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その身の価値

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 自身の身を穿つように食い込んだ獣の犬歯。その顎の強さもさることながら、この鈍く鋭い痛みこそが平次の身の内に溜まった澱みなのだと感じた。
 ジンジンとした火傷にも似た感覚の痛みが天嘉の腕を支配する。甚雨が人の姿をとると、止血をするために患部をキツく握りしめる。痺れる感覚は取れず、天嘉は自身の腕から流れ出る鮮血を、半ば他人事のような目で見つめていた。
 
「平次、これは他山の総大将の妻に手を出したと同義ぞ。迂闊な奴め、蘇芳にどう申し開きをするつもりだ。」
「あー、いいよ、俺が勝手に手ぇ出しちゃったし。…俺蘇芳振り切って出てきちゃったんだけど怒られるかな…。」
「おそらくは…、」
 
 天嘉の言葉に、状況が飲み込めぬままの甚雨が小さく頷く。握った腕は痛みで小さく震えているのに、顔色を変えずに振る舞う天嘉に、甚雨も感心した。獣に噛まれた程度、という振る舞いで気にしていないという天嘉は、もう嫁としての自分の立場を理解しているらしい。甚雨からしてみれば、後先考えずに飛び出してしまう性格を除けば実にできた嫁だとは思う。着物を裂いて止血を済ますと、甚雨は伺うように義骸を見る。
 
 平次の噛み付いた行為は、下手をすれば蘇芳の不興を買い、義骸が落とし前をつけることになるのだ。己が配下の不始末を、自身の手で下して誠意を見せろ。山同士の争いに発展させないないために、事を起こした馬鹿者を吊し上げろという話になって仕舞えば、八百八狸を率いる義骸は、山に住まうものたちの無事と引き換えに平次を処すほかはない。そうなって仕舞えば、いくら平次がわざとじゃないと言っても事は為される。
 義骸も理解しているのだろう、考えを巡らせている様子だが、平次の心は不思議と凪いでいた。
  
「責任は我が身を持ってとりまする。処してくだされ。」
 
 獣姿のまま、義骸につまみ上げられた平次がそう宣う。天嘉はその言葉に顔をあげると、戸惑ったような視線を向ける。
 甚雨は平次の瞳に諦観を読み取った。そして、先程の様子から、死にたがっているのだろうと理解した。部下である平次の言葉に、義骸は小さく息を飲む。
 甚雨からしてみれば、自身の傅く総大将にそんな顔をさせる平次の身勝手な自己都合の押し付けは言語道断である。己の領域を犯しただけでなく、不躾なやりとりに甚雨は苛立ちを隠せなかった。
 
「貴様の自殺の幇助をしろというわけか。腹が立つ、そんなに死にたくばこの領域の外でやってくれ。俺たちを巻き込むな。」
 
 グルル、と甚雨が鋭い言葉を差し向ける。義骸は甚雨の言葉に促されるように平次を見ると、その小柄な体を放り投げた。
 
「義骸!」
「馬鹿にするのも大概にするがいい、平次!」
「ぅあ、ッ…!」
 
 その身を跳ねさせるようにして枯葉を散らし、身を転がした平次は、慌てて駆け寄った天嘉によって抱き起こされた。
 
「大丈夫か、平次…」
「っ、触れるな人間!またこの牙の餌食にされたいか!」

 ジタバタと身を捩った平次は、威嚇するように牙を見せつける。びくりと身を跳ねさせた天嘉へ、再び脅かしてやるつもりで眉間に皺を寄せた瞬間、その口吻を大きな手が力強く握りしめた。
 
「貴様、誰の雌に牙を剥いている。殺すぞ。」
「ッ、蘇芳やめろ!」
 
 羽音を立てずに舞い降りてきた蘇芳が、その黄昏色の瞳をぎらつかせながら平次を押さえつける。
 まるで二度と口を開けないようにするかの如く、恐ろしい握力で握り潰そうとする蘇芳に、慌てて天嘉が縋り付いた。
 蘇芳の男らしい腕には、力を込めているせいか太い血管が浮き上がっていた。それほどまでの番いの怒りに息を呑むと、天嘉はその口吻を締め上げる蘇芳の掌を、己の指でこじ開けるようにして平次を解放した。
 かふりと鼻から血を噴き出しながらどしゃりと倒れた平次は、何が起きたのか理解をしていない様子であった。ガクガクと震える体からは、その恐怖が見てとれる。滲んだ蘇芳の怒りは、それほどまでに強いものであったのだ。
 
