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名無しの龍は愛されたい
赤毛の少年の話
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石畳の上で踏み躙られ、翅を散らしながら半身を地面と一体化させた名も知らぬ甲虫。
赤毛の少年は、金色の二つ眼で足元のそれを見つめていた。
ああ、これはこの世の縮図だ、己の末路だ。
不意に頭によぎったその思考は、少年の中で外れかけていた箍を容易く取り払った。
南国、カストール。その美しい街並みから、天国に最も近い至上の楽園などと呼ばれているらしい。
小耳に挟んだときは、噴飯して転げ回るところだった。己からしてみれば、ここは汚い街以外の評価はない。それだけ、少年は様々なものを見てきた。金色の二つ眼で、酸いも甘いも全て。
この至上の楽園と謳う街で育った彼は、達観していた。己の目で見た真実しか信じず、そして飢えていた。
常に行き場のない憤りを腹に抱えている状態だ。怒りや憤りは、内側から湧き上がってくる。己の小さな体じゃ、覆せない現状。そして、力のなさを自覚して、卑屈になっているだけという事実。
大人からしてみれば、ただの反抗期で片付けられてしまうだろう。だけど、少年はこんな世界で死にたくはなかった。こんな、汚く、せせこましい、大人たちの都合ばかりの世界なんかでは。
ーあんたは幸せだね。お金持ちに名指しされたんだって?
ー読み書きを教えてあげよう。ほら、こちらにきて侍りなさい。
ーお前、駄賃をやるから靴を磨け。ほら、拾いなさい。どうせ僕にとっては端金だ。
ー可愛げがない。せっかく見目がいいのに、愛想がないのか。ほら、菓子をやるから笑ってみせなさい。
沢山の大人が孤児院にきた。己の好みの子供を選別し、金を払い、相性を見るために体を借りる。
人間なのに、犬猫のように振る舞わねばいけない、そんな世界がそこにあった。
決めつけられた幸せが、そこにあったのだ。
ああ、大人はきちんと見たくないところは目にしないのだなあと思ったのだ。
大人になり、視野も、見識も広がったとしても、閉ざされた子供たちに対する見聞は一向に広まらない。だって、孤児や奴隷はそういう仕事にしかありつけない。学に触れる機会は、買い手次第。己の人生を己の手で切り開くだなんて、そもそも思いつかないものたちばかりだ。
「クソッタレ。」
顔立ちの整った、赤毛の少年は紙幣を握りしめて吐き捨てた。
一日中酷使された自分の体の価値では、果実一つすら変えない。クソッタレ以外の何ものでもない人生だ。
赤毛の少年は、孤児だ。生まれたときから親の顔なんか知らなかった。孤児院のクソジジイは、年嵩や見目がある程度育った孤児を金で貸し出して私腹を肥やしている。
ベッドもある、飯もある、それが上等だというのなら、生活に目を向けろと言いたい。
赤毛の少年には、同じ時期に入所した幼なじみがいた。女みたいな顔をした雀斑顔のそいつは、ことあるごとに問題を起こす少年を窘めた。
「赤毛、また買い手を殴ったんだって!?お前が問題を起こすから、同室の僕がジジイに怒られたじゃんか!」
「殴ってねえ、手があたったんだ。」
「ああ言えばこう言う!お前っていつもそうだ!」
頬を膨らまして、そんなことをいう。少年はユミルという名前だ。物心つく頃から当たり前のように隣にいた、自分と同じ古参。
ユミルも少年同様名前なんてなかったが、自分で名前をつけたと言っていた。その名が女につける名前だとは気づいていない。それでも、赤毛の少年は少しだけ感心したのだ。
