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こっち向いて、運命。ー半神騎士と猪突猛進男子が幸せになるまでのお話ー
ロンの話
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ロンの死ぬ前の古い記憶は、大好きな人の腕の中で泣いたこと。それは、嬉しくて泣いたというわけではなくて、己の無力さに嘆いたといったほうが、正しいのかもしれない。
ガリャテアの半魔は、半魔だけど概念だ。その形を人にしたのは、少しでも人に近づきたかったから。その望みを、赦してくれたのは祝福があったからだ。
ーだめぇ!めっ!
ロンに祝福をくれたその人は、辿々しい言葉でそんなことを言ったのだ。それが、一番はじめの強い記憶。温かくてふわふわで、小汚いロンのことを抱きしめて、情けなく泣く前世の自分とご主人を繋いでくれたのだ。
さらさらと羽根ペンを走らせる。羽根ペンは羽根ペンでも、これもガリャテアの能力のひとつなので、実在はしないのだが。
ロンは、頭の中に渦巻く記憶や事象を、魔力で作り出した大きな本に書き溜めていた。手を広げ、小さく唇を動かして、ロンの腕ほどありそうなペンを作り出して速記する。
こうしないと、ロンの頭の中は収まりがつかない。だって、これはロンの払った代償だからだ。
マダムヘレナに引き上げられ、その身に宿した祝福のおかげで、現世に転生することができた。息子のそばに行きたい。そう願って生まれ変わった。ロンの記した膨大な記憶は、そのまま神々の本棚に収められる。それは人が起こした様々な事象が記された本棚で、それらはロンのような特殊な者たちの細やかな傍観によって書き記されてきた。寄り添う者たちは、こうして身に前世の記憶を宿す。
まあ、ダラスやルキーノのように例外を除く場合もあるが。
「ふう…」
ロンのため息と共に、大きな本とペンが光となって消えていく。ここ一週間に起こった出来事を書き終えたのだ。
ポケットからロリポップを取り出して、口に咥える。その後倒れ込むようにべしょりとベッドに横になれば、片目しかない眉間をグイグイと揉んだ。
「疲れちゃったよおーー!あーーー!!っ、よし、ご飯食べに行こ。」
一人の部屋で一頻り喚いた後、ムクリと起き上がった。ドン!と隣の壁が叩かれたので、五月蝿かったらしい。
部屋を出て、さて昼餉は何にしようかしらと食堂に向かっていたロンであったが、ピタリと動きを止めた後、通り過ぎた窓辺に縋り付くように慌てて駆け戻る。びたりと窓に張り付いて階下を見下す奇行に、すれ違った者たちはぎょっとしたように振り返る。
「は、は、あっ!!わああっ!」
急にテンションを上げて地団駄を踏んだかとおもえば、思い切り窓を開け放って足をかけた。
「おい!危ないからやめなさい!」
「全然危なくないし!」
「あ、お、おい!」
慌てて止めに入ろうとした城勤めのものの手をすりぬけて、ロンが四階の窓から飛び降りた。
その場にいたものは、大騒ぎである。だって、この高さから飛び降りたらまず無事ではいられない。ロンの着ていた白衣がふわりと風で膨らみ、声をかけた者は慌てて窓から顔を出す。
「ナナシーーーー!!!」
空中で、ロンが酷く嬉しそうな声で名前を叫んだ。大の字になるように全身で喜びを表現しながら落ちてくるものだから、エルマーに会いに来たナナシは目を丸くして驚いた。
「ロン!!あっ、」
「ギャワ、ワワワッ!!ママーーーーーーーー!!!!」
「へぇ!?」
だっ、と突如として駆け出したギンイロが、素っ頓狂な声をあげて空を駆け上がった。何故かママと叫びながら飛び出したナナシの大きな精霊が、その背にロンの体を器用に乗せると、そのまま駆け下りるかのようにナナシの側に降り立った。
「ママ!!ママママママァーーー!!」
