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邂逅は白檀の香りに包まれる
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蘇芳はとても大らかで、誇り高く、そして御嶽山に住まう妖どもからの信頼も実に確かなものである。ツルバミはそんな主人に使えていることを誇りに思うし、そして何よりも情に厚いお方だ。
射干玉の美しい黒髪に、男ざかりの立派な体躯。そして何よりも顔がいい。
上等な雄には、上等な雌が相応しい。それはツルバミが慮らずとも、主人が勝手に嫁を娶って己の幸せを掴むのだろうとばかり思っていた。
思っていたのだが。
まさかその主人が見染めた嫁というのが、こんなに妙竹林な小狐だとは、流石のツルバミも思わなかったのである。
その日、ツルバミは開いた口の閉じ方すら忘れて、呆気にとられたように満面の笑みの主人を玄関で迎えた。
「あ、あ、あのう…そちらの濡れ鼠のような御仁は一体…」
「おう、これか。境界に落ちてきた。よもやこんな妙な雌が降ってくるとは思わなかったなあ。」
蘇芳は腕の中で意識を飛ばしているこの生き物が、まるで何かの巡り合わせのように腕の中に落ちてきた今日、それはまるで退屈な悠久のひとときが終わりを告げるある種の天啓のように感じていた。
「世話を頼む、俺は野暮用を始末してきたらまた戻る。境界のあたりにやまのけが出たのでな。」
「それはそれは、ご苦労様でございます…ああ、風邪をお召しだ。どれ、このツルバミが承りました。」
ツルバミは水掻きのついた手のひらを2回ほど叩くと、ワラワラと影法師が室内のそこらから寄せ集まって、蘇芳の手から落ちてきたという雌を受け取った。
境界に入ってこれたのだ。恐らく妖にゆかりのあるものだろう。不思議な髪の色合いと触り心地から、狐の類のものだと予測した。
ツルバミはひとまず影法師に奥座敷から一番近い風呂場へと連れていくように言いつける。
主人が気に入った雌となると、こちらも丁重にもてなさねばならない。もはや拾われたのなら二度と元の世界には帰れまい。なぜなら添い遂げる雌と出会える確率が極めて低い天狗が、この機会を逃すわけがないからだ。
「ううむ、悪運が強いと申すのか。まあこればっかりは致し方あるまい。恨むなら己の運命を恨みなさい。」
ツルバミはどこかいとけなさの残る不思議な魅力の持ち主にそう呟くと、主人のための支度をするためにいそいそと見慣れない装束を脱がしていく。所々かすり傷のようなものがある細い体を丁寧に仕込まなくては、今夜を無事に越えられるかはわからない。やまのけは呪の塊だ、突然現れるとはいえ成人した狐の妖かしなら狐火などで追っ払えるだろうに、どうやら耳切をされているらしく力が出せないのだろうと推測した。
恐らく、主人が帰ってきたら、この憐れな妖かしに十中八九所有の印を刻むだろう。やまのけの邪気にやられて大熱で苦しんでいる様子を見て、仕事のできる蛙は奥座敷に邪気避けの白檀の香を焚き付けておいた。
「おやあ、まあ雄ではないか。」
ツルバミが衣服を剥き終わる頃には、股座についていたそれをみて驚いた。貧乳だなあと思っていたのだが、雄ならば道理である。それにしても余程食い物に苦労してきたのだろうか、同じ体躯の者たちに比べても、少々薄い気がした。
天狗の雄は番を運命に任せるのだ。だから蘇芳もこの出会いを随分と待ちかねていた。他のあやかしと違い、種族的に雌がいないというのもあるのだが、なにせ妖力を受け止められる器のあるものがいないのだ。
空の器ほど、妖力が馴染みやすい。なんの隔たりもないその器を、蘇芳は自分の色に染めることができるのだ。
ツルバミは眼の前の青年をみてフムと頷く。
笑ってしまうくらいに妖力がない、無いということは受け入れる器だということだ。
これは正しく主人が離さぬわけだなあと納得した。
「とまあ、こんなぐあいに天嘉殿は旦那様によってお持ち帰りされたわけでございまする。」
「まて、いっこ確認するけど俺はここから出られないのか?」
