54 / 79
二章 百貨店にくる顧客に情緒をかき乱される俺の話なんだけど。(大林梓編)
9
しおりを挟む
家賃は可愛くないが、セキュリティがしっかりしていることと、好立地なのが決め手であったマンションを出て、目的地へと向かう。
ここへ住むメリットとしては、なんと言っても駅から近いこと。商業施設が近くにあるため、大体は事足りる。それにマンションの中には内科が入っているので、体調を崩してもすぐに病院に行くことができる。
そして、ここのマンションはフロントスタッフがいるので、たとえこのマンションから出てくるものがホームレスのような浮浪者じみた男でも、全くもって怪しまれる必要はない。まあ、変な目では見つめられるが。
ここは、身だしなみが最悪だとしても、ある程度の信用がなくては入居できないマンションだ。おかげさまで榊原は、虹色の眼鏡に毛玉だらけのスウェットでエントランスから出ても文句は言われない。どうやら仕事モードの時の榊原とは全くの別人だと思われているようだった。
それに気がついたのはつい最近で、おなじフロアに住んでいる未亡人から、弟さんとお住まいなんですか?などと聞かれたのだ。
榊原はなんのこっちゃと戦慄したが、どうやら話を聞く限りそれは休みの日の自分のことであった。
何かとアプローチの多い奥様である。これ幸いと便乗させてもらい、弟は在宅で仕事をしているんです。などと嘘八百をでっち上げた。それ以来家に突撃をしてくることはなくなった。榊原としても、持て余した熟女とは火遊びはしたくない。
しかし、自分のオンオフがメリハリがつきすぎているせいか、なんとも人の勘違いとは面白いものである。今日はスウェットで百貨店の紙袋を携えて帰ることになりそうだから、ますます私生活は謎に包まれた、いもしない弟の噂が広まるのだろう。
「なんだか面倒臭くなってきたなあ。」
ホームセンターで三百円という破格で売られていたサンダルを引きずるように歩きながら、榊原は百貨店を前に立ち竦んでいた。あれから電車に乗ってここまできただけでも、自分を褒めてやりたい。なんで面倒臭いかというと、試着がだるいのだ。榊原は尻ポケットから高級ブランドの財布を取り出すと、札入れのところに挟んでおいた、以前のオーダースーツの寸法のメモを取り出した。
着替えるのも面倒臭いので、もはやこのメモを渡して良きに計らってもらおう。そう決めると、再びサンダルを引きずるようにして百貨店の中に入った。目指すは紳士服売り場である。エレベーターガールが、もさい格好でエレベーターに乗り込んできた榊原にも変わらぬ笑みを浮かべてくれる。
やはり百貨店にきた以上は、お客さまは神様らしい。紳士服フロアでエレベーターが止まると、榊原はドアを開けて待ってくれたお姉さんにペコリとお辞儀をしてエレベーターの外に出る。
そのまま、目の前のブランドに真っ先に入れば、店頭スタッフはギョッとしたように二度見をしてきた。
「いらっしゃいませ。」
強いていうならマネキンがスーツを着ていたのが決め手だったのだが、どうやら冷やかしの客のように思われたのかもしれない。店頭には四人もスタッフがいるのに、元気よく声をかけてきてくれたのは、黒猫のような雰囲気の男性スタッフだけであった。
「お探しのものはお決まりでしょうか。」
「んー、」
耳心地の良い、構えてもいないであろう自然な声色で話かけられる。男性スタッフは榊原よりも小柄で、アシンメトリーに整えられた青みがかった黒髪がよく似合う、不思議な魅力のある青年だった。
榊原は少しだけ逡巡するかのように辺りを見回すと、手前にかかっていたグレーに上品なガンクラブチェック模様が織り込まれたスーツを手にした。
「これで。」
「ありがとうございます、ただいまご試着室に」
「試着なしで買うから、悪いんだけどこの寸法にあう在庫をお願いできるかな。」
「…へ、あ、ご、…少々お待ちください。」