名前とは親につけられるものだけを言うのではないと、彼を通して教えてもらったからだ。
「せめえ屋敷だった。だからちょっと手を上げただけでもあたっちまう。」
「お前ね、あの屋敷のどこが狭いのさ、ここに住んでる十人の子供全員が、駆け回ったってぶつかりゃしない敷地だよ!」
赤毛の少年が買われた屋敷の主人は、ユミルの言った通り、広大な土地をもつ資産家であった。しかし、柔和そうな見た目に反して、その実読み書きを教えることを奉仕の一環だと曰い、何人もの孤児を食い散らかしてきた。
その事実を知って、大人しくしろというのがそもそもに無理な話なのだ。だから殴った。しかし、それが測らずとも己が嫌っている孤児院のガキどもの仇のようになるのは大変にいただけなかったが。
事実を知らぬユミルが、頑なな赤毛の少年を見て溜息を吐いた。
「赤毛、考え方を変えてみなよ。鼻につく相手にお前って言われちゃうのも、周りの仲間がお前を遠巻きに見るのも、全部お前に名前がないからだよ。」
「必要ねえ。お前みてえに頭良くねえし、名前なんてどっからつけんのかもしらねえもん。」
「なんだっていいんだよ。僕なんか、響きで決めちゃったし。」
「ああ、そう。」
興味もなさそうに適当に流す少年を見つめる。
ユミルは知っていた。本当は名前なんて関係はない。みんな赤毛を怖がってるだけだ。人間らしくない金色の目と、属性魔法はからきしの癖に、まだ未成熟の体で使いこなす無属性魔法。
赤毛は魔の子に違いない。そうやって、みんながみんな遠巻きにする。それがユミルは嫌だった。
いつも、少し離れた位置で違う見方をする。そんな赤毛の少年を線の外側に押し出した集団心理は簡単で、怖いからこっち来ないで。ただそれだけである。
同じじゃないから、怖い。何を考えているかわからない。そういう囁きは幾度となく耳にしている。わかろうとしてないのはどっちだと、ユミルは思っていた。
「隣人を愛せよっていうだろ!」
「顔もしれねえのに愛を囁やけるか。」
「…たしかに、」
「そこいらで読んだ安っぽい言葉で俺を諭そうとすんなっての。」
「じゃあ、赤毛はどうしたいのさ。」
「俺はここから出たい。」
風が吹いた。木っ端が足もとをくすぐるかのように流れていく。
ユミルはぽかんと口を開けて、数度瞬きをした。そして、諭すようにゆっくりと言葉を選びながら、赤毛の少年を嗜める。
「ここで過ごしたら、時期に働き口が見つかる。僕らはここで待つだけでいいんだよ?御主人様が見つかったら、後は安泰じゃないか。お金だって稼げる。」
「それがいやだ。俺はここの暮らしが嫌いだ。此処まで育ててもらったのはありがてえよ。感謝してる、だけどよ、俺は外に出たい。」
「お外は、だって、仕事の時か大人と一緒じゃないとでちゃだめだっていってたじゃん!ジジイが!」
「それさ。その常識だって、誰が決めたんだよ。」
「だから、それはジジイが…」
「そのジジイは、王様よりえらいのかよ。」
不貞腐れたように赤毛が言った。
赤毛の少年の言葉に、ユミルは唇を噤む。育ててくれたから偉いんじゃない、としか言い返せなかったが、確かにこの国の王様というわけでもない。
たった一言の投げやりの言葉で、自分の考え方が変わってしまうような気がした。
もう外は暗くなってくるから、そろそろ孤児院に戻らなきゃいけない。それなのに、眼の前の赤毛は、奉公から帰ってきたっきり胡座をかいたまま動こうとしない。まるで夜になるのを待っているみたいだった。
