35 / 58
隠し事
しおりを挟む
十六夜は、その仮面の下で、ただ感心したように琥珀の暴れっぷりを見つめていた。大天狗は雷しか使わぬ、そう思われているのは、先代の蘇芳が好んで使っていたからに違いない。だからこそ、挑んでくるもののほとんどが、そう言った偏った対策しかしてこぬのだ。
「炎は雷に引き寄せられるってか。そりゃあこええ。」
故に、この二人もそういった考えで挑んできたのだろう。琥珀の放電に合わせて、その炎が襲いかかってきたと言うのに、等の琥珀はというと慌てもせずに、腰から大きな扇子を取り出した。
「紫峰!」
着物をきたまま、大きく舞うように、琥珀がそれを振り上げた。途端に、扇子の中に仕舞い込んでいた水を操る九十九妖怪共が姿を現し、大きな金魚のような姿をとると、その炎をバクリと飲み込んだ。一筆描きをしたかのような大きな金魚の妖かしは、一雨降らせるときに使う配下のものであった。紫峰と呼ばれた複数の九十九妖怪たちは普段は扇子の絵巻の中に住んでいる。それらが久方ぶりの出番であると、嬉々として琥珀の周りに侍るように回遊した。
「お前も紫峰の腹の中に飲み込まれてえわけじゃねえだろう。蝦蟇油に輪入道の共同戦線は利口だったが、もう少し調べてから挑んでこい。」
「琥珀殿、そのへんで。」
十六夜は、紫峰の感情のない瞳に映され、戦意消失をしたらしい輪入道を見ると、もう勝負はついたとばかりに仲裁に入る。琥珀もこれ以上やりあう気はないらしい、扇子を閉じるようにして紫峰を仕舞い込むと、それを元あった位置に差し込んで襟元を正した。
「帰るぞ十六夜、睡蓮が待ってる。」
「は、」
がしょりと音を立てて、輪入道が倒れ込む音を聞きながら、琥珀が帰ろうと背を向けた時であった。
「ま、まて!お前、睡蓮と言ったか!」
「あ?」
思わず、治安の悪い声を漏らした琥珀に、引き止めたふんどし姿の蝦蟇はびくりと体を揺らした。しかし、何か譲れぬものがあったらしい。蝦蟇は慌てて地べたに膝をつくと、大きな声で宣った。
「お、お前の言う睡蓮は、玉兎の睡蓮で違いはあるまいな!?」
「…なんだてめえ、」
冷や汗を吹き出した蝦蟇と、どうやら己が本分を思い出したらしい、再び燃え上がるようにして起き上がった輪入道が、血相を変えて宣う。
「わ、我らはそいつを探しておる!!乱暴を振るって悪かった、もし存じているならば、会わせてはくれまいか!!」
「そうだ、この通りだ!!」
大きな声で、とりすがるようにそんなことを宣うものだから、遠くで諍いを見守り、そして睡蓮を存じ上げているものたちは、なんだなんだと野次馬をする。
琥珀の眉間の皺が深くなる。また、己の知らぬ睡蓮の顔を存じているものがしゃしゃりでたのだ。不機嫌な空気を纏ったのを察した十六夜が、牽制をするように琥珀の前に出た。
「囀るな。先に仕掛けてきたのは貴様らだ。我らが口にすることは何もない。筋も通さぬ輩の前には、門は開かれぬ。」
「いくぞ十六夜、時間の無駄だ。」
「御意。」
「そ、そんな…、待ってくれよ!!」
下で喚くものたちの様子は、配下の天狗に任せることにして、琥珀は十六夜と共に飛び立った。ああ、一体なんだと言うのだ。腹が立つ。行きよりも余程荒々しい飛び方で、琥珀が帰路へ向かう。そんな様子を、十六夜は黙って見つめていた。
ーもしかしたら、睡蓮殿が以前支えていたとか言う神に関係するもの達だろうか。
そんなことを思ったが、口にして機嫌を損ねるのもよろしくない。十六夜は一度、この件は蘇芳に確認を取るべきやもしれぬと思うと、そっと心の中に書き留めた。
そして、そんなことがあった晩のことである。
「琥珀、今いいか。」
「ん?」
珍しく、蘇芳が声をかけてきたのである。睡蓮が発情期ということもあり、中に入ることはしなかったが、障子の外から、こちらを伺うようにだ。
琥珀は横で寝ている睡蓮をちらりと見ると、今行くと言って、起こさぬように布団から抜け出した。薄い肩に布団をかけてやると、身形を整える。
