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ヤンキー、お山の総大将に拾われる2-お騒がせ若天狗は白兎にご執心-
馬頭と鐘楼と地獄の手綱 1
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「いい加減にしてくれよ爺さんよぉ~~~!!」
獄都の隠された場所、つまり獄卒の出入りする地獄の、禍津神や力の強い妖かしを幽閉するその場所に、馬頭の悲鳴混じりの声が響いた。
「ふむ、」
「ふむじゃねえんだよお~~お家返してやんなさいよお~~もお~~!!!」
岩屋戸の外で、禍津神として幽閉されていた鐘楼はというと、その元々の気性の穏やかさ…といっても当社比で、というか獄卒の管理する妖かしの中で、が前提につくが、まあとにかく扱いやすさが群を抜き、本人も反省していることだから、地獄の中では比較的自由に過ごさせてやればいいんじゃない?といった閻魔様の恩赦もあって、なんとも自由きままに過ごしていた。
「だからって悲鳴鳥捕まえちまうのは腕白過ぎるだろぉ!!」
「いやしかしな、我は此奴を害さぬが此奴は我の睡眠の質を下げるだろう。」
「いや現に害してる奴が何を言う!!」
グゲェ!という耳障りな悲鳴鳥の声がする。鐘楼いわく、獄卒が合間を見てこちらに話をしに来るのに、こいつが邪魔をして話に集中できないのが常々腹立たしかったという。
「これ、暴れるな。お前のその鳴き声は持って生まれたものだろうから、それを否定するつもりなどは毛頭ない。しかしな、人が話をしているときにこうして水を差しに来るというのは如何なものか。おまえ、そういうことばかりしておると、嫌悪されてしまうぞ。」
「クケェエエエ」
「喧しい。同意にしろ、もうすこし距離感を把握して声の大きさを絞りなさい。なに?今迄そんなことは言われたことがないと。そうか、お前も誰からも指摘されずにいたとは寂しいものだなあ。」
「ケェェエエェェ」
「か、会話してる…」
鐘楼の腕の中で、首を固定され暴れていた悲鳴鳥に滾々と諭すその姿を見て、馬頭はなるほどと思った。近頃なりたての獄卒が己の仕事の悩みやらを鐘楼にしている姿を見かけることが多く、馬頭はこちら側に介入をするなと窘めにきたのであった。そうしたら鐘楼が悲鳴鳥を小脇に抱えているものだから、馬頭は己の職務を忘れて悲鳴を上げたのである。
「それだよそれぇ!!」
「それとは。」
「その口調で若い奴らの懐に入りやがって!閻魔様がお前の自由を許しても、俺の目の黒いうちはお前を見張るからなぁ!!」
「ふむ。」
鐘楼はというと、馬頭の言葉を聞いた後に腕の中の悲鳴鳥と顔を見合わせる。溜息をひとつ。腕から開放してやったのだが、悲鳴鳥は逃げることなく横に侍るようにして尻を落ち着ける。
鐘楼はその羽根を愛でるように撫でてやると、岩屋戸の入り口に胡座をかいて、馬頭を見上げる。
「なるほど。馬頭は閻魔様よりも偉いのか。」
「はあ!?」
「おや、ちがうのか。しかし、閻魔様の決め事を反故にするのだろう。しかも、我と此奴の目の前で胸を張って吠える。」
猛禽のような悲鳴鳥の瞳が、ぎょろりと馬頭を見つめる。お前、そんな小さな声だせるのかと思わずには思わずには居られぬような、喉を鳴らすような音を出して見つめてくるのだ。
「しかしなあ、お前も聞き及んでおるだろうが。我は日がな一日のんびりと過ごさせてもらっておる。我に時間を割くなどお前の仕事の支障しかないぞ。」
「あ、あくまで私情で監視しやる!!閻魔様は関係ねえからな!」