「ええ、まあお体が安定するまでは蘇芳様がお許しになりませぬでしょう。ほら、ご存知の通り天狗は雌に種をつけたあとは囲いまする。妖怪きっての愛妻家ですゆえ。」
ゲロ。ツルバミは天嘉に請われてここに来たくだりを話していた。夫婦の出会いというのは十人十色、ツルバミのように、水草に絡まった嫁を助けたのがきっかけという、まるで恋の神が誂えたかのような宿命的な出会いを果たしたりもするわけだ。おかげで今は36匹の子を持つ親である。
で、あるからして出会いというのは雌の胸をときめかせるようなものが、今後の道筋を決めるのだ。
「あれはまことに、誠にようございました。旦那様が抱えられながらお戻りになったときは、このツルバミ、ついに運命が動き出したとも思いました。」
「つまり、外堀を埋められた上で拐かされて閉じ込められたということか?うっそだろう。そんなやり方が許されるなんて、戦国時代じゃあるまいし。」
「おや、ご冗談を。そんな粗野なものではありません。運命でございます。」
フンス、と鼻息荒く拳を握りしめながら語るツルバミをみて、天嘉は目元がひくひくと痙攣した。
どうやらこの蛙は大層主人である蘇芳に心酔しているらしい。
それに、ここが妖かしの里だと言われて納得せざる負えないのは、眼の前の蛙だけでなく天井を泳いでいる発光体も鬼火だと説明されたからだ。
この屋敷に仕えているものはすべて妖かし、侍従頭のツルバミ以下影法師たちを紹介されたが、あれは現代で言う心霊写真に映り込む謎の人影そのものである。
「ていうか、俺のボディバッグ…、どこにあんの。あれに全部大事なもん詰めてんだよ。」
「菩提獏?おやあ、天嘉様の式でございましょうか。なにやら霊験あらたかそうな獏がおりますようで…ツルバミ、見識を深めねばなりませぬ。」
「いや、ぼ、ぼだいばくってなんだ。そっちのほうが怖いわ…荷物だよ荷物!体にくっつけてたやつ!」
ツルバミのおっとりとした口調でケロケロと鳴くのは、笑っているのだということをここ数日で理解した。天嘉は結局熱が下がらないまま、今日も寝床の住人だ。こんなに下がらないのは異常である。鞄に常備薬を入れていたことを思い出し、それを持ってくるようにお願いをしたつもりだったのだが、如何せん意思の疎通が難しい。
体に巻き付けた袋だということを噛み砕いて言うと、ようやく理解をしたようだった。
「ああ、あの珍妙なズタ袋。へえへえ、只今お持ちいたしましょうね。」
「人の持ち物ズタ袋扱いしやがったこいつ…」
何という失礼な奴だとむすくれる。まあ、一番失礼なのは蘇芳なのだが。
「蘇芳はどこにいった。俺、無理やり手籠めにされたこと許してねえんだけど。」
そりゃあ流された部分もあったのだが、結局あの後も体を拭くとは建前で散々に鳴かされた。もはや快楽で己の身を縛り付けようと思っているのなら、ヤッたらヤッたでさっさといなくなるという根性叩き直してやりたいと思う位には腹が立っていた。
「旦那様なら境界の見回りで本日も大変忙しなくされておりますよ。嫁ができたと挨拶回りもございますれば、お帰りは本日も夜ふけでしょうなあ。」
「嫁…?っと、さんきゅ。」
「さんきうとは、天嘉様のお里でのお礼のお言葉でしたなあ。ツルバミ、きちんと覚えておりますよ。」
ケロケロと笑うツルバミからズタ袋呼ばわりされたボディバッグを受け取った。天嘉はここは現代から隔絶されていて、通じる言葉と通じない言葉があることを理解し始めていた。
曖昧に頷くと、ジッと音を立ててバッグを開ける。その中から常備薬のはいったポーチとスマホを取り出すと、電源を入れた。
「…ツルバミ、なんでお前そんなところに…」
ふと静かなのが気になって、天嘉が横にいたはずのツルバミの姿を探すと、その小さな体は襖の影に身を隠すようにして顔だけをこちら側に向けている。
まるで恐ろしいといったように長い舌で顔を拭うと、震える手でそれ、と指を指してゲコリと鳴く。
「お、お手は無事ですか…。」
「手?ほら」
「そんな、そんな恐ろしい妖かしの中にものを入れられるとは、天嘉様は怖いもの知らずでございます…ツルバミなど、皮膚が千切れるかと思いました。」
