕んでも構わぬよ。」
「ぅえっど、どどっ、どうしてそんなはなしにっ」

 びゃっと耳を伸ばして驚いた睡蓮であったが、それよりも仰天をしたのは琥珀の方であった。沼御前の言葉にがたんと机を揺らして前のめりになると、ぐっと口を噤んで堪える。
 沼御前は蘇芳と同格である。己よりも、余程力の強い妖かしからの番の申し出は、当人が良しと言えば成されてしまう。真っ青な顔をして、無言で腰を落ち着け堪える琥珀の様子を見た沼御前は、にんまりと笑った。

「おや若天狗、なにか言いたげだな。」
「…べ、つに。」
「ああ、発情期はもう済んだのか。惜しいことをしたなあ、だがまだお手つきではなさそうだ。お前からは雄の匂いがしない。」

 沼御前は、そう宣うと頭の天辺から帯状に変化を解いていく。天嘉も琥珀も、目の前の老女だった妖かしが、ゾッとする程の美丈夫に変わっていくのを、呆気にとられたように見つめていた。

「好ましい雌を前にして、仮初めの姿では口説くこともままならんだろう。」

 そう言った沼御前の本性は、実に男らしい体躯に紺色の短髪、そうして無精に着られた着物の隙間からは、大蛇の姿を取ったときに身に纏う文様が刻まれていた。黒く色付いた爪のついた指先で、睡蓮の顎を捉える。黒く美しい虹彩で睡蓮に微笑むと、赤を差した目もとを柔らかく緩めて微笑んだ。

「だっ、」
「だ?」

 びしりと固まったまま、睡蓮が素っ頓狂な声を上げる。

「抱かれる予定ですからっ!!こ、琥珀にっ!!」
「ブフォッ」

 けぶるような色気を身に纏うたいそうな美丈夫を目の前に、睡蓮が叫んだ言葉は居間に響いた。発言に吹き出したのは琥珀だ。まさかそんな断り方があるだなんて知らなかったと言わんばかりに、絶句をして睡蓮を見やる。天嘉はその横で、口を開けたまま震えるようにして笑いをこらえていた。

「若造よりも、私のほうが褥も上手いぞ。お前の小さな尻もよくよく解して入れてやる。」
「いいい、いまその段階をっ、琥珀と踏んでいるところですっ!!」
「おまっ、なにいってっ!」

 ひぃい!と顔を様々な色に染め上げた琥珀が、大慌てで睡蓮の口を塞ぐ。もう堪えるのが限界らしい、横でぶるぶる震えながら、口端を震わし笑う天嘉は、もう呼吸もままならぬ。

「ふむ、やはり先程の言葉は此奴ありきの話か。実に面白い。お前が良ければ、そこな若天狗も含めて嫁として娶っても私は構わぬよ。」
「俺は構う!!」
「ぼぼっ、僕も構います!!!!」

 抱けぬこともない。そう恐ろしいことを言いながら、睡蓮を羽交い締めにしていた琥珀を見つめるので、真っ青な顔をして睡蓮が己で視界を遮った。沼御前は余程面白かったらしい、肩を揺らしてクツクツと笑うと、これだから若いものを誂うのは止められぬと宣った。





「なるほどなあ。まああやつも暇を持て余しているから、若人を弄るのが趣味というところだろう。」
「笑い事じゃあねえっての、ったく、尻の心配をする日が来るとは思わなかったぜ…」

 饒河を小脇に抱え、帰っていった沼御前はというと、これ以上饒河がふんぞり返らぬようにと躾直すようであった。
 そして、睡蓮と琥珀のあまりの慌てように、私には既に四羽の嫁が居るから、お前たちまで面倒は見れぬやもしれないなあと宣うと、睡蓮は更に仰天してしまった。

「ま、まさか僕の仲間たちが全員嫁になっていたとは…」
「いや、奔放すぎるだろう。一夫多妻で何でやれてんだ…」
「でも良かったじゃん。今度椎葉まで遊びに来いとか言ってたし。二人でいってくれば?」
「どんな顔して会えばいいのやら…」

 いわく、皆睡蓮に会いたがっておるとのことだが、気まずいのは本人だけなのかも知れない。
 会いたい、会いたいけど、やっぱり少しだけ怖いのだ。そんな睡蓮の心の機微を受け取ったのか、琥珀はその手を握り返す。

「直ぐじゃなくていいだろう、俺だって背中治さにゃなんねえし。」
「そう、だね、うん。」

 きゅ、と握り返して小さく頷く。己の傷のせいにして、睡蓮の覚悟を先延ばしにしたのだ。睡蓮が申し訳無さそうな顔で見上げれば、もにりと鼻を摘まれる。不器用な琥珀の優しさに、睡蓮はやっぱり好きだなあと思うのであった。
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