「うむ、お前は背丈があるなあ。済まないが首が痛いから座ってくれないか。」
「あ、はい。」
馬頭が鐘楼に言われて腰を落ち着ける。にこにこ顔の好々爺然とした雰囲気に流されたのだ。鐘楼は胡座をかいて、悲鳴鳥を引き寄せると膝に乗せた。犬猫のような扱いを受けても気にせずに、まるで卵を温めるかのように鐘楼の足を温める。鐘楼の黒髪と片目の赤い瞳も相まってその美しい顔立ちが怪しく馬頭の目に映る。腹に力を入れて己を立て直すと、馬頭の気合とは裏腹に鐘楼は間延びした声で言った。
「はて、それで何の話だったかな。」
「おい爺さん!お前の若いものへの振る舞いについての話だ!」
「おお、そうだった。お前が我を個人的に思ってくれているとか、そういう話だったなあ。」
「いやそれだとまるで俺がお前を」
「うむ、我は禍津神だから、他者からの好意というものには飢えておる。お前の好意は嬉しいよ、ありがとう。」
「ど、どういたしまし、ちげえ!!!」
「ええ、違うのか。それはあれだな、少しだけ寂しいものさな。」
ケェ、と足の間の悲鳴鳥が伺うように鐘楼を見上げる。お前はいつから手懐けられたのだと言いたいことは山ほどあるが、寂しそうな顔をする鐘楼に、こちらに来たときの面影をみた。
たしか、生前に縁があったものを手に掛けたとか言っていたか。鐘楼は禍津神だ、人への恨みをつのらせて穢をまとってしまった。己の見目も厭わずに接してくれたそのものは、鐘楼が知り合いだということに気が付かなかったという。其れでも、醜い己をただの妖かしとして扱ってくれたことが余程嬉しかったらしい。そばを離れたくなくて、己の懐にしまい込もうとしたときに穢を移した。
「我は、不器用だからなあ。お前に手を伸ばしたら呪われてしまうやもしれぬ。その距離感が程よいのかもな。」
「おまえ、そんな、そんなことっ」
「構わぬよ、我も勘違いしたくはないしなあ。あの子のことも、いまだ忘れられぬ。我はあの子の優しさにまた触れたいが、天狗がなあ。」
「いやお前実は反省してねえな!?」
馬頭が少しでも哀れみに負けて優しい言葉をかけてやろうとしたらこれである。あの若天狗がおっかないとは琥珀のことだろう。鐘楼は琥珀によってお縄になったのだ。出会う順番が違ったらと宣ってはいるが、鐘楼の愛情は重すぎる。
「反省?しておるよ。ここは飯もうまいし人も多いしなあ。お陰様で御嶽山に隠れていた頃よりも余程過ごしやすい。」
「お前、何羽伸ばしちゃってんだ。言っておくがお前は閻魔様の恩赦で」
「聞き飽きた。流石に一度で覚えられぬ程俺も耄碌はしてないよ。ここに連れてきてくれてありがとう。惜しむらくは暇を持て余すくらいか。」
そういえば牛頭が仕事を見に来ないかと言っていたが、どうなったかな。鐘楼の言葉に馬頭がぱかりと口を開く。聞き及んでいない、何だその話。まさか此奴で足りぬ人手を補えということか?馬頭は呑気に飯はまだかと宣う鐘楼に頭を抱えた。こいつがここに来てから半年ほど経つが、頭を抱えぬ日はなかった。
結局、その日は馬頭も諦めたというか、まあ鐘楼の言葉の真偽を確かめるというか、牛頭の兄者に会いに行くと言ってその場を辞した。断固決して撤退ではない。
「ああ、言った。言ったなあ。あれだ、お前も聞き及んでいるだろう。あの、ほら、野良上がりの。」
「野良上がりじゃございんせん。神気剥奪されんした狐でございんしょう?」
「そうだ、それ。波旬の縄張りに残ることを許可したけど、またなんか企ててるみてえでよ。」