「わぁあ、あは、あははっ!わかった!わかったってば!」
キュウンキュウンと鼻を鳴らしながら、ヒョロっこいロンの体を押し倒してすり寄る。白衣は土に塗れ、大きな化け物のようなナナシの精霊に顔を押し付けられ、端から見れば襲われているようにも見えるのに、ロンは全く臆せずにワシャワシャとその毛並みを摩擦する。
「ギンイロ!ロン、起きれないからおちつこ?」
「ウウ、キュゥ、ウーーー!」
「はわ…わんわんみたい…」
千切れんばかりにブォンブォンと尾を振り回し、鼻を鳴らしてはボロボロと泣く姿に、ナナシはどうしようと困り顔だ。こんなに感情が高ぶって、犬みたいになってしまった姿を初めて見たのだ。髪をボサボサにさせ、白衣を土汚れで汚したロンが、ムクリと起き上がる。そのまま腹に顔を押し付けるギンイロの毛並みを整えてやるように、ベロリと舐め上げた。
「うんうん、お待たせしたね。いいこいいこ、母はお前に会いたかったよ。本当は、結婚式のあとにこうしてあげたかったんだけど。」
「へ、母…?」
キョトンとしたナナシが、ロンの顔を見る。どうやら騒ぎを聞きつけたらしいエルマーが、足音やかましく駆けつけると、ロンの姿を見てぎょっとした。
「ギンイロ!なにトチ狂ったことしてんだあ!ナナシの言うこときけ!」
「える、」
「エルマー!!なんもないよ!!僕は襲われてない!」
焦った顔で止めに入ろうとしたエルマーを、ギンイロに抱きつきながらロンが止めた。怪訝そうな顔で二人を見れば、ギンイロが大きな1つ目が溶けるんではないかという位に泣いている。ロンの服を、今度は大粒の涙で濡らすその様子に、エルマーはナナシに説明を求めるように目配せをしたのだが、困り顔で首を傾げられるだけであった。
土まみれなのに、何故かふくふくとご機嫌なロンの表情は、まるで我が子を甘やかすかのように柔らかな瞳であった。ぺしょ、のギンイロの目元を舐める。エルマーが怪訝そうな目で見た後、漸く落ち着いたらしいギンイロが、キュウンと鼻を鳴らしてロンを見上げた。
「ナナシは御使い様でしょ。あの時から僕は知っていたよ。」
毛並みを優しく撫でながら、一つしかない赤い瞳でナナシを見上げる。
「ロン?」
いつものロンと、なんだか少しだけ違う様子に、ナナシは目を瞬かせた。エルマーはというと、どうやらこの一件で野次馬が集まってきたことに気がついたらしい。がしりとロンの襟首を掴んでナナシを小脇に抱えると、移動すんぞと慌ただしく詰め所に場所を移した。
珈琲のふくよかな香りが漂っている。部下に言って持ってこさせたそれをロンと自分の前に置き、ナナシの前には砂糖入りのミルクコーヒーを置いた。説明をしろと言わんばかりにエルマーがロンの事を見つめるのだ。まったく、ナナシが絡むと既知でも途端に顔の治安が悪くなる。
それがなんだか面白くて、さてどこから話そうかしらと珈琲を一口飲む。そうしてロンの中で話したいことが纏まると、膝に顎を乗せてきたギンイロの頭を撫でた。
「えーっと、まずざっくり言うと、僕には前世の記憶があるんだよねえ。」
「あ?それってあれか、ダラスとかルキーノのみてえなやつか。」
「そうそう!あの二人がいるから説明が楽でいいよねえ。」
なはは!と元気よく宣う。ナナシはもくりと出されたクッキーを齧ると、金色のお目々でじっと見つめる。その瞳の色がとろみを帯びた光沢を放つ。ロンの魔力の波長を見ているようだった。
「ママったって、ギンイロのママはよ、」
わけが分からん。そんな具合にエルマーがごちた。ギンイロのママ、スーマはセルケトとメアリーが使役していた魔物に殺されたのだ。そう言いかけて、ロンの顔を見る。
赤い片目で柔らかくほほえみ、ニンマリと笑う口元にはギザ齒。よくよく見れば、埃被ったかのようなその髪の色には確かに既知感があった。
「…いやいやいや。」
