[改稿版]これは百貨店で働く俺の話なんだけど

だいきち

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二章 百貨店にくる顧客に情緒をかき乱される俺の話なんだけど。(大林梓編)

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 別に、どうこうなろうと思っていたわけではないが、己のあの時の反応からして期待してしまったのは事実なようだった。
 なんで、あの男の前では女のように恥じらいなんか持ってしまったのだろう。大林は、あの後逃げるように榊原の家を出て行ってしまったから、一人で食事をとったであろう榊原が、一体どんな顔をしていたのかは見ていない。
 我ながらずるいと思う。逃げ癖がまた出たのだ。それでも、榊原の前に行きたくないと思っている割には、こうして今日も休日に来てしまっているのだから、始末に追えない。

「せっかく買ったエプロンが無駄になるのもな。」

 などと、とってつけたような言い訳で誤魔化す。
 スマートフォンにきた榊原のメッセージを見た時は、体温が二度ほど下がった。てっきり、怒られるのだろうかと思ったのだ。しかし、蓋を開けてみれば、次回の晩御飯のリクエストと、大林の体調を心配するような内容であった。
 その中には、突然体に触れてしまったことの詫びも書かれていた。誘った、というか煽ってしまった自覚はある。詫びなど大林には受け取る資格はないというのに、榊原は気分が乗らないなら休みにしてくれて構わないと、そんな気遣いまでしてくれるのだ。
 スマートフォンを握る手が、じんわりと汗ばんだ。少しだけ体温が高い気がするのは、緊張しているからだろうか。向こうは申し訳なく思っていても、大林からしてみたらこちらの方が合わす顔がないのである。
 カサリとビニール袋が音を立てる。今日の晩ご飯のリクエストは肉じゃがだ。榊原の仕事が十八時に終わるので、それまでに作ってさっさとお暇しよう。
 そう、心に決めてマンションに入る。榊原の部屋の鍵を差し込んで扉を開けば、大林は小さくお邪魔しますと言って室内に入った。

「おかえり。」

 リビングから珈琲の香りがすると思ったら、榊原はマグカップ片手にひょこりと顔を出した。持ってもみない登場に絶句すると、大林は脱ぎかけの靴の踵に指を引っ掛けたまま、ポカンとした顔で見つめ返してしまった。


「え、なんで、仕事は?」
「ああ、今日はテレワークなんだ。また随分と早く来たね、真面目なんだなあ。」
「え、て、テレワーク!?」

 なにそれ聞いてない。大林の動揺は顔色でわかったらしい。榊原はひょいと床に放置された買い物袋を手に持つと、ビニール袋から絹さやを取り出しながら、のほほんと宣った。

「そう、今朝出社しようと思ったら思い出してね。うちの部署、テレワークになる社員はくじ引き制なんだ。それで、今日は僕が当たったってわけ。」
「それ、いつから決まってたの。」
「三日くらい前なんだけど、すっかり忘れてた。だから見てこれ、ネクタイ締めてないだけの状態。」
「…報連相しらねえの、俺昼の分の材料買ってきてねえよ。」

 いつもと変わらない榊原の様子に、肩の力が抜ける。大林は、絹さやを珍しそうに見ている榊原の横を通ると、リビングのテーブルに荷物を置いた。チラリと横目に視線を向ければ、窓側に簡易的な机を設置してテレワークをしてたらしい。差し込む太陽光が、ノートパソコンを柔らかく照らしていた。
 あそこならキッチンが映ることもないだろう。大林は鞄から取り出したエプロンを身に纏うと、早速袋の中身を改める。

「ねえ大林くん、これなにに使うの。」
「肉じゃがに使うの。え、絹さや入れねえの?」
「わかんない。グリンピースは見たことあるけど。」
「グリンピースは知らないけど、俺は絹さや派。」

 まさかこんな詮無いことで話が広がるとは思わなかった。榊原は、肉じゃがでここまで違いがあるのは面白いねえなどと宣うと、大林の手に持っていた絹さやを手渡した。

「昼飯、簡単なものでいいならなんか作るけど、あ、鯖缶。」
「最近鯖缶が流行ってるらしいよ。ネットニュースの聞き齧りだけど。」
「ならチャーハンとつみれ汁ならどっちがいい?」
「鯖缶でつみれ汁って作れるの?」

 バコンと音をたてて開いた冷蔵庫に、綺麗に横並びにされた缶詰のうちの一つを手に取る。鯖缶が流行っているのは存じ上げなかったが、榊原も意外にネットニュースも見るのだなと思った。見ても、経済だの時事やら政治とかの、小難しい内容ばかりだと思っていた。
 榊原が反応をしたので、本日の昼はつみれ汁にしようかと決める。鯖缶をもう一缶使っていいのなら、チャーハンもできるだろうが。大林は鯖缶を三つ、縦に乗せて手に持つと、くるりと榊原に振り向いた。

「うん?ああ、それ三つ全部使っていいよ。」
「まだなんも言ってないのに。」
 
 使っていいなら使うけど。大林はなんとも言えない顔をしたかと思えば、再びキッチンの方へと引っ込んでいく。

 榊原は、その華奢な背を見送ると、椅子の背もたれに身を任せる。
 よかった、普通だ。顔を隠すようにして手のひらで顔を抑えると、ほ、と小さく吐息を吐き出した。嫌われたらどうしようと思って、ずっと気が気ではなかった。
 あの日、つい煽られて手荒な真似をしてしまった。そして泣かせてもしまった。声を上げるような泣き方ではなく、ただ一粒、思わず溢れてしまったかのような、静かな涙だった。

 今思い出しても、少し落ち込む。生娘のような反応をされて喜ぶどころか動揺してしまった。気持ちを切り替えるように珈琲を一口飲む。今日は晩御飯だけの予定だった為、昼飯作りは彼にとって約束の業務の範疇外である。片手間でもできる簡単な作業をしながら、物思いに耽る。
 今日、なんでこんなに早くきたのだろうか。榊原が帰るのは十八時だということは承知のはずである。キッチンからいい香りが漂ってきて、誘われるように大林を見る。
 細い腰が強調されるように、エプロンが腰回りを締め付けている。手際よく調理を始めている様子から、手慣れていることがわかる。
 この間は、彼が帰ってしまったから一人の食事となってしまったが、手料理は実に美味かった。きっと、一緒に食べれるのならもっと美味いだろう。視線に熱がこもってしまうのは自覚済みだ。榊原は気持ちを切り替えようと、再びキーボードに手を置く。朝イチの会議はもう済んだ。後は細々した仕事を終わらせれば、時間を作れる。
 晩ごはんまでは、ここにいてくれるだろうか。そんな、子供染みた愛着に苦笑いが浮かぶ。そして、再び珈琲を飲もうとして、ふと気がついた。
 榊原の頭の片隅に、一つのもしかしてが浮かび上がったのだ。

 大林が早く来た理由。もし、榊原が帰ってこないうちに晩御飯の支度をして、帰ってしまう心つもりだったら。そうだとしたら、大林は当然早くきて仕事を終わらせるだろう。交わした契約には、出迎えるなどという内容は入っていない。当然、すれ違いになる。やりとりはラインのみ、彼がいたとわかる痕跡は片付いた部屋と料理だけ。
 
 ただいまと言って、おかえりと返されなくてもいい。だけど、顔が見れないのは嫌だ。お店では見れない、榊原だけが知っている大林は、この部屋でしか見ることができないのだから。
 榊原は、自分の頭に浮かんだそれが正解のような気がした。だとすれば、すごく心の距離が遠くなってしまったかのようだ。
 胸の中に、小さな焦りが芽を出した。このままつまらない関係で終わらせたくはないと思うほど、榊原にとっての大林は、自分が素直になれる唯一の相手になってしまっていた。


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