狢としけこんでいた所に顔を出したのは悪いと思うが、同じ男同士だから気にするなと懐の広さを見せるのはそこじゃないだろうと思う。
「兄者、狢が怖いから制止を覚えてくんねえか。」
「おや、あんさんには常識がありんしたか。」
「ひぇ…」
馬頭の背後で恐ろしいほどの狢の苛立ちが突き刺さる。朝から鐘楼の所に行く前に、事の真偽を確かめるために牛頭の塒に顔を出したのだ。入ってこいというから入ったら、牛頭の牛頭が狢の中に入っていたところであった。何を言っているかわからないだろうが、馬頭も何を言っているかわからない。ただ口をあんぐり開けた瞬間に狢の棘付きの棍棒をぶん投げられたので、初めてヒヒンと鳴いてしまった。
「泣きたい。」
「おや、馬って涙が流せるんでありんすか。それは初耳。」
「狢ァ、弟泣かせんなって。」
煙草をふかした牛頭が、あられもない姿の狢の腰を抱いて宥める。背後から首をかられる亡者の気分を身内のせいで味わうだなんて思わなかった。壁に突き刺さった棍棒を横目で見やる。
「主様にでりかしいとやらがないのはあちきも存じていんす。天嘉殿への酒の肴がまた一つ増えただけでありんすねえ。」
「おめえは外来語が好きだなあ。なんだそのでりかきいって」
「かきいではなくかしい。ああもう、本題に入りんしょう。」
狢の言うでりかしいはわからないが、天嘉が口にする外来語は大体侮蔑が含まれているのは存じている。馬頭は疲れた顔で溜息を吐くと、そのまま二人に向き直ろうとして狢に殴られた。やはり素肌のときは見られたくないらしい。牛頭のくゆらせる紫煙が慰めるように馬頭に寄り添う。
「鐘楼はよう、禍津神で力もあるし、気立てもいいだろう。」
「気立てもいいとは?」
牛頭の言葉に、食い気味に狢が噛み付いた。番ってからは乳繰り合うにしても人目を忍ばないのはどうかと思う。馬頭の苦労を誰かわかってほしいと切に願う。
「あに嫉妬してんだ狢、俺にゃお前しかいねえってしってるだろう。」
「あん、調子がいいったら。」
「ここに俺もいるんですけどおお!!!」
ヒヒン、二度目の雄叫びである。牛頭はケタケタと笑うと、むすくれている狢の腹に腕を回す。
「別にどってこたねえよ。単純に調子こいてる饒河にお仕置きしてくんねえかって頼んだだけさ。あいつ、地獄なんて怖くねえといいやがる。獄都の一部しか存じ上げねえからそんなこと言いやがんだ。舐められてたまっかよ。」
「あちきがでてもかまいんせんがね、間夫がこれだもんで。」
くすりと笑った狢の伸びた黒髪に牛頭が口付ける。番ってからは、狢に他の雄の匂いがつくのは嫌らしい。馬頭は別個だがなとは言われたが、馬頭は狢が怖いので遠慮なくその他と一括にはしてほしいと思っている。
「好いた男の頼みでありんす、馬頭。がんばんな。」
「え、待って嫌な予感。」
「お前さ、鐘楼つれて椎葉山行ってこいよ。饒河迎えに。」
「ええええええええ!!!!!!」
牛頭の頼み事は大抵は面倒事だ。むしろ、兄弟盃を交わしてからは悪路を辿っている。感謝はしている。馬頭は牛頭が無茶ばかり言うので、それに対応する柔軟性だって身につけられた。いまや獄都の牛頭馬頭ときいて知らぬものはいないまでに成長を遂げたのは、ひとえに頭が切れる牛頭について回り、岡っ引きをしていたからだ。
「一個聞くけど、鐘楼は手伝いだけだよな!?」
「鐘楼次第じゃねえか?」
「無法地帯じゃねえか!」
牛頭に手綱を握られるのは大好きだが、己が禍津神の手綱を握るのは願い下げである。しかしながら、牛頭の思いつきを振り払ってまで我を通したことはない。馬頭は牛頭によって離された手綱を己で持ちながら、鐘楼の手綱も握らねばならぬのだ。なんだそれ地獄か。戦慄く馬頭の姿なんぞ歯牙にもかけぬつれぬ兄弟は、あとは宜しくと宣った。
