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睡蓮の本当

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「吐いていい、辛いなら全部出せ。」
「ぅ、っ…!」

 障子と、衣服が擦れ合う音がした。睡蓮は涙目で堪えていたのだが、優しげな声と労るような手を背に感じ取り、その横の熱源が誰だかを確認できぬまま、びしゃりと嘔吐した。

「ぁ、っ、ぐ、ぐぅ、えっえっ、」

 背中を振るわせながら、荒い呼吸を繰り返す。顔の下に当てられた桶のおかげで布団を汚すことは無かったが、世話をしてくれたその人には迷惑をかけてしまった。けほけほと噎せながら、体力を消耗してしまった睡蓮が、力の入らぬ体を不本意に身を任せてしまった相手は、左側を支えるように腕を回してくれた。

「す、んませ、…ごめん、なさい…」
「良い、」

 ぐったりとしたまま、重い頭を支えてくれる相手を知ろうとしたが、汚れた口元を気にもせずにカサついた指先で拭われると、それが居た堪れなくてゆるゆると袖を引いた。

「き、汚い、から…」
「汚くねえ。」
「え、…」

 ヘタレた耳が拾ったのは、聞き慣れた琥珀の声だった。あの優しげな声と、汚くねえと不機嫌に呟く琥珀の声が繫がらない。
 恐る恐る見上げれば、その無骨な指先で睡蓮の頬に触れている想い人の、その、美しい瞳の色がわかる近さに息を呑む。

「こ、こはく、」

 ばくん、と心臓が跳ねる。薄暗い部屋で良かった。睡蓮の顔の赤みはバレることはなかった。支えられている体が、熱くなる。しかし、睡蓮の胸の高鳴りとは裏腹に、琥珀は整った顔の表情を曇らせた。

「お前が、後回しになっちまって…すまなかった。」

 悔しそうな声色で、睡蓮は抱き締められた。まるで、存在を確かめられるように腕を回されて、睡蓮の動かせる右手まで、胸の間に挟まれて自由を奪われた。苦しい。苦しいのに、睡蓮以上に苦しげな琥珀の声色は、少しだけ震えていた。

「…もっと、気にかけてやればよかった。お前を、」
「こ、こはく、っ」

 大きな手のひらが、睡蓮の柔らかな髪に指を通すようにして支えてくれる。そんな触れ方をされたことがなくて、口の中が乾く。緊張をしているのだ。琥珀の心情はこんなに自分を心配してくれているのに、睡蓮の体はこんなにも素直だ。恥ずかしくて、でもやめてほしくない。優しい声色が涙腺を叩いてくる。

「左腕、もう動かねえんだ。俺がもっと早く見つけてやれてたら、…すまねえ。」
「あ、…」

 腕の締付けが強くなる。そうか、と思った。睡蓮の左腕がこうなってしまったのを、琥珀は悔いてくれてるのだと思った。言うことを聞かない自分の左腕は、だらしなく布団に垂れたままである。右腕も琥珀によって挟まれて動かせないから、睡蓮は今身動きが取れない。取れないから、こうして抱きしめられている状況は拒まなくていい。
 大好きで、死んでしまいそうなくらい大好きな琥珀が、睡蓮の為に心を砕いてくれている。この状況に、心臓がもたないからと体が警報を鳴らしたとしても、睡蓮は距離を取らなくていいのなら、それはそれで、理由が出来たということだ。

「へいき、」

 ずるいとおもう。睡蓮は、自分が本当に嫌になった。だって、嬉しい。

「ぼ、僕は仕事もできないし、不器用だから…、片腕でも、そんな変わんないと思うから、へいき。」

 琥珀の腕の中で、本当にそう思ったから言った。へいき、の三文字には、琥珀に甘えられるかもしれないという、そんな賤しい気持ちが混ざっている。嫌だ、汚い。自分が本当に嫌になる。鐘楼に奪われた自分の左腕は、確かに惜しい。だけど、琥珀がこうして睡蓮に優しくしてくれるなら、別にいいやと思ってしまった。

「平気、じゃねえだろ。だって、おまえ、」
「ううん、いいの、」

 睡蓮の言葉に、琥珀の瞳が戸惑いの色を宿す。ごめん、ごめんね琥珀。睡蓮の中の良心がそう言っているのに、気持ちと心は裏腹だ。

「なにを、してほしい。」
「え?」
「俺に何をしてほしい。出来ることがあれば、何でもしてやる。」

 背中に腕を回されたまま、睡蓮は甘えている。この状況がずっと続けばいいのにと思ったばかりなのに、琥珀はまた、そんなことを言う。

「え、えっと…えっと、」

 どうしよう。と思った。本当に、本当にそんなことが許されるなら、睡蓮は琥珀を自分のものにしたい。だって、本当に好きだから、大好きだからずっと傍に居たいのだ。だけど、それを言ってしまえば義理堅い琥珀の事だから、嫌と言えはしないだろう。だから、睡蓮は口を噤んだ。

「わ、わかんない、わかんないけど…そ、そばにいてほしい…」

 側に置いてほしいと言いたかった。だけど我儘で一生を縛り付けて、側で苦しむ姿を見たくは無かったのだ。顔を赤くして、心臓を喧しくさせながら、琥珀の腕の力が強くなって、苦しくなるのがうれしい。睡蓮のちまこいおっぽはぷるぷると揺れて、喜んでいる。お願いだから大人しくしてほしいと、切に願った。