「へい、…っ!」
 
 倒れた平次に気を取られた天嘉の頬が、乾いた音をたてて張られた。まるで火花が散ったかのような視界の明滅と、追ってくる鋭い痛みに瞼の裏側がカッと熱くなる。
 天嘉は訳がわからないままぺたんと地べたに腰をつけると、ゆっくりと蘇芳を見上げた。剣呑な二つの瞳が天嘉を見下ろす。蘇芳から向けられる、初めての視線であった。

「馬鹿者はお前もだ天嘉。なぜ単独で動く。なぜこの俺を出し抜く。お前にはまた躾が必要か。」
「…、すお…」
「お前は一人の体ではない。俺は散々言ったな。お前が義骸に自ら跨って去っていったのを、俺がどんな思いで見つめていたと思っている。」
 
 甚雨はごくりと喉を鳴らした。あの温厚な蘇芳が、嫁の頬を張るほどに怒っていたのだ。怒りはおそらく心配の裏返し。天嘉にそれが正しく伝わって入るようであるが、よほど叩かれたのが堪えたらしい。天嘉はその琥珀色の瞳にじわじわと涙の幕を張らせると、ひくりと喉を震わせた。
 
「だ、だって…やだ、やだよ俺…、」
「駄々をこねるか。身重の身で何かあったらどうするつもりだ。」
「そ、そうだけど…、ちげえと思ったんだもん、こんな、俺のせいで仲悪くなっちまうようなこと、嫌だったんだもん…っ、…」
 
 ヒック、と喉を振るわせて宣う。子供じみた言い訳に聞こえるそれは、まさしく天嘉の本心であった。
 
「へ、平次だって、こんな追い詰められてんのやだよ、仲良くしてえのに…、俺が人間だから出来ねえって言われんのもやだし、…ッ、義骸だってこんなんだし…っ、」
「おい、こんなんとはなんだ。」
「一人に、できねえじゃん…っ、泣いてる奴ほっとけるほど、俺は人間できてねえもん…っ、…」

 一人で苦しむなんて嫌じゃん、天嘉は、ついに決壊したの嘉、溢れた涙をそのまろい頬に一筋伝わせると、情けない声でそう宣う。
 小さな子のように、溢れ出る涙を腕で押さえつけるようにして拭いながら泣く天嘉に、蘇芳は胸に蟠る凝りが滲んでしまったかのような、悔しげな表情になった。
 天嘉は、肩を震わせながら、涙を止めようとしていた。蘇芳が怒るかなと自覚があった分、頬を叩かれるほどの怒りだとは計りかねたらしい。衝撃の波は一向に引かずに、声を殺して、火傷しそうなくらい熱くなった肺を宥めるために、必死で呼吸を整える。天嘉の心模様とは裏腹に、空は浄らかに晴れ間を見せ始めた。転がっていた平次は、なんでこんなことになっているのかさっぱりわからず、戸惑ったように義骸をみた。
 
「貴様が招いたのだ。きっちりと落とし前をつけろ、平次。」
「…俺は、死にたいだけなのに…、」
 
 平次の呟きに、天嘉が泣き顔を向けた。ぐす、と鼻を鳴らすと、四つん這いのように平次に手を伸ばし、その短い前足を掴む。狸の丸っこい体をずるりと引き寄せたかと思うと、そのまま平次の体をぎゅうと抱き込んだ。
 なんなのださっきから!平次は顔に皺を目一杯よせながら嫌悪感を剥き出しにして威嚇をした。それなのに、天嘉は怖じることなくその頭をわしりと撫でたのだ。
 
「道中、義骸から聞いた。芝桜さんのこと。」

 天嘉の情けない声が、平次の心に波紋を広げる。

「……貴様、」
「ごめんな、酷い事しちゃったんだな。俺、お前の傷知らねえで、無理矢理納得しろって言っちまったようなものだったよな…。」
「き、貴様に何がわかる…!俺の、俺の気持ちなど人間如きに図られたくなどないわ…!」
「わかんねえよ、だって俺はお前じゃねえもん。だけど、だけどな…、俺が平次だったらって思ったら、お前はこんな小さい体ではち切れそうになりながら背負ってきたんだなって…、そう思ったら、なんかダメで…、」
 