獄都の隠された場所、つまり獄卒の出入りする地獄の、禍津神や力の強い妖かしを幽閉するその場所に、馬頭の悲鳴混じりの声が響いた。
「ふむ、」
「ふむじゃねえんだよお~~お家返してやんなさいよお~~もお~~!!!」
岩屋戸の外で、禍津神として幽閉されていた鐘楼はというと、その元々の気性の穏やかさ…といっても当社比で、というか獄卒の管理する妖かしの中で、が前提につくが、まあとにかく扱いやすさが群を抜き、本人も反省していることだから、地獄の中では比較的自由に過ごさせてやればいいんじゃない?といった閻魔様の恩赦もあって、なんとも自由きままに過ごしていた。
「だからって悲鳴鳥捕まえちまうのは腕白過ぎるだろぉ!!」
「いやしかしな、我は此奴を害さぬが此奴は我の睡眠の質を下げるだろう。」
「いや現に害してる奴が何を言う!!」
グゲェ!という耳障りな悲鳴鳥の声がする。鐘楼いわく、獄卒が合間を見てこちらに話をしに来るのに、こいつが邪魔をして話に集中できないのが常々腹立たしかったという。
「これ、暴れるな。お前のその鳴き声は持って生まれたものだろうから、それを否定するつもりなどは毛頭ない。しかしな、人が話をしているときにこうして水を差しに来るというのは如何なものか。おまえ、そういうことばかりしておると、嫌悪されてしまうぞ。」
「クケェエエエ」
「喧しい。同意にしろ、もうすこし距離感を把握して声の大きさを絞りなさい。なに?今迄そんなことは言われたことがないと。そうか、お前も誰からも指摘されずにいたとは寂しいものだなあ。」
「ケェェエエェェ」
「か、会話してる…」
鐘楼の腕の中で、首を固定され暴れていた悲鳴鳥に滾々と諭すその姿を見て、馬頭はなるほどと思った。近頃なりたての獄卒が己の仕事の悩みやらを鐘楼にしている姿を見かけることが多く、馬頭はこちら側に介入をするなと窘めにきたのであった。そうしたら鐘楼が悲鳴鳥を小脇に抱えているものだから、馬頭は己の職務を忘れて悲鳴を上げたのである。
「それだよそれぇ!!」
「それとは。」
「その口調で若い奴らの懐に入りやがって!閻魔様がお前の自由を許しても、俺の目の黒いうちはお前を見張るからなぁ!!」
「ふむ。」
鐘楼はというと、馬頭の言葉を聞いた後に腕の中の悲鳴鳥と顔を見合わせる。溜息をひとつ。腕から開放してやったのだが、悲鳴鳥は逃げることなく横に侍るようにして尻を落ち着ける。
鐘楼はその羽根を愛でるように撫でてやると、岩屋戸の入り口に胡座をかいて、馬頭を見上げる。
「なるほど。馬頭は閻魔様よりも偉いのか。」
「はあ!?」
「おや、ちがうのか。しかし、閻魔様の決め事を反故にするのだろう。しかも、我と此奴の目の前で胸を張って吠える。」
猛禽のような悲鳴鳥の瞳が、ぎょろりと馬頭を見つめる。お前、そんな小さな声だせるのかと思わずには思わずには居られぬような、喉を鳴らすような音を出して見つめてくるのだ。
「しかしなあ、お前も聞き及んでおるだろうが。我は日がな一日のんびりと過ごさせてもらっておる。我に時間を割くなどお前の仕事の支障しかないぞ。」
「あ、あくまで私情で監視しやる!!閻魔様は関係ねえからな!」
「うむ、お前は背丈があるなあ。済まないが首が痛いから座ってくれないか。」
「あ、はい。」