「ナナシ、エルマーから送られたネックレスはまだあるのかい?」
「あ、…うん、…じじがつくってくれたやつ…。」
頭が痛そうに首を振るエルマーをよそに、ナナシは小さな金属の擦れ合う音と共に、首から下げた濃い青の魔石を取り出した。
「うん、チベット爺は僕の番だよ。といっても、勝手にそう思ってたのは僕だけだけどね。」
「ほ、ほんとに…スーマ…?」
ナナシの声が微かに震えた。もう随分と昔に別れたのだ。二度目の再開は亡骸だった。ナナシもエルマーも、それをよく覚えている。あれは、酷く辛い記憶として深く刻み込まれているからだ。
エルマーはしばらく黙りこくっていた。ロンの言葉の真偽を確かめるように見つめながらも、唐突な唇の乾きに言葉が発せずにいたのだ。
「…なんで、もっと早く言わなかった。」
「信じてくれるの?」
「ナナシの顔見りゃ、否定なんかできねえだろう。」
そう言ってエルマーが振り向いたナナシは、鼻の頭を赤くして小さく吐息を震わせていた。
ナナシの小さな後悔は、まだ残っていた。スーマもじじも、何も知らないナナシが巻き込んだようなものだったからだ。無知は罪だ。それがどんなに愚かなことかを、ナナシは身を持って体験している。再び会えたことの喜びと、罪悪感が一緒くたになってナナシの目から涙がこぼれる。
「す、スーマ…ご、ごめ、」
「あーーー!!!い、いいのいいの!記憶があるだけで、もう別物みたいなものだしさ!!」
ナナシの涙にギョッとしたロンが、大慌てで宥める。エルマーがナナシの肩を抱き寄せると、その顳顬にに唇を寄せた。
「俺らは、あの日に囚われてんだ。」
肩を抱き、嗚咽を漏らすナナシの小さな頭を肩口に埋めさせた。ロンは眉を下げながら微笑んだ。二人の言葉に、少なからず喜びを感じてしまったと言うのは間違いだろう。それでも、ロンの中の過去のスーマが、自分達の死に大切な二人が心を砕いてくれたというその事実が、なんだか嬉しかったのだ。
瞼を閉じる。毛むくじゃらの情けない姿だったスーマが、ぴぎりと笑った気がした。
「前の僕はさ、ありゃあもう定めだったと思うんだよね。」
「おい、別に変に慰めなくたって、」
「うん、違うよ。」
エルマーの言葉にゆるゆると首を振る。ロンはゆっくりと語り出した。己の死に様を定めと言った理由を。そして、こうして巡り合わせた一つの輪廻は作られたものだと。
「ガリャテアの半魔。これが一つのキーワードだね。」
呪いと祝福をその身に宿すガリャテア。それは魔物だと言われているが、聖属性を持っている。ガリャテアとは、マダムヘレナの眷属であり、神々の備忘録のようなものだ。本性は薄いモヤのような形態で、強いて言えば本を模ることが多い。
ロンは、いいや、スーマは。死んだ後にマダムヘレナの元に召し上げられた。それがイビルアイのままだとしたら、不可能だっただろう。それを可能にしたのが、ナナシの祝福だ。
「ナナシは僕を抱きしめてくれただろう。そして、遠く離れていても思ってくれただろう。」
「それは、だってナナシにとって、スーマはお友達だから…」
「うん、だから僕も、それが嬉しくてついていきたかったんだあ。」
だけど、チベットの側にも居たかった。だからスーマはたくさんたくさん考えて、単性生殖でギンイロを産んだ。自分よりも大きなギンイロが産まれたことに、スーマもチベットも大層驚いた。そして何より、精霊になった後でも。イビルアイの特性である単性生殖は可能なのだという新たな発見もした。
「ま、魔物上がりの精霊が僕しかいなかったし、比べられるのもないんだけどね。」
でも、会いたかったから、託したんだよ。そう言って、話を続ける。息子の独り立ちもそうだが、たくさんの愛情を込めて、じじと世話をしたギンイロを、ナナシの友達として連れて行って欲しかったのだ。スーマはじじの側にいたい。だけど、ナナシにも会いたい。なら、自分の息子がナナシの手助けをして、成長をして、そうしてまたナナシと引き合わせてくれるかもしれないという未来に期待をして、送り出した。
