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邂逅

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 静かな夜だった。ただ空は曇っていて、月が見えない。宵丸は氷室の屋根の上、天嘉が作った夕食の残りをちょろまかして、それを肴に晩酌をしていた。
 きゅうりを醤油と酢、砂糖と唐辛子で漬け込んだものである。味付けが絶妙で、これをのんびり食べながら月見酒を楽しむのが、ここ最近の気に入りだった。
 
「これで見事なお月さんでも見せてくれりゃあ文句もねえんだけどなあ。」
 
 雪風に冷やしてもらった清酒をくいっと煽る。蔵にあったものを、これもまたちょろまかした。蘇芳が隠していた上等な酒だということも知らずに呑気なものである。
 
 サワサワと静かに針葉樹が揺れている。風はそこまで強くはないはずなのに、にわかに山が騒がしい気がした。
 氷室の屋根の上に、そっとお猪口を置く。困ったなあ、俺はそん器用じゃあないのに。宵丸はそんなことを思いながら、灰銀の瞳を細める。
 どうやらこの天狗屋敷に招かれざるものが侵入したらしい。
 招かれざる闖入者には、ツルバミも影法師たちも気がついたようであった。一本の真っ黒な影が屋敷の下から滑らかに広がると、それは瞬きの間に大きな影鰐へと姿を変えた。屋敷を包み込むように姿を表したその巨大な影は、恐ろしくでかい爬虫類のような姿をとっている。いつもはその身をいくつも分散させて、人型で忙しなく活動している影法師たちの本性だ。寄せ集まって一つの大きな妖かしへと転じるのは久方ぶりで、つまりはそういうことであった。大きな口をガパリと開いて屋敷を飲み込む。影鰐の口の中は結界のように堅牢だ。屋敷を、そして天嘉を守るように影鰐はその身で屋敷全体を包み込むと、その赤く光る瞳を真っ直ぐに入り口へと向けた。
 
「マジじゃん、やる気満々じゃん。」
 
 蘇芳によって屋敷を任される妖かし達は、皆一様にして一筋縄ではいかないものばかりだ。宵丸はわかりやすく警戒を強める影鰐の様子をみて、高揚したかの様に笑う。どうやら久しぶりに好き勝手暴れられるらしいと理解したからだ。
 ニヤリと妖らしく笑うと、その身に雪風を纏う。着ていた服に霜が張り、その肌がより白くなる。手をそっと重ね、ゆっくりと離すようにして氷の薙刀を作ると、それを一振りして屋敷の地べたに霜柱を生やした。
 
 姿が見えぬ闖入者が、サクリ、サクリとそれを踏む。不可視の姿でありながら、その足跡は宵丸によって刻みつけられ、その存在の位置を晒し上げる。今頃は、ツルバミが屋敷の中で天嘉を守るための結界を二重に施していることだろう。
 
「露払いは俺達がしてやろうかねえ、影鰐。」
 
 宵丸の言葉に呼応するように、影鰐の身がボコボコと波打つ。やる気があるようで何よりであった。
 
 視線の先。屋敷の入り口からこちらまでの道に、足音とともに刻まれた足跡が、ぴたりと両足を揃えて立ち止まる。辺り一面に煤くさい匂いを振り撒きながら、地べたに舞い降りた宵丸へと続く霜柱の道を、ゆっくりと溶かし始めた。
 溶けた霜によって色味を濃くした地面が姿を表す。その瞬間、宵丸の目の前には、人間のふりをするような身なりの異形が姿を現した。
 現れたそれは、枯木の霊のようにねじれた手足を持っている。木の蔓や枝を寄せ集めたかのような顔の真ん中には、五寸釘が刺さっていおり、さまざまな念が一緒くたになって生み出された呪いの具現だということがよくわかった。
 五寸釘が全ての媒介なのだろう。呪いの塊でもあるやまのけが、シュルシュルと屋敷に向かってその身を這わす。宵丸は目の前に躍り出ると、その不躾な訪問を嗜めるかのように、氷の薙刀でスパンとその根を切り取った。
 
 這わせた蔦の先がなくなったことを気にするように、やまのけはそっと己の蔓を持ち上げる。そしてゆっくりとその虚のような目を宵丸に向けたかと思うと、その身を小さく波撃たせた時だった。

「うわっ!」

 ぞわりとした悪寒がその身に走る。飛び退るように慌ててその身を翻すと、元いた場所には、勢いよく地べたを突き破るかのようにして木の根のようなものが顔を出していた。
 なるほど足から潜ったのだろう、その身を土の中に沈ませられるとなると厄介だ。宵丸は小さく舌打ちをすると、表面を覆うようにパキパキと音を立てて地べたに氷を這わしていく。

「地べたの水分、全部凍らしてやるよ。」

 その表面を滑るようにして目前まで迫ると、その氷の薙刀を一閃する。軽い、まるで小枝を折ったかのような、そんな感触である。なんだこれは、宵丸が小さく息を詰めた瞬間、目の前のやまのけがあっけなく崩れた。

 水分の抜けた木がバキバキと折れるように、その身を横たえさせる。こんな簡単に仕留められる奴が、蘇芳から逃げ続けるなど出来るのだろうか。
 小さな不信感を抱いたとき、宵丸の背後で、影鰐が低く声を響かせる。何事かと慌てて振り向くと、影鰐はその大きく膨らました身を、まるで空気を抜くかのようにして縮めていくところであった。

