守り人は化け物の腕の中

だいきち

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8 怯えの理由

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 喰録に乗って空を駆けた日から少しずつではあるが、タイランの心の持ちようは変わってきた。
 湖に連れて行かれたあの日、透き通る青に目を奪われるタイランへと、ドウメキは言ったのだ。

ーー俺は気長な方なんだ。お前が心を許すまで、いくらでも待ってやるさ

(今まで言われたこともない言葉だったな)

 紅い瞳が柔らかく光るのを見て、少しだけ息が苦しくなった。ドウメキがこいねがうほど強く待ち望んでいるはずの守城の記憶。それを身の内に抱えるタイランの怯えを汲み取って、俺のことは気にするなという。
 知らない記憶が戻るのは怖い。それを、懐かしいと思うことが怖い。タイランは、前世の記憶が戻ることで、今までの記憶を失ってしまうのではないかと怯えていた。
 心が追い詰められていた。そして、視野も狭くなっていた。
 この怯えは、タイランだけのものではないのに。
 本当に守城の生まれ変わりだとしても、共に生きた記憶を否定されるドウメキもまた、口には出さずとも同じ怯えを抱いていることを失念していた。
 タイランばかりが一方的で、ドウメキの心を気にかけてやる冷静さを欠いていたのだ。
 しかし弱い心は、無理に思い出そうとしなくていいというドウメキの言葉に救われていた。気持ちを吐き出したことで、グッと息がしやすくなったのだ。
 隣に寄り添うドウメキへと、情けなく泣きながら弱さを打ち明けたあの日から、タイランの目がドウメキを追ってしまうようになったのも必然だろうか。
 それを言葉に表す語彙は無い。ただ安心するからという己への言い訳が、いつまで持つのかもわからない。


「お前はまめだなあ」
「これは生活だろう。いつまでも山桃ばかりを齧っているわけにはいかないからな」

 くつくつと煮込まれる鍋を覗き込む。ドウメキの距離の近さに、タイランは少しだけ身じろぎをした。驚いたことに、喰録もドウメキも食わなくても生きていけるらしい。通りで今まで与えられる食い物が山桃だったり、胡桃だったりと偏っていたわけだ。
 
「食は、趣味のようなものだな。俺たちは人間のように面倒臭い体をしていないからな」
「俺の体調不良が栄養状態からくることを、喰録が気づいてくれて本当に良かったよ」
「あいつはさといからなあ。顔は怖いが」

 なはは、と楽しげに笑うドウメキの隣で、タイランはあきれたようにため息を漏らした。
 石造りの厨房は少しだけ寒いが、火をつければ存外気にならないものだ。
 ここにきて、ドウメキによって心を整えられたタイランが始めたのは、まずは身の回りの生活環境の改善だ。
 ドウメキなしでは生きられない体にはなっていないが、ドウメキなしでは外に出れないのは変わらないままである。
 日亡時を境に、山の妖魔は力を強めたという。身を守る術がドウメキ頼みのタイランにとって、喰録とドウメキの面倒を見ることが唯一タイランにできることだと思い至ったのだ。

 別に、頼まれてはいない。しかし、頼まれなければ行わないというのは、タイランの性分には合わなかったのだ。
 故に、炊事全般、家事を取り仕切るのはタイランの役目にした。
 無論、こんなに広い城を一日で調えろと言うのは無理な話である。だから、必要最低限の使う部屋だけ。
 
 ドウメキの手に、汁をよそった椀を渡す。肉とミョウガに、卵を溶いて煮ただけの簡単なものだ。調味料は戸棚から見つけたが、何年経っているかわからなくて、使うのを諦めた。
 味付けは干し肉の塩分だけ。あとはミョウガの伸び代に期待した。
 申し訳程度にドウメキが山でもいだ柑橘の汁を足してはいるが、己の本職でもある料理の腕をふるえないことが不満だった。

「山菜が欲しいな。腹は満たされるが、栄養は取れんだろう」
「山菜は好きだ。食感がいい。だが俺は見ただけではわからんぞ」
「俺が詳しい。山に入らないと、また体調を崩す未来しかない。ドウメキ、言いたいことはわかるな」

 タイランの作った汁に舌鼓を打っていたドウメキの表情が、わかりやすく渋い顔をする。
 どうやら、先日の外出のみで満足させようと言うつもりだったらしい。そんな魂胆が透けて見えてからこその提案だ。タイランはにっこりと微笑むと、ドウメキを壁に追いやる勢いで体を近づけた。

「おい」
「ふきのとうが食いたい」
「お前、それが本音だな」
「つくしは衣をつけて揚げるとうまいんだ。それを塩で食う。わかるかドウメキ」
「な、何もわからん……なんだつくしって」
 