結局、スーマとじじは三人に会う前に己の生を終えてしまったが。
「ギンイロ、いい名前もらったね。たくさん愛されてよかったね。」
「ママ、ジジモイル?」
「じじはいないよ、だけどね、僕がじじの番いだって勝手に思ってれば、ヘレナ様が取り計らってくれるかもしれないね。」
そう言って、鼻先に口付ける。何十年もの長い時を経て、こうして息子にまた会えたのだ。スーマの思った通り、しかも、人の形をもらったので、たくさん愛してあげられるのだ。こんな幸せなことって、ない。
「なあ、俺たちは近くにいただろう。なんでもっと早く言わなかったんだ。」
「だってエルマー全然ナナシもギンイロも城に連れてきてくんないし!」
「はあ?それがこれとどう関係、」
「そういう契約…?」
ポツリとナナシが言葉を漏らす。ロンはそれが正解と言わんばかりに頷いた。
「一つ、自分からは行動しないこと。二つ、自然な形で関わりを持つこと、三つ、見守りに徹すること。」
それが、マダムヘレナとのお約束。御使いの祝福があったとしてもそれに驕ることは決してないように。己が認識されて、親しくなるまでは側には侍らない。それが、契約の内容だった。
「エルマーが僕を認識して、さらにサディンも僕を知ることとなった。御使いの力を受け継いだ二人がこうして僕のことを認知してくれたから、もうこの契約は満了、晴れてこうして愛息子に直接会うことを許されたってわけ。」
「そんなの、ナナシがいいようって言えばいいと思うですね…」
「うん、それが一番最強なんだけどね、でもそれを直接僕がお願いしちゃうと契約破ることになっちゃうし。」
まあ、今もグレーゾーンではあるんだけど。と言ってはいるが、こうしてナナシが既にロンを認識しているのでチャラである。
「んで、契約破ったら何になるってんだあ。」
「ああ、寿命が縮む。」
「ええーーーー!!!!」
さっと顔を青褪めさせたナナシが、悲鳴混じりの声を上げた。そんなこと言ったってマジである。かなり危ない綱渡をしたのだ。ロンはナナシのそばにギンイロがいると予想して、あえてそのチャンスを逃すまいと飛び降りた。ナナシはロンを知っているし、残るはギンイロだけだった。幸い愛息子はすぐにロンの波長を認識して、前世と同じように飛んできてくれた。
「な、ナナシヘレナにダメですようってする!」
「わーーー!!それはやめて!!御使いの不興かう方がヘレナ様は堕ちちゃうから!!!!」
ヘレナが堕ちる、というか落ち込むと、アンデット系の魔物が湧きやすくなるのだと説明をすると、エルマーは渋い顔をして、マジのヤンデレじゃねえかと宣った。
「心象がそのまんまこの世界にもたらされるのは、ナナシ達が一番わかってるじゃない。まあ、僕にはガリャテアとしての役目もあるしね、これからの関わりに遠慮はしないけどいいよね。」
「まあ、それは構わねえけどよ…。」
「エルマーお願い!月一でもいいから息子と合わせてえ!」
「やめろその言い方ァ!!俺がクズみてえじゃねえか!ちょ、おま、や、やめっ!」
頼むよー!!と取りすがるロンに、ギンイロまでもがのしかかる。片側からの一方的な負荷に椅子が悲鳴をあげると、どしゃん!と床に共倒れてしまった。
「はわ…、ダメですよう!えるに乗っかるのは、一人ずつですからね!」
「な、ナナシ…多分、そうじゃねえ…」
うぐぇ、と腹の上にロンとギンイロを乗せたまま、エルマーが苦しそうな悲鳴をあげる。ロンとギンイロはキョトリと互いの一つ目で顔を見合うと、はあい!といいこのお返事をしたのであった。
ガリャテアの半魔は、半魔だけど概念だ。その形を人にしたのは、少しでも人に近づきたかったから。その望みを、赦してくれたのは祝福があったからだ。
ーだめぇ!めっ!
