なんだか泣きたくなってきた 零れ話集

だいきち

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ブルースター5

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「こんにちは。」

そう女性の声で話しかけられ、きいちは自分の体にかかる影の主を確認するようにして顔を上げた。

「あ、こんちは。」

誰だろう。こんな綺麗な人は知らない。きいちは少しだけドギマギしながら挨拶を返すと、何故か隣に腰掛けられた。引っ越してきた人なのだろうか。世間話のように今日は暑いですねと続けられて、少しだけ戸惑った。

「こちらに越してこられたんですか?」
「いいえ、知り合いに会いに来たの。」
「知り合い、ですか。」

なら待ち合わせまで少しあるということだろうか。女性の鞄にもマタニティーマークがついていた。不躾だろうかと思いながらちらりと腹を見る。二ヶ月程だろうか、まだ薄い腹は目立たなかった。足元はハイヒールだ。転んだりしたら事なのに、何となくそれが気になってしまって、伺うようにちらりと見上げる。
長いまつ毛に隠された黒目と目があい、ビクリと肩をはねさせた。

「そのお腹、」
「あ、あと一月半くらいでもう出産なんですよ。へへ。」
「誰の子ですか。」
「へ?」

ゆっくりときいちの腹を見つめて言う。興味があるのはそこじゃないと言われているような声色だ。
まさかそんなことを聞かれるとはおもわず、間抜けな声を漏らした。
ちらりとそのまま女性が砂場で遊んでいる学と凪を見る。
眉間にシワを寄せて顔をひそめる様子に困惑すると、がしりとその手を掴まれた。

「ぅわっ、」
「可哀想。だまされてます、あの男の子を孕まされたのね…。あの、魔性の…」
「え、あ?ま、」

魔性?と聞き返そうとしたとき、勢いよく突っ込んできて割いったのは学の体だった。

「だめ。こいつは、だめだ!」
「な、何いってんの?」
「まなちゃんまってよぅ!」

ぱしりと乱暴に女性の手を振り払い、きいちを背にかばった学は酷く狼狽えている。
あとから駆け寄ってきた凪のおっとりとした声だけがその場の空気にそぐわなかった。

「貴方って、本当に図太いのね」

ボソリと呟かれた低い声。駆け寄ってきた凪を見ると、きょとんとして首を傾げる様子を馬鹿にするように笑った。

「男腹で産まれた子ね。あなた、家庭があるのによく堂々と彼と寝られるわね。」
「なに、」
「凪、こっちおいで。」

学はわけがわからないといった顔で睨みつける。
戸惑う凪を見かねたきいちが呼ぶと、まるで膝に抱きつくようにして凪が飛び込んできた。

「まま、だれぇ?」
「僕も知らない。凪はいいこにしててね。」
「はぁい…」

きいちの腰に抱きつく様にして隠れる凪の頭を撫でながら、じっと見つめてくる女性を睨み返す。先程からこいつは何を言っているのか分からなかったからだ。

「僕は学とは番じゃないですよ。この子は別の人との間に生まれた子供です。」
「俺は、きいちとは番ってない。誰と勘違いしてんだあんた。」
「…あなたもしかして覚えてないの?」

なにをだ、と口にしそうになってとどまる。学はなんでこの人を見て間に入ってきたのだろう。きいちは様子をうかがうように学を見上げると、必死で思い出そうとするように黙りこくっていた。
その様子は、女性の核心をついたようだ。かすかに口元を歪ませると、勝ち誇ったように笑う。

「私のことも、忘れてるのね。」
「…あんた、」
「帰ります。興が冷めました。」
「あ?」

きいちが思わずガラの悪い声をだす。そのままヒールで地面を踏みつけながらさって行く様子を最後まで見送ると、きいちの苛立はもはやピークだった。

「なんだあれ。男腹で悪いかってんだ。僕の腹に柔軟性をもとめるなっての!」
「あいつ、どっかで…」
「ままのおなか、かっこいーよぅ?」

ぺたりと膨らんだ腹に小さい手をくっつかせて宥める息子の頭を撫でる。きいちは見知らぬ女から凪も馬鹿にされたような目で見られたのもむかっ腹がたったらしい。ぎゅうと凪を抱きしめると、すりすりと頬ずりをした。

「大好きだよ僕の宝物。僕をママにしてくれたのは凪だもんね。」
「なぎも、まましゅき。」

学は眉間にシワを寄せたまま黙っていた。こころなしか少しだけ顔色も悪いように見えたきいちは、学をベンチに腰掛けさせると背中をなでる。
詳しいことはわからない。だけど、学がなくした記憶の中にあの女性もいるのだろう。

