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真綿の枷

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 それに気がついたのはニニギだった。水に沈み込んだままの由春をチラと見ると、その上半身をざぷんと滝壺に沈ませる。黒髪を水に遊ばせながら潜ってきたニニギにぎょっとした由春の、その立派な角をがしりと鷲掴むと、そのまま弓なりに上体を波打たせて一気に本性を晒す由春の巨躯を引き上げた。

「ぶぁっ!!んの、なんだというのだ!!私の角を鷲掴む不敬、いくらニニギでも許さぬぞ!」
「うるさいねえ!黙って出迎えな糞蛇が!!」
「ああ!?私は蛇じゃな、」

 鱗を震わせて抗議する由春の、体表に纏っていた水分が急激に乾く。周りの空気を冷気に変えながら飛んでくる宵丸に気がつくと、ニニギは体の霜を振り払うように、身を捩りながら手を広げた。

「こっちだ!!由春、準備しな!!」
「くそ、身勝手な百足め!」

 琥珀の上着に包まれた何かは、恐らく睡蓮だろう。宵丸は酷く焦った表情で、まるで雪風に捲し立てられるように全速力で飛んてくる。由春がその身を浸す滝壺の水を身に纏わせると、紫の瞳を輝かせて神気を滲ませる。周りが歪むほどの高濃度の神気だ。鎌首を擡げた由春が、その猛禽の足のような鉤爪を滝壺の縁にかけたのを見て、宵丸は速度を上げた。

「睡蓮を頼む!左腕が酷いんだ!触れないようにしろ、お前らも障るぞ!!」
「寄越しな、私が水の中で穢を剥がす。」

 ニニギが場所を譲るように体を引き下げる。宵丸は口を開ける由春にぎょっとしたが、慌てて地上に降り立つと布地に包まれた睡蓮を咥えさせた。恐ろしく尖った犬歯が並んでいたが、由春の分厚い舌の上に載せられた睡蓮は、上顎に優しく挟まれながら由春と共に水の中に潜っていった。

「何があったんだい。」
「…禍津神に魅入られた。障りを左腕に貰っちまったんだ。琥珀がそいつを連れてここまで来る。」
「なんで殺さなかったんだ!」
「殺さなかったんじゃない、殺せなかったんだ!」

 ニニギの言葉に被せるように、宵丸が吠えた。今、一番腹に据えかねているのは琥珀だ。己の事を、きっと一番に悔いている。睡蓮も鐘楼を気にかけていた。口にせずとも殺してほしくないことは明白で、琥珀はそれを渋々汲み取ったのだ。

「もう穢を振りまく気力すらねえよ、由春が顕現してんのに、無理に本性を晒したんだ。今のあいつはお前にも殺せるさ、だけど、睡蓮ちゃんが止めた。止めてなけりゃ、俺だって‥!」

 普段ちゃらけてばかりいる宵丸の怒りの様子を、ニニギは黙って見つめていた。目を瞑る。眉間にぐっと寄せた皺は、大きな何かを飲み込んだような、そんな苦悶の表情であった。赤く焼けた空を映すように、水面が染まる。静かな時が暫しの間、その場を支配した。

「来た。」

 ぽつんと呟いた宵丸の声に反応し、ニニギが目を凝らす。視線の先には見知らぬ男を引きずるようにして坂道を上がってきた琥珀の姿。全身を汗で濡らし、疲弊して尚鋭い目付きは失われては居なかった。琥珀は、鐘楼の角をつかんだまま投げ出すようにして体を引き倒すと、まるで興味もないと言うようにその場に放置して滝壺へと近づいた。

「もうそいつに戦意はない、放っておいても何もしねえ。」
「あんた、とんでもないことをしてくれたね。」
「ニニギ、構うな。」

 地べたにうつ伏せになって動かぬ鐘楼に詰め寄るニニギを、宵丸が嗜める。琥珀は滝壺の縁に座り込むと、胡座をかいて動かなくなった。

「琥珀、あんた背中…」
「俺はいい、」

 ニニギの目が、琥珀の背を抉るように付けられた傷を見つめる。帷子を着ていても付いてしまったそれに、障りはない。間接的に睡蓮によって助けられたのだ。
 胡座をかく琥珀の横に、宵丸が侍る。その素肌の肩に手を置くと、穏やかな水面を見つめた。

「由春が睡蓮の腕を直してる。俺らは待つだけしかできねえよ。」
「わかってる。」

 琥珀は、抑揚もなく呟いた。地べたにうつ伏せになったまま、一言も発しない禍津神らしき男の周りをニニギがその体で囲む。少しでも変な動きをしたら、食い殺すつもりであった。

「鐘楼。」

 琥珀の声で、その禍津神に名があることを知った。

「墜ちるな。睡蓮にこれ以上背負わせるな。」

 頬を土で汚したまま、鐘楼がゆるゆると顔を上げた。その広い背中には己がつけた傷があった。恨み以外の味を知らぬと思っていた、空っぽの己を満たした睡蓮の、気を許した相手なのだろう。己には見せなかった表情を、琥珀には見せていたのを鐘楼は覚えていた。

「羨ましい、俺はお前が。」
「そうかい、なら真っ当になれ。胸糞悪いことに、あいつはきっとお前に対して罪悪感しかもってねえ。」
「そうか、」

 水面が揺らぐ、強い神気が底から這い上がってくる圧に身をすくませながら、鐘楼はよろよろと起き上がる。己の受けるべき罰を待つように、鐘楼は琥珀の後ろであぐらをかいてその時を待った。