どうやらこのバッグが気になって弄ったせいで皮をファスナーに挟んだことがあるらしい。天嘉は苦笑いをすると、スマホの電池残量を確認してから電波を見る。見事に圏外だ。
ツルバミは黒い板を弄っている天嘉が気になるのか、いそいそと近づいてくるとひょこりと顔をのぞかせる。
「ははぁ…これはまた精緻な浮世絵でございますなあ。して、この四角いのはなんでございましょう。」
「ああ、これはカメラだな。写真撮れるんだ。」
「しゃしん…」
きょとりとしたツルバミに、実際に見てもらうかとカメラを起動する。天嘉の操作で急に自身の顔が写ったツルバミはギョッとした。しかしまあ鏡のようなものかと居住まいを正すと、カショ、とオランダミツバを齧ったかのような妙な音を立てて鏡の前の自分が動かなくなったのだ。
「てててて、て、て天嘉様、か、鏡の中のツルバミが動かなくなってしまいましたが!?」
「おう、写真ってのはそのままこの媒体に一枚の絵として保存するんだ。んーと、しまい込む、その一瞬を?」
「はあ…瞬きの間を切り取るとは、神器のようなものでしょうか…。」
「俺の知ってる神器はテレビと掃除機と洗濯機だけどな。」
ツルバミとの写真をアルバムから引き出す。ひょこりと天嘉の腕に手をついて背伸びをする様子がかわいい。ツルバミはカエルだが背丈が幼児くらいしかなく、天嘉は孤児院にいたときの癖で思わずその頭を撫でてしまった。
「おやあ。なんともおもはゆい…ややこができても天嘉様なら立派な母君になれますなあ。」
「ややこ…って子供か。俺は男だから孕まねえけどな。」
スマホの電源を落とす。充電ができるのかわからないため、こういうときはあまり立ち上げないほうが良さそうだ。そう言って再び鞄に戻すとポーチを手に取る。ツルバミはまたケロケロと笑うと、薬を取り出した天嘉に言った。
「大天狗は雄でも孕ませますぞ。天嘉どのはきちんと旦那様の種を腹に受けましたゆえ、疑いようもなく孕んでおりまする。」
ツルバミの言葉に、天嘉の指からぽろりと薬が落ちる。ぽかんとした顔で見つめる天嘉の手を取ると、呑気なカエルは頑張りましょうねえとゲロっと鳴いた。
言葉の意味に理解が追いつかない天嘉を見守るように、部屋に焚き付けた白檀の香りだけが室内を優しく包んでいた。
射干玉の美しい黒髪に、男ざかりの立派な体躯。そして何よりも顔がいい。
上等な雄には、上等な雌が相応しい。それはツルバミが慮らずとも、主人が勝手に嫁を娶って己の幸せを掴むのだろうとばかり思っていた。
思っていたのだが。
まさかその主人が見染めた嫁というのが、こんなに妙竹林な小狐だとは、流石のツルバミも思わなかったのである。
その日、ツルバミは開いた口の閉じ方すら忘れて、呆気にとられたように満面の笑みの主人を玄関で迎えた。
「あ、あ、あのう…そちらの濡れ鼠のような御仁は一体…」
「おう、これか。境界に落ちてきた。よもやこんな妙な雌が降ってくるとは思わなかったなあ。」
蘇芳は腕の中で意識を飛ばしているこの生き物が、まるで何かの巡り合わせのように腕の中に落ちてきた今日、それはまるで退屈な悠久のひとときが終わりを告げるある種の天啓のように感じていた。
「世話を頼む、俺は野暮用を始末してきたらまた戻る。境界のあたりにやまのけが出たのでな。」
「それはそれは、ご苦労様でございます…ああ、風邪をお召しだ。どれ、このツルバミが承りました。」
ツルバミは水掻きのついた手のひらを2回ほど叩くと、ワラワラと影法師が室内のそこらから寄せ集まって、蘇芳の手から落ちてきたという雌を受け取った。
境界に入ってこれたのだ。恐らく妖にゆかりのあるものだろう。不思議な髪の色合いと触り心地から、狐の類のものだと予測した。
ツルバミはひとまず影法師に奥座敷から一番近い風呂場へと連れていくように言いつける。
主人が気に入った雌となると、こちらも丁重にもてなさねばならない。もはや拾われたのなら二度と元の世界には帰れまい。なぜなら添い遂げる雌と出会える確率が極めて低い天狗が、この機会を逃すわけがないからだ。
「ううむ、悪運が強いと申すのか。まあこればっかりは致し方あるまい。恨むなら己の運命を恨みなさい。」