ロンに祝福をくれたその人は、辿々しい言葉でそんなことを言ったのだ。それが、一番はじめの強い記憶。温かくてふわふわで、小汚いロンのことを抱きしめて、情けなく泣く前世の自分とご主人を繋いでくれたのだ。
さらさらと羽根ペンを走らせる。羽根ペンは羽根ペンでも、これもガリャテアの能力のひとつなので、実在はしないのだが。
ロンは、頭の中に渦巻く記憶や事象を、魔力で作り出した大きな本に書き溜めていた。手を広げ、小さく唇を動かして、ロンの腕ほどありそうなペンを作り出して速記する。
こうしないと、ロンの頭の中は収まりがつかない。だって、これはロンの払った代償だからだ。
マダムヘレナに引き上げられ、その身に宿した祝福のおかげで、現世に転生することができた。息子のそばに行きたい。そう願って生まれ変わった。ロンの記した膨大な記憶は、そのまま神々の本棚に収められる。それは人が起こした様々な事象が記された本棚で、それらはロンのような特殊な者たちの細やかな傍観によって書き記されてきた。寄り添う者たちは、こうして身に前世の記憶を宿す。
まあ、ダラスやルキーノのように例外を除く場合もあるが。
「ふう…」
ロンのため息と共に、大きな本とペンが光となって消えていく。ここ一週間に起こった出来事を書き終えたのだ。
ポケットからロリポップを取り出して、口に咥える。その後倒れ込むようにべしょりとベッドに横になれば、片目しかない眉間をグイグイと揉んだ。
「疲れちゃったよおーー!あーーー!!っ、よし、ご飯食べに行こ。」
一人の部屋で一頻り喚いた後、ムクリと起き上がった。ドン!と隣の壁が叩かれたので、五月蝿かったらしい。
部屋を出て、さて昼餉は何にしようかしらと食堂に向かっていたロンであったが、ピタリと動きを止めた後、通り過ぎた窓辺に縋り付くように慌てて駆け戻る。びたりと窓に張り付いて階下を見下す奇行に、すれ違った者たちはぎょっとしたように振り返る。
「は、は、あっ!!わああっ!」
急にテンションを上げて地団駄を踏んだかとおもえば、思い切り窓を開け放って足をかけた。
「おい!危ないからやめなさい!」
「全然危なくないし!」
「あ、お、おい!」
慌てて止めに入ろうとした城勤めのものの手をすりぬけて、ロンが四階の窓から飛び降りた。
その場にいたものは、大騒ぎである。だって、この高さから飛び降りたらまず無事ではいられない。ロンの着ていた白衣がふわりと風で膨らみ、声をかけた者は慌てて窓から顔を出す。
「ナナシーーーー!!!」
空中で、ロンが酷く嬉しそうな声で名前を叫んだ。大の字になるように全身で喜びを表現しながら落ちてくるものだから、エルマーに会いに来たナナシは目を丸くして驚いた。
「ロン!!あっ、」
「ギャワ、ワワワッ!!ママーーーーーーーー!!!!」
「へぇ!?」
だっ、と突如として駆け出したギンイロが、素っ頓狂な声をあげて空を駆け上がった。何故かママと叫びながら飛び出したナナシの大きな精霊が、その背にロンの体を器用に乗せると、そのまま駆け下りるかのようにナナシの側に降り立った。
「ママ!!ママママママァーーー!!」
「わぁあ、あは、あははっ!わかった!わかったってば!」
キュウンキュウンと鼻を鳴らしながら、ヒョロっこいロンの体を押し倒してすり寄る。白衣は土に塗れ、大きな化け物のようなナナシの精霊に顔を押し付けられ、端から見れば襲われているようにも見えるのに、ロンは全く臆せずにワシャワシャとその毛並みを摩擦する。
「ギンイロ!ロン、起きれないからおちつこ?」
「ウウ、キュゥ、ウーーー!」
「はわ…わんわんみたい…」
