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ヒクリと喉が震えた。
寒いからだけではない、震える指先を握りこんで、旭は駆け足のまま人の波をかき分けていた。迷惑そうな幾つもの視線を感じた。それでも足を止められなかったのは、柴崎に気がつかれた今、引き止められる方がよほど怖かったからだ。
「ひ、…ぅく、っ」
情けない声が漏れた。革靴では走りにくい、見目重視で作り込まれた洒落たタイルの道を蹴りながら、込み上げてくる醜い感情からも逃げていた。
背中が熱い。柴崎と目があって、慌てて逃げたのだ。熱いのは、視線が突き刺さったからだろうか。
もしかして、目があったと思ったのは自分だけで、本当は気づいていないかもしれない、それでも万が一を想定してしまうから、旭の足は一向に止まる気配もなかった。
白い呼気が頬を乾かす。引き連れた皮膚の感覚に、自分の感情が目から溢れたのだと気がついた。
何も後ろめたいことなんてないはずなのに、目があったらもうダメだった。なんでもっと早くから逃げなかったんだろう。
期待して、叶ったことなんて一度でもあっただろうか。そんなことを考えて、なかったことにしようとしたあの日の夜が、また鮮明に思い出されて、その女々しさに叫び出したくなった。
柴崎がどんな気持ちかだなんて、知らない。ただ、旭の心の奥深くには、あの日柴崎が言いかけた言葉がずっと残っている。
そういえば、己の意志で、待って欲しいと言ったんだっけ。
言葉を遮られても咎めず、ただわかった。と旭の気持ちを慮ってくれた柴崎に、旭は何て返したのだっけ。あれから互いに忙しくなって、月日が過ぎて、会話が減って、気がつけば普通の日常が戻ってきていた。
旭が先に拒んだのだ、柴崎を振り回したのは、自分の方だった。
気がついた本当に、また涙腺を叩かれる。ブワリと溢れた涙で視界が歪んだ。泣きながら走るだなんて、漫画でしかないと思っていた。自分の状況を他人事に思うくらい、他人事にしたかった。
「なんで、っ」
なんで、待ってなんて言っちゃったんだろう。
なんで、あの時大人しく、柴崎さんの言葉を聞けなかったんだろう。
状況は違えど、小さな子が後悔をするように、過去の自分に苦しめられる。
いつも自分は遅いのだ。慎重すぎて、結局間に合わない。
あの時柴崎の手を取らなかったのも、終わりがくることが怖かったからに他ならない。終わりが怖いなら、始まらなければいいのだと考えた。その手をとって、身も蓋もなく甘えてしまうのが怖かった。柴崎の中での、かっこよくて、頼りになる後輩でありたいと思っていた、そんな見栄が先だった。
自分のエゴで拒んだのに、今更どの面さげて擦り寄れるのだ。
「うぁ、…っ…」
馬鹿だ、愚かだ、ダメな子だ。
逃げるために走っているのに、感情の逃げ場がない。旭はもう大人なのに、今は小さな子が駄々をこねる理由がわかる気がした。
あの一瞬、目があった時、柴崎の表情が変わったのを覚えている。
気だるそうな顔が、ゆっくりと表情を失って、旭はそれを嬉しいとも思ってしまった。そうしたら、途端に後ろめたくなった。
隣にいた女の人に、なんでと言いかけた。なんで、は旭のセリフなんかじゃない。ずっと誤魔化してきた柴崎への恋愛感情を認めた途端に、旭は自分自身が柴崎の人生にとってのイレギュラーになることを恐れた。
駅から少し離れるだけで、ここは閑静な住宅街になる。旭が足をもつれさせながら踏み込んだ、だだっ広い公園内。ここは、専門学生時代に柴崎とよく来ていた場所だった。
あの頃と何も変わらない。変わったのは、公園を囲む建物の高さや、幹の太くなった木々くらいだ。
「さむ…、」