「妖力が散ってる!?なんだってんだまったく!」

 宵丸は慌てた。あの体躯が縮まれば、屋敷は表にさらされてしまう。そうするとツルバミも天嘉も危ないのだ。影鰐の結界術に頼りすぎた。まさか妖力を吸って維持できなくさせるとは、そんな突拍子もない芸当をやすやすとやってのける何かがそばにいるということである。

 慌てて地面を蹴って、晒された屋敷の中に宵丸が飛び込む。影鰐はシュルシュルとまばらに散って影法師の形に戻ってしまうと、へなへなと溶けるように地面に消えていった。

「おいおい、蘇芳に殺される…」

 奥座敷はもぬけの殻だった。ただいたずらに破かれた結界札がひらひらと舞っており、敷布団は寝乱れた様子もない。
 室内に入れば、かたんと小さな音がした。宵丸が一歩踏み入れるのを待っていたかのように、天井からツルバミが落ちてくる。ベシャリと畳に張り付いたその身は、真っ黒な髪で雁字搦めにされて気絶していた。

「ツルバミ!!」
「っは、ああ!!」

 宵丸の手によって引きちぎられた黒髪から開放されたツルバミは、大きく腹を膨らませたかと思うと、酷く慌てた様子で声を上げて飛び起きた。

「天嘉殿が!!」
「わかってる、何があったか教えろ。」
「わ、わかりませぬ!天嘉殿の様子がおかしかったのです!」
「だから、そこから話せばか!」

 酷く狼狽えるツルバミの顔を叩くと、漸く何をすべきなのかを思い出したらしい。数度顔を拭うように舌で汗を舐め取ると、ツルバミは震える手を握りしめながらゆっくりと言葉を発する。

「お、女でした。腹を抱えて踞る天嘉殿の体を絡め取って、そうして攫っていきました、」
「どこから現れた。」
「て、天嘉殿の中から…」

 ツルバミは、震えながら言葉を発した。あの化け物は、最初から天嘉に取り憑いていたのだ。初めて邂逅して、匂い付けをしてから、ずっとその機会を伺っていた。

「ずっと紛れていたのです、蹲っていた天嘉殿の下から、突然生えてしたのですから。」

 そして繭のように包み込んで、連れ去っだと言う。
ならば宵丸と争ったあのやまのけは囮だ。本体ではないのかもしれない。ずっと天嘉の影に潜んで、外界からやまのけを呼んでいた。髪は執着を意味する。やまのけの呪いに触れて具現化した執着が、ここに来て実体を得たのだ。つまり、繋がりを持ち、呼ばれていたやまのけの本体を宵丸が倒したことで、それは起こってしまった。

「まてよ、それならなんで蘇芳は気づかなかった!」
「孕まれておりましたから、なおのこと都合がよろしかったのでしょうな。子と共にずっと隠れていたのでしょう。紛れもなくあれは生霊にございました。それと混ざりあったしまったのです。」

 天嘉のトラウマから女の形をとったという。顔までは見えなかった、しかし生臭く腐ったような香りを纏っていたのだ。いいものであるはずが無い。
 こうなったら、もはや蘇芳に辿ってもらうほかはない。山と繋がっている蘇芳なら、行き場だってわかるはずだった。

「獄卒呼ぶぞ、生霊混じりなら適任だろ。」
「ならばツルバミが呼んで参りまする、失態は挽回せねばなりませぬ。」
「俺が説明かい!うわあ、絶対殺される気しかしねえや…」

 宵丸なら平気でしょう。ツルバミは無責任にそう言うと、では先を急がねばと、慌てて庭にまろびでた。池から飛び込んだほうが黄泉路は近い。水喰の滝壺を通らねばならぬが、事情はわかってくれるに違いない。忙しなく二人が屋敷の外に出た時、バサリと大きな羽の音がした。
 飛び出してきた宵丸とともに曇天を見上げる。二人の真上では大鳶が屋敷に降り立とうと、羽ばたきを緩めるところであった。ぶわりと風が吹き、鉤爪から徐々に元の姿に戻っていく。蘇芳の帰還に、潜んでいたいくつかの鬼火がふわりと浮かび上がる。怒りをその身の内に宿した蘇芳の、漏れ出る妖力に誘われたのである。

「蘇芳!」
「わかっている、黙れ。」

 顔色を悪くした宵丸が近付こうとするのを手で制す。蘇芳は直様奥座敷に土足のまま上がると、扉を開け放った。

「天嘉、…」
「す、蘇芳殿!やまのけは囮です!本体は天嘉殿の中におりました!!」
「やまのけが育んできた怨念と生霊が混ざっちまったんだ。ツルバミが言うには、女に見えたってよ。」


 二人の言葉を背に受け、蘇芳は無言で仁王立ちしたまま、周りの空気を揺らがせるほどの怒り混じりの気を滲ませる。
 しゃがみ込み、天嘉が横になっていた布団にそっと手で触れた。番いは呼び合うのだ。蘇芳の背の印が熱を持つ。いる、まだこの近くにいる気配がした。

「ツルバミ、獄卒を呼べ。宵丸は青藍を呼んでこい。」
「御意、」
「わかった!」

 端的に指示をした蘇芳は、その身の回りに鬼火を侍らすと、外に出て屋敷の屋根の上に飛び上がった。深呼吸をする。夜が明けぬうちが望ましい。明るくなれば、天嘉の中にまた戻ってしまうかもしれないからだ。
 辿った繋がりは途切れては居らず、それは番いの無事を示していた。蘇芳の黄昏色の瞳がすっと細まる。本性を滲ませた獰猛な顔つきで、その身にバチリと雷を纏う
 誰の物に手を出している。強い怒りをないまぜにした蘇芳の低い声は、夜の闇にそっと染み渡るのであった。




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