千切れんばかりにブォンブォンと尾を振り回し、鼻を鳴らしてはボロボロと泣く姿に、ナナシはどうしようと困り顔だ。こんなに感情が高ぶって、犬みたいになってしまった姿を初めて見たのだ。髪をボサボサにさせ、白衣を土汚れで汚したロンが、ムクリと起き上がる。そのまま腹に顔を押し付けるギンイロの毛並みを整えてやるように、ベロリと舐め上げた。
「うんうん、お待たせしたね。いいこいいこ、母はお前に会いたかったよ。本当は、結婚式のあとにこうしてあげたかったんだけど。」
「へ、母…?」
キョトンとしたナナシが、ロンの顔を見る。どうやら騒ぎを聞きつけたらしいエルマーが、足音やかましく駆けつけると、ロンの姿を見てぎょっとした。
「ギンイロ!なにトチ狂ったことしてんだあ!ナナシの言うこときけ!」
「える、」
「エルマー!!なんもないよ!!僕は襲われてない!」
焦った顔で止めに入ろうとしたエルマーを、ギンイロに抱きつきながらロンが止めた。怪訝そうな顔で二人を見れば、ギンイロが大きな1つ目が溶けるんではないかという位に泣いている。ロンの服を、今度は大粒の涙で濡らすその様子に、エルマーはナナシに説明を求めるように目配せをしたのだが、困り顔で首を傾げられるだけであった。
土まみれなのに、何故かふくふくとご機嫌なロンの表情は、まるで我が子を甘やかすかのように柔らかな瞳であった。ぺしょ、のギンイロの目元を舐める。エルマーが怪訝そうな目で見た後、漸く落ち着いたらしいギンイロが、キュウンと鼻を鳴らしてロンを見上げた。
「ナナシは御使い様でしょ。あの時から僕は知っていたよ。」
毛並みを優しく撫でながら、一つしかない赤い瞳でナナシを見上げる。
「ロン?」
いつものロンと、なんだか少しだけ違う様子に、ナナシは目を瞬かせた。エルマーはというと、どうやらこの一件で野次馬が集まってきたことに気がついたらしい。がしりとロンの襟首を掴んでナナシを小脇に抱えると、移動すんぞと慌ただしく詰め所に場所を移した。
珈琲のふくよかな香りが漂っている。部下に言って持ってこさせたそれをロンと自分の前に置き、ナナシの前には砂糖入りのミルクコーヒーを置いた。説明をしろと言わんばかりにエルマーがロンの事を見つめるのだ。まったく、ナナシが絡むと既知でも途端に顔の治安が悪くなる。
それがなんだか面白くて、さてどこから話そうかしらと珈琲を一口飲む。そうしてロンの中で話したいことが纏まると、膝に顎を乗せてきたギンイロの頭を撫でた。
「えーっと、まずざっくり言うと、僕には前世の記憶があるんだよねえ。」
「あ?それってあれか、ダラスとかルキーノのみてえなやつか。」
「そうそう!あの二人がいるから説明が楽でいいよねえ。」
なはは!と元気よく宣う。ナナシはもくりと出されたクッキーを齧ると、金色のお目々でじっと見つめる。その瞳の色がとろみを帯びた光沢を放つ。ロンの魔力の波長を見ているようだった。
「ママったって、ギンイロのママはよ、」
わけが分からん。そんな具合にエルマーがごちた。ギンイロのママ、スーマはセルケトとメアリーが使役していた魔物に殺されたのだ。そう言いかけて、ロンの顔を見る。
赤い片目で柔らかくほほえみ、ニンマリと笑う口元にはギザ齒。よくよく見れば、埃被ったかのようなその髪の色には確かに既知感があった。
「…いやいやいや。」
「ナナシ、エルマーから送られたネックレスはまだあるのかい?」
「あ、…うん、…じじがつくってくれたやつ…。」
頭が痛そうに首を振るエルマーをよそに、ナナシは小さな金属の擦れ合う音と共に、首から下げた濃い青の魔石を取り出した。
