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琥珀の誤算

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 いつぞやか降り始めた雨は曇天を引き連れて重々しい雰囲気を作り出している。森の木々は葉艶を増しているが、恵みの雨は自然ばかりであった。
 十六夜からは結界の修復が済んだと報告を受け、大気に漂っていた穢特有の煤のような匂いも鳴りを潜めた。上空から伝令役と周回を命じていた一反木綿の御助率いる妖かし達は、実にいい仕事をしてくれた。
 その体躯の身軽さで、己たちがもてる最大出力の速さを出して里中を分担して駆け回ってくれたのだ。おかげで市井の穢は全て祓い終えたのだと教えてくれた。

「山の中は、いってやりてえけど雨だと無理だ。」
「わかってる、一反木綿もマカミもいい仕事をしてくれた。お前らは体を濡らさねえように、雨が上がるまでは潜んでいろ。ご苦労だったな。」

 薄い体を、烏天狗たちが持ってきた棒やら管に収めると、その僅かな隙間から申し訳無さそうな声色で宣うのだ。それらは籠にしっかりと収められ、雨が止むのを待つこととなる。

「天嘉に言って、撥水加工してもらえりゃ、まだ俺だって働けるよ!」
「御助、無理するな。お前の体を傷ませることになるぞ。お前とマカミ達は屋敷に戻れ。山の中は俺とニニギでやる。」
「枯れ木の爺んとこも終わったってよ。老体鞭打って加勢するとさ、まったく、枝が折れたってアタイのせいじゃないからね。」

 ニニギの大きな体の下で雨をしのぐ。長い黒髪を地面につけながら、ニニギは呆れたように琥珀の横に侍りながら宣った。

「ニニギもすまん。また母さんに言って化粧品用意してもらうからな。」
「なら、まにきゅあにしてくれ。アタイ、紫の色がほしい。」
「伝えておく。」

 一反木綿達を納めた葛籠を烏天狗達に持たせると、琥珀は一斉に飛び立つように指示をした。マカミが筒から顔をのぞかせると、その平たい体で耳をさげながら、なんとも申し訳無さそうな声で言葉を紡ぐ。

「琥珀殿も、ご無理はなされぬように。おいらたちは、雨が止むまではお力になれませぬ。ご自身を酷使なさるような飛び方は蘇芳殿も悲しまれますからな。」
「分かっている。これが終わったら休むさ。それに、神気の水をばら撒かなきゃいけねえ。俺が休むのは水喰のところに行って頼んだ後くらいさ。」

 濡れた髪を撫でつけた琥珀はその天狗装束の裾を引き抜くと、立派な鳶の翼を顕現させる。羽先を地べたにつけたまま、心配をするマカミの鼻先を指で押して筒に納めた。
 ニニギの腹の下から出ると、曇天の上空を黒い点のようなものが近づいてくることに気がついた。手で庇を作るように見上げれば、それは鴨丸であった。烏の黒翼を濡らし、極彩色に染め上げた鴨丸は雨など物ともせず琥珀を見下ろすと、その羽を数度羽ばたかせながら上手に地上に降り立った。

「細君からのお言葉だ、水喰様の番い様がご出産の為、由春と睡蓮は外に出されておると。故に神域は由春殿のみ、睡蓮殿のお姿はどこにも見受けられぬ。恐らくは山にお隠れになっているかもしれぬとのことだ。」

 天嘉によって言伝を頼まれた鴨丸の言葉に、琥珀の顔付きが変わる。その整った顔立ちに焦りを滲ませると、その表情の変化を目敏く気がついたニニギが落ち着かせるように背中に触れる。

「落ち着きな琥珀、山の穢も粗方アタイたちが祓ったろう。」
「ああ、…ああくそ、重なっちまってたなんて…っ、」
「神の誕生だぞ、この世の何にも縛られないさ。アタイらはただやることを為すだけ。それに睡蓮だって莫迦じゃない。もしかしたら由春のところに戻っているかもしれない。それだとしたら、あいつの周りは安全だろうよ。」

 ニニギの添えられた手に、少しだけ焦りが解けた。そうだ、まだ決まったわけではないのだ。琥珀は落ち着くために数度頷くと、すまねえと言葉を漏らす。
 己が取り乱してはいけないのだ。総大将はドンと構えてなくては士気に関わる。動揺を振り払うように頭を振り、顔を上げた。

「そうだな、…由春のとこに行くぞ。お前達は御助達を屋敷に届け次第散開し、残党があれば討伐をしろ。指揮は十六夜に任せる。俺はニニギと由春と睡蓮のもとへ向かう。頼むぞ。」
「応。」
「鴨丸、お前は宵丸を連れてこい。もしかしたら必要になるかもしれねえ。」
「心得た。」

 琥珀の命を受け、鴨丸と十六夜それぞれが動き出す。ニニギも顔つきの変わった琥珀に満足そうに頷くと、その大柄な体躯を滑らせ琥珀の前に胴体を向ける。

「体力温存しときな。仕方ないから乗せてやるよ。」
「女に跨がんのは嫌いじゃねえ。頼むぞニニギ。」
「この色男め、全部済んだら天嘉を寄越しなよ。」
「母さんに言っておく。」

 百足女房の硬質な体の上に跨ると、ニニギはあっという間に杉の木の上まで上り詰めた。高いところから見渡して、方向を決める。由春が任されている水源の位置を、琥珀の猛禽の鋭い瞳が捉えると、ニニギはまるで天を駆けるかのように体を器用に動かしながら、木々の間を恐ろしい速さですり抜けて開く。
 ニニギの黒い髪を手綱代わりに握り締める。琥珀の思い詰めた表情は素直に拳に繋がった。ニニギはちろりと琥珀を見る。普段は気を配って強く引かない女の髪なのに、動揺しているのだろう。琥珀の緊張はありありとわかった。



「くそう、なんで私だけの時にこんな目に!!」

 御嶽山裏面、透き通った美しい蒼が溶け込む神聖な滝壺には、その身を美しい龍に変えた由春が、その力を奮って神気を纏っていた。この山の煤臭さは程なくして理解した。ああ、穢が入り込んだのだろうなと。寄りにも寄って父が居ないときに。そう舌打ちをした由春は、もしやこれも独り立ちの試験なのではと思うほど、心は荒れていた。
 神気を纏う恵みの雨を降らせればいいのだ。しかし、由春がそれを行っている間はこの神域が手薄になる。ここをほったらかしにして行くわけにも行かぬ。ここを任せられるのは、神気を持つものでなくてはならないのだ。

「おのれ禍津神、どんな身分でこちらの敷居を跨いだというのだ。」

 由春の透き通った神秘的な体に、神域の蒼き水源が反射して体を染める。美しい紫の瞳で静観し、大人しく蜷局を巻いては薄玻璃の鱗を反射させる。
 
 本性を晒すのは久しぶりだ。そうしなくてはいけなくなったのは、何もかも禍津神のせいなのだ。こうして由春が龍の姿に転じていれば、禍津神はまともに穢を振り撒けない。いま蔓延っている分は、恐らく入り込んだときに体から吹き上げた分だろう。由春が人型に戻れば神気は格段に減る。そうすると禍津神が本性を晒してしまう。対をなす存在が同じ結界内にいる時はどちらかが本性を晒し続けていると、たとえ化けたとしても力を奮えないのだ。
 不満を顕にするように治安の悪い威嚇音を鳴らす。鱗を震わせ、その鋭い瞳で一点を見つめた。なにかがこちら側に向かって勢いよく近づいてくるのだ。

「………、」

 ぶわりと白銀の毛を逆立てる。口を開け、その瞳孔を細めて鎌首を擡げたときだった。

「由春ーーーーー!!」
「む、」

 雨など物ともせずに、ニニギに跨がり駆けてきた琥珀は、由春の龍の姿を目に捉えると、素早く状況を理解したようだった。
 
「牽制か、すまない。睡蓮はどこにいる。」
「睡蓮?おい、お前と一緒じゃあないのか!」
 
 由春の言葉に、いよいよ琥珀の顔色は悪くなった。無論、それは口にした由春本人も同様であった。自分は一度神域で龍に転じればここから離れることはできない。紫の瞳に焦りを滲ませながら、その龍の顔のままで琥珀に詰め寄った。
 
「私の睡蓮を今すぐ探せ!あの子とは山で別れたばかりなんだ!!」
「っ、ニニギ、悪いが由春を頼む。俺は今一度山を見てくる!!」
「待ちな琥珀、あんた一人で睡蓮を探して、万が一禍津神とでくわしたらどうする。」
「睡蓮が禍津神に捕まっちまってたらどうするんだ!!」
 
 止めようと琥珀の肩を掴んだニニギの腕を振り払った琥珀が、大きな声で反論する。気が動転したかのように、普段冷静な琥珀らしからぬ口調であった。思わず由春もニニギも、あまりの剣幕に口をつぐむ。雑に結んだ長い髪を乱暴に振り払うかのように踵を返す。そして切羽詰まった様子を隠しもせず、琥珀は二人が止める間も無く駆け出した。
 
「お、おい琥珀待ちなって!!」
「琥珀!!睡蓮を見つけたら必ず私の元へ連れて来い!!必ずだぞ!!」
 
 由春の言葉に片手をあげて答えた琥珀が、森の中へ消えていく。草臥れた顔のニニギが滝壺の水を手水で掬うと、グビリと一口飲み込んだ。
 
「穢を食らったのか。全く女のくせによくやるやつだなあ。」
「アタイは額に真一文字喰らってんだ。多少の穢くらいなら効かないさ。でも、」
 
 もし睡蓮が穢を喰らっていたら、と口にいかけてやめた。縁起でもないことを考えるなんて柄ではないからだ。しかし表情の曇りはめざとく由春に指摘される。
 
「腹に抱えてるもんがあるなら、苗床になる。侵食が始まったら、もう広がらないように気を配るしかできないよ。」
 
 由春の淡々とした口調から、後悔が見てとれる。あの時着いて来いと言っていればよかったのに、後悔先に立たずとはまさにこのことだ。全く、なんで自分がこんなに苦い思いをせねばならんのだと、由春は唇を噛み締める。
 
「泣くのはおやめ、男ならな。」
「泣いてなどおらぬわ、…くそう…。」
 
 由春はちゃぷんと音を立てて身を沈めた。そうでもしなければ、今にも人型に戻って、琥珀の後に続きたくなってしまいそうだった。 

 
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