「ごめ、ちょっと…気持ち悪い、かも。」
「え、大丈夫?」
「ごめん、ほんと、ちょっとトイレ…」

俯いていた学が口元を押さえる。そのままフラフラ立ち上がってトイレに向かう学に慌ててきいちが付き添うと、凪は泣きそうな顔で学を気づかった。

「まなちゃん、はいちゃう?」
「うーん、凪くんトイレの外で待ってられる?絶対誰にもついていかない約束できる?」
「凪もついてく。」
「えぇ、まあそのほうが安心するけど…」

服の裾を握りしめながら泣き出しそうな凪に苦笑いすると、学はふらふらとトイレの個室に入っていく。背中をさすってやりたいが、凪もおいていけないしなと逡巡しているうちに限界を迎えたのか、咽る音と共に苦しそうな学の様子が伺えた。

「迎えに来てもらうか、とりあえず。」

困ったときの旦那だ。時計を見ると、俊くんはそろそろ大学の講義が終わって帰ってくる頃だった。
吐いている学の様子に怯える凪を宥めながら電話をかけると、末永を連れてすぐ行くと返事が来た。

凪に頼んで小さいバックを持っててもらうと、トイレの外で待っててもらう。ぐったりする学を介抱しているうちに、いよいよ立てなくなってしまった。
流石にいまは抱き上げることは出来ない。どうするか迷ったが、公園のトイレで今の時間は人気も少ない。汚いところで待たせているのだけは心苦しかったが、凪にお願いをして学を見ててもらうと水だけ買いに行った。

「まなちゃん、ちんじゃう?」
「しな、ない…ごめんな、」
「いーよぅ、がんばってぇ」
「う、ん…」

ひと通り吐ききると少しは楽になった。やっぱりこれも後遺症なのだろうか、学は口の中の気持ち悪さと目眩に体の力が抜けてしまって立ち上がれない。小さい子の相手をするつもりが、きいちにまで迷惑をかけてしまった。情けない自分に涙がでてくる。

「まなちゃん、きーきわるぃの、だめじゃないよぅ…」
「ううっ、ぐすっ、」
「はいはいただいま!って、うわ泣いてる。」
「まなちゃんがちんじゃぅうー!!うわぁぁあん!!」
「凪まで泣くのかぁ。」

ぐしぐしと二人で泣く姿に苦笑いしか出ない。きいちはよいしょと膝をつくと、学を肩にもたれ掛からせて水を差し出した。
口もとの汚れはトイレットペーパーで拭うと、ゆっくりでいいからねと口に水を含ませる。
小さい子をあやすような柔らかい口調に、また学はちょっとだけ泣いた。

「ままぁ!!ぱぱきたぁ!!」

凪の声とともに慌ただしく入ってきたのは俊くんと末永くんだ。たまたま講義が被っていたらしい、慌てて車を飛ばしてきてくれた。

「学、っ」
「吐いちゃった。今落ち着いてるけど寝かせたほうがいいかも。僕んち近いからつかって。」

駆け寄る末永に場所を譲ると、飲み指しのペットボトルを鞄にしまう。泣き止まない凪を抱き上げた俊くんと末永に抱き上げられた学と共にトイレを出ると、路駐してしまった車に慌てて戻る。幸い迷惑を掛ける前に公園から離れることができたが、学を抱いて後部座席に座った末永の顔色は悪かった。

「なにがあったんだ…」
「詳しくはお家ついてから話す。」
「出すから、また吐きそうになったらいってくれ。」
「もう出ない…」

ならいい、と俊くんが言うと、そのまま車は滑るようにして公園をあとにした。歩いて十数分程度だ、車が家につくのは早かった。家につくと汚れた服をきいちの私服に着替えさせ、ベッドに寝かせた。病院に行くかと聞くと、頭は痛くないからと断られたのだ。やばそうなら救急車を呼ぶことを約束させると、苦渋を噛み潰したような顔をした末永に溜め息を吐いた。

「そんな顔してて学が元気になるならいくらでもしたらいいけどさ。とりあえず落ち着けって。」
「なにがあったんだ。」
「とりあえずお前ら席についてからにしろ。」

凪はだけいい子に椅子に腰掛けながらちうちうとジュースを飲む。俊くんは三人分のお茶を入れると、凪の隣に腰掛けた。

「末永くんさ、黒髪ロングの女の人って知り合いにいる?」
「…吉乃のことか。」
「うっわ、うっっっわ。ダウト、絶対そいつ。そいつが原因だわ。しかも名前呼び。今日その人に絡まれたんだよ。」
「きいち、茶化すな。」
「おっと、僕としたことが。」