「うん、チベット爺は僕の番だよ。といっても、勝手にそう思ってたのは僕だけだけどね。」
「ほ、ほんとに…スーマ…?」
ナナシの声が微かに震えた。もう随分と昔に別れたのだ。二度目の再開は亡骸だった。ナナシもエルマーも、それをよく覚えている。あれは、酷く辛い記憶として深く刻み込まれているからだ。
エルマーはしばらく黙りこくっていた。ロンの言葉の真偽を確かめるように見つめながらも、唐突な唇の乾きに言葉が発せずにいたのだ。
「…なんで、もっと早く言わなかった。」
「信じてくれるの?」
「ナナシの顔見りゃ、否定なんかできねえだろう。」
そう言ってエルマーが振り向いたナナシは、鼻の頭を赤くして小さく吐息を震わせていた。
ナナシの小さな後悔は、まだ残っていた。スーマもじじも、何も知らないナナシが巻き込んだようなものだったからだ。無知は罪だ。それがどんなに愚かなことかを、ナナシは身を持って体験している。再び会えたことの喜びと、罪悪感が一緒くたになってナナシの目から涙がこぼれる。
「す、スーマ…ご、ごめ、」
「あーーー!!!い、いいのいいの!記憶があるだけで、もう別物みたいなものだしさ!!」
ナナシの涙にギョッとしたロンが、大慌てで宥める。エルマーがナナシの肩を抱き寄せると、その顳顬にに唇を寄せた。
「俺らは、あの日に囚われてんだ。」
肩を抱き、嗚咽を漏らすナナシの小さな頭を肩口に埋めさせた。ロンは眉を下げながら微笑んだ。二人の言葉に、少なからず喜びを感じてしまったと言うのは間違いだろう。それでも、ロンの中の過去のスーマが、自分達の死に大切な二人が心を砕いてくれたというその事実が、なんだか嬉しかったのだ。
瞼を閉じる。毛むくじゃらの情けない姿だったスーマが、ぴぎりと笑った気がした。
「前の僕はさ、ありゃあもう定めだったと思うんだよね。」
「おい、別に変に慰めなくたって、」
「うん、違うよ。」
エルマーの言葉にゆるゆると首を振る。ロンはゆっくりと語り出した。己の死に様を定めと言った理由を。そして、こうして巡り合わせた一つの輪廻は作られたものだと。
「ガリャテアの半魔。これが一つのキーワードだね。」
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ロンは、いいや、スーマは。死んだ後にマダムヘレナの元に召し上げられた。それがイビルアイのままだとしたら、不可能だっただろう。それを可能にしたのが、ナナシの祝福だ。
「ナナシは僕を抱きしめてくれただろう。そして、遠く離れていても思ってくれただろう。」
「それは、だってナナシにとって、スーマはお友達だから…」
「うん、だから僕も、それが嬉しくてついていきたかったんだあ。」
だけど、チベットの側にも居たかった。だからスーマはたくさんたくさん考えて、単性生殖でギンイロを産んだ。自分よりも大きなギンイロが産まれたことに、スーマもチベットも大層驚いた。そして何より、精霊になった後でも。イビルアイの特性である単性生殖は可能なのだという新たな発見もした。
「ま、魔物上がりの精霊が僕しかいなかったし、比べられるのもないんだけどね。」
でも、会いたかったから、託したんだよ。そう言って、話を続ける。息子の独り立ちもそうだが、たくさんの愛情を込めて、じじと世話をしたギンイロを、ナナシの友達として連れて行って欲しかったのだ。スーマはじじの側にいたい。だけど、ナナシにも会いたい。なら、自分の息子がナナシの手助けをして、成長をして、そうしてまたナナシと引き合わせてくれるかもしれないという未来に期待をして、送り出した。
結局、スーマとじじは三人に会う前に己の生を終えてしまったが。
「ギンイロ、いい名前もらったね。たくさん愛されてよかったね。」
「ママ、ジジモイル?」
「じじはいないよ、だけどね、僕がじじの番いだって勝手に思ってれば、ヘレナ様が取り計らってくれるかもしれないね。」
そう言って、鼻先に口付ける。何十年もの長い時を経て、こうして息子にまた会えたのだ。スーマの思った通り、しかも、人の形をもらったので、たくさん愛してあげられるのだ。こんな幸せなことって、ない。
「なあ、俺たちは近くにいただろう。なんでもっと早く言わなかったんだ。」
「だってエルマー全然ナナシもギンイロも城に連れてきてくんないし!」
「はあ?それがこれとどう関係、」
「そういう契約…?」
ポツリとナナシが言葉を漏らす。ロンはそれが正解と言わんばかりに頷いた。
「一つ、自分からは行動しないこと。二つ、自然な形で関わりを持つこと、三つ、見守りに徹すること。」
それが、マダムヘレナとのお約束。御使いの祝福があったとしてもそれに驕ることは決してないように。己が認識されて、親しくなるまでは側には侍らない。それが、契約の内容だった。
「エルマーが僕を認識して、さらにサディンも僕を知ることとなった。御使いの力を受け継いだ二人がこうして僕のことを認知してくれたから、もうこの契約は満了、晴れてこうして愛息子に直接会うことを許されたってわけ。」
「そんなの、ナナシがいいようって言えばいいと思うですね…」
「うん、それが一番最強なんだけどね、でもそれを直接僕がお願いしちゃうと契約破ることになっちゃうし。」
まあ、今もグレーゾーンではあるんだけど。と言ってはいるが、こうしてナナシが既にロンを認識しているのでチャラである。
「んで、契約破ったら何になるってんだあ。」
「ああ、寿命が縮む。」
「ええーーーー!!!!」
さっと顔を青褪めさせたナナシが、悲鳴混じりの声を上げた。そんなこと言ったってマジである。かなり危ない綱渡をしたのだ。ロンはナナシのそばにギンイロがいると予想して、あえてそのチャンスを逃すまいと飛び降りた。ナナシはロンを知っているし、残るはギンイロだけだった。幸い愛息子はすぐにロンの波長を認識して、前世と同じように飛んできてくれた。
「な、ナナシヘレナにダメですようってする!」
「わーーー!!それはやめて!!御使いの不興かう方がヘレナ様は堕ちちゃうから!!!!」
ヘレナが堕ちる、というか落ち込むと、アンデット系の魔物が湧きやすくなるのだと説明をすると、エルマーは渋い顔をして、マジのヤンデレじゃねえかと宣った。
「心象がそのまんまこの世界にもたらされるのは、ナナシ達が一番わかってるじゃない。まあ、僕にはガリャテアとしての役目もあるしね、これからの関わりに遠慮はしないけどいいよね。」
「まあ、それは構わねえけどよ…。」
「エルマーお願い!月一でもいいから息子と合わせてえ!」
「やめろその言い方ァ!!俺がクズみてえじゃねえか!ちょ、おま、や、やめっ!」
頼むよー!!と取りすがるロンに、ギンイロまでもがのしかかる。片側からの一方的な負荷に椅子が悲鳴をあげると、どしゃん!と床に共倒れてしまった。
「はわ…、ダメですよう!えるに乗っかるのは、一人ずつですからね!」
「な、ナナシ…多分、そうじゃねえ…」
うぐぇ、と腹の上にロンとギンイロを乗せたまま、エルマーが苦しそうな悲鳴をあげる。ロンとギンイロはキョトリと互いの一つ目で顔を見合うと、はあい!といいこのお返事をしたのであった。
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