榊原のぶっきらぼうな言葉に面食らったのか、目の前の青年は少しだけ動揺はしたが、さすがプロなだけあり、すぐさま切り替えてストックへと引っ込んでいった。サイズがなければ、あるものでいいか。そんなことを思いながら待っていれば、首からメジャーをかけた先ほどの青年が、いくつかスーツを持ってきた。
どうやら急ぎだということがわかったらしい。榊原が指定したスーツは在庫がなかったようだが、何も言わないでも寸法にあった似よりのスーツを持ってくるあたり仕事ができそうである。
「御用命の生地は在庫を切らしておりまして、代わりに寸法に合う似よりのものをお持ち致しましたので、ご確認ください。」
「ああ、せかしてごめんね。ありがとう。」
「とんでもありません。その、ジャケットのみでもお試しされませんか。」
「うーん…じゃあ、」
青年の言葉が聞こえなかったわけじゃないが、スウェットを脱ぐのが面倒くさい。榊原は適当なチーフとネクタイを数本選んで、濃いグレーの小紋柄のスーツの上にそれを乗せると、ポケットから出したクレジットカードをカウンターの上に置いた。
「大丈夫。これで一括でお願い。裾はシングルで仕上げてもらえるかな。」
「かしこまりました、一時間ほどお修理にはお時間を頂戴いたしますが、よろしいですか。」
「うん、いいよ。さっき渡した寸法でお願い。」
「かしこまりました。」
スーツの値段は気にはしていなかったが、どうやらグレードが一番高いものだったらしい。イタリア製のスーツは何着か持ってはいるが、袖のメーカータグを見つめていれば、そちらもきちんと外しておきますねと声をかけられた。
「ああ、ありがとう。使ったことのない生地だったから見ていただけだよ。」
「そうでしたか。お急ぎなようでしたら、ベントの仕付け糸もお取りたしましょうか。」
「お願い。」
差し出された修理伝票に名前と住所を記入し終えると、決済を済ませた。渡された青年の名刺には大林梓と書かれており、試着なしで購入したことで、何か問題が発生したときはいつでも連絡をくださいという念押しも含まっているよだった。律儀すぎる気もしたが、高い買い物なので、と言われて、それもそうかと納得した。
まだ若いだろうに、接客は申し分ないものであった。飛び込みで入ったとはいえ、いい店だなと思えたのはひとえに大林の力によるところが大きそうだ。
どうやら仕上がったら電話をしてくれるという約束もしてくれたので、甘えることにする。
普段自分自身が客先のことで頭がいっぱいになるほど気配りをするので、彼のお客さま第一主義の接客が少しばかしくすぐったい。業務外ではあまり他人に対して興味を持つことはないのだけど、チラりと見えた大林の耳に開けられたピアスホールの多さに少しだけ驚いた。
もしかしたら、このこには裏と面があるのかもしれない。自分と同じように。そう思うと、彼のオフはどんなものなのだろうと、榊原は少しだけ興味が湧いたのであった。
ここへ住むメリットとしては、なんと言っても駅から近いこと。商業施設が近くにあるため、大体は事足りる。それにマンションの中には内科が入っているので、体調を崩してもすぐに病院に行くことができる。
そして、ここのマンションはフロントスタッフがいるので、たとえこのマンションから出てくるものがホームレスのような浮浪者じみた男でも、全くもって怪しまれる必要はない。まあ、変な目では見つめられるが。
ここは、身だしなみが最悪だとしても、ある程度の信用がなくては入居できないマンションだ。おかげさまで榊原は、虹色の眼鏡に毛玉だらけのスウェットでエントランスから出ても文句は言われない。どうやら仕事モードの時の榊原とは全くの別人だと思われているようだった。
それに気がついたのはつい最近で、おなじフロアに住んでいる未亡人から、弟さんとお住まいなんですか?などと聞かれたのだ。
榊原はなんのこっちゃと戦慄したが、どうやら話を聞く限りそれは休みの日の自分のことであった。
何かとアプローチの多い奥様である。これ幸いと便乗させてもらい、弟は在宅で仕事をしているんです。などと嘘八百をでっち上げた。それ以来家に突撃をしてくることはなくなった。榊原としても、持て余した熟女とは火遊びはしたくない。
