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ツルバミの苦悩

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 ややこができたに違いありません。そう言われても、天嘉の中の常識だと男が孕むわけがない。結局口にしようとしていた常備薬も、ツルバミによって、なりませぬ。と言われて取り上げられてしまった。現代日本でも妊娠したものが常備薬に気を使うように、それはこの妖の世界でも同じらしい。
 とは言っても、である。
 
「俺は妊娠してねえ。笑わせんな。ハメられはしたが心までは許しちゃいねーもん。」
 
 天嘉は頑なだった。
 
「て、天嘉様、なりませぬ。旦那様から外出は禁ずるようにと仰せつかっております故、どうか、どうかそのようなお体で戸の外にお出になるのはおやめくだされ!」
「いい加減寝てられるかっての。部屋もなんだか線香みてえな匂いするし、気が滅入るっつの。」
「あれは邪気払いの香でございます。まだ呪が残っております故、せめて外出なさるならば、旦那様とともに、ああ!」
 
 だだっ広い屋敷の中、天嘉は熱で赤らんだ顔のままに、出口を探すかの如く襖を次々と開けていく。ツルバミは、最初は二足歩行でペタペタと後を追っていたのだが、このままでは足の長さの埋められぬ距離を補えぬと、久方ぶりの蛙飛びで追いかける。
 蘇芳の屋敷に仕えて百年弱、よもやこのツルバミをただの蛙のように扱う御仁が嫁だとは。この先の見えぬ新婚生活を前に、なんという波乱の予感だと、内心ヒヤヒヤしていた。
 
 天嘉が待ち続けて待ち続けて、そして痺れを切らしてしまうほどに帰ってこない蘇芳は、まさか屋敷の中で嫁がキレているとはついぞ知らずに本日も帰りが遅いらしい。
 ツルバミの孕んでおりまする発言から数分後、こうして天嘉は納得できない現実と多少の動揺を誤魔化すかのようにして屋敷の中を探り回っていた。
 
 ごめんくださーい。
 なんとも陽気なその声に、天嘉の足が止まる。玄関は、下座敷を出て中庭の見事な蓬莱式庭園を抜けた先にあった。
 スパァンと玄関の間を開け放つ。武家屋敷のように来客者が地面に触れることがないようにとあつらえられた式台を挟み、上がり框の上で来客を勢いよく出迎えた天嘉を、医者兼薬売りの行商でもある化け鼬の青藍はあっけに取られたように見上げた。
 
「天嘉様、これ!ああ、天嘉!天嘉殿!うわああ!」
 
 立ち尽くした天嘉の後ろから、ツルバミが転がるようにしてまろび出る。勢い余ってでんぐり返しをしたツルバミが、ころりと天嘉の足の間に挟まるようにして青藍を自身の足の間から見上げると、ゲロッと慌てたように鳴いた。
 
「これはこれは青藍殿、ご無沙汰しておりました。して、本日はどういったご用件でございましょう。何分今は手が離せないものでして。」
「あ、ああ。ツルバミは息災そうで何より…。ええと、上がってもいいかな。」
 
 青藍は目の前の金髪の青年を見上げたまま、足元から聞こえてきたツルバミの声に応える。ピクンと揺れる鼬の小さなお耳を頭から出した青年は、耳と同じ薄茶の髪の毛に栗色の瞳のそばかすが似合う素朴な容姿の妖かしだ。人の姿は天嘉と同じ年嵩くらいで、作務衣姿に小ぶりな桐箪笥のようなものを背負っていた。

「こんちは。どうぞごゆっくり。」
「あ、はい…ええと?」

 ぺこりと頭を下げる天嘉に釣られるように、青藍も丁寧にどうもとお辞儀をした。天嘉は三和土に揃えられていた下駄に足を通すと、青藍の横をぺこぺことお辞儀を繰り返しながら通り抜けようとして、その細腕を掴まれる。

「え、っと。多分だけど君が今日の俺の患者さんだよね?」
「人違いっスね。はい、サーセン。」
「人違いなどではございませぬぞ!!!青藍殿!!その御方のお手をしっかり捕まえといてくだされ!!」
「チッ」

 こちらに尻を向けていたツルバミが、よいせと体制を整える。青藍はまるで急かされるようにがなるツルバミの様子に思わずがしりと細腕を両手で掴むと、顔に似合わず随分と治安の悪い態度で帰ってくる。

 なるほどこれは一筋縄ではいかなそうである。青藍はその稲穂のような色味の髪に寝癖をつけた青年の手を掴んだまま、自己紹介の前にこんな出会い方をするのだなあと他人事のように思った。

 
 



 天嘉が第一回目の脱走を試みて失敗と相成った後、ツルバミの呼び出した影法師によって担ぎ上げられるようにして寝室に引きずり戻された。
 あれはいけない、まさか足元からにょろりと影法師が現れるとは思わないだろう。動揺し過ぎて不意をつかれた。
 むすくれて布団に戻ってきた天嘉の不機嫌顔に、青藍を横に置いたツルバミまでもが両頬をぷくりと膨らませてご立腹中である。
 青藍は自己紹介をする空気でもないなあと、半ば諦めたように笈を降ろし、中から調薬で使う道具やら聴診器やらを取り出していた。

