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その涙の先

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 その日は山が騒がしかった。琥珀は総大将を務めていた蘇芳とともに、烏天狗部隊を引き連れて山間を飛んでいた。幸い、話をすれば解ってくれるやつも多く、そんなに苦労をすることもなさそうだと、高い杉の木の上からその様子を見下ろしていた。

「琥珀殿、右陣は済みました。皆山のものに事情を話したところ、快くとは行きませんが、まあ理解は示すと。」
「山主がいたろう、彼奴はなんて?」
「よもやこうなることは解っていたようです。見目の同じものは群れに受け入れろと。しかしまあ、繁殖期ではなかったのが幸いかと。」
「そうさな、こればっかりは天の采配かもしれねえ。」

 御嶽山に住まう者共との縄張り争いを、行う気力も残っていないというのが正しいのかもしれない。これが春であれば、皆そこかしこで繁殖期を迎え、より馴染むのは厳しいものとなっただろう。
 山主とは、大きな熊の大雄だ。表面の管理を任された神気をまとった長寿熊で、いずれ死した後、名前付きとして永久の命を約束されている。妖かしに転じるか、それとも一つの穢もなければ神使になるか。死してみないとわからぬのだが、その山主はどちらでも構わないと宣うのだ。

「大雄が言うには、一頭雄鹿が見当たらぬと。同じく神気をまとったものだそうです。群で駆けて来たというが、どうも見当たらぬと。」
「場所は。」
「左陣です。あちらに向かった猛禽は姑獲鳥が、四足は玉兎がうけもっております。」

 姑獲鳥のお市、十六夜の番でもある彼女が猛禽のものの説得に当たるのなら、まあ安心だろう。しかし四足を制するのが玉兎とは、少々手薄ではないか。琥珀は十六夜に目を配らせた。

「松風はどうした。」
「松風殿も出ておりましたが、怪我をした獣の手当に回っております。」
「ああ、なるほど、」

 左陣は比較的理性的な獣が多い。故に任されたということか。余程仕事のできる兎ならいいが、と考えていれば、蘇芳がその身を鳶にして降り立った。

「左陣に大きな蹄の跡を見た。もしかしたらその雄鹿かもしれぬな。」
「兎の妖かしが一羽左陣にいる。松風も手が離せそうにねえし、ちょっと俺が見てくるわ。」
「ああ、頼まれてくれるか。」
「応。」

 蘇芳が琥珀を見て頼もしげに頷く。驕りのない自負は、そのまま琥珀の真っ直ぐな気骨を表している。杉の先端から、宙返りをするかのように身を投げだすと、その体躯を一回転で一気に猛禽の獣に姿を転じる。実に見事な転化であった。
 己の存在を示すかのように琥珀が鋭く鳴いた。そのまま森に溶け込んだ姿を見送ると、蘇芳はどかりと木の枝に腰を下ろした。

「お館様、琥珀殿もご存知の妖かしか。」
「知らぬだろう、里で白兎とは玉兎の睡蓮しか居らぬ。あいつがこちらに来たのは最近だからなあ。」
「ふむ、ならば馴染むためにこの陣に馳せ参じたと。心意気は見上げた兎ですな。」

 十六夜の言葉に、蘇芳が小さく頷く。どこぞの神使として侍っていたが、使えぬと追い出された玉兎の睡蓮は、行き場を失ってこちらに来た。境遇の哀れさから蘇芳が気を利かせて水神である水喰の所に使えられるように取り計らったのだが、本人は外から来たものだという後ろめたさがあるらしい。なにかと馴染もうと躍起になっている節がある。

「ああ、まあうまく話が纏まればい、」

 纏まればいい、そう言葉を繋げようとして途切れた。何か悪いものが膨れ上がったのだ。蘇芳の統べるお山の中で、突如湧き上がった穢。それは、生温い膜がまとわり付いてきたかのような不快感を、二人に与えた。

「っ、今のは。」
「慌てるな。琥珀とて感じているだろう。これは琥珀の気概を図るには丁度よい。」
「しかし、」
「俺と天嘉の子ぞ。今一度見守っていよ。」

 そう言った蘇芳は、鋭い光を放つ金色の瞳で森の奥を見据える。駆け出しそうだった十六夜は、その言葉に小さく頷くと、蘇芳の横で立て膝をついて待機する。

「俺は、一度向かおうとしましたからね。」
「わかっている。」

 天嘉殿がみたら怒りますよ。そう言った十六夜に蘇芳は小さく頷いて、黙っておれよと言ったのだ。



「っ、」

 パァン!という空気を弾く音が響いた。まるで光もないのに、目の前が明滅するようなそんな感覚だ。次いで、火薬の匂い。琥珀はその羽をブワリと逆立てると、その体を流線型のように縮こませて、速度を上げる。誰の縄張りだと思っている!琥珀の名と同じ色の瞳をくらりと光らせた。鋭い眼光が捉えたのは、黒筒から煙を吹き出している人間と、雄鹿の下敷きになった白い生き物。

 ヒュルリ、と猛禽の美しい声は尖りを帯びた。その声に顔を上げた人間の男は、その身に黒い靄をまとわせていた。

ー穢!!貴様、どこから持ち込んだ!!