「何。」
「睡蓮は寝ているか。」
「ああ、起こしたくねえ。」
蘇芳は琥珀が睡蓮を隠すようにして立つのを見て、小さく微笑む。息子が一人に執着するのが成長の証と言わんばかりに、柔く笑うものだから。琥珀は少しだけバツが悪くなった。
「わかった、居間に行こう。睡蓮のことで話さねばならんことがある。」
「…昼間のことか。わかった。」
仕事の出来る十六夜が、早速報告をしたらしいことを察すると、ちろりと睡蓮を見る。すよすよと寝ている様子を確認した後、音を立てぬようにそっと障子を閉めた。
「昼間はご苦労だったな、椎葉の方から手練が来たのだろう?」
「手練ぇ?あんなん、ただの挨拶まわりだろう。十六夜一人でも十分さな。」
「はは、お前は血気盛んかと思えば老成している部分もあるからなあ。まあいい、若いんだから喧嘩も楽しめばよろしい。」
「よろしいっつか、さっさと帰ってきた方は俺なんだけど。」
のんびり口調の父親と話していると、やはりこの性格は天嘉に似たのだと自覚する。背丈は変わらない程にまでなったが、この大きな存在を超えるのはまだ先だろう。
「琥珀、おいで。」
「母さんもまだ起きてたんか。」
「おう、まあ居たほうがいいかなって。」
「先に褥を温めておけといったんだがな。」
居間に胡座をかいて待っていた天嘉は、二人を見るとひらひらとて招いた。畳の感触を足裏に感じながら、天嘉の横に腰を下ろした蘇芳が、琥珀にも座るように促した。
「なはは、なんか面接みてえ。」
「めんせつ?」
「や、こっちの話。」
また天嘉が聞き慣れぬ言葉を宣う。琥珀が座布団に腰を下ろしたのを見ると、天嘉は湯呑に三人分の茶を淹れた。
「ほい、」
「あんがと。」
天嘉の好きな梅昆布茶だ。ずっ、と一口啜る。なんだか団欒というよりかは、家族会議のようである。真面目な雰囲気なぞあまり無い家だ。少しだけ琥珀は気を張っていた。
「睡蓮のことなんだけどさ。」
口火を切ったのは、以外にも天嘉の方であった。
「あ、うん。」
「あー、えっと、睡蓮がこっちに流れてきたのは知ってるよな?」
「ああ、元々どっかの神に仕えてたんだろう?」
「うん、まあ神っていうかなんてーか。」
言い淀む天嘉に、琥珀が怪訝そうな顔をする。蘇芳はふむ、と一つ頷くと、ずっ、と茶を啜った後に口を開いた。
「ただの化け狐さ、其奴が神に化けて睡蓮をこき使っていてな。」
「あ?化け狐?」
「そう、椎葉の沼御前が大人しいからって、取って代わってでけえ顔してる奴な。」
「母さん、見たことあんのか?」
けっ、という顔で言い放った天嘉を見て、そんな疑問を持った。天嘉が嫌う妖かしなんぞ、まず蘇芳が里に降りさせぬだろう。基本的にどんなに嫌な奴でも、嫌いになるには時間がかかる。天嘉は鼻が利く。何か抱えているものや、そういった振る舞いをせざるおえない者などは、その話術で宥め賺してきた。故に、今の御嶽山総大将の抱え込む妖かし共は、忠義心が強く、天嘉の号令一つで来るものもいる。本人は蘇芳の男気の賜物だと思ってはいるが。
「椎葉の化け狐は神気を纏っていた獣上がりよ。しかし半端者で性根も悪い。まあ、纏う神気を剥奪されているのが理由だろう、持て余した沼御前が窘めたのをきっかけに傅くようになってな。」
「ああ、沼御前のが力が強いのか。」
「強いというよりも、物の道理をわかっておる。」
蘇芳は煎餅に手を伸ばす。それを一枚引き寄せると、ぱきりと食らう。
「んで、その化け狐の元に侍ってたのが睡蓮。」
「沼御前じゃねえの?」
「沼御前なら逃げてねえよ、多分。」
その化け狐の元で、どういう扱いを受けてきたのかはわからない。しかし睡蓮は、命からがら逃げてきたらしい。そうして山を越えて、ここに来た。身形はボロボロ、自己肯定感も低く、ここに逃げ延びた数日は、ずっとビクビクと震えていたらしい。
ー何でもしますから、ここに置いてください。お願いします、お願いします!