しかし、自分のオンオフがメリハリがつきすぎているせいか、なんとも人の勘違いとは面白いものである。今日はスウェットで百貨店の紙袋を携えて帰ることになりそうだから、ますます私生活は謎に包まれた、いもしない弟の噂が広まるのだろう。
「なんだか面倒臭くなってきたなあ。」
ホームセンターで三百円という破格で売られていたサンダルを引きずるように歩きながら、榊原は百貨店を前に立ち竦んでいた。あれから電車に乗ってここまできただけでも、自分を褒めてやりたい。なんで面倒臭いかというと、試着がだるいのだ。榊原は尻ポケットから高級ブランドの財布を取り出すと、札入れのところに挟んでおいた、以前のオーダースーツの寸法のメモを取り出した。
着替えるのも面倒臭いので、もはやこのメモを渡して良きに計らってもらおう。そう決めると、再びサンダルを引きずるようにして百貨店の中に入った。目指すは紳士服売り場である。エレベーターガールが、もさい格好でエレベーターに乗り込んできた榊原にも変わらぬ笑みを浮かべてくれる。
やはり百貨店にきた以上は、お客さまは神様らしい。紳士服フロアでエレベーターが止まると、榊原はドアを開けて待ってくれたお姉さんにペコリとお辞儀をしてエレベーターの外に出る。
そのまま、目の前のブランドに真っ先に入れば、店頭スタッフはギョッとしたように二度見をしてきた。
「いらっしゃいませ。」
強いていうならマネキンがスーツを着ていたのが決め手だったのだが、どうやら冷やかしの客のように思われたのかもしれない。店頭には四人もスタッフがいるのに、元気よく声をかけてきてくれたのは、黒猫のような雰囲気の男性スタッフだけであった。
「お探しのものはお決まりでしょうか。」
「んー、」
耳心地の良い、構えてもいないであろう自然な声色で話かけられる。男性スタッフは榊原よりも小柄で、アシンメトリーに整えられた青みがかった黒髪がよく似合う、不思議な魅力のある青年だった。
榊原は少しだけ逡巡するかのように辺りを見回すと、手前にかかっていたグレーに上品なガンクラブチェック模様が織り込まれたスーツを手にした。
「これで。」
「ありがとうございます、ただいまご試着室に」
「試着なしで買うから、悪いんだけどこの寸法にあう在庫をお願いできるかな。」
「…へ、あ、ご、…少々お待ちください。」
榊原のぶっきらぼうな言葉に面食らったのか、目の前の青年は少しだけ動揺はしたが、さすがプロなだけあり、すぐさま切り替えてストックへと引っ込んでいった。サイズがなければ、あるものでいいか。そんなことを思いながら待っていれば、首からメジャーをかけた先ほどの青年が、いくつかスーツを持ってきた。
どうやら急ぎだということがわかったらしい。榊原が指定したスーツは在庫がなかったようだが、何も言わないでも寸法にあった似よりのスーツを持ってくるあたり仕事ができそうである。
「御用命の生地は在庫を切らしておりまして、代わりに寸法に合う似よりのものをお持ち致しましたので、ご確認ください。」
「ああ、せかしてごめんね。ありがとう。」
「とんでもありません。その、ジャケットのみでもお試しされませんか。」
「うーん…じゃあ、」
青年の言葉が聞こえなかったわけじゃないが、スウェットを脱ぐのが面倒くさい。榊原は適当なチーフとネクタイを数本選んで、濃いグレーの小紋柄のスーツの上にそれを乗せると、ポケットから出したクレジットカードをカウンターの上に置いた。
「大丈夫。これで一括でお願い。裾はシングルで仕上げてもらえるかな。」
「かしこまりました、一時間ほどお修理にはお時間を頂戴いたしますが、よろしいですか。」
「うん、いいよ。さっき渡した寸法でお願い。」
「かしこまりました。」
スーツの値段は気にはしていなかったが、どうやらグレードが一番高いものだったらしい。イタリア製のスーツは何着か持ってはいるが、袖のメーカータグを見つめていれば、そちらもきちんと外しておきますねと声をかけられた。
「ああ、ありがとう。使ったことのない生地だったから見ていただけだよ。」
