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迫りくるなにか

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 男の名は、鐘楼しょうろうと言うらしい。その体は痩せており、着物の隙間から見える薄い胸には骨が見えていた。手当をしてくれ。そう言った通り、鐘楼は顔右半分から首にかけて、酷く焼け爛れている。睡蓮は一歩踏み出したかと思うと、身を崩すかのように倒れ込んできた鐘楼を慌てて支えて、今に至った。
 痩せぎすの体をなんとか敷かれていたむしろの上に座らせると、睡蓮は戸惑いながらも目線を合わせるかのように腰を下ろす。

「鐘楼さん、ええと、その怪我は?」
「わからない、気が付いたらここに居た。」

 睡蓮の小さな手が己の肩に添えられるのを緩慢な動作で鐘楼が見つめる。
 ゆっくりと瞬きをして向き直る。己の体に甲斐甲斐しく手を貸した気のいい兎の妖かしは、目の前では白い綿毛のような髪をふわふわと揺らしながら、籠の中身を漁っていた。どうやら頼まれると断れぬ性格らしい。外の天候も鐘楼の頼みを聞くとっかかりになったのだろう、籠の中から何やら包みを取り出すと、その風呂敷を広げて荷物の中身を晒した。

「そうですか、それは不安でしたでしょう。生憎その火傷に効くお薬は里まで降りぬと手に入りません。雨が止んでからひとっ走りいってきますから、先ずはその細かな傷から治してしまいましょう。」

 そう言った睡蓮は、細かな傷が幾つも付いている骨張った手を取ると、貝殻で蓋をした塗り薬を一つ一つ丁寧に塗り込んでいった。無骨で筋張った腕に、柔らかい手の平が吸い付く。温かくて、睡蓮の体温で溶かされた塗り薬が優しく傷口に塗り拡げられる。あらかた塗り終えると、睡蓮はちょっとお待ち下さいねと言って、風呂敷に包んでいた自分の服の裾を細く千切った。

「何をしている」
「鐘楼さん、そのままだと御召し物に薬がついちゃいますから。ほうら、こうしたら痛くもないし、汚れもしないでしょう。」

 鐘楼の腕に巻かれたのは、小紋柄の生地だったもの。白く薄汚い己の着物の合間からちらりと見えるその生地に、鐘楼は少しだけむず痒そうにした。黒い爪のついた手のひらでそっと撫でる。己には到底似合わぬその薄桃色の生地が、なぜだか色濃く映る。
 睡蓮はいそいそと掌で持てるほどの葛籠を取り出すと、中から幾つかの壺のようなものを取り出した。

「何だそれは。」
「これはお味噌とか、あとはお漬物とかです。僕が奉公に出ていたところで作っていたものなんですけど、訳有って一月は外に出ていなくてはならなくて。折角なので少しだけ持ってきたんです。」
「君は宿がないと言うことか。」
「ええ、まあどうしようかなぁとは思っていたのですが。どうにか成るかなあとも思っちまって、」

 陶器の擦れ合う音を立てながら、それらを並べた睡蓮が次いで出した布袋。それをもってくるりと鐘楼に振り向くと、お伺いをするように口を開く。

「ええと、鐘楼さん。土鍋なんかはないですか。何日も食べてないのでしょう?僕、飯炊きができるんです。だから、粥でも食べませんか?」
「それはお前の米だろう。俺が頼んだのは手当だけだ。余計な気を回さなくていい。」
「そんなこと言ったって、この雨ですよう。暫く止まないなら、僕もすることがありません。腹も減ったし、土鍋、ありませんか?」

 鐘楼は怪訝そうな顔をして睡蓮を見た。どうやら裏表なく宣っているらしい。しばらく無言でその様子を眺めて居たのだが、そのまんまるなお目々に負けた。足を崩し、のそりと立ち上がる。睡蓮を残してふらふらと奥に向かおうとする鐘楼に慌てて付いていくと、その背を支える。

「爺にでもなった気分だ。」
「声はともかく、お体はお若いではないですか。」
「そうさな、」

 鐘楼についていくと、そこには土に埋もれるようにして小さな鍋と椀があった。ここは山賊のねぐらだったらしい。焚き火のあとも見て取れる。鐘楼はそれを拾い上げると、細い指先で奥を指した。

「向こうにいけば清らかな水がある。なんにでも使えるぞ。」
「なら、ちょっくら準備をしてきます、鐘楼さんは寛いでくださいね。」

 睡蓮は薄汚れた食器を受け取ると、ひょこひょこと軽い足取りで奥に進んだ。人気がないと思って怖がっていた洞窟の中であったが、ひとりじゃないとわかると怖くない。初対面であったが、世話好きな睡蓮が鐘楼を放っておける訳もなかった。
 清水は、随分と下ったところにあった。上を見上げると、岩の隙間から外が見える。きっと少しずつ年月をかけて広がったのだろう。穴の奥は洞窟のようになっていた。水場を挟んで対岸は、上り坂のようになっている。恐らく彼処を上がれば出口なのだろう。
 睡蓮は、岩場に溜まった水で食器を綺麗にすると、清水を掬い上げて米炊き用とした。籠を背負ってきてよかった。その中に洗い終えた食器を入れて、両手で土鍋を持った。水を入れ、米も入れたそれは少しだけ重い。この大きさなら、粥は沢山作れるだろう。