ユミルは、なんだそれ。と思ったが、考えてみればそうなのだ。ここでの常識は、孤児院を取り仕切る男の常識。狭い世界での規律。皆が疑わずに守るもの。
王様なんて雲の上過ぎて想像もつかないから、目先の偉い人を勝手に決めて飼育されているにすぎない。ここは、そういうところだ。
「こんなとこで語れる夢なんかどこにもねえよ。」
「夢?赤毛は夢がほしいの?」
「…うるせえな。わりいかよ。」
「うそ、お前にそんな可愛いところがあるだなんて。」
赤毛の少年は、ユミルの指摘にじんわりと頬を染めた。今更になって、なんだかとてつもなく恥ずかしいことを言ってしまったかのような気がしたのだ。
それでも、赤毛の少年はここから出たい。外に出るのが夢。だなんて、どこぞの姫様かと思うから、自分のために生きることを夢とした。明確なものではない。だから、まずはその第一歩を踏み出して、ここから逃げ出すことができたのなら、また次の夢をきちんと考えたい。
具体的なものはいらない、多分、衝動的に動くことになりそうだから、具体的な夢を持つとそれが枷になって行動に移せなくなる。
子供ながらにそんなドライな考え方をしているのは、全部この国のせいだ。
赤毛の少年が、黙りこくる。また何かを考え込む様子を見て、ユミルは門限に間に合わないことを確信した。
溜め息を吐いて、隣に腰掛ける。
「僕もさ、まだ決まってない。夢。でもよく考えたらさ、たしかに赤毛の言う通りかもな。」
ユミルは、納得したように頷く。そんなユミルの様子を、赤毛の少年は怪訝そうな顔で見つめ返した。
だって、ユミルたち孤児は、奉公に出てから世界を知るのだ。普段はこの孤児院から半径数十メートルの世界で生活をしている。そして、ある日突然体を貸し出されるのだ。
貸し出される体と引き換えに、孤児たちの懐に入るお金は少額で、正直貯蓄をするとしても微々たるものだ。それでも、前払い分は孤児院のジジイが受け取っているので、それで生活ができている。これが当たり前、決められたルーティーン。何も考えずに、惰性だけでも暮らしていける生活のあり方。
「こんなんが普通じゃ、いけねえんだ。」
ポツリと呟かれた声は低い。もう何かを決意しているかのような声色だった。
「ならさ、外の世界に行くなら尚更名前は必要だと思うけど。」
「…だから、つけ方わかんねえし。」
「あ、お前もしかしてずっと名無しだったのって、そういう理由?」
「ちげえ。お前って言われるから、別に困らなかっただけだ。」
「なら、この国をでて大人になるなら、必要でしょ。」
赤毛の少年が黙りこくる。ユミルは、頭がいいくせに、こういうところは頭が回らないのかと、チグハグな少年に少しだけ笑う。
「なんでもいいんだよ。例えば、印象に残ってるものとか、好きなものとか、僕みたいに響きとか。」
「印象に、残ってるもの…」
金眼が細まった。眉間に皺がより、珍しく逡巡しているようだった。
黙っていると、やはり顔がいい。赤毛の血筋はカストールに多いので、おそらくここの国出身の両親がいるのだろうと思ったが、金眼はここいらではお目にかかれない。ユミルは黙って悩む赤毛の少年の顔を見つめていると、その美しい金眼がゆっくりと開かれる。
「絵本に、あったんだあ。俺が持ってた絵本に出てきた、少年の名前。」
「絵本なんか、持ってたの?」
「もうねえ。金が欲しくて売っちまったから。」
「それって、お前を手放した両親からの贈り物だったんじゃないの…」
「てっきりそれ売って強く生きろってことだと思ったんだけどなあ。ちげえのか。」