「そうでしたか。お急ぎなようでしたら、ベントの仕付け糸もお取りたしましょうか。」
「お願い。」
差し出された修理伝票に名前と住所を記入し終えると、決済を済ませた。渡された青年の名刺には大林梓と書かれており、試着なしで購入したことで、何か問題が発生したときはいつでも連絡をくださいという念押しも含まっているよだった。律儀すぎる気もしたが、高い買い物なので、と言われて、それもそうかと納得した。
まだ若いだろうに、接客は申し分ないものであった。飛び込みで入ったとはいえ、いい店だなと思えたのはひとえに大林の力によるところが大きそうだ。
どうやら仕上がったら電話をしてくれるという約束もしてくれたので、甘えることにする。
普段自分自身が客先のことで頭がいっぱいになるほど気配りをするので、彼のお客さま第一主義の接客が少しばかしくすぐったい。業務外ではあまり他人に対して興味を持つことはないのだけど、チラりと見えた大林の耳に開けられたピアスホールの多さに少しだけ驚いた。
もしかしたら、このこには裏と面があるのかもしれない。自分と同じように。そう思うと、彼のオフはどんなものなのだろうと、榊原は少しだけ興味が湧いたのであった。
10
お気に入りに追加
164
あなたにおすすめの小説

婚約者に会いに行ったらば
龍の御寮さん
BL
王都で暮らす婚約者レオンのもとへと会いに行ったミシェル。
そこで見たのは、レオンをお父さんと呼ぶ子供と仲良さそうに並ぶ女性の姿。
ショックでその場を逃げ出したミシェルは――
何とか弁解しようするレオンとなぜか記憶を失ったミシェル。
そこには何やら事件も絡んできて?
傷つけられたミシェルが幸せになるまでのお話です。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
【完結】幼馴染から離れたい。
June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。
βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。
番外編 伊賀崎朔視点もあります。
(12月:改正版)
読んでくださった読者の皆様、たくさんの❤️ありがとうございます😭
1/27 1000❤️ありがとうございます😭
さよならの向こう側
よんど
BL
''Ωのまま死ぬくらいなら自由に生きようと思った''
僕の人生が変わったのは高校生の時。
たまたまαと密室で二人きりになり、自分の予期せぬ発情に当てられた相手がうなじを噛んだのが事の始まりだった。相手はクラスメイトで特に話した事もない顔の整った寡黙な青年だった。
時は流れて大学生になったが、僕達は相も変わらず一緒にいた。番になった際に特に解消する理由がなかった為放置していたが、ある日自身が病に掛かってしまい事は一変する。
死のカウントダウンを知らされ、どうせ死ぬならΩである事に縛られず自由に生きたいと思うようになり、ようやくこのタイミングで番の解消を提案するが...
運命で結ばれた訳じゃない二人が、不器用ながらに関係を重ねて少しずつ寄り添っていく溺愛ラブストーリー。
(※) 過激表現のある章に付けています。
*** 攻め視点
※当作品がフィクションである事を理解して頂いた上で何でもOKな方のみ拝読お願いします。
扉絵
YOHJI@yohji_fanart様
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした
亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。
カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。
(悪役モブ♀が出てきます)
(他サイトに2021年〜掲載済)

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる