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堕界編

弟という位置 

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 ここはどこだ。ルシアンは、シグムントによって作り上げられた異空間に、目を丸くして固まっていた。
 口付けをされた時、驚きはしたが、魔力を使うのであろうことはなんとなく理解した。ともすれば、意図的にイザルと遮断されたのだろう。己がそれほどまでシグムントの目の前で、身も蓋もなく怒りを露わにしていたのかと、ルシアンは居た堪れなくなった。

「ここは」
「場所は、移動していない。空間だけ隔絶したのだ」
「……なんで、俺だけをとめたの」

 抑揚のない声で説明をしたシグムントの様子は、ルシアンの目から見ても元気がなかった。漆黒の膜が外界を断絶する二人きりの世界は、互いの姿以外は白の輪郭線であらゆるものが縁取られていた。
 この術が、ただの結界術でないことは理解できる。しかし、発動の意図が兄弟喧嘩を止めるだけではない可能性も、冷静になった今ではわかる。
 素直に顔を上げたシグムントの手は、そっとルシアンの胸元に添えられた。

「……ルシアン、お前の心の中の種が、発芽しかかっていた。幸い、まだ開いてはいない。だけど、強い憤りを感じると……やっぱりお前は危ういんだ」
「それは、俺が霧の魔物になりうるってことでいいのかな」
「ああ、まだ、まだ平気だけど。……それでも、イザルと殴り合いをしたあの瞬間が続いてしまったら、おそらくは……」
 
 視線を逸らすように宣うシグムントに、ルシアンは乾いた笑みを漏らした。結局、どんなに愛情を求めても、一番はすげ変わることもなくイザルが大切なのだろう。 
 イザル。あのクソ野郎が兄になってから、ルシアンの人生はめちゃくちゃだ。

「霧の魔物になったら、俺は真っ先にあいつを殺すだろう」
「だめだ、そんな怖いことをいうな!」
「例えばだよ、あくまでも。……シグは、イザルが大切なんだろう。俺なんかよりも、よほど」
 
 私なんかよりも。そう言った過去の女に、面倒臭い思いをしたのはルシアンであるはずなのに、気がつけば同じ言葉を放っていた。ルシアンは、確かに投げやりになっていた。もう、どうだっていい。これから歩む未来も、どうせ勇者の弟という立場でしか見てもらえないのだ。
 同じ父親を持つ、腹違いの兄弟だから仕方がないとも思っている。しかし、その諦観の色を濃くするのは、いつも自分以外の他人の言葉だ。

「どうせ、何処かで野垂れ死んでいる。そう思ってきたんだがな」
「……それは、父親のことか」
「ああ。クソみたいな人生だ。俺は、俺と同じ顔をした男にいつまでも振り回されている」

 ルシアンは肉親の男に呪われている。これは変えようもない事実だ。
 泥のついた指先で、シグムントの頬を撫でる。白磁の肌が己の意思で汚れるのを、ただ静かに見つめていた。手のひらを叩いて拒んでくれれば、どれほど楽になれるだろう。
 シグムントの優しさは、時として鋭くルシアンを傷つける。

「なんで、嫌いなんだ。父君のことを」
「……気を使わなくていい。どうせ聞いてて気分のいい話じゃないだろうしな」
「その場しのぎに聞いたわけじゃないさ。俺は、ルシアンのことを知りたいんだ」

 頬から手を離そうとして、制止される。指を絡ませるように手を握りしめられると、シグムントは憎らしいほど優しく口元に笑みを浮かべる。その銀灰の瞳に映るルシアンの姿は醜く見えるというのに。

「ルシアン……」
「何、子供みたいな駄々だって笑う?」
「俺の方がずっと年上なのに、お前の方が随分と大人びておるよ」

 そう言って、シグムントはルシアンの体を己の胸へと抱き寄せた。
 情けないと思う。けれど、この温もりはルシアンの一番好きな温もりでもあった。今は誰も見ていない。黒髪を撫でられて、己よりも随分小さな背に、ぎこちなく腕を回す。
 
「比べられんよ」
「……さっきの、俺の面倒臭い質問のこと?」
「面倒くさいとは思わぬよ。どちらかというと、そうだなあ……ルシアンを気にかけてやれなかった俺が悪いのかもしれんなあ」

 そう言って、困ったように笑うシグムントを前に、ルシアンは思わず顔を上げた。責め立てるつもりで不貞腐れたわけではない。むしろ、迷惑を欠けたのは己の方だとの自覚もある。

「そんなことない、俺は」
──── 俺は、甘やかされたいのかもしれない。他でもない、シグムントに

 口が裂けても、言えるわけがない。何せ、ルシアンはシグムントを守るつもりでこの旅に同行した。無論、任務も忘れてはいない。けれど、この慕情をどうするかは己の勝手である。
 柔らかな目線、穏やかな口調。他者を慮る気持ちや博愛など、魔王には到底似つかわしくない綺麗な心の持ち主だ。
 シグムントの特別になりたい。その優しさを、己にだけ向けてほしい。狭量なルシアンの心が許せなかったのは、この綺麗な生き物を先にイザルが見つけたからだ。

「……俺だけを見て、俺だけを愛してほしい。いつも、俺はあいつに奪われてばかり。シグムント、なあ、俺を見て」
「ルシアン」

 気がつけば、シグムントの胸に顔を押し付けるように、縋り付いていた。体格も一回り以上違う。それでも、たとえ側からみたらどれほど情けなくても。今だけでいいから、お前が一番だよと言われたかった。

「……イザルが嫌いだ、俺から全てを奪っていく、あいつが」

 ルシアンは、ゆっくり口を開いた。己の埋められない心の隙間を、シグムントに吐露するかのように。









 ルシアンの運命が変わったのは、今から五年前だ。
 十三歳という若さで士官候補生から、城所属の遊撃部隊に抜擢された、人生で最も輝いていた時期。そんな時に、お前に会わせたい奴がいると言われて、部隊長経由で宰相に呼び出された。
 最初は、てっきり密命かと思い高揚した。よくよく考えてみれば、なりたての隊員にそんなものを任せるわけがないのだが、その時のルシアンはとにかく浮かれていたのだ。
 
 呼び出された、偉い人が仕事をするための部屋。名称はわからなかったが、そこは選ばれたものしか入ることは許されない。はやる気持ちを抑えたルシアンが、重厚な扉の向こう側で出会ったのは。己とそこまで年嵩の変わらない青年であった。
 
「ルシアン。紹介しよう、彼は君の腹違いの兄。イザルくんだ」

 狐によく似ている宰相が、痩せぎすの手をイザルと呼ばれた少年の肩へ添える。ルシアンと同じ容貌、鏡の前に立っていたかと錯覚してしまうくらいには瓜二つ。
 血の繋がりを感じるなという方が、無理であった。
 
「アイゼンの忘れ形見が、二人もいただなんて」
「……なぜ、彼を私に紹介したのですか」
 
 部隊長の口にした名前に、ルシアンが小さく反応する。
 
 アイゼン。それは、この国で名を知らぬものはいない英雄であった。そして、ルシアンの父親でもある。
 己だけの、誇らしい父親。それなのに、眼の前の少年もアイゼンを父親に持つという。

「彼が今回の密命を受ける勇者だからだ」

 宰相の手が、イザルの肩をぐっと掴んだ。勇者。その言葉を聞いたとき。ルシアンはふつふつと湧き上がる、口にし難い感覚に陥った。
 これは一体何の冗談だ。強いて言うなら、この一言に尽きる。
 眼の前の、年嵩も幾ばくも変わらぬ少年を前に兄だと言われた挙句、唐突にこいつは勇者であると紹介をされたのだ。ルシアンの母親似の黒い瞳の中に、不貞腐れた顔で無言を貫く青年がいる。
 勇者、国内で二人目の。一人目は、ルシアンの父親であったアイゼン。勇者という言葉は、勇める者。その身を呈して道筋を切り開き、魔に打ち勝ち、国の為に尽くすもの。
 正常な思考がおそばせながら戻ってきた。ルシアンの体は、指先から凍り付けられたように動かなくなった。

「国王でも決められぬ。勇者は神が選ぶもの。イザル君は剣に選ばれたのだ、これは覆すことのできぬ事実だ」
「選ばれた?」
「イザル君は剣が眠っていた村の出身だ。もはやこれは、神による思し召しやもしれぬ」

 ルシアンの顔から表情が抜け落ちた。なんだそれ、と想った。

「そんなもの……」
「ルシアン、君は彼の弟としてサポートしてあげてほしい」
「……サポート?」
「過酷な環境に身をやつすだろう。兄弟として互いを高めいなさい。君にはその義務がある。」

 宰相の言葉に、ルシアンは目の前の少年を見た。痩せぎすで、不遜な態度。己が望んでも手に入らなかった、父親と同じ銀灰の瞳を持つイザル。
 瞳以外は鏡写しの見目の少年が、こちらを睨み付ける。その表情は、聖剣に選ばれたことが迷惑この上ないと言わんばかりであった。
 握手をするように言われ、持ち上げるルシアンの手は、鉛のように重くも感じた。笑顔で、よろしくだなんてできるわけがない。ルシアンはずっと願っていた。己が今生の勇者になることを、強く願っていたのに。

「……よ」
「俺は、兄弟なんていらねえ」

 それなのに、ルシアンの願いを背負ったイザルはそう言ってのけた。渇いた音と共に、弾かれた手のひら。まるで、存在を否定するかのような随分な態度を返してくる。
 己の兄だという目の前のイザルは、ルシアンが望んでも手に入らなかったものをその身に宿した男は。ただ射抜くようにこちらを睨みつけるだけであった。
 




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