なんの悪びれもせずに、あっけらかんとのたまう。ユミルは絶対に違うと思う。とは言えなかった。赤毛の性格が親譲りだとしたら、なきにしもあらずだと思ったからだ。
「エルマー。島を飛び出して、旅に出るガキの話だ。」
「あの、竜が出て来るお話の、エルマー?」
「なんかそんなんだった気がする。」
赤毛の少年は、カサついた指で靴先の汚れをゴシリと拭う。隠すように握り込まれた手のひらの内側には、いくつも剣だこができていた。夜、孤児院を抜け出して小型の魔物を倒しては小遣い稼ぎをしているのだ。そんなことバレたら大目玉を食らうから、ユミルにも言っていない。
「なんか平凡。」
「いいんだよ、平凡で。埋もれる方が好き勝手生きられるだろ。」
平凡の方が、この国を出て普通でいられる気がした。
「人間になりてえ。」
「今だって人間だよ、エルマー。」
「人間じゃねえよ。ユミル。金で買われてるうちは、人権なんてねえんだ。」
エルマーと言ったユミルの言葉に無言で返した少年は、ゆっくりと立ち上がると、尻についた草を払う。
あたりはゆっくりと夜に染まっていった。少しだけ風が強い。夜に吹く潮風の匂いだけは、嫌いじゃなかった。
この国を出たとして、エルマーは戻ってくるのだろうか。ユミルは立ち上がったエルマーを無言で見上げると、そっと片手を伸ばした。
普段なら、絶対に手を貸さない。赤毛、もといエルマーはそういう奴だ。孤児院で一番小さな子が転んでも、黙って通り過ぎるタイプ。だから、ユミルは自分の中で賭けをした。
差し出した手が握り返されなかったら、いつものエルマーだ。きっと、国を出ていっても戻ってくる。
差し出した手が握り返されて、引っぱり上げられたら戻ってこない。それは、ユミルの知っているエルマーじゃないからだ。
暇つぶし程度のくだらない賭け。多分、そんなことをユミルが考えているとか知ったら、エルマーはきっと無言で舌打ちをするんだろうな。そんなことを考える。途端にユミルは馬鹿馬鹿しくなってしまい、こんなくだらない賭けはやめようと手をひこうとして、できなかった。
「え。」
「なんだよ。」
ユミルの小さな手に、エルマーの手が重なっていた。柔らかな自分の掌とは違う、無骨で、少しだけごつりとした掌が、しっかりと握り返す。そして、ぐい、と引っ張られた。
ユミルの瞳に、エルマーの顔が映る。見たこともない、大人の顔であった。
それから、一年後。奉公に出たっきり、エルマーは二度とユミルの待つ孤児院には戻ってこなかったのだ。
赤毛の少年は、金色の二つ眼で足元のそれを見つめていた。
ああ、これはこの世の縮図だ、己の末路だ。
不意に頭によぎったその思考は、少年の中で外れかけていた箍を容易く取り払った。
南国、カストール。その美しい街並みから、天国に最も近い至上の楽園などと呼ばれているらしい。
小耳に挟んだときは、噴飯して転げ回るところだった。己からしてみれば、ここは汚い街以外の評価はない。それだけ、少年は様々なものを見てきた。金色の二つ眼で、酸いも甘いも全て。
この至上の楽園と謳う街で育った彼は、達観していた。己の目で見た真実しか信じず、そして飢えていた。
常に行き場のない憤りを腹に抱えている状態だ。怒りや憤りは、内側から湧き上がってくる。己の小さな体じゃ、覆せない現状。そして、力のなさを自覚して、卑屈になっているだけという事実。
大人からしてみれば、ただの反抗期で片付けられてしまうだろう。だけど、少年はこんな世界で死にたくはなかった。こんな、汚く、せせこましい、大人たちの都合ばかりの世界なんかでは。
ーあんたは幸せだね。お金持ちに名指しされたんだって?
ー読み書きを教えてあげよう。ほら、こちらにきて侍りなさい。
ーお前、駄賃をやるから靴を磨け。ほら、拾いなさい。どうせ僕にとっては端金だ。
ー可愛げがない。せっかく見目がいいのに、愛想がないのか。ほら、菓子をやるから笑ってみせなさい。
沢山の大人が孤児院にきた。己の好みの子供を選別し、金を払い、相性を見るために体を借りる。
人間なのに、犬猫のように振る舞わねばいけない、そんな世界がそこにあった。
決めつけられた幸せが、そこにあったのだ。
ああ、大人はきちんと見たくないところは目にしないのだなあと思ったのだ。
大人になり、視野も、見識も広がったとしても、閉ざされた子供たちに対する見聞は一向に広まらない。だって、孤児や奴隷はそういう仕事にしかありつけない。学に触れる機会は、買い手次第。己の人生を己の手で切り開くだなんて、そもそも思いつかないものたちばかりだ。
「クソッタレ。」
顔立ちの整った、赤毛の少年は紙幣を握りしめて吐き捨てた。
一日中酷使された自分の体の価値では、果実一つすら変えない。クソッタレ以外の何ものでもない人生だ。
赤毛の少年は、孤児だ。生まれたときから親の顔なんか知らなかった。孤児院のクソジジイは、年嵩や見目がある程度育った孤児を金で貸し出して私腹を肥やしている。
ベッドもある、飯もある、それが上等だというのなら、生活に目を向けろと言いたい。
赤毛の少年には、同じ時期に入所した幼なじみがいた。女みたいな顔をした雀斑顔のそいつは、ことあるごとに問題を起こす少年を窘めた。
「赤毛、また買い手を殴ったんだって!?お前が問題を起こすから、同室の僕がジジイに怒られたじゃんか!」
「殴ってねえ、手があたったんだ。」
「ああ言えばこう言う!お前っていつもそうだ!」
頬を膨らまして、そんなことをいう。少年はユミルという名前だ。物心つく頃から当たり前のように隣にいた、自分と同じ古参。
ユミルも少年同様名前なんてなかったが、自分で名前をつけたと言っていた。その名が女につける名前だとは気づいていない。それでも、赤毛の少年は少しだけ感心したのだ。
名前とは親につけられるものだけを言うのではないと、彼を通して教えてもらったからだ。
「せめえ屋敷だった。だからちょっと手を上げただけでもあたっちまう。」
「お前ね、あの屋敷のどこが狭いのさ、ここに住んでる十人の子供全員が、駆け回ったってぶつかりゃしない敷地だよ!」
赤毛の少年が買われた屋敷の主人は、ユミルの言った通り、広大な土地をもつ資産家であった。しかし、柔和そうな見た目に反して、その実読み書きを教えることを奉仕の一環だと曰い、何人もの孤児を食い散らかしてきた。
その事実を知って、大人しくしろというのがそもそもに無理な話なのだ。だから殴った。しかし、それが測らずとも己が嫌っている孤児院のガキどもの仇のようになるのは大変にいただけなかったが。
事実を知らぬユミルが、頑なな赤毛の少年を見て溜息を吐いた。
「赤毛、考え方を変えてみなよ。鼻につく相手にお前って言われちゃうのも、周りの仲間がお前を遠巻きに見るのも、全部お前に名前がないからだよ。」
「必要ねえ。お前みてえに頭良くねえし、名前なんてどっからつけんのかもしらねえもん。」
「なんだっていいんだよ。僕なんか、響きで決めちゃったし。」
「ああ、そう。」
興味もなさそうに適当に流す少年を見つめる。
ユミルは知っていた。本当は名前なんて関係はない。みんな赤毛を怖がってるだけだ。人間らしくない金色の目と、属性魔法はからきしの癖に、まだ未成熟の体で使いこなす無属性魔法。
赤毛は魔の子に違いない。そうやって、みんながみんな遠巻きにする。それがユミルは嫌だった。
いつも、少し離れた位置で違う見方をする。そんな赤毛の少年を線の外側に押し出した集団心理は簡単で、怖いからこっち来ないで。ただそれだけである。
同じじゃないから、怖い。何を考えているかわからない。そういう囁きは幾度となく耳にしている。わかろうとしてないのはどっちだと、ユミルは思っていた。
「隣人を愛せよっていうだろ!」
「顔もしれねえのに愛を囁やけるか。」
「…たしかに、」
「そこいらで読んだ安っぽい言葉で俺を諭そうとすんなっての。」
「じゃあ、赤毛はどうしたいのさ。」
「俺はここから出たい。」
風が吹いた。木っ端が足もとをくすぐるかのように流れていく。
ユミルはぽかんと口を開けて、数度瞬きをした。そして、諭すようにゆっくりと言葉を選びながら、赤毛の少年を嗜める。
「ここで過ごしたら、時期に働き口が見つかる。僕らはここで待つだけでいいんだよ?御主人様が見つかったら、後は安泰じゃないか。お金だって稼げる。」
「それがいやだ。俺はここの暮らしが嫌いだ。此処まで育ててもらったのはありがてえよ。感謝してる、だけどよ、俺は外に出たい。」
「お外は、だって、仕事の時か大人と一緒じゃないとでちゃだめだっていってたじゃん!ジジイが!」
「それさ。その常識だって、誰が決めたんだよ。」
「だから、それはジジイが…」
「そのジジイは、王様よりえらいのかよ。」
不貞腐れたように赤毛が言った。
赤毛の少年の言葉に、ユミルは唇を噤む。育ててくれたから偉いんじゃない、としか言い返せなかったが、確かにこの国の王様というわけでもない。
たった一言の投げやりの言葉で、自分の考え方が変わってしまうような気がした。
もう外は暗くなってくるから、そろそろ孤児院に戻らなきゃいけない。それなのに、眼の前の赤毛は、奉公から帰ってきたっきり胡座をかいたまま動こうとしない。まるで夜になるのを待っているみたいだった。
ユミルは、なんだそれ。と思ったが、考えてみればそうなのだ。ここでの常識は、孤児院を取り仕切る男の常識。狭い世界での規律。皆が疑わずに守るもの。
王様なんて雲の上過ぎて想像もつかないから、目先の偉い人を勝手に決めて飼育されているにすぎない。ここは、そういうところだ。
「こんなとこで語れる夢なんかどこにもねえよ。」
「夢?赤毛は夢がほしいの?」
「…うるせえな。わりいかよ。」
「うそ、お前にそんな可愛いところがあるだなんて。」
赤毛の少年は、ユミルの指摘にじんわりと頬を染めた。今更になって、なんだかとてつもなく恥ずかしいことを言ってしまったかのような気がしたのだ。
それでも、赤毛の少年はここから出たい。外に出るのが夢。だなんて、どこぞの姫様かと思うから、自分のために生きることを夢とした。明確なものではない。だから、まずはその第一歩を踏み出して、ここから逃げ出すことができたのなら、また次の夢をきちんと考えたい。
具体的なものはいらない、多分、衝動的に動くことになりそうだから、具体的な夢を持つとそれが枷になって行動に移せなくなる。
子供ながらにそんなドライな考え方をしているのは、全部この国のせいだ。
赤毛の少年が、黙りこくる。また何かを考え込む様子を見て、ユミルは門限に間に合わないことを確信した。
溜め息を吐いて、隣に腰掛ける。
「僕もさ、まだ決まってない。夢。でもよく考えたらさ、たしかに赤毛の言う通りかもな。」
ユミルは、納得したように頷く。そんなユミルの様子を、赤毛の少年は怪訝そうな顔で見つめ返した。
だって、ユミルたち孤児は、奉公に出てから世界を知るのだ。普段はこの孤児院から半径数十メートルの世界で生活をしている。そして、ある日突然体を貸し出されるのだ。
貸し出される体と引き換えに、孤児たちの懐に入るお金は少額で、正直貯蓄をするとしても微々たるものだ。それでも、前払い分は孤児院のジジイが受け取っているので、それで生活ができている。これが当たり前、決められたルーティーン。何も考えずに、惰性だけでも暮らしていける生活のあり方。
「こんなんが普通じゃ、いけねえんだ。」