走り出してからは足が止まらずに、真っ直ぐにここまで来てしまった。泣き顔で電車に乗るのも嫌で、落ち着くまで、せめて鼻の赤みが取れるまではここでゆっくりしようと思ったのだ。
公園の奥には、ひときわ大きな木が一本生えている。その木陰に備え付けられたベンチは、学生時代に柴崎と二人で夏の暑さを凌いだ、そんな小さな思い出が蘇る場所だった。
あの頃はまだ恋の自覚もなくて、ただ気の合う先輩という立ち位置だった。顔が良くて、モテて、その割には斜に構えてもいなくて、女だけじゃなくて男からもモテる。
面倒見が良いよな。という話を友人にした時は首を傾げられてしまったが、それが己だけの特別対応だとしたら、と考えて、また泣きそうになった。
多分、好きだったんだよ。きっと。
男だったから、恋だってことも自覚してなくて、卒業と同時に忘れようとしたのかもしれない。
仕事に打ち込んで、打ちのめされて、専門学校は楽しかったなあと思い返して、その思い出の中にはいつも、柴崎がいたのだと気付かされた。
「やだなあ、」
嫌だ、嫌だなあ。
自覚する前に、恋が終わっていた。あの時はそうだと思っていた。だけどそれは、旭の勘違いだったのだ。
もっと早く、それこそ専門学校の時に自覚をしていたら、こうならなかったのかな。そんな詮無いことを思って、柴崎から逃げた自分を思い出して、また泣いた。
泣き止むためにここに来たのに、全然ダメだ。結局、どれだけ振り払おうとしても、旭の頭の中は柴崎でいっぱいなのだ。
木陰の思い出のベンチに歩み寄って、埃を払うように座面を撫でる。止まらない涙は頬を濡らすばかりで、一向に収まる気配はない。自分がこんなに涙脆いだなんて知らなかった。
夜風は冷たくて、そして少しだけ強く吹いていた。入り口から見えない位置に座ると、痺れた足を労わるように足を投げ出した。
走ったせいで、多分靴擦れができたのだろう。踵が少しだけ痛かった。
寒いからだけではない、震える指先を握りこんで、旭は駆け足のまま人の波をかき分けていた。迷惑そうな幾つもの視線を感じた。それでも足を止められなかったのは、柴崎に気がつかれた今、引き止められる方がよほど怖かったからだ。
「ひ、…ぅく、っ」
情けない声が漏れた。革靴では走りにくい、見目重視で作り込まれた洒落たタイルの道を蹴りながら、込み上げてくる醜い感情からも逃げていた。
背中が熱い。柴崎と目があって、慌てて逃げたのだ。熱いのは、視線が突き刺さったからだろうか。
もしかして、目があったと思ったのは自分だけで、本当は気づいていないかもしれない、それでも万が一を想定してしまうから、旭の足は一向に止まる気配もなかった。
白い呼気が頬を乾かす。引き連れた皮膚の感覚に、自分の感情が目から溢れたのだと気がついた。
何も後ろめたいことなんてないはずなのに、目があったらもうダメだった。なんでもっと早くから逃げなかったんだろう。
期待して、叶ったことなんて一度でもあっただろうか。そんなことを考えて、なかったことにしようとしたあの日の夜が、また鮮明に思い出されて、その女々しさに叫び出したくなった。
柴崎がどんな気持ちかだなんて、知らない。ただ、旭の心の奥深くには、あの日柴崎が言いかけた言葉がずっと残っている。
そういえば、己の意志で、待って欲しいと言ったんだっけ。
言葉を遮られても咎めず、ただわかった。と旭の気持ちを慮ってくれた柴崎に、旭は何て返したのだっけ。あれから互いに忙しくなって、月日が過ぎて、会話が減って、気がつけば普通の日常が戻ってきていた。
旭が先に拒んだのだ、柴崎を振り回したのは、自分の方だった。
気がついた本当に、また涙腺を叩かれる。ブワリと溢れた涙で視界が歪んだ。泣きながら走るだなんて、漫画でしかないと思っていた。自分の状況を他人事に思うくらい、他人事にしたかった。