 鐘楼は、焚き火の枝を集めてくれていた。少しだけ地面を掘り、石を入れ、その中に落ち葉と枝を折ったものを入れたらしい。そっと指先をその中に入れると、忽ちに火は上がった。

「わあ!すごい!鐘楼さんは炎を使えるのですか!」
「すごいも何も、これしかできぬ。」
「これができれば何でも火を通せますよう、したら、食えるじゃないですか。」
「ああ、そうさな。」

 感心したような睡蓮が、早速その上に土鍋を置く。蓆の上に正座をすると、炊きあがるまで待つことにした。
 くらくらと揺れる炎が鍋を柔らかく舐めるように火を這わす。薄暗い中、暖かな灯りに照らされたせいだろう。少しだけ血色がよく見えた。

「名は、」

 鐘楼は、何時までも兎と呼ぶのも変かと思い至ったらしい。睡蓮にそう問うと、目の前の兎の妖かしはようやっと己が名乗らずにいたのだと気がついたらしい。土鍋の蓋を少しだけずらすと、居住まいを正した。

「睡蓮です、玉兎の睡蓮。鐘楼さんの名前聞いといて名乗らなかったとは、すみません。」
「睡蓮、花の名か。」
「はい、身に余りますよ。僕に花は似合わないですし。」

 名をあまり気に入ってはいないらしい。睡蓮はふわふわの毛を手櫛で直すように手で正すと、困ったように笑った。鐘楼がそんな睡蓮の様子を静かに見つめると、その手のひらを持ち上げる。薄桃色の小紋柄を巻き付けたその掌で睡蓮のふわふわの髪にそっと触れると、睡蓮は擽ったそうにひくんと耳を揺らした。

「玉兎は、神の使者でもあるだろう。おまえははぐれものなのか。」
「あ、ええと…」
「神使が神の下を離れるとは、なにか事情があったのだろう。」
「い、いや、あの、…」

 こぽ、と土鍋の縁からあぶくが吹き上げた。睡蓮は慌てて蓋を開けると、木匙で中身をかき回す。壷を取り出し、蓋を開けると調味料を混ぜ込んだ。塩と梅干しだ。睡蓮はそれを掻き回しながら馴染ませる。胸の中に詰まった、その苦い思いを誤魔化すように。

「鐘楼さんとは知り合ったばかりですよ、秘密です。」

 唇は違和感なく言葉を紡げていた。鐘楼は暫し黙りこくり、そうして口を開いて、ただそうかとだけ口にした。
 睡蓮のよそった粥を受け取る。久方ぶりの温もりのある飯だった。





「なんだ、これは…」

 琥珀は途方に暮れていた。それは、随行した烏天狗の一派も同じであった。
 琥珀達は、今御嶽山境界に来ていた筈だった。そう、祠で仕切られた不可視の結界の一部が、溶けるようにして口を開けていた。琥珀の体を飲み込めるほどの大穴だ。表面と裏面を繋ぐように開いた口は、奇妙な揺らぎを見せていた。

「結界が溶けるなど、そんなことがあるのか…」
「琥珀様、修復は可能でしょうが…不味いことになりました。」
「…わかっている。」

 琥珀の後ろに控えていた十六夜の言葉に、琥珀の手の平がきつく握りしめられる。揺らぎを纏った結界の残滓に、穢が混じっていたのだ。まるで無理くり体をねじ込むようにして入り込んだのだろう。その溶けた縁には黒い靄が滲みていた。

「浄化をして組み直しますか、」
「左陣はまだ戻らねえのか。」
「表面上空から見廻りをしております。まもなく戻る頃かと。」

 この穢が表面から生まれて、こちら側に入り込んできたのだとしたらその元を絶てばいいだけだ。しかし、やっかいなのはその穢の大きさだ。琥珀の背丈ほどのそれは、恐らく呪いを撒き散らして来たのだろう。この結界を侵す程の穢が変化するとしたら、一つだけだ。

「禍津神がでた。十六夜、悪いがまた暫くうちには帰れないと思え。」
「賃金を上げてくださるのなら喜んで。」
「それは親父にいってくれ。」

 琥珀の瞳が上空を見上げた。黒い体を自在に操りながら、左陣で斥候をまかせていた者たちが戻ってきたのだ。
 曇天が後を追うようにその背後に迫ってくる。ひと雨降りそうな嫌な天候に、琥珀は小さく舌打ちをした。
 
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