 平次は天嘉の涙がボタボタと己の体毛を濡らすのを感じながら、まんまるの瞳を揺らめかせた。なんで貴様がそんなことを言うのだ。そう思いながらも、平次を優しく抱きしめるその腕が暖かくて、涙腺を刺激する。喉がきゅうんと鳴って、泣きそうになるのを必死で堪えていた。
 
 お前に、お前に寄り添ってもらいたくなんかない。平次はお前に心を砕いてもらわずとも、自分で自分の落とし前をつけられる。つけられるのに、お前が無様に泣くからこちらまで涙腺をたたかれる。全くもって、本当に迷惑な話だ。

 身を震わせながら黙りこくる平次に、寒いのか?と心配げな顔で着物の襟元で包み込んでくる。柔らかくて、いい匂いがして、まるで芝桜の最後に寄り添った時とは大違いのはずなのに、なんでかその天嘉の優しさに生前の芝桜を重ねてしまった。
 
「平次、俺はお前を恨んではいない。俺たちが人間にされてきたことは覆せんが、それでもずっと恨むことなどできんよ。俺も歳を取りすぎた。」
「義骸様、それでも俺は口惜しい…、あの夜、冷たい雨にさらされた仲間たちを放っておくことしか出来なかったんだ。芝桜殿を守れなかったんだ…、俺は、俺は…。」
「お前があいつに心を砕いてくれたのは、感謝している。だがな平次よ、俺は先に目が覚めちまった。恨むことは、過去に止まり続けるということだ。先に進む勇気が持てねえで、何が名前もちだ。」

 義骸はそういうと、平次を温めるように抱きしめる天嘉を見た。
 
「上のもんがいつまで経っても燻っちまってるから、俺はお前を迷わせちまったんだなあ、平次。」
「う、恨んでくださればよかったのに、…」
「…、雌に言われて気がついた。俺の価値は芝桜、そしてついてきてくれるお前たちだってな。」
 
 お前を恨んで、自分の価値下げちまったら、それこそ男が廃るだろう。義骸は冗談まじりにそういうと、目が溶けるのではというほど泣いている平次をつまみ上げた。
 
「いつまで人妻の胸元弄ってるつもりだ。蘇芳の雷喰らいたくなけりゃあ、さっさと退散するぞ。」
「ま、弄ってなどおりませぬ…!」
 
 平次は義骸の言葉に毛を膨らますほど取り乱した後、盗み見るように天嘉を見た。
 自分に体温を分け与えていた人の雌は、蘇芳の手によって抱き起こされていた。大きな手のひらで、己の張ったた頬を労るように撫でた大天狗は、鋭い視線で平次を一瞥すると、その華奢な体を大きな翼で囲い込むようにして引き寄せた。
 
「張ってすまない。しかし俺の気持ちはわかってくれ。」
「俺も、ごめ…っ、こ、怖かった…から、も…怒んねえで…っ、き、嫌い、に…なんねえ、で…っ…、」
「俺がお前を嫌いになどなるものか。頼むから無茶はしてくれるな天嘉、叩いてすまない、帰ったら冷やして、甘やかしてやろうな。」
 
 人の身でありながら、雌にされて孕まされた天嘉。まるで甘い毒で蝕むようにこちらの世界に引きずり込んだ大天狗は、天嘉を離さぬとキツく抱き込んだ。恐ろしいまでの執着心だ。
 人間でも妖怪でもない半端者にされてしまった事実を受け入れ、そしてこうして番いになった。
 呪いのようだ。狂っている。平次は二人の姿を見つめていると、義骸によって視界を遮られた。
 
「あまり不躾にみるな、平次。俺たちは命拾いしたのだぞ。あの雌がああして奴の歯止めになっていなければ、今頃俺たちは狸鍋にされて市井に配給されていたに違いない。」
 
 天嘉にもしものことがあれば、間違いなく殺されていただろう。義骸はあの時の轟く雷鳴には、間違い無くそういう意味が含まれているということを理解していた。
 どこを走り抜けても、ずっと頭上をついてきたのだ。天嘉が側にいなければ、今頃…と考えて、やはり蘇芳は侮れぬ男だと溜め息を漏らした。 
 
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