馬頭が鐘楼に言われて腰を落ち着ける。にこにこ顔の好々爺然とした雰囲気に流されたのだ。鐘楼は胡座をかいて、悲鳴鳥を引き寄せると膝に乗せた。犬猫のような扱いを受けても気にせずに、まるで卵を温めるかのように鐘楼の足を温める。鐘楼の黒髪と片目の赤い瞳も相まってその美しい顔立ちが怪しく馬頭の目に映る。腹に力を入れて己を立て直すと、馬頭の気合とは裏腹に鐘楼は間延びした声で言った。
「はて、それで何の話だったかな。」
「おい爺さん!お前の若いものへの振る舞いについての話だ!」
「おお、そうだった。お前が我を個人的に思ってくれているとか、そういう話だったなあ。」
「いやそれだとまるで俺がお前を」
「うむ、我は禍津神だから、他者からの好意というものには飢えておる。お前の好意は嬉しいよ、ありがとう。」
「ど、どういたしまし、ちげえ!!!」
「ええ、違うのか。それはあれだな、少しだけ寂しいものさな。」
ケェ、と足の間の悲鳴鳥が伺うように鐘楼を見上げる。お前はいつから手懐けられたのだと言いたいことは山ほどあるが、寂しそうな顔をする鐘楼に、こちらに来たときの面影をみた。
たしか、生前に縁があったものを手に掛けたとか言っていたか。鐘楼は禍津神だ、人への恨みをつのらせて穢をまとってしまった。己の見目も厭わずに接してくれたそのものは、鐘楼が知り合いだということに気が付かなかったという。其れでも、醜い己をただの妖かしとして扱ってくれたことが余程嬉しかったらしい。そばを離れたくなくて、己の懐にしまい込もうとしたときに穢を移した。
「我は、不器用だからなあ。お前に手を伸ばしたら呪われてしまうやもしれぬ。その距離感が程よいのかもな。」
「おまえ、そんな、そんなことっ」
「構わぬよ、我も勘違いしたくはないしなあ。あの子のことも、いまだ忘れられぬ。我はあの子の優しさにまた触れたいが、天狗がなあ。」
「いやお前実は反省してねえな!?」
馬頭が少しでも哀れみに負けて優しい言葉をかけてやろうとしたらこれである。あの若天狗がおっかないとは琥珀のことだろう。鐘楼は琥珀によってお縄になったのだ。出会う順番が違ったらと宣ってはいるが、鐘楼の愛情は重すぎる。
「反省?しておるよ。ここは飯もうまいし人も多いしなあ。お陰様で御嶽山に隠れていた頃よりも余程過ごしやすい。」
「お前、何羽伸ばしちゃってんだ。言っておくがお前は閻魔様の恩赦で」
「聞き飽きた。流石に一度で覚えられぬ程俺も耄碌はしてないよ。ここに連れてきてくれてありがとう。惜しむらくは暇を持て余すくらいか。」
そういえば牛頭が仕事を見に来ないかと言っていたが、どうなったかな。鐘楼の言葉に馬頭がぱかりと口を開く。聞き及んでいない、何だその話。まさか此奴で足りぬ人手を補えということか?馬頭は呑気に飯はまだかと宣う鐘楼に頭を抱えた。こいつがここに来てから半年ほど経つが、頭を抱えぬ日はなかった。
結局、その日は馬頭も諦めたというか、まあ鐘楼の言葉の真偽を確かめるというか、牛頭の兄者に会いに行くと言ってその場を辞した。断固決して撤退ではない。
「ああ、言った。言ったなあ。あれだ、お前も聞き及んでいるだろう。あの、ほら、野良上がりの。」
「野良上がりじゃございんせん。神気剥奪されんした狐でございんしょう?」
「そうだ、それ。波旬の縄張りに残ることを許可したけど、またなんか企ててるみてえでよ。」
狢としけこんでいた所に顔を出したのは悪いと思うが、同じ男同士だから気にするなと懐の広さを見せるのはそこじゃないだろうと思う。
「兄者、狢が怖いから制止を覚えてくんねえか。」
「おや、あんさんには常識がありんしたか。」
「ひぇ…」