ツルバミはどこかいとけなさの残る不思議な魅力の持ち主にそう呟くと、主人のための支度をするためにいそいそと見慣れない装束を脱がしていく。所々かすり傷のようなものがある細い体を丁寧に仕込まなくては、今夜を無事に越えられるかはわからない。やまのけは呪の塊だ、突然現れるとはいえ成人した狐の妖かしなら狐火などで追っ払えるだろうに、どうやら耳切をされているらしく力が出せないのだろうと推測した。
恐らく、主人が帰ってきたら、この憐れな妖かしに十中八九所有の印を刻むだろう。やまのけの邪気にやられて大熱で苦しんでいる様子を見て、仕事のできる蛙は奥座敷に邪気避けの白檀の香を焚き付けておいた。
「おやあ、まあ雄ではないか。」
ツルバミが衣服を剥き終わる頃には、股座についていたそれをみて驚いた。貧乳だなあと思っていたのだが、雄ならば道理である。それにしても余程食い物に苦労してきたのだろうか、同じ体躯の者たちに比べても、少々薄い気がした。
天狗の雄は番を運命に任せるのだ。だから蘇芳もこの出会いを随分と待ちかねていた。他のあやかしと違い、種族的に雌がいないというのもあるのだが、なにせ妖力を受け止められる器のあるものがいないのだ。
空の器ほど、妖力が馴染みやすい。なんの隔たりもないその器を、蘇芳は自分の色に染めることができるのだ。
ツルバミは眼の前の青年をみてフムと頷く。
笑ってしまうくらいに妖力がない、無いということは受け入れる器だということだ。
これは正しく主人が離さぬわけだなあと納得した。
「とまあ、こんなぐあいに天嘉殿は旦那様によってお持ち帰りされたわけでございまする。」
「まて、いっこ確認するけど俺はここから出られないのか?」
「ええ、まあお体が安定するまでは蘇芳様がお許しになりませぬでしょう。ほら、ご存知の通り天狗は雌に種をつけたあとは囲いまする。妖怪きっての愛妻家ですゆえ。」
ゲロ。ツルバミは天嘉に請われてここに来たくだりを話していた。夫婦の出会いというのは十人十色、ツルバミのように、水草に絡まった嫁を助けたのがきっかけという、まるで恋の神が誂えたかのような宿命的な出会いを果たしたりもするわけだ。おかげで今は36匹の子を持つ親である。
で、あるからして出会いというのは雌の胸をときめかせるようなものが、今後の道筋を決めるのだ。
「あれはまことに、誠にようございました。旦那様が抱えられながらお戻りになったときは、このツルバミ、ついに運命が動き出したとも思いました。」
「つまり、外堀を埋められた上で拐かされて閉じ込められたということか?うっそだろう。そんなやり方が許されるなんて、戦国時代じゃあるまいし。」
「おや、ご冗談を。そんな粗野なものではありません。運命でございます。」
フンス、と鼻息荒く拳を握りしめながら語るツルバミをみて、天嘉は目元がひくひくと痙攣した。
どうやらこの蛙は大層主人である蘇芳に心酔しているらしい。
それに、ここが妖かしの里だと言われて納得せざる負えないのは、眼の前の蛙だけでなく天井を泳いでいる発光体も鬼火だと説明されたからだ。
この屋敷に仕えているものはすべて妖かし、侍従頭のツルバミ以下影法師たちを紹介されたが、あれは現代で言う心霊写真に映り込む謎の人影そのものである。
「ていうか、俺のボディバッグ…、どこにあんの。あれに全部大事なもん詰めてんだよ。」
「菩提獏?おやあ、天嘉様の式でございましょうか。なにやら霊験あらたかそうな獏がおりますようで…ツルバミ、見識を深めねばなりませぬ。」
「いや、ぼ、ぼだいばくってなんだ。そっちのほうが怖いわ…荷物だよ荷物!体にくっつけてたやつ!」
ツルバミのおっとりとした口調でケロケロと鳴くのは、笑っているのだということをここ数日で理解した。天嘉は結局熱が下がらないまま、今日も寝床の住人だ。こんなに下がらないのは異常である。鞄に常備薬を入れていたことを思い出し、それを持ってくるようにお願いをしたつもりだったのだが、如何せん意思の疎通が難しい。
体に巻き付けた袋だということを噛み砕いて言うと、ようやく理解をしたようだった。
「ああ、あの珍妙なズタ袋。へえへえ、只今お持ちいたしましょうね。」