ポツリと呟かれた声は低い。もう何かを決意しているかのような声色だった。
「ならさ、外の世界に行くなら尚更名前は必要だと思うけど。」
「…だから、つけ方わかんねえし。」
「あ、お前もしかしてずっと名無しだったのって、そういう理由?」
「ちげえ。お前って言われるから、別に困らなかっただけだ。」
「なら、この国をでて大人になるなら、必要でしょ。」
赤毛の少年が黙りこくる。ユミルは、頭がいいくせに、こういうところは頭が回らないのかと、チグハグな少年に少しだけ笑う。
「なんでもいいんだよ。例えば、印象に残ってるものとか、好きなものとか、僕みたいに響きとか。」
「印象に、残ってるもの…」
金眼が細まった。眉間に皺がより、珍しく逡巡しているようだった。
黙っていると、やはり顔がいい。赤毛の血筋はカストールに多いので、おそらくここの国出身の両親がいるのだろうと思ったが、金眼はここいらではお目にかかれない。ユミルは黙って悩む赤毛の少年の顔を見つめていると、その美しい金眼がゆっくりと開かれる。
「絵本に、あったんだあ。俺が持ってた絵本に出てきた、少年の名前。」
「絵本なんか、持ってたの?」
「もうねえ。金が欲しくて売っちまったから。」
「それって、お前を手放した両親からの贈り物だったんじゃないの…」
「てっきりそれ売って強く生きろってことだと思ったんだけどなあ。ちげえのか。」
なんの悪びれもせずに、あっけらかんとのたまう。ユミルは絶対に違うと思う。とは言えなかった。赤毛の性格が親譲りだとしたら、なきにしもあらずだと思ったからだ。
「エルマー。島を飛び出して、旅に出るガキの話だ。」
「あの、竜が出て来るお話の、エルマー?」
「なんかそんなんだった気がする。」
赤毛の少年は、カサついた指で靴先の汚れをゴシリと拭う。隠すように握り込まれた手のひらの内側には、いくつも剣だこができていた。夜、孤児院を抜け出して小型の魔物を倒しては小遣い稼ぎをしているのだ。そんなことバレたら大目玉を食らうから、ユミルにも言っていない。
「なんか平凡。」
「いいんだよ、平凡で。埋もれる方が好き勝手生きられるだろ。」
平凡の方が、この国を出て普通でいられる気がした。
「人間になりてえ。」
「今だって人間だよ、エルマー。」
「人間じゃねえよ。ユミル。金で買われてるうちは、人権なんてねえんだ。」
エルマーと言ったユミルの言葉に無言で返した少年は、ゆっくりと立ち上がると、尻についた草を払う。
あたりはゆっくりと夜に染まっていった。少しだけ風が強い。夜に吹く潮風の匂いだけは、嫌いじゃなかった。
この国を出たとして、エルマーは戻ってくるのだろうか。ユミルは立ち上がったエルマーを無言で見上げると、そっと片手を伸ばした。
普段なら、絶対に手を貸さない。赤毛、もといエルマーはそういう奴だ。孤児院で一番小さな子が転んでも、黙って通り過ぎるタイプ。だから、ユミルは自分の中で賭けをした。
差し出した手が握り返されなかったら、いつものエルマーだ。きっと、国を出ていっても戻ってくる。
差し出した手が握り返されて、引っぱり上げられたら戻ってこない。それは、ユミルの知っているエルマーじゃないからだ。
暇つぶし程度のくだらない賭け。多分、そんなことをユミルが考えているとか知ったら、エルマーはきっと無言で舌打ちをするんだろうな。そんなことを考える。途端にユミルは馬鹿馬鹿しくなってしまい、こんなくだらない賭けはやめようと手をひこうとして、できなかった。
「え。」
「なんだよ。」
ユミルの小さな手に、エルマーの手が重なっていた。柔らかな自分の掌とは違う、無骨で、少しだけごつりとした掌が、しっかりと握り返す。そして、ぐい、と引っ張られた。
ユミルの瞳に、エルマーの顔が映る。見たこともない、大人の顔であった。
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