馬頭の背後で恐ろしいほどの狢の苛立ちが突き刺さる。朝から鐘楼の所に行く前に、事の真偽を確かめるために牛頭の塒に顔を出したのだ。入ってこいというから入ったら、牛頭の牛頭が狢の中に入っていたところであった。何を言っているかわからないだろうが、馬頭も何を言っているかわからない。ただ口をあんぐり開けた瞬間に狢の棘付きの棍棒をぶん投げられたので、初めてヒヒンと鳴いてしまった。
「泣きたい。」
「おや、馬って涙が流せるんでありんすか。それは初耳。」
「狢ァ、弟泣かせんなって。」
煙草をふかした牛頭が、あられもない姿の狢の腰を抱いて宥める。背後から首をかられる亡者の気分を身内のせいで味わうだなんて思わなかった。壁に突き刺さった棍棒を横目で見やる。
「主様にでりかしいとやらがないのはあちきも存じていんす。天嘉殿への酒の肴がまた一つ増えただけでありんすねえ。」
「おめえは外来語が好きだなあ。なんだそのでりかきいって」
「かきいではなくかしい。ああもう、本題に入りんしょう。」
狢の言うでりかしいはわからないが、天嘉が口にする外来語は大体侮蔑が含まれているのは存じている。馬頭は疲れた顔で溜息を吐くと、そのまま二人に向き直ろうとして狢に殴られた。やはり素肌のときは見られたくないらしい。牛頭のくゆらせる紫煙が慰めるように馬頭に寄り添う。
「鐘楼はよう、禍津神で力もあるし、気立てもいいだろう。」
「気立てもいいとは?」
牛頭の言葉に、食い気味に狢が噛み付いた。番ってからは乳繰り合うにしても人目を忍ばないのはどうかと思う。馬頭の苦労を誰かわかってほしいと切に願う。
「あに嫉妬してんだ狢、俺にゃお前しかいねえってしってるだろう。」
「あん、調子がいいったら。」
「ここに俺もいるんですけどおお!!!」
ヒヒン、二度目の雄叫びである。牛頭はケタケタと笑うと、むすくれている狢の腹に腕を回す。
「別にどってこたねえよ。単純に調子こいてる饒河にお仕置きしてくんねえかって頼んだだけさ。あいつ、地獄なんて怖くねえといいやがる。獄都の一部しか存じ上げねえからそんなこと言いやがんだ。舐められてたまっかよ。」
「あちきがでてもかまいんせんがね、間夫がこれだもんで。」
くすりと笑った狢の伸びた黒髪に牛頭が口付ける。番ってからは、狢に他の雄の匂いがつくのは嫌らしい。馬頭は別個だがなとは言われたが、馬頭は狢が怖いので遠慮なくその他と一括にはしてほしいと思っている。
「好いた男の頼みでありんす、馬頭。がんばんな。」
「え、待って嫌な予感。」
「お前さ、鐘楼つれて椎葉山行ってこいよ。饒河迎えに。」
「ええええええええ!!!!!!」
牛頭の頼み事は大抵は面倒事だ。むしろ、兄弟盃を交わしてからは悪路を辿っている。感謝はしている。馬頭は牛頭が無茶ばかり言うので、それに対応する柔軟性だって身につけられた。いまや獄都の牛頭馬頭ときいて知らぬものはいないまでに成長を遂げたのは、ひとえに頭が切れる牛頭について回り、岡っ引きをしていたからだ。
「一個聞くけど、鐘楼は手伝いだけだよな!?」
「鐘楼次第じゃねえか?」
「無法地帯じゃねえか!」
牛頭に手綱を握られるのは大好きだが、己が禍津神の手綱を握るのは願い下げである。しかしながら、牛頭の思いつきを振り払ってまで我を通したことはない。馬頭は牛頭によって離された手綱を己で持ちながら、鐘楼の手綱も握らねばならぬのだ。なんだそれ地獄か。戦慄く馬頭の姿なんぞ歯牙にもかけぬつれぬ兄弟は、あとは宜しくと宣った。
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