なんだか泣きたくなってきた 零れ話集

だいきち

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潜入、薔薇色のキャンパスライフ 3

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 武道館は、汗の匂いと大勢の人々の応援する声で満たされていた。黒山の人だかりで、中の様子は見れそうにない。僕はベビーカーを武道館の入り口の脇に置かせてもらうと、凪君を抱っこして中に入った。
 大勢の学生が楽しげにしている様子に、心なしか僕も引きずられてしまう。みんな、少し前までは制服を着ていた子達なんだろう。まだあどけなさが残る顔立ちも、キラキラした目つきも。きちんと青春を楽しんでいて何よりだ。
 会場を見渡すなら、二階席だろう。たくさんの人混みに興奮する凪君を宥めながら、会場を見下ろせる位置まで登ってきた。
 一回席は座れなさそうだったから、ここで俊君の出番を待っていよう。今は柔道部の演目だ。俊君は何に出るんだっけな。
 
「なぎもやりたい!」
「まだ無理かなあ」
「なんでえ!」
「まだ凪君の体が小さいからだよ。おっきくなって、悪い人倒すなら体から作らなきゃ」
「むうう……」
 
 膝に乗せた凪君が、むすりとした顔をする。嬉しいけどそんなに急いで大人にならなくてもいいんだよ凪君。
 小さな背中で温められるお腹には君の兄弟がいるから、まずはお兄ちゃんになってからだね。
 そんなことを思っていれば、出番を前に観戦していたのか、道着姿のまま慌ただしく目の前をかけていく大学生たちが何かを落としていった。
 膝から降りた凪君の手には学生証。これってまずいんじゃないかと慌てて声をかけようとしたけれど、気がついたらもう彼らは走り去った後だった。
 知識がなくて、彼らの道着がなんの競技だかわからない。柔道はもう始まっているから違うとして、あとは空手かテコンドーあたりだろうか。
 
「学生課……に届けた方がいいだろうけど、今は部活の人に渡したほうが一番よさそうだな」
「ままこれなあに」
「学生さんの大切なものだよ、とりあえず返しに行こうか」
「なぎがはいってする」
「じゃあ絶対落とさないでね、いこう」
 
 よいせと立ち上がって、凪君のリュックのリードを掴む。学生証を首から下げて、さらに両手で大事そうに握りしめているから任せても大丈夫だろう。やけに勇ましい顔つきで、凪君が振り向いた。
 
「はしらない!」
「最高~! 凪君よくわかってるー! 大人ー!」
「ふふん」
 
 俊君の教育の賜物か、よく似たドヤ顔で宣言してくれました。うちの子しか勝たん! そんなことを思いながら、僕はとりあえず控え室があるだろう一階へと戻ることにした。
 やっと座れたけど、学生証を無くして冷や汗をかくのはかわいそうだ。
 幸い、登ってきた階段の反対側は道が空いていたので、凪君に任せるのも大丈夫だろう。
 
「可愛い、お兄ちゃんに会いにきたの?」
「いまにんむなの」
「あ、ごめんなさい。あの、演目でる部活の子達ってどこにいますか」
「それなら武道館の外にあるテントの中ですよ」
「あ、ありがとうございます」
 
 ここの学生さんだろう、ギャルっぽい女の子に助けてもらって、僕と凪君は人ごみを避けながら会場の脇を通り抜ける。
 そんなに凪君の大根バック姿が目立つのか、若い女の子たちからは手を振られたりした。ちっちゃい手でファンサービスよろしく手を振りかえす凪君は慣れたものだ。僕はさながらマネージャーのようにぺこぺこしながら後ろをついていく。
 
「だっこ」
「いっぱい歩いて偉かったねえ凪君」
「んひひ」
 
 もちもちの頬を緩ませてはにかむ凪君が可愛い。テントの出入り口には、これからパフォーマンスをするのだろう。装束を身に纏った大学生たちがいて、少しだけ気圧される。
 
「ぅあ、あの……っすみませぇん!」
「え? 誰、子連れ」
「わかんない」

 ですよねえ! 突然声を上げた僕を前に、数人が反応を示してくれた。が、本当にそれだけだった。間違いなく場違いだというのは、僕がありありと理解している。女性のマネージャーとかがいれば話は早いんだけどな、そんな贅沢を求めるにも、周りにはそんな気配はない。
 俊くんがいてくれたらなあ。そんなことを思っていれば、僕の肩をガシリと掴む手があった。
 
「っ、俊君⁉︎」
「残念。てか何、スポーツ大会で出待ちとかどこの親衛隊よ」
「親衛……何?」
 
 なんだか懐かしい単語が聞こえてきて、ポカンとしてしまう。僕の肩を掴んだのは見知らぬ青年で、スポーツマンらしからぬ茶色の長髪がやけに似合っていた。
 きっと、彼もアルファなのだろう。俊君以外から肩に触れられたことで、ぞわりとした悪寒が体に走る。
 
「ぼ、僕学生証」
「なあに、弟ときたの? ダメだよ、人の学生証使ってお近づきになろうだなんて」
「そ、そんなことしてない! 本当に拾ったから届けにきただけなんだってば!」
「そんな強く否定するだなんて、ますます怪しいなあ。まあいいや、いいの? ここアルファだらけだけど。首輪もしないで遊びにきてさ」
 
 どないせえっちゅうんじゃ! どうやら、僕は面倒臭い男に絡まれてしまったらしい。なるほど、同じ大学の学生同士だとしても、戦いの前で気が立っているところに踏み込んだのは不味かったらしい。だから女の子が一人もいなかったのかと、今更ながらに思い至る鈍い頭に嫌気がさす。
 アルファは本能に引きずられることがままある。血の気が多い若いアルファのこの反応は、確かに正しい。
 不躾な手が僕の腰を撫であげて、ブワリと鳥肌が立つ。髪の毛を下ろしているせいで、噛み跡が見えないのだろう。凪君を抱いているから見せつけることもできない。
 
「やだ! ちらい!」
「あ?」
「あっちいけ! ちらい!」
「凪っ」
 
 僕の腕の中で、滅多に怒らない凪君が短い腕を振り上げた。小さな手のひらが茶髪の手に当たって、僕はハッとした。
 そうだ、凪君を守れるのは僕しかいないんだ。小さな体を抱き込んで、茶髪へと睨みを効かせる。
 
「僕は誰の親衛隊でもないってば! きもい、触るなバカ!」
「は? 何、生意気なんですけど。世渡り下手かよ」

 絶対にこんなチャラついたアルファに負けるもんか。その勢いで煽ってしまったのがいけなかったのかもしれない。腰に回っていた手が服を掴んで、強く背後へと引かれる。あっ、と思った時には体のバランスが崩れていた。
 このままじゃ、背中から地べたに転がる。お腹の子や、凪のことが頭をよぎって血の気が引いたその時だった。
 
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