吉乃という名前は二人は知らなかった。学があの時彼女に反応したということを末永に伝えると、しばらく押し黙ったのち、吉乃という女性について説明をした末永の内容は、名家のセオリーというか、定番というか。未だそんな風習が残っていたのかと思うくらいには、きいちにとって錆びついたものだった。

「許嫁ぇ?ったく、漫画じゃないんだからさあ。」
「解消したとしても、それは学に言っておくべきだろうが…」
「無駄な心配をかけたくなかったんだ。」
「馬鹿の答えだなおい。」

流石の俊くんも同じアルファとして思うところがあったのかなにべもない。
末永の消化しきれなかった種火が燃え広がったらしい。きいちは珍しく難しそうな顔をしたあと、吉乃とよばれる女性が言っていた言葉を思い出した。

「僕と凪見て、学との番だって勘違いされたんだよね。」
「はあ?目が腐ってんじゃないのか。」

どうみても似ていないだろうと、俊くんがぶすくれる。口汚いよと言われ、眼球がお腐れ申し上げているんじゃないのかと言い直していたが、そこではない。
きいちはうんうんうなりながら、なにがひっかかったのか思い出すようにして首を傾げては、もみもみと指でこめかみを揉む。それを見た凪までもが真似をして飽きるくらいまでにはじっくり考えた後、閃いたとばかりに声を上げた。

「なんだったっけなぁ、んんんん、と、…あー!!!!」
「うわびっくりした。」

無言を貫いて、きいちが考える邪魔をしなかった俊くんは、危うくその大声でお茶を落としそうになった。末永はというと、はっとした顔をしたが再び小難しい顔に戻る。きいちの言葉を待つかのように机を睨みつけたまま言った。

「…吉乃は学には会わせたことはない。写真だって見せてないぞ。なんでそんなこと…」
「吉乃さんに過剰反応したってことはなにか絡んでるでしょ。しかも、学に対して覚えてないの?ってさ、」

だめだって僕との間に入ってきたんだよ。そう言うと、何かに気がついたかのように顔を上げた。
不意に、あの日喫茶店からみた吉乃が花屋を見つめていたことを思い出したのだ。

「あのとき、あいつは花屋を伺っていた気がする。」
「それってさ、よくいうあれじゃん?なんだっけ?」
「犯人は現場に戻るってやつか。」

俊くんはなにか思い至ったのか眠そうな凪をあやしながらそうこぼした。もしそれが本当なら、学が頭を怪我した理由が違うかもしれない。
末永は自分の思い至った考えが体温を下げていくのを感じた。自分の大丈夫だろうという考えが、危険な目に合わせていたとしたら。
ゴクリとこみ上げるものを飲みこむ。記憶をなくしたきっかけは、俺のせいかもしれない。

顔色を悪くした末永をみたきいちが、じっと見つめる。言葉を待つような空気だった。

「そうと決まったわけじゃない。可能性が高いだけだ。そう思ってるなら殴る。」

口を閉ざして黙りこくる末永に対して投げかけたきいちの言葉は冷たかった。
俊くんは嗜めるように声をかけるが、手で制されてしまった。

「きいち、」
「俺は…」
「守れよ。番だろ。」
「っ、わかっている!」

末永大きな声に、ビクリと体をはねさせた凪が愚図る。俊くんはそれをあやす様に抱き上げるとリビングを後にした。これから先は教育に良くないだろう、そう思ったからだ。
俊くんと凪が退室したのを見送ったきいちは、ゆっくりと向き直る。
末永がキッと反抗するような目で睨みつけた瞬間、乾いた音が響いた。カッと燃えるように頬が熱を持つ。殴られたのだ。平手で。

「ぐっ、」
「生意気な目つき出来るほど甲斐性ねえだろうが。ああ?」

胸倉をがしりと掴まれむりやり目を合わせられる。
自業自得だ、そんなこと末永が一番わかっていた。
ただそれを指摘されるというのはプライドが許さなかった。
からりと引き戸を開ける音がした。小さく息を詰める音とともに、真顔でキレるきいちの胸倉を掴む手にぶつかるようにして取りすがったのは、学だった。


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