「人の持ち物ズタ袋扱いしやがったこいつ…」
何という失礼な奴だとむすくれる。まあ、一番失礼なのは蘇芳なのだが。
「蘇芳はどこにいった。俺、無理やり手籠めにされたこと許してねえんだけど。」
そりゃあ流された部分もあったのだが、結局あの後も体を拭くとは建前で散々に鳴かされた。もはや快楽で己の身を縛り付けようと思っているのなら、ヤッたらヤッたでさっさといなくなるという根性叩き直してやりたいと思う位には腹が立っていた。
「旦那様なら境界の見回りで本日も大変忙しなくされておりますよ。嫁ができたと挨拶回りもございますれば、お帰りは本日も夜ふけでしょうなあ。」
「嫁…?っと、さんきゅ。」
「さんきうとは、天嘉様のお里でのお礼のお言葉でしたなあ。ツルバミ、きちんと覚えておりますよ。」
ケロケロと笑うツルバミからズタ袋呼ばわりされたボディバッグを受け取った。天嘉はここは現代から隔絶されていて、通じる言葉と通じない言葉があることを理解し始めていた。
曖昧に頷くと、ジッと音を立ててバッグを開ける。その中から常備薬のはいったポーチとスマホを取り出すと、電源を入れた。
「…ツルバミ、なんでお前そんなところに…」
ふと静かなのが気になって、天嘉が横にいたはずのツルバミの姿を探すと、その小さな体は襖の影に身を隠すようにして顔だけをこちら側に向けている。
まるで恐ろしいといったように長い舌で顔を拭うと、震える手でそれ、と指を指してゲコリと鳴く。
「お、お手は無事ですか…。」
「手?ほら」
「そんな、そんな恐ろしい妖かしの中にものを入れられるとは、天嘉様は怖いもの知らずでございます…ツルバミなど、皮膚が千切れるかと思いました。」
どうやらこのバッグが気になって弄ったせいで皮をファスナーに挟んだことがあるらしい。天嘉は苦笑いをすると、スマホの電池残量を確認してから電波を見る。見事に圏外だ。
ツルバミは黒い板を弄っている天嘉が気になるのか、いそいそと近づいてくるとひょこりと顔をのぞかせる。
「ははぁ…これはまた精緻な浮世絵でございますなあ。して、この四角いのはなんでございましょう。」
「ああ、これはカメラだな。写真撮れるんだ。」
「しゃしん…」
きょとりとしたツルバミに、実際に見てもらうかとカメラを起動する。天嘉の操作で急に自身の顔が写ったツルバミはギョッとした。しかしまあ鏡のようなものかと居住まいを正すと、カショ、とオランダミツバを齧ったかのような妙な音を立てて鏡の前の自分が動かなくなったのだ。
「てててて、て、て天嘉様、か、鏡の中のツルバミが動かなくなってしまいましたが!?」
「おう、写真ってのはそのままこの媒体に一枚の絵として保存するんだ。んーと、しまい込む、その一瞬を?」
「はあ…瞬きの間を切り取るとは、神器のようなものでしょうか…。」
「俺の知ってる神器はテレビと掃除機と洗濯機だけどな。」
ツルバミとの写真をアルバムから引き出す。ひょこりと天嘉の腕に手をついて背伸びをする様子がかわいい。ツルバミはカエルだが背丈が幼児くらいしかなく、天嘉は孤児院にいたときの癖で思わずその頭を撫でてしまった。
「おやあ。なんともおもはゆい…ややこができても天嘉様なら立派な母君になれますなあ。」
「ややこ…って子供か。俺は男だから孕まねえけどな。」
スマホの電源を落とす。充電ができるのかわからないため、こういうときはあまり立ち上げないほうが良さそうだ。そう言って再び鞄に戻すとポーチを手に取る。ツルバミはまたケロケロと笑うと、薬を取り出した天嘉に言った。
「大天狗は雄でも孕ませますぞ。天嘉どのはきちんと旦那様の種を腹に受けましたゆえ、疑いようもなく孕んでおりまする。」
ツルバミの言葉に、天嘉の指からぽろりと薬が落ちる。ぽかんとした顔で見つめる天嘉の手を取ると、呑気なカエルは頑張りましょうねえとゲロっと鳴いた。
言葉の意味に理解が追いつかない天嘉を見守るように、部屋に焚き付けた白檀の香りだけが室内を優しく包んでいた。
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