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誰かのための

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 由春の言う発情期は、もう間もなく来るだろう。睡蓮も年頃だ、今まで騙し騙し逃れてきたが、いよいよそう云うわけにも行かなくなるに違いない。しかし、頃合いは最悪である。気にかけてくれた由春には、ぎこちなく大丈夫ですよと強がったが、全然大丈夫なんかではなかった。

「母様、由春は必ずや立派になって戻ってまいりまする。その時はまたお膝枕をしてくださいね。」

 出立は三日後であった。もうその先のことを考えると億劫で仕方がない。睡蓮は今生の別れと言わんばかりにぎゅむぎゅむと幸に抱きつく由春を眺めながら、また一つ重々しい溜息を吐いた。まさかそんな目で見られてるとは思わない。そんな由春はというと、珍しく二足歩行である。どうやら水喰から、のっぴきならない事情がない限りは足を使えと言われたようだ。水喰を中性的にしたような美しい由春は、幸に背中をポンポンと撫でられ、渋々体を離す。

「睡蓮、貴方も苦労をかけますね。水喰様はああ言ってますが、無理だと思ったら戻ってきて構いません。幸が言い聞かせてあげますからね。」
「ううっ、幸様…いいえ、睡蓮もしかと男を磨いて参りまする。」
「由春の母様だぞ!いつまでも手を繋ぐではない!」

 幸の手を握り締めて涙ぐむ睡蓮に、相変わらずの由春が茶々をいれる。普段通りのやり取りに、幸は少しだけ頭の痛い思いをした。
 水喰はというと、どうやらすでに巣作りを始めているらしい。幸が安心して出産できるように、水喰の神域に結界を重ねがけしているようだった。

「見送りもしないで、水喰様は仕方のないお方ですね。」
「いいんです、ああでなくては水喰様ではありませんから。」
「とと様は母様のことしか考えてないもの。由春は聞き分けが良くてとても良い子ですよ母様。」

 にこにこと微笑みながら、自己主張をしっかりとする。幸が小さく笑って二人の頭を平等に撫でると、いってらっしゃいと見送ってくれた。
 いいなあと思う。睡蓮にも母が居たのだろうが、玉兎として生まれ直した時には記憶はなくなっていた。だから、こうして優しい手のひらに撫でられると、嬉しくて仕方がない。睡蓮はぴるぴるとちまこい尾を振り回しながらもにょりと口をモゴつかせる。あんまりはしゃぐと由春が喧しいのだ。



「存外あっさりと行かれるのですね!逆に睡蓮はちょっとばかし寂しいですよう!」
「へっ、お前の手なんぞ借りなくてもやってみせるわ。由春はできる子だし、お兄ちゃんになるからな。」

 ふんっ、と胸を張った由春は、地上に降り立った途端にふんぞり返った。生っ白い二本足で足袋を履き、地面を踏みしめた瞬間に悲鳴を上げたくせにだ。

「土ってやつは気持ちが悪いな!足は汚れるし泥濘むし!」
「水喰様の言いつけですからお守りください!ええと、由春様、睡蓮は一先ずねぐらを決めますから、決めたらご報告に伺いますっ」
「結構だ!そうやってお前は由春を甘やかす!とと様も仰ってただろう!由春は立派な神になるのだ!ではまたな睡蓮、そのうちまた会おう。」

 さらば!といってぎこちない歩みで去っていく由春を、睡蓮は少しだけ寂しそうな顔で見送った。中途半端にあげてしまった手には、縋ってしまいそうな一抹の不安も滲んでいる。背負った籠の持ち手をきゅっと握り締めると、睡蓮はこれからどうしようと途方に暮れるのであった。

 森の中の泉から出てきた。多分下っていけば里には着くだろう。頭上を見上げると、烏天狗が巡回をしていた。ここで待っていれば琥珀に会えるのだろうか。そんな事を少しだけ思ってしまう。だめだなあ、一人はやはり寂しい。睡蓮は暗くなる前には降りてしまいたいと、その歩みを少しだけ早める。
 頼りない歩みだ。森の中は慣れているというのに、途端に一人を自覚する。当たり前のことなのに、話し相手がいないと自分はこんなに大人しくなるのだと感じてしまった。