「なりませぬとツルバミはあれだけ申し上げましたな天嘉殿!」
「様から殿になってやがる。」
「言うことを聞けない御方を敬う器量はツルバミにはございません!まったく、旦那様の申し上げた通りたいそうお転婆な方でございますな!身重ということをご自覚なさいませ!」
「だからあ!!」

 ゲコゲコと怒るツルバミの声を遮るように、天嘉が声を荒げる。
 まるで雌のように扱うここの者たちに対して、天嘉はもう苛立ちが止まらなかったのだ。
 バン!と叩いた鶸萌黄色の畳が渇いた音をたてる。ぴょこんと飛び上がったツルバミと、その不穏な声色にギョッとした青藍が、思わず目を丸くした。

「何なの。マジで。お前本当に人の話を聞かねえよな。メスメス雌雌言いやがって!んなダルい妄想に付き合ってる暇はねえんだ!!外に出させろ!!」
「ダルい!?ほらああ言わんこっちゃありませぬ!!お体の不具合を何故隠されるのか!!」
「そっちのダルいじゃねええええ!!」

 まるで頭を抱えるように両手で髪を掻きむしると、その琥珀色の瞳を鋭くさせて黙りこくる青藍を見つめた。

「お前も、どうせそうなんだろ。」
「いや、まあ俺は旦那からそう聞いてるから、そのつもりできたけど…」

 形のいい目鼻立ちに、陶磁器のように滑らかな肌を持つ天嘉に睨めつけられて、青藍は尻の座りが悪い思いをした。
 その琥珀色の瞳は明らかに棘を含んでおり、まるで手負いの獣のような鋭さを感じる。

 口は確かに宜しくないが、無理矢理に抵抗することで体躯の違うツルバミに怪我をさせないようにと無意識に気を使ったのだろう。酷く苛立ってはいたが、こうして床に入っている分不器用な人だなあと思った。

「んで、もうかえしてくれよ…ほっといてくれ…」

 額に手を当て、面倒臭そうに俯く。稲穂のような金髪に隠れて表情は見えなかったが、かすかに声が震えていた。

「天嘉殿にこちら以外の行き場など御座いませぬ!再三申し上げました通り、天狗に見初めら」
「ツルバミ、それはいけない。」
「いけないとは、何でございましょう。青藍殿」

 天嘉の肩が小さく揺れた事を見て、青藍がツルバミのことを止める。少し高いツルバミの声で言われた行き場のないという言葉に、天嘉のトラウマが蘇る。
 青藍は、縋るように自らの服の袖を掴む力の入った白い指先を見て、小さくため息を吐いた。

「患者と二人きりにしておくれ。ツルバミ、お前は襖の外でまっていてくれ。」
「なりませぬ。旦那様の奥方とお二人切など、いくら青藍どのが旧知の仲であっても承服致しかねまする。」
「俺にだって番がいるのを知っているだろう。それに、お前がだめでも医者の権限で外に出させてもらうよ。食われたくなかったら、さっさと表へおいき。」

 青藍は几帳面が過ぎて融通が利かないツルバミのことを、忠義心の塊の業突く蛙だと思っている。
 なのでこういうときは職権乱用にかぎるとにっこり微笑むと、瞬きの合間にその姿を化け鼬の本性に戻る。
 蛙を捕食する事もある大きな化け鼬の姿で誂われたら、さすがのツルバミも本能には抗えなかったらしい。ゲコッと怯えた声を出して後ろに飛び退った。

「んなっ!つ、ツルバミは食ってもうまくはございませぬ!ぐぬぬ…青藍どの、天嘉殿は旦那様の大切にございます。このことをゆめゆめお忘れなきようにお頼み申しあげまする!」
「はいはい、俺が口惜しくなる前に早く池へとお帰り。」
「襖の外におりまするっ!!」

 ぴょこぴょこと蛙飛びで大慌てで逃げていくのに、きちんと責務は真っ当するらしい。急いでいた割に存外丁寧な襖の締め方をすると、青藍はその鼬顔のまま天嘉に向き直った。

「さて、邪魔者は消えたところで…少し話をしようか天嘉殿。」
「…でけえ鼬…はじめてみた…」
「おや、鼬は見たことないと。こう見えても肉食でね、まあ割と何でも食うんだが。強いて言えば蛙が好きだ。」

 ニヤリと犬歯を見せつけて青藍が笑う。天嘉は鼬の笑うところを始めてみたと、感心したように言う。
 ふんふん、と鼻をひくつかせて顔を近付けた青藍は、その少動物のような顔で真っ直ぐに天嘉を見つめた。

「さて、どうやら天嘉はこの里のものではないようだ。化け鼬も始めてみたというし、随分と箱入りにお育ちになったようだな。」
「化け鼬ってそんなに多いのか…?」
「ああ、まあ山住まいは多いなあ。人間で例えるなら、山田という名字位は多い。」
「佐藤よりは少ねえんだ。」
「佐藤はあれよ、猫又だな。」

 おひげをぴこぴこと動かしながら、そんなことを言う。青藍のわかりやすい例えに小さく吹き出した天嘉に、ニコリと微笑んだ。
 なんだかこの子は息苦しそうでいけない。青藍はしゅぽんと音を立てて人間の形に戻ると、变化を間近で見た天嘉が頬を染めて感動していた。

 なんというか、こんな变化一つでそのように喜んでくれるとは面映い。青藍はかりかりと頬を掻くと、さて何から話そうかと居住まいを正した。

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