 胸を張るようにしてドウメキを見上げた。普段は余裕のこの男が、少しだけ焦っている様子に胸がすく。
 タイランは口元に笑みを浮かべたまま、無言の圧力をかけるように見つめる。
 こうすることで、参ったといわんばかりに顔を背けることを知ったのはここ最近だ。そうなると、たいていのわがままは通ることを学んでしまった。

「……自生する場所による」
「そんなことがわかれば、俺は城の炊事番ではなく商人になっているはずだぞ。」
「なっていたとしても、ここに来るのは変わらなかっただろうな。」
「論点をずらすな。俺は一人で行きたいと言っているんじゃないんだ。お前がダメなら、喰録といく。」

 タイランの声に反応をするように、喰録が黒い靄とともに姿を現した。相変わらず、音もなく背後に侍るのはよしてほしい。
 真横からにゅっと顔を出してきたので、思わず手にしていたお玉を落としてしまった。

「城主は留守番か。ふふ、私は構わないぞ」
「ダメだぞ喰録。山主の存在を忘れたか」
「ああ、……そうさな」

 喰録の言葉に、眉を寄せたドウメキが強い口調で窘める。
 しかし、山主という言葉に反応を示したのは、タイランもまた同じであった。

(山主、そうだ……俺は)

「タイラン、どうしたそんな顔をして」

 唯一の肉親であるヤンレイから言われたことを、タイランは思い出したのだ。
 タイランは、嘉稜国守城、九魄ヤンレイを弟にもつ。将軍お抱えの、若くして名を馳せた守城ヤンレイは、名前持ちと呼ばれる力の強い妖魔、九魄に選ばれている。
 そんな妖魔の名を身に宿すヤンレイは、タイランに一つの命令を下していた。

ーーお前、魏界山に行って、山主の封印を解いてきなさい。

 淡々と紡がれた言葉に、タイランはひどく動揺したのを思い出す。立派な守城でもあるヤンレイとは違い、タイランには妖魔がいない。
 今はこうしてドウメキと喰録がよくしてくれているが、身の内にしまい込んでいるタイランの使命は、まだ話せていないのだ。

 嘉稜国の民が秘めているはずの巫力を、タイランは持たない。そんな己が、名のある守城ヤンレイの兄である。
 ヤンレイにとって、タイランがどんな立ち位置にいるかだなんて、想像にたやすい。
 山主なんて、いないと思っていた。そんなタイランに、ヤンレイは命令してきたのだ。妖魔を持たぬまま入る魏界山の危険性は、十分に把握していたはずだ。その上でタイランを魏界山へと向かわせたのは、いるかも分からぬ山主の解放ではなく、タイランが命を落とすように仕向けたからに違いない。
 だからタイランは、弟の望むように事故で死んだことにして、新しく人生をやり直そうと思ったのだ。そうすれば、ヤンレイは出来底ないの兄から解放され、タイランも自由を得る。

「いないと思っていた、山主なんて……」
「……言ったろう、日亡時は封印の力が弱まるのだ。山の妖魔が忙しなくなるのも、この時期だからだ」
「タイランが山に入った理由は……、もしかしてそれが関係しているのか?」

 喰録の窺うような言葉に、タイランは小さく身を跳ねさせた。不意打ちの言葉に、わかりやすく反応を示してしまったのだ。
 肌がピリつくような感覚が、じわじわと起こる。顔を上げれば、身から妖力を滲ませるようにして、ドウメキがタイランを見下ろしていた。

「ど、ドウメキ……?」
「また、同じことを繰り返すつもりか」
「待て、なんの話をして」
「二度は許さん……!! 再び俺からお前を奪うことなど!!」
「ひ、っ」

 語気を荒げるドウメキが、タイランの肩を強く掴んだ。その爪は黒く長く伸び、目尻に刺された朱が、まるで隈取のように顔に浸食する。鬼の形相でタイランに詰め寄る姿からは、普段のドウメキの温厚さは感じ取れない。

「城主、落ち着くがいい。タイランの怯えが伝わらぬのか」
「っ、喰録……」

 ドウメキから遮るように、タイランは喰録の背後へと回された。
 黒く、大きな体が隔てて、ドウメキの表情はわからない。それでも、空気を通して伝わってくるドウメキの確かな怒りに、タイランはどうしたらいいかわからなかった。

(俺が、怒らせた……?)

 掴まれた肩が、ジクジクと傷んだ。しかし、悲痛さの滲む声色で吠えたドウメキの様子は、タイランの肩よりも余程痛みを抱えているようにも見えた。
 タイランだけが、覚えていない。ドウメキが抱える心の内を理解しているのは、目の前の喰録だけだ。
 そんな状況が、嫌だった。タイランを侵食する前世の記憶が怖いと怯えていたのに、ドウメキの苛立ちの理由を知らないのが悔しかった。

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