「この山にいるのは、妖かしだけじゃないんだものなあ。」

 きき、と小動物の声がして木の上を何かが駆け上がっていく。その小さき影を目で追うと、黒目の愛らしい栗鼠が木の実を持ってこちらを見つめていた。

 こんなに小さな体で、命を上手に営んでいる。
 睡蓮よりもずうっと小さな体で、睡蓮よりも広く感じるであろうこの森の中、何をすべきかわかっている。それを、当たり前だと感じている。

「僕も頑張らなくちゃなあ、」

 誰かの大切でありたいという気持ちだけでは駄目なのだ。何か得たものを差し出せるような、そんなものになりたい。黙っている時間が長いと、些細なきっかけで己の内面を自覚するのだ。思ってるだけではことを成し得ないということは十分に理解しているのに。

 草の背丈が徐々に伸びてきた。大分下ってきたのだと思う。睡蓮はなんだか気疲れしてしまって、もう今日はどこぞの虚で休もうかしらとあたりを見回した。
 できれば屋根のあるところがいい。まあ、そんな都合のいいものは無いだろうと高を括って、見つけたら勇気を出して屋根を貸してくださいと言ってみようかと心積もりをした。

「あ、」

 睡蓮の口から母音が落ちた。雨風を凌げる屋根はなかったが、丁度良さそうな洞穴は見つけた。こんなところにそんなものがあるとは思わなかった。睡蓮はどうしよう、と思ったが、少しだけ勇気を出してみた。きゅう、と持ち手を握りしめる。緊張の現れだ。ぽかりと暗い口を開けて、睡蓮を待つ。急な坂道を下るよりも余程慎重な足取りで、ゆっくりと近づいた。

 どうやらの洞穴は、どこかに抜け道があるらしい。ふわりとした風が地べたの草を揺らしていた。なんだ、出口があるなら逃げられる。何かあったら、風の通り道を駆け抜ければいい。睡蓮は些か気持ちを強く持った。中の土は少しだけ乾いている。御免くださいというのは変だから、恐る恐る中に入った。

「………、営み?」

 なにやら、洞穴の中程には箸のようなものが落ちていた。欠けた茶碗も見受けられる。もしかしたら、自分以外に雨宿りに来るものがいるということか。その割れ陶器の欠片を拾い上げようと、しゃがみこんだ時だった。

「誰だ。」
「ひゃ…っ」
 
 嗄れた声だった。地面を耡で擦るような余韻を残し、男だろう低い声が睡蓮を捉える。

「お、おお、おじゃ、お邪魔しますっ!こんにちわっ」

 何を言っているのだか自分でもわからなかった。けれど、相手の声色から受け取れるのは警戒だった。敵意はないことを示そうとして、間に合せのようなことを言ってしまう。唐突な挨拶も不審ではあるが。

 暗がりから、ゆっくりと声の主が姿を表した。闇を引きずるように、その全貌を明るみに晒す。随分と背が高い。体にまとわりつかせていた闇は、長い黒髪だったようだ。薄汚れた白い着物をだらしなく着たその男は、顔の半分を覆うように包帯を巻いていた。頭から突き出た立派な角が枝のように視える。光の宿らぬような黒い眼で怯える睡蓮の姿を目にとめると、その目を微かに見張った。

「お前は、兎の妖かしか。」
「あ、え、そ、そう、そうです!」
「そうか、」

 得体のしれない男だ。睡蓮はじり、と後退りをしようとした。怯えて定まらぬ己の視線に、情けなさを感じる。そんな睡蓮の内心の動揺を汲み取るかのように見つめてる男は、ゆっくりと口を開いた。

「…寝床を探しているのなら、提供しよう。そのかわり、手当の道具があれば貸してくれないか。」
「え、て、手当?」

 睡蓮が、意外な言葉に顔を上げた。てっきり去れと言われるかと思ったのだ。どうしよう、と悩んで洞穴の入り口を振り向く。先程感じた雨の匂いは誤りではなかったらしい。雨が降り出してきたようで、地面を洗い流すように勢いを強める。これでは外を歩くには厳しいものになりそうであった。睡蓮は戸惑いながら振り向くと、琥珀ほど有りそうな背丈を見上げた。

「ぼ、僕で良ければ…」
「ああ、君でなくては。」 

 そう言って、その黒い瞳で睡蓮を見下した。心做しか、虹彩が赤く染まったかのように見えた。
    
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