「何もないといいんだけどね、」
天嘉は思い出していた。あの時の、睡蓮の必死な懇願を。地べたに額を擦り付けながら、居場所を求めた必死な姿に、何も思わぬわけがなかった。
琥珀は、黙って聞いていた。また己の知らぬ睡蓮の一面を突き付けられ、それがなんとも言えぬほど不満だった。何だというのだ、一体。腹の凝りは表情に現れる。だって、睡蓮は俺のなのに。
「しゃしゃり出て、掻っ攫われるようなヘタは踏まねえ。あいつは俺んだ。」
そう言って、出された梅昆布茶を勢いよく呷る。飲み終えた茶碗をゴトン!と置いた。そして琥珀は立ち上がり、荒々しい振る舞いで部屋から出ていった。
乱雑に閉められた障子が僅かに隙間を開ける。天嘉も蘇芳も、そんな琥珀の様子にちろりと顔を見合わせる。
「琥珀の不器用は、お前に似たのだろうなあ。」
「嘘だろ、俺ぇ?」
「はっはっは、まあ、わからぬのならそのままで良い。可愛らしいことには何も変わらぬからなあ。」
「なんかムカつく…」
むくれる天嘉とは正反対に、蘇芳は実に天狗らしくなってきたとニンマリ笑う。不服そうな嫁の腰に手を回し、ぐっと引き寄せる。
「好いたものは手放せぬよ。それはなにがあってもだ。」
「む…」
お前がいっとうわかっておるだろう。そう言って、酷く甘やかな瞳で天嘉を見つめるのだ。お陰様で、その圧にやられるかのように天嘉の形のいい唇はにゅんと出る。不満そうな、そんな照れ隠しの顔は、琥珀によく似ているのであった。
「炎は雷に引き寄せられるってか。そりゃあこええ。」
故に、この二人もそういった考えで挑んできたのだろう。琥珀の放電に合わせて、その炎が襲いかかってきたと言うのに、等の琥珀はというと慌てもせずに、腰から大きな扇子を取り出した。
「紫峰!」
着物をきたまま、大きく舞うように、琥珀がそれを振り上げた。途端に、扇子の中に仕舞い込んでいた水を操る九十九妖怪共が姿を現し、大きな金魚のような姿をとると、その炎をバクリと飲み込んだ。一筆描きをしたかのような大きな金魚の妖かしは、一雨降らせるときに使う配下のものであった。紫峰と呼ばれた複数の九十九妖怪たちは普段は扇子の絵巻の中に住んでいる。それらが久方ぶりの出番であると、嬉々として琥珀の周りに侍るように回遊した。
「お前も紫峰の腹の中に飲み込まれてえわけじゃねえだろう。蝦蟇油に輪入道の共同戦線は利口だったが、もう少し調べてから挑んでこい。」
「琥珀殿、そのへんで。」
十六夜は、紫峰の感情のない瞳に映され、戦意消失をしたらしい輪入道を見ると、もう勝負はついたとばかりに仲裁に入る。琥珀もこれ以上やりあう気はないらしい、扇子を閉じるようにして紫峰を仕舞い込むと、それを元あった位置に差し込んで襟元を正した。
「帰るぞ十六夜、睡蓮が待ってる。」
「は、」
がしょりと音を立てて、輪入道が倒れ込む音を聞きながら、琥珀が帰ろうと背を向けた時であった。
「ま、まて!お前、睡蓮と言ったか!」
「あ?」
思わず、治安の悪い声を漏らした琥珀に、引き止めたふんどし姿の蝦蟇はびくりと体を揺らした。しかし、何か譲れぬものがあったらしい。蝦蟇は慌てて地べたに膝をつくと、大きな声で宣った。
「お、お前の言う睡蓮は、玉兎の睡蓮で違いはあるまいな!?」
「…なんだてめえ、」
冷や汗を吹き出した蝦蟇と、どうやら己が本分を思い出したらしい、再び燃え上がるようにして起き上がった輪入道が、血相を変えて宣う。
「わ、我らはそいつを探しておる!!乱暴を振るって悪かった、もし存じているならば、会わせてはくれまいか!!」
「そうだ、この通りだ!!」
大きな声で、とりすがるようにそんなことを宣うものだから、遠くで諍いを見守り、そして睡蓮を存じ上げているものたちは、なんだなんだと野次馬をする。
琥珀の眉間の皺が深くなる。また、己の知らぬ睡蓮の顔を存じているものがしゃしゃりでたのだ。不機嫌な空気を纏ったのを察した十六夜が、牽制をするように琥珀の前に出た。
「囀るな。先に仕掛けてきたのは貴様らだ。我らが口にすることは何もない。筋も通さぬ輩の前には、門は開かれぬ。」
「いくぞ十六夜、時間の無駄だ。」
「御意。」
「そ、そんな…、待ってくれよ!!」
下で喚くものたちの様子は、配下の天狗に任せることにして、琥珀は十六夜と共に飛び立った。ああ、一体なんだと言うのだ。腹が立つ。行きよりも余程荒々しい飛び方で、琥珀が帰路へ向かう。そんな様子を、十六夜は黙って見つめていた。
ーもしかしたら、睡蓮殿が以前支えていたとか言う神に関係するもの達だろうか。
そんなことを思ったが、口にして機嫌を損ねるのもよろしくない。十六夜は一度、この件は蘇芳に確認を取るべきやもしれぬと思うと、そっと心の中に書き留めた。
そして、そんなことがあった晩のことである。
「琥珀、今いいか。」
「ん?」
珍しく、蘇芳が声をかけてきたのである。睡蓮が発情期ということもあり、中に入ることはしなかったが、障子の外から、こちらを伺うようにだ。
琥珀は横で寝ている睡蓮をちらりと見ると、今行くと言って、起こさぬように布団から抜け出した。薄い肩に布団をかけてやると、身形を整える。
「何。」
「睡蓮は寝ているか。」
「ああ、起こしたくねえ。」
蘇芳は琥珀が睡蓮を隠すようにして立つのを見て、小さく微笑む。息子が一人に執着するのが成長の証と言わんばかりに、柔く笑うものだから。琥珀は少しだけバツが悪くなった。
「わかった、居間に行こう。睡蓮のことで話さねばならんことがある。」
「…昼間のことか。わかった。」
仕事の出来る十六夜が、早速報告をしたらしいことを察すると、ちろりと睡蓮を見る。すよすよと寝ている様子を確認した後、音を立てぬようにそっと障子を閉めた。
「昼間はご苦労だったな、椎葉の方から手練が来たのだろう?」
「手練ぇ?あんなん、ただの挨拶まわりだろう。十六夜一人でも十分さな。」
「はは、お前は血気盛んかと思えば老成している部分もあるからなあ。まあいい、若いんだから喧嘩も楽しめばよろしい。」
「よろしいっつか、さっさと帰ってきた方は俺なんだけど。」
のんびり口調の父親と話していると、やはりこの性格は天嘉に似たのだと自覚する。背丈は変わらない程にまでなったが、この大きな存在を超えるのはまだ先だろう。
「琥珀、おいで。」
「母さんもまだ起きてたんか。」
「おう、まあ居たほうがいいかなって。」
「先に褥を温めておけといったんだがな。」
居間に胡座をかいて待っていた天嘉は、二人を見るとひらひらとて招いた。畳の感触を足裏に感じながら、天嘉の横に腰を下ろした蘇芳が、琥珀にも座るように促した。
「なはは、なんか面接みてえ。」
「めんせつ?」
「や、こっちの話。」
また天嘉が聞き慣れぬ言葉を宣う。琥珀が座布団に腰を下ろしたのを見ると、天嘉は湯呑に三人分の茶を淹れた。
「ほい、」
「あんがと。」
天嘉の好きな梅昆布茶だ。ずっ、と一口啜る。なんだか団欒というよりかは、家族会議のようである。真面目な雰囲気なぞあまり無い家だ。少しだけ琥珀は気を張っていた。
「睡蓮のことなんだけどさ。」
口火を切ったのは、以外にも天嘉の方であった。
「あ、うん。」
「あー、えっと、睡蓮がこっちに流れてきたのは知ってるよな?」
「ああ、元々どっかの神に仕えてたんだろう?」
「うん、まあ神っていうかなんてーか。」
言い淀む天嘉に、琥珀が怪訝そうな顔をする。蘇芳はふむ、と一つ頷くと、ずっ、と茶を啜った後に口を開いた。
「ただの化け狐さ、其奴が神に化けて睡蓮をこき使っていてな。」
「あ?化け狐?」
「そう、椎葉の沼御前が大人しいからって、取って代わってでけえ顔してる奴な。」
「母さん、見たことあんのか?」
けっ、という顔で言い放った天嘉を見て、そんな疑問を持った。天嘉が嫌う妖かしなんぞ、まず蘇芳が里に降りさせぬだろう。基本的にどんなに嫌な奴でも、嫌いになるには時間がかかる。天嘉は鼻が利く。何か抱えているものや、そういった振る舞いをせざるおえない者などは、その話術で宥め賺してきた。故に、今の御嶽山総大将の抱え込む妖かし共は、忠義心が強く、天嘉の号令一つで来るものもいる。本人は蘇芳の男気の賜物だと思ってはいるが。
「椎葉の化け狐は神気を纏っていた獣上がりよ。しかし半端者で性根も悪い。まあ、纏う神気を剥奪されているのが理由だろう、持て余した沼御前が窘めたのをきっかけに傅くようになってな。」
「ああ、沼御前のが力が強いのか。」
「強いというよりも、物の道理をわかっておる。」
蘇芳は煎餅に手を伸ばす。それを一枚引き寄せると、ぱきりと食らう。
「んで、その化け狐の元に侍ってたのが睡蓮。」
「沼御前じゃねえの?」
「沼御前なら逃げてねえよ、多分。」
その化け狐の元で、どういう扱いを受けてきたのかはわからない。しかし睡蓮は、命からがら逃げてきたらしい。そうして山を越えて、ここに来た。身形はボロボロ、自己肯定感も低く、ここに逃げ延びた数日は、ずっとビクビクと震えていたらしい。
ー何でもしますから、ここに置いてください。お願いします、お願いします!
「何もないといいんだけどね、」
天嘉は思い出していた。あの時の、睡蓮の必死な懇願を。地べたに額を擦り付けながら、居場所を求めた必死な姿に、何も思わぬわけがなかった。
琥珀は、黙って聞いていた。また己の知らぬ睡蓮の一面を突き付けられ、それがなんとも言えぬほど不満だった。何だというのだ、一体。腹の凝りは表情に現れる。だって、睡蓮は俺のなのに。
「しゃしゃり出て、掻っ攫われるようなヘタは踏まねえ。あいつは俺んだ。」
そう言って、出された梅昆布茶を勢いよく呷る。飲み終えた茶碗をゴトン!と置いた。そして琥珀は立ち上がり、荒々しい振る舞いで部屋から出ていった。
乱雑に閉められた障子が僅かに隙間を開ける。天嘉も蘇芳も、そんな琥珀の様子にちろりと顔を見合わせる。
「琥珀の不器用は、お前に似たのだろうなあ。」
「嘘だろ、俺ぇ?」
「はっはっは、まあ、わからぬのならそのままで良い。可愛らしいことには何も変わらぬからなあ。」
「なんかムカつく…」
むくれる天嘉とは正反対に、蘇芳は実に天狗らしくなってきたとニンマリ笑う。不服そうな嫁の腰に手を回し、ぐっと引き寄せる。
「好いたものは手放せぬよ。それはなにがあってもだ。」
「む…」
お前がいっとうわかっておるだろう。そう言って、酷く甘やかな瞳で天嘉を見つめるのだ。お陰様で、その圧にやられるかのように天嘉の形のいい唇はにゅんと出る。不満そうな、そんな照れ隠しの顔は、琥珀によく似ているのであった。
10
お気に入りに追加
238
あなたにおすすめの小説

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
【完結】悪役令息の従者に転職しました
*
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
本編完結しました!
『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく、舞踏会編、はじめましたー!
他のお話を読まなくても大丈夫なようにお書きするので、気軽に楽しんでくださったら、とてもうれしいです。
虐げられている魔術師少年、悪魔召喚に成功したところ国家転覆にも成功する
あかのゆりこ
BL
主人公のグレン・クランストンは天才魔術師だ。ある日、失われた魔術の復活に成功し、悪魔を召喚する。その悪魔は愛と性の悪魔「ドーヴィ」と名乗り、グレンに契約の代償としてまさかの「口づけ」を提示してきた。
領民を守るため、王家に囚われた姉を救うため、グレンは致し方なく自分の唇(もちろん未使用)を差し出すことになる。
***
王家に虐げられて不遇な立場のトラウマ持ち不幸属性主人公がスパダリ系悪魔に溺愛されて幸せになるコメディの皮を被ったそこそこシリアスなお話です。
・ハピエン
・CP左右固定(リバありません)
・三角関係及び当て馬キャラなし(相手違いありません)
です。
べろちゅーすらないキスだけの健全ピュアピュアなお付き合いをお楽しみください。
***
2024.10.18 第二章開幕にあたり、第一章の2話~3話の間に加筆を行いました。小数点付きの話が追加分ですが、別に読まなくても問題はありません。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる