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二章 百貨店にくる顧客に情緒をかき乱される俺の話なんだけど。(大林梓編)

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 警戒心を抱いていた大林の目の前で、榊原は獣の唸り声のような腹の音を響かせた。
 なんというか、気の抜けるような状況に、大林の警戒心が長く続くわけもなく、照れ臭そうに咳払いをした榊原の前に運ばれてきた注文品のカレーを見て、よかったら先に食べてくださいと促した。

「大林くんは、意外と可愛いものが好きなんだねえ。」
「……。」

 口端にカレーをくっつけた榊原が、微笑ましそうにオムライスの熱を冷ましていた大林を見て、そんなことを呟く。
 デリカシーがないのだろうか。むすりとした顔でチラリと見上げると、バクンと一口食べる。気を利かせて一番安いのにしてやったんですよ。と嫌味の一つでも言ってやろうかとも思ったが、一番安いのはペペロンチーノであったため、その言い訳も使えない。 
 大林はむぐむぐと口を動かしながら榊原を見上げると、指先で己の口端をつく。

「カレーついてる榊原さんに言われたくないです。」
「おや、久しぶりに食べるからつい。」
「そうすか…」

 榊原は照れる様子もなく、指先でカレーを拭うとペロリと舐めとる。じっとこちらの様子を見つめてくるので、一体なんだと思っていれば、どうやら榊原も子供舌らしい。ケチャップっていいよね。などと期待のこもった目で見つめてくる。いいよねってなんだ。

「…ひ、一口食べますか…。」
「いいの?」
「すんげー、ガン見してくるから食いたいのかなって。」
「僕のカレーもあげるね。」

 あ、その一口分残っているカレーは交渉用だったのか…。気の抜ける事実に大林が呆れたような目を向けると、皿をそっとすすめる。
 そんなに親しくもないやつに、なんで仕事でもないのに気配りをしなきゃいけないのだと諦観じみた表情で見つめ返せば、溜め息をつこうと薄く開いた口に、ズボりとスプーンを突っ込まれた。

「むぐっ」
「じゃ、オムライスいただきまーす。」
「………。」

 口元を押さえ、スパイスの効いたトマトベースのカレーを味わう。大林が負けたと思ったのは榊原に対する油断もだが、純粋にカレーが美味かったのもある。なんというか、この人は距離感の詰め方は雑すぎる。そんなことを思っても、性的に社交的な大林は身から出た錆で、そんな榊原のパーソナルスペースの詰め方も許してしまうしかないのだが。
 だって、あんた馴れ馴れしいんですよとか言ってみろ。尻に他人の棒突っ込んでいるやつに言われたくないとか言われたらぐうの音も出ない。

「次来たときはオムライスにしようかな。ねえ大林くん。」
「…ソウッスネ」
「大林くんは料理とかするの。」
「待って急にプライベート。」
「ええ、だって気になっちゃったんだもん。」
「もんとかいうな…」

 距離の詰め方が半端ないな。
 同じ思いでも、行動で詰められるのと言葉で詰められるのは随分と感覚が違うのだと初めて知った。
 そもそも大林は親しい間柄じゃないと自分のことをあまり話さない。今度こそ言い淀んでしまうと、榊原は何を思ったのか、飲み差しだった大林のコップに水を注いで、そっと渡してくれた。なんだその気遣い。

「あんま親しくないんで、そういうのはちょっと、」
「ええ、すんごい場面見せられたのに親しくない扱いされるのは寂しいな。」
「いやそれはあんたが勝手に、」
「ほら、あんたって言われるほど仲良くなったじゃない。」

 にっこりと微笑みかけられる。ゾッとするような誘導に、大林の薄れかけていた警戒心がゆっくりと顔を出す。上等な面構えに、巧みな話術。絶対にこの人カタギなんかじゃねえよとあらぬ想像を膨らませる。
 榊原の目が細まって、そっと大林の手を掴む。ごくりと喉を鳴らして身を固めると、榊原は自分の顔の使い方をわかっているかのように、そっと目を細めて見つめてくる。
 今の一瞬で、この場の主導権は榊原が握っているのだということが、より顕著になった。

「カっ」
「か?」

 カタギじゃないでしょあんた!と口をついて出そうになり、慌てて口を抑える。こんなこと言えば、自ら墓穴を掘るようなもんだ。大林は緊張した面持ちで、自分で口をついて出そうになった言葉を誤魔化そうと必死で思考を巡らせる。間髪入れずに何か言わなきゃという強迫観念のおかげで、さらに余計なことを言ってしまったが。

「彼女とかいるだろっ」
「彼女はいないよ。」
「………!!!」

 口を再び抑えると、がくりと俯いて己を責めた。手を握られたこの状況で、これはない。まるで榊原に対してなんらかの期待を向けてしまったかのように見えるではないか。大林は噴き上げる冷や汗をごまかすように、己の髪の毛を手櫛で意味もなく整えると、今陥ってしまった妙な間をありがたく利用して、気持ちを切り替えた。
 大丈夫、俺は尻軽だから、きっとノンケであろう榊原に対してビビらせることができるに違いない。本気を見せろ大林、この場を乗り切れ、ビッチの意地を見せろと己で自己暗示をかけると、深呼吸をしてから再び顔を上げた。
 今度は、俺がこの場の空気を握ってやる。静かなる主導権をかけての戦いの火蓋が、今切って落とされたわけである。

「こんな上等な男ほっとく女がいるだなんて、信じらんないな。」
「そんなふうに見えるのは、君がこのスーツを選んでくれたおかげかもしれないね。」

 にこりと微笑まれて、にこりと微笑み返す。やりづらいことこの上ない。少しも動揺しないなこの男と笑顔の裏側で、大林がのたうち回る羽目になった。負けてはいられない。大林はもう一度思考を切り替えると、再び榊原に向けて嫣然と微笑む。

「榊原さんて、なんの仕事してるんですか。」
「君がプライベートな部分を教えてくれるっていうんなら、僕も教えてあげてもいいかな。」
「はは、確かにそうですね。」

 そんな甘い声で囁くんじゃねえ。
 榊原の方が一枚も二枚も上手であった。大林は己の背後に、Your  Lossの文字が浮かび上がった気がした。こんなはずではなかった。無言で微笑むだけになってしまった大林を前に、榊原はゆっくりと口を開いた。

「彼女はね、いた時もあるんだけど。なんか違うって言われて振られちゃった。」
「なんか違うって?」
「そんなのボクが聞きたいよ、大林くん知らない?」
「し、知るわけねえ…」

 だよねえ。そんなことを言って、ワハハと笑う。なんとも掴み所のない男である。飄々と語る様子から困っていないことは見てとれるが、そんな理不尽な理由で振られておいて、よく起こらないものだと思った。大林なら、お前は何様だと言ってしまいそうである。まあ、女性相手だとまた違うかもしれないが。
 チラリと榊原を見る。ただカレーを食べるだけでも、雑誌のグラビアになってしまいそうなくらいに上等な男だ。しかも、今は自分が見立てたスーツを纏っている。
 上等な男に、上等なスーツというのは実にずるいと思う。大林は途中から榊原をそんな目で見ていることに気がつくと、慌てて思考を振り払うかのように、ブンブンと首を振る。
 これは負けではない、決して。渋い顔をして残りのオムライスをかき込めば、榊原は男らしい食べっぷりだねえとのほほんと宣った。




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