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二章 百貨店にくる顧客に情緒をかき乱される俺の話なんだけど。(大林梓編)

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 榊原諒はご機嫌であった。
 理由は実に単純明快で、ここ最近知り合い、惹かれてしまったお気に入りのあの子が、わざわざ休日に時間を割いて手料理を振舞ってくれることになったからだ。
 とは言ってもあくまでもこの話には榊原があの子を雇った。という前提がつくのだけれど、ともかく、久方ぶりの人の手の温かみが宿る飯にありつけるのだ。細かいことを気にしてはいられないと言った心持ちであった。
 しかし、お気に入りのあの子、とは言っても薹が立ちすぎてはいるが。否、それは男性には使うものではないのだが、それでも榊原はあえて大林には使いたいと思う。
 それほどまでに中性的な容貌は魅力的で、烟るような色気を醸したかと思えば、幼い一面を垣間見せる。
 色味も相待って、まるで黒猫のような存在だなあとも思う。猫は好きだ。気ままで愛らしく、目的を持って媚びてくる。
 そんな、榊原が推していると言っても過言ではない彼との出会いは実に些細なきっかけであった。どちらかというと、二度目の邂逅の方が、少々刺激的で印象深い。つまり、榊原がこうでして大林に固執するようになったのは、二回目の出会いがきっかけだった。
 そのことを、少しだけ語りたいと思う。
 


 





 休日の、それも久しぶりの連休に水を刺されたのは、実に唐突であった。
 
「………。」

 せっかく二度寝でも決め込んでやろうという心持ちであったのに、目覚ましもかくやといわんばかりに喧しく鳴り響いた社用のスマートフォンに、本気で無視を決め込もうかとも思ったが、数秒逡巡してから、通和ボタンをタップした。

 馬鹿野郎。数分前の、素直に通話に出た自分を、ぶん殴ってやりたい。榊原は寝乱れた髪を手櫛で押さえつけながら、深い溜め息を吐きだした。

 榊原くんさ、連休中にこんなこと頼むの、本当に心苦しいんだけど、君しか頼めないんだ。出張、お願いできないかな。

「取引先のパーティに迎えって、そう言うのは事前に言うもんじゃないのか。」

 画面の暗くなったスマートフォンを睨みつけながらぼやく。どうやら、先方からの覚えめでたく、榊原に来てほしいとの直々の御指名とのことだった。ご機嫌を損ねるのは得策じゃないことだなんてわかっている。だけど、榊原の連休を犠牲にしてまでいくほどの価値があるのだろうか。そんなことを思ったが、これで契約が取れたら給料にさら色がつくことが確定されたため、重い腰を上げるからには、確実にそれは頂きたい。
 
 榊原は仕事ができた。それに、ありがたいことに顔面偏差値についても社内からは高評価を頂戴している。持ち前の人懐っこさやジェントルマン気質もあり、受付嬢から掃除のおばさん、そして頭の硬いお歴々の方々までもが榊原を気に入っている。
 無論、勤めている会社は高層ビルに入っているため、そのビルの警備員の方々とも仲が良い。コミュニケーション力一つでここまでのし上がってきた榊原だ。細部まで細やかな気配りが、上質な仕事にも繋がっていると言っても過言ではない。
 顔が広いのだ。だから榊原の顔を使えと上から直属の上司がせっつかれる。断ってくれればいいのにと言ったが、それはお前が断れる立場まで上り詰めてからだと、古参企業戦士のありがたいお言葉を頂戴しただけで終わった。

 なんでこんなことになってしまったのか。榊原がその立ち位置に収まったきっかけ。そんなのどれがきっかけだかわからないほど伏線は多かった。

 納期が間に合わないよう。と、泣きついてきた同期を宥めつつ、同じビルに勤めている出版社の知り合いに印刷会社を紹介してもらい、その日のうちに話をまとめたことが原因か。

 それとも時代錯誤なパワハラを繰り返す上司に取り入り、でっち上げの相談事で一緒に酒を飲んだりしたからか。飲んだ店の従業員であった娘に、日頃からいかに上司が仕事ができるか、素晴らしい先輩かを、おべっかをふんだんに使い褒め称えたところ、家庭内での威厳を取り戻し、相乗効果でパワハラをしなくなり、本当の意味での優しい上司にメタモルフォーゼさせたことだろうか。

 他にはあれだ。駅前で体調を崩した女性を介抱し、半ば巻き込まれるように救急車に同乗。先方との約束の時間に間に合わず、流石に終わったと諦めていたところ、助けた女性が向かう予定だった会社社長の若妻で、後日高待遇で契約を取り付けたことか。

 その他諸々、榊原の意図せぬ方向でのラッキーが重なり、あれよあれよと営業成績や評価がぶち上がる。そう、榊原のなんとなくの行動が、己を高みへと導いてきた幸運な男であったのだ。
 側から見れば、人生イージーモードだろう。だが、榊原は疲れ切っていた。
 華々しい実績の裏に隠された怠惰な休日。周りからの過度な妄想を聞くたびに、取り繕うように振る舞うのはなかなかに骨が折れる。

 榊原さんはワインしか飲まないんだって。寝るときはバスローブらしいよ。趣味は映画鑑賞で、クラシックしか聞かない。自炊もできて、得意料理はイタリアン。毎日のジムで体も鍛えていて…エトセトラエトセトラ。
 本人の預かり知らぬところで噂が一人歩きして、耳にした本人は噴飯物であった。表面の榊原は穏やかに、そんなことはないよと言っていたが、うちなる榊原はヘッドバンキングをしながら悶絶していた。
 そうやって周りのイメージで固められた榊原がヒーローのように扱われたわけである。本人からしてみたら程のいい雑用係だと思っているが。人間やる気を出せばなんでもできる。できてしまう男だからこその悩みもあるが。
 だってジムしかあってない。赤ワインなんて飲まないし、バスローブだってうちにないし、寝巻きだってスウェットの下はボクサーパンツ一枚だ。
 趣味は大人な映画鑑賞で、シチュエーションものにハマっている。クラシックよりもアニメのサントラ、自炊なんて湯沸かししてカップラーメンしか作れない。
 虹色になったメガネのレンズの奥で、榊原は死んだ目のまま大きなあくびを一つした。

「…出かけよ。」

 散々っぱら時間をかけて己を起動した。しかしまだ休みモードは引きずっている。やる気なんて微塵も出ない。出かける先が会社の付近なら身だしなみは気をつけるが、今日は違う。
 連休だったからと、スーツをまとめてクリーニング屋に出したのが仇となった。面倒臭いし痛手だが、スーツも買いに行かなくてはならない。
 立ち上がり、洗面台まで行くと、鏡に映った自分を見つめる。 
 髪も寝癖のまま、黒縁メガネもおしゃれアイテムのはずが、見た目のせいかくたびれた感を醸し出している。まるで浮浪者のような雰囲気であるが、今はそんなことはどうでもいい、スーツだ。
 お金を払うなら、皆平等にサービスを受けられる。榊原は着替えもせずに、スウェットの下を履いて、人としてのある程度の常識を取り戻すと、尻ポケットにクレジットカードだけを突っ込んだ。
 向かう先は家からほど近い百貨店だ。そう、言わずもがな、大林との最初の出会いの場所である。



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