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柴崎との飲み会は、互いに仕事があるからと、実にスムーズに閉会した。終電まで一時間ほどある、余裕を持った早い時間であったが、なんだか学生時代に戻ったかのような、そんな不思議な心地であった。
楽しかったなあ。そんなことを思う。とは言っても、サシで飲むのは初めてではあったが。
またな。と言われて、またがあることが嬉しかった。直属の上司ではない、学生時代の先輩後輩の関係性が、今の旭には必要だったのだ。
朝の時間。長い道のりの通勤電車内で過ごす時間があまり好きではない。でも、今日はまだいい、昨日のことを振り返ることができたからだ。
旭は、電車の座席に腰掛けながら、目の前のサラリーマンのスーツの隙間から見える景色を、ぼうっと見つめていた。思えば、行きも帰りも下ばかり向いていてまともな景色というのは見ていなかったように思う。通勤に四十五分、長いようで短いその道のりはその日のメンタルによって変わるのだ。我ながら女々しいとも思う。
深呼吸をする。電車が嫌いなのは、もう一つの理由があった。
「……、」
まだ、手が少し震えている。
旭はゆるゆると手を握り込んで誤魔化すと、ゆっくりと目を瞑った。
寝ろ、寝てしまえば思い出さなくて済む。
背もたれに緩くもたれて、何も考えないように努める。それでも、体は意志とは裏腹に、その状況がトリガーとなって旭を苛むのだ。
心臓の血液が波打つ。血管内で、ザパザパと暴れるかのようにして、循環しているような気がした。耳の奥から反響音のようなものが聞こえて、目の奥がじんわりと熱くなる。
行きたくない。体が拒絶する。旭の周りは徐々に酸素が薄くなって、舌が乾いて動かしづらい。額にじんわりと汗が滲んだ。鞄から、ハンカチを取ろうとしたとき、唐突に思い出されたのは、間の職場の記憶であった。
『無理をしないでいいよ、旭くんは頑張っているんだから。』
直属の上司でもない社員が、旭を見てそう言った。
自分は、それに対して、まだやれますと言ったのだ。
頭の中がキマっていたと思う。髪はパサつき、肌は土色。普通に話しているだけなのに、覇気がないと怒鳴られる。己の声が掠れているのが原因だと周りが言うのだ。
腹に力が入らず、何か不手際をしたらいけないと、常に気を張っていたせいで、動きも不自然であった。
そんな状態で、毎日電車に揺られていた。
新人デザイナーとして、先輩の下で働きながら、旭なりに過ごしてきたあの日々も、こうして毎日のように電車に揺られて参っていた。
周りが見ても、おかしかった。
夏なのにハイネックが手放せない。ストレスと自己嫌悪に飲まれぬように、己の首を掻きむしることで自我を保っていたのだと思う。何も悲しくないのに、流れる涙。吐き気と過呼吸が毎日続いた。
そして、気がついたら仰向けになって、みんなから見下ろされていた。
頼まれた、数十着のアイロンがけの最中で、気絶したらしい。失神は数分程度だった。後頭部にたんこぶができて、上司が顔を叩いてくれたことで目が覚めたが、第一声がアイロンの電源を切って、であった。そうだ、会社の備品だし、何より危ない。確かに。そんな具合に納得して、寝起きのように重だるい思考のまま、電源を切ったのだ。
見かねた、誰かは覚えていないが、そのまま予約をされた心療内科に連れて行かれた。
下された診断は、適応障害。言葉の羅列が面白くて、笑ったのを覚えている。そして、その診断書は奪い取られるようにして、旭の手元から消え去った。入社してから初めて行った直属の上司を交えての三者面談で、返してもらえたが。
『旭くんのせいじゃないけれど、最近社内の空気が良くなくてね。』
言外に、身の振り方を考えろと言われたのだ。頭の中は清々しいほど空っぽで、言葉が思考の代わりに旭の頭の中に収まった。腑に落ちた。ああ、当たり前だなあとも思った。
「辞めます。」
ポロ、と出てきた。覇気のない声は相変わらずであったが、不思議と聞き取れないと怒鳴られることもなかった。ゆっくりと見つめた上司の顔は、どこかほっとしているような表情で、旭は初めて上司の意向に添える形で、自身で行動を起こせたのだと思った。
あんなに勝手に出ていた涙は、その時ばかりは出なかった。
今思えば、目の前で辞表を書かされると言うのはなかなかに笑える光景であった。皮肉なことに、今まで教えてもらった中で、一番丁寧でわかりやすく、そして優しかった。
スイッチが切れたかのように、旭の望まぬ形で呼び戻された思考が、霧が晴れるかのように現実へと引き戻す。
熱に浮かされていたかのように、焼けるような思考を覚ましたくて、旭はゆっくりと瞬きをした。唇を薄く開き、空気を取り込む。切り替えろ。終わったのだ。もう、過去なのだ、囚われるな。
「ぅ、くっ」
途端に、香水や、汗、埃っぽい匂いが朝日を急激にリアルへと引き戻す。やかましい電車の音と、イヤホンからの音漏れ、他人の体温。
足元から這い上がるような唐突な嫌悪感に、ブルリと体が震えた。
楽しかったなあ。そんなことを思う。とは言っても、サシで飲むのは初めてではあったが。
またな。と言われて、またがあることが嬉しかった。直属の上司ではない、学生時代の先輩後輩の関係性が、今の旭には必要だったのだ。
朝の時間。長い道のりの通勤電車内で過ごす時間があまり好きではない。でも、今日はまだいい、昨日のことを振り返ることができたからだ。
旭は、電車の座席に腰掛けながら、目の前のサラリーマンのスーツの隙間から見える景色を、ぼうっと見つめていた。思えば、行きも帰りも下ばかり向いていてまともな景色というのは見ていなかったように思う。通勤に四十五分、長いようで短いその道のりはその日のメンタルによって変わるのだ。我ながら女々しいとも思う。
深呼吸をする。電車が嫌いなのは、もう一つの理由があった。
「……、」
まだ、手が少し震えている。
旭はゆるゆると手を握り込んで誤魔化すと、ゆっくりと目を瞑った。
寝ろ、寝てしまえば思い出さなくて済む。
背もたれに緩くもたれて、何も考えないように努める。それでも、体は意志とは裏腹に、その状況がトリガーとなって旭を苛むのだ。
心臓の血液が波打つ。血管内で、ザパザパと暴れるかのようにして、循環しているような気がした。耳の奥から反響音のようなものが聞こえて、目の奥がじんわりと熱くなる。
行きたくない。体が拒絶する。旭の周りは徐々に酸素が薄くなって、舌が乾いて動かしづらい。額にじんわりと汗が滲んだ。鞄から、ハンカチを取ろうとしたとき、唐突に思い出されたのは、間の職場の記憶であった。
『無理をしないでいいよ、旭くんは頑張っているんだから。』
直属の上司でもない社員が、旭を見てそう言った。
自分は、それに対して、まだやれますと言ったのだ。
頭の中がキマっていたと思う。髪はパサつき、肌は土色。普通に話しているだけなのに、覇気がないと怒鳴られる。己の声が掠れているのが原因だと周りが言うのだ。
腹に力が入らず、何か不手際をしたらいけないと、常に気を張っていたせいで、動きも不自然であった。
そんな状態で、毎日電車に揺られていた。
新人デザイナーとして、先輩の下で働きながら、旭なりに過ごしてきたあの日々も、こうして毎日のように電車に揺られて参っていた。
周りが見ても、おかしかった。
夏なのにハイネックが手放せない。ストレスと自己嫌悪に飲まれぬように、己の首を掻きむしることで自我を保っていたのだと思う。何も悲しくないのに、流れる涙。吐き気と過呼吸が毎日続いた。
そして、気がついたら仰向けになって、みんなから見下ろされていた。
頼まれた、数十着のアイロンがけの最中で、気絶したらしい。失神は数分程度だった。後頭部にたんこぶができて、上司が顔を叩いてくれたことで目が覚めたが、第一声がアイロンの電源を切って、であった。そうだ、会社の備品だし、何より危ない。確かに。そんな具合に納得して、寝起きのように重だるい思考のまま、電源を切ったのだ。
見かねた、誰かは覚えていないが、そのまま予約をされた心療内科に連れて行かれた。
下された診断は、適応障害。言葉の羅列が面白くて、笑ったのを覚えている。そして、その診断書は奪い取られるようにして、旭の手元から消え去った。入社してから初めて行った直属の上司を交えての三者面談で、返してもらえたが。
『旭くんのせいじゃないけれど、最近社内の空気が良くなくてね。』
言外に、身の振り方を考えろと言われたのだ。頭の中は清々しいほど空っぽで、言葉が思考の代わりに旭の頭の中に収まった。腑に落ちた。ああ、当たり前だなあとも思った。
「辞めます。」
ポロ、と出てきた。覇気のない声は相変わらずであったが、不思議と聞き取れないと怒鳴られることもなかった。ゆっくりと見つめた上司の顔は、どこかほっとしているような表情で、旭は初めて上司の意向に添える形で、自身で行動を起こせたのだと思った。
あんなに勝手に出ていた涙は、その時ばかりは出なかった。
今思えば、目の前で辞表を書かされると言うのはなかなかに笑える光景であった。皮肉なことに、今まで教えてもらった中で、一番丁寧でわかりやすく、そして優しかった。
スイッチが切れたかのように、旭の望まぬ形で呼び戻された思考が、霧が晴れるかのように現実へと引き戻す。
熱に浮かされていたかのように、焼けるような思考を覚ましたくて、旭はゆっくりと瞬きをした。唇を薄く開き、空気を取り込む。切り替えろ。終わったのだ。もう、過去なのだ、囚われるな。
「ぅ、くっ」
途端に、香水や、汗、埃っぽい匂いが朝日を急激にリアルへと引き戻す。やかましい電車の音と、イヤホンからの音漏れ、他人の体温。
足元から這い上がるような唐突な嫌悪感に、ブルリと体が震えた。
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