「なんで、っ」
なんで、待ってなんて言っちゃったんだろう。
なんで、あの時大人しく、柴崎さんの言葉を聞けなかったんだろう。
状況は違えど、小さな子が後悔をするように、過去の自分に苦しめられる。
いつも自分は遅いのだ。慎重すぎて、結局間に合わない。
あの時柴崎の手を取らなかったのも、終わりがくることが怖かったからに他ならない。終わりが怖いなら、始まらなければいいのだと考えた。その手をとって、身も蓋もなく甘えてしまうのが怖かった。柴崎の中での、かっこよくて、頼りになる後輩でありたいと思っていた、そんな見栄が先だった。
自分のエゴで拒んだのに、今更どの面さげて擦り寄れるのだ。
「うぁ、…っ…」
馬鹿だ、愚かだ、ダメな子だ。
逃げるために走っているのに、感情の逃げ場がない。旭はもう大人なのに、今は小さな子が駄々をこねる理由がわかる気がした。
あの一瞬、目があった時、柴崎の表情が変わったのを覚えている。
気だるそうな顔が、ゆっくりと表情を失って、旭はそれを嬉しいとも思ってしまった。そうしたら、途端に後ろめたくなった。
隣にいた女の人に、なんでと言いかけた。なんで、は旭のセリフなんかじゃない。ずっと誤魔化してきた柴崎への恋愛感情を認めた途端に、旭は自分自身が柴崎の人生にとってのイレギュラーになることを恐れた。
駅から少し離れるだけで、ここは閑静な住宅街になる。旭が足をもつれさせながら踏み込んだ、だだっ広い公園内。ここは、専門学生時代に柴崎とよく来ていた場所だった。
あの頃と何も変わらない。変わったのは、公園を囲む建物の高さや、幹の太くなった木々くらいだ。
「さむ…、」
走り出してからは足が止まらずに、真っ直ぐにここまで来てしまった。泣き顔で電車に乗るのも嫌で、落ち着くまで、せめて鼻の赤みが取れるまではここでゆっくりしようと思ったのだ。
公園の奥には、ひときわ大きな木が一本生えている。その木陰に備え付けられたベンチは、学生時代に柴崎と二人で夏の暑さを凌いだ、そんな小さな思い出が蘇る場所だった。
あの頃はまだ恋の自覚もなくて、ただ気の合う先輩という立ち位置だった。顔が良くて、モテて、その割には斜に構えてもいなくて、女だけじゃなくて男からもモテる。
面倒見が良いよな。という話を友人にした時は首を傾げられてしまったが、それが己だけの特別対応だとしたら、と考えて、また泣きそうになった。
多分、好きだったんだよ。きっと。
男だったから、恋だってことも自覚してなくて、卒業と同時に忘れようとしたのかもしれない。
仕事に打ち込んで、打ちのめされて、専門学校は楽しかったなあと思い返して、その思い出の中にはいつも、柴崎がいたのだと気付かされた。
「やだなあ、」
嫌だ、嫌だなあ。
自覚する前に、恋が終わっていた。あの時はそうだと思っていた。だけどそれは、旭の勘違いだったのだ。
もっと早く、それこそ専門学校の時に自覚をしていたら、こうならなかったのかな。そんな詮無いことを思って、柴崎から逃げた自分を思い出して、また泣いた。
泣き止むためにここに来たのに、全然ダメだ。結局、どれだけ振り払おうとしても、旭の頭の中は柴崎でいっぱいなのだ。
木陰の思い出のベンチに歩み寄って、埃を払うように座面を撫でる。止まらない涙は頬を濡らすばかりで、一向に収まる気配はない。自分がこんなに涙脆いだなんて知らなかった。
夜風は冷たくて、そして少しだけ強く吹いていた。入り口から見えない位置に座ると、痺れた足を労わるように足を投げ出した。
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