「う、うわああ!!なんだこの鳥!!」

 琥珀の言葉は届かない。しかし、酷く怒っていることは分かったのだろう。男は筒を放り投げて情けなく駆け出すと、琥珀はその身に纏う黒靄を引き剥がすかのようにして襲いかかる。
 鋭い鉤爪で靄を引き剥がす。人には知覚できない穢を払えるのは、神気を纏うものと、神に傅く眷属のみだ。悲鳴を上げながら走っていた男から、ずるりと穢が引き抜かれた。まるで膝を折るかのようにして倒れると、琥珀はその鷲掴んだそれを叩きつけるかのようにして地面に押し付けた。

「巫山戯るな、巫山戯るなよ人間!!誰の御山に持ち込んでいると思っている!!」

 物言わぬ人間は、気絶しているようだった。舌打ちをする。転化し本性を表した琥珀は、怒りを瞳に宿したまま、すっと顔を上げた。

「猪が事切れてる…」
「その子のだ!」

 息絶えた鹿の下から、もぞもぞと這い出てきた白い兎。赤い目に涙をためながら、ぴすぴすと鼻を鳴らして主張する。琥珀の見知らぬちまこい妖かし。もしやこいつが左陣のものかと理解すると、あまりの便りなさに眉間にシワを寄せた。

「なんだと?」
「その、その猪が死んだあとに、生まれちまったんだ!」

 ぽひゅんと情けない音を立てて、睡蓮が人型にもどる。ひっくと喉を震わしながら、今にも泣き出しそうな情けない声色だ。

「てめえ、一体何をみていた!」
「い、猪が死んで、その身から穢が吹き出したんだ…っそ、その子は、恨みながら死んでいった…っ、だ、だからっ、」

 渋い顔をして、玉兎を見る。まるで悔いるかのように地べたに這いつくばり、ぼたぼたと涙を零すのだ。一体何が起きたというのだ。琥珀は苛立ったように髪をかきあげると、ずんずんと歩いて間抜けな白兎の襟元を掴んで引き上げた。

「泣くなァ!!」
「ひっ!」
「てめえの涙はなんの涙だ!?てめえが泣いてこの場が収まんのか!!ちげえだろう!!」

 琥珀は苛立っていた。雄鹿の下敷きになっていた兎に、できることなんてないだろう。それなのに、この妖かしは泣いていた。琥珀は、それに酷く苛立った。

「これは人間の不始末だ!!人間が引き起こしたことだ!!てめえが泣いたら弱者になるだろう!?こいつらが弱いから死んじまったってなっちまうだろうが!!」
「っ、」
「お前の涙は優しすぎる、その涙で報われるもんも報われねえことを、自覚するがいい!!」

 胸倉を乱暴に離す。べしょりと転けた玉兎に目もくれず、琥珀は犬歯を剥き出しにするかのように怒りを顕にすると、うぞりとミミズのように蠕きだしたその穢に向けて、掌を合わせた。

「てめえの泣き言は腹にしまえクソ兎。報われねえ魂なんて、一個もあっちゃいけねえんだ。」

 琥珀の言葉に、睡蓮が泣き顔を上げる。唇を戦慄かせ、ゆっくりと足を折りたたむ。正座の体制になった玉兎の睡蓮は、しっかりと前を見据えた。

「いい度胸だ。」

 ニヤリと笑った琥珀が、ぶわりと膨れ上がった穢に向けて、大きく手を横に広げ、素早く打ち合わせた。パァン!という乾いた音が響く。そうしてゆっくりと手を開けば、金色の錫杖が光を帯びて表れた。

「あばよ。さっさと生まれ変わんな。」
「あっ、」

 睡蓮は目を見開いた。琥珀の周りにぐるぐると鬼火が集まってきたのだ。くるりと錫杖を回し、カッと地面を強くついた。妖かしが、神の真似事だ。しかし、その錫杖は正しく神気を纏っていた。蘇芳が長年使ってきたそれは、お山を守るために鍛え上げられた一本だ。正しき行いのためのもの。その信心が神気となり、この錫杖を練り上げたのだ。

 まるで強い風に吹かれるかのようにして、琥珀の目の前で粒子の荒い黒い靄が引きちぎられていく。徐々に姿を表したそれは、真っ赤な光の玉である。琥珀は素早く腰に帯びていた瓢箪の栓を抜くと、その吸口を光に向けた。赤い帯状になって吸い込まれていく。最後の一筋まで収めると、その器に光文字が浮かび上がった。言霊だろうか、やがて発光は穏やかに収まると、琥珀はもう一度錫杖で地べたをついたのち、その神器も光の粒子となって消え失せた。




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