「睡蓮、」
「うん、」
「俺は、」

 琥珀の声が近くで聞こえる、恥ずかしくて、顔が見れない。俯く睡蓮の体を離した琥珀が、なにか言いかけた時だった。

「睡蓮!!」
「ひゃ、っ!」

 心臓に悪いくらい大きな声が、座敷に響いた。琥珀の顔が、途端に何時もの気だるそうなものに変わると、溜息を一つ、汚れた桶をもって立ち上がってしまった。

「母さん、ちっと声絞ってくれよ。睡蓮は今起きたばっかなんだから。」
「あ、わり。って、吐いた?大丈夫かよ!」
「あ、ご、ごめんなさいっ」

 琥珀から桶を受け取った天嘉が心配そうな顔をする。睡蓮は汚してしまったことを謝ったのだが、天嘉はなんとも思ってなさそうだ。琥珀に何かを伝えると、片付けてくるわと忙しなく部屋から出ていった。
 ぽりぽりと頭を掻く琥珀が、なんだか少しだけ疲れているように見える。なんとなく気不味くて、睡蓮は手持ち無沙汰に布団の端を弄っていれば、琥珀がとんでもないことを抜かした。

「お前は暫くうちにいろ。世話は俺がするから。」
「へぁ、あ!?」
「なんでそんな驚く、てか変な声で驚くなお前は。」
「う、うえっ、ど、どうしよう!」
「どうもしねえ。てか片腕じゃ何も出来ねえだろうが。」

 そうだけど!!琥珀の言い分は最もだったが、睡蓮からしてみたら青天の霹靂。そんな、世話ってどこまでするのだろう。まさか、厠やら風呂までついてくる気かと思い至ると、己の逞しい想像力で自分の首を締め付けた。

「あ、あの」
「なんだ、厠か?」
「か、厠は一人で行けるもの!」
「片手で握んのか。手練だな。」
「しゃ、しゃがむってば!!」
「しゃがんですんの?雌みてえだな。」
「う、」

 墓穴を、先程から掘りに掘りまくっている。睡蓮はひいひい言いながら蹲る。もう、なんでこんなやり取りで疲れなきゃいけないんだと羞恥が過ぎたせいであった。
 話題を変えなければ。しばし膝に顔を埋めてうんうんと唸って居たのだが、左腕を見てふと思ったのは、その後の事だ。

「う…あ、あのさ、いっこ知りたいんだけど…」
「あんだよ。」
「し、鐘楼さんは…?」

 睡蓮の言葉に、分かりやすく琥珀の纏う空気が変わった。なんというか、ぴりついたのだ。睡蓮はぴくりと肩を揺らすと、きゅっ、と唇を噤む。
 琥珀は暫く無言を貫いていたのだが、その大きな手のひらを睡蓮の頭の上に置くと、わしりと撫でた。

「牛頭馬頭にまかせてる。殺しはしてねえ。ただ、その身は縛らせてる。」
「あ…よ、よかった…」

 琥珀の言葉にホッとした。しかし、睡蓮のその様子をみた琥珀が唇を噤む。やはり、睡蓮は思った通りの反応をした。それがもやりと胸のうちに凝るのだ。手の平を頬に滑らせる。戸惑ったように瞳を揺らした睡蓮が、素直に顔をあげた。

「俺は、よくねえ。」
「そ、うだよね…ごめん、」
「ちげえ、総大将だからとか、そういうんじゃねえ。」
「えっと…うん、…ごめんね、あの、」

 ああ、うまく言えない。琥珀は、こういう時になんて口にしていいかわからなかった。睡蓮はしょんもりと耳を垂れさせたまま、困ったように微笑んでいる。いや、こいつは元からこういう顔だったなと思い至ると、余計にもどかしくなってしまう。
 うまく言葉が出ない琥珀を置いてけぼりにして、睡蓮はゆっくりと口を開く。

「あのね、えっと、こ、琥珀に謝りたくて。」

 指先で、布団の端を摘んだ睡蓮が宣った。

「僕、あのとき、…鐘楼さんがまだ野生だったときなんだけど、…僕ね、里に早く馴染みたくて、あの役目をかって出たんだ。」

 お山が荒れていた時の、交渉役。それを滞りなくできれば、睡蓮は認められると思ったのだ。本当は、最初から里のみんなは受け入れてくれていたのに、睡蓮は勝手に自分で馴染めていないと思い込んでいた。

「全然、みんな優しいのに、や、役に立たなきゃって…、でも、それで鐘楼さんまで追い詰めて…こ、こんなになっちゃって、ご、ごめん…」

 琥珀は、黙って聞いていた。睡蓮の独白は、琥珀が気にかけてやらなかった結果である。睡蓮だから大丈夫だろう。そう、勝手に心の内側を汲み取らずに、己の物差しで測ったのだ。

「俺は、」

 お前を、わかっているつもりだった。そう、口に仕掛けて辞めた。
 能天気で、ドジで、少しだけ天然が入っている睡蓮は、琥珀の思っている以上に周りに気を配り、そして努力をして、自分を追い詰めていた。
 それを、わかった気になっていた。琥珀は、睡蓮の側面しか見えていなかったのだと突きつけられた。そして、その弱い部分を鐘楼はきちんと分かっていたからこそ、取り込もうとしたのだ。その事実が悔しかった。己の知らぬ部分を見破ったのが、過去に一度のみ邂逅した相手だというのが、尚更に嫌だった。


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