「由春、」
「ふん、生きている。まったく、なんでお前も睡蓮も、私に面倒ばかりかけるのだ。」

 喉を震わしながらそう宣う。琥珀が立ち上がり、由春の口の中に手を突っ込むと睡蓮を受け取った。水の中にいた割に血色は悪くない。だらりと垂れた左腕は黒から肌の色を取り戻してはいたが、その有様は無理やり直したかのような歪さであった。

「睡蓮、睡蓮、」

 鐘楼は、薄い胸をゆっくりと上下させる睡蓮をみて、弱々しく名を呼んだ。まるで母を失った子のような、そんなか細い声であった。疲れたように目元を腫らして眠る睡蓮の、その自慢のお耳にも届かぬ声色は、少しの懺悔の色が混じる。

「きっと、こいつはお前に謝ることしかしねえんだ。お前が許しを乞うても、こいつは。」

 睡蓮を抱きしめた琥珀が、淡々と呟いた。鐘楼はもう許されない。睡蓮の胸に抱く後悔を、その華奢な左腕に刻んでしまったからだ。己が過ちに気づき、悔いたとしても、その左腕が忘れさせてくれぬ。睡蓮の優しさは、きっと真綿のように鐘楼を苦しめ続けるだろう。

「睡蓮、俺は言ったろう。お前の涙で報われるもんも、報われねえって。」

 心の底からの涙であった。しかし、博愛的な優しさは時として枷になる。それに囚われたままの鐘楼は、睡蓮を傷付ける事で己の存在を認知させたのだ。
 他にやり方など知らぬ、小さな子の駄々と同じ感情で、鐘楼は睡蓮を傷つけた。その咎は、障りの消えた右腕に刻まれる。
 琥珀は、嫌だった。きっと睡蓮は鐘楼を許すだろう。あのときの鐘楼を助けられなかった代償として、己の左腕は罰だと受け入れるだろう。そして、何よりも嫌だったのは、睡蓮の後悔に気付けなかった自分だった。あの場には琥珀もいたのだ。この優しい妖かしが、悔いていないわけがないのに、琥珀は宿り木になると宣った睡蓮の努力を、全く見向きもせずに放置した。
 そんなつもりはなかった、では済まされぬ。当たり前だと思っていたことが、どれだけ幸せなことであったか。
 
「凝り固まった思考で命を脅かしたんだ、てめえは。俺にはそれが人間の横暴と同じに見える。てめえはてめえの首を絞めたんだ。人は許さなくていい。だけどな、その矛先を弱いものに向けるんじゃねえ。」
「…我は、…また過ちを犯したのか。」

 琥珀の言葉は、鐘楼の柔らかな部分に刻まれた。見つめた右腕は白い肌をしており、そして、柔らかい。あのとき己の背に回された両手の力強さを思い出したいのに、もうそれも望めないだろう。鐘楼は、それが酷く残念でならなかった。


   


 水面から浮上するように、睡蓮はゆっくりと意識を掬い上げられた。土の匂いはしない。煤の匂いの代わりに、白檀の匂いがする。ここはどこだろう。そう思って、また匂いを辿った。あまり覚醒していない。どうやら夢現なようで、睡蓮の大好きな琥珀の香りが鼻を掠めた気がした。ゆるゆると、顔を横にする。敷布団から平行に障子を見つめると、カロカロとした音と、ペタペタとした音が部屋の前で止まった。

「さて、お目覚めになっていればよいのですが、あ。」
「ツルバミ、おいら座敷の中にゃ入れないよ!段差が怖いんだ!」
「起きてらっしゃる!!天嘉殿、天嘉殿ーー!!」
「あ、おい!おいらも連れてってくれよう!」

 睡蓮の様子を見にきたらしいツルバミとよいしょは、眠そうな顔でこちらを見ていた様子を見て大いに仰天した。げこげこわあわあと喧しく騒ぎ立てながら、どたどたと忙しなくもと来た道へと消えていく。

「…っ、うわ、」

 よろよろと起き上がろうとした睡蓮が、体を支えようとしてしくじった。左側にがくんと崩折れると、数度瞬きをしてしばし放心した。なんだろう、均衡が取りづらい。もう一度起き上がろうとして、左手をつこうとして気がついた。

「なんだろ、」

 起き上がった睡蓮の左腕には、包帯が巻かれていた。動く右手でぺたりと触れて見る。触っているという感覚すらない。胸の奥でどくんと心臓が跳ねる。口の中が酷く乾いて、睡蓮は途端に息がしづらくなった。

「っ、え、あ…あれ、ええ、と…」

 思い出そうとして、こめかみが痛んだ。目の前が途端に赤と青が混じり合ったかのようにざらついた視界になり、そうしてじんわりと後頭部から滞った血流が流れていくようにして熱を持った。重だるいモヤが晴れる、そして真っ先に思い出したのは、赤い瞳が幾つも腕に湧いて出た光景だった。唐突にそれを思い出して、睡蓮は胃の腑から迫り上がってくるものを抑えようと、右手で口元を覆った。

「ぅぐ、っ…!ん、んぅ、くっ、」

 ギョロリと目が合ったのだ。百々目鬼のように、いくつもの赤い小さな瞳がこちらを見つめる。真っ黒く染まり、煤けた匂いを吹き上げて、そうして穢が放たれる瞬間を見て、睡蓮は己の手のひらでそれを潰した。
 ぎゅるりと喉の奥が鳴る。肩で呼吸をし、泣きたくないのに涙が出てくる。怖い、怖い!がたがたと震える体を小さく丸めながら、睡蓮が必死で泣くのを堪らえようとした時だった。




 
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