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堕界編
二人の父親
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「アイゼン、だと……」
「え、英雄が、お前の父親……?」
ルシアンの言葉に、ダダはわかりやすく狼狽えていた。アイゼン、その名は堕界では知らぬものはいない。地上へとつながる道を作ってくれたことも、家を建てる手伝いをしてくれたこともある。この堕界で暮らし方を教えてくれた変わり者。
呪いを受けて、人でありながら半魔のようになってしまったと言っていた。あの男と瓜二つの目の前の二人が兄弟だというのなら、ここに訪れた因果も頷ける。
「俺の父親が、ここで何したんだ」
「イザル……」
イザルの言葉に、ルシアンは苛立ちのまま睨み返した。二人の父親であるアイゼンは、息子を置いて姿を消している。当然、温度は違えど二人にとっては怒りの矛先である。
堕界での献身的な姿と、父親として子を捨てたアイゼンが結びつかない。ダダは張り詰めた空気に緊張を強いられたまま、息苦しそうに唇を戦慄かせた。
イザルを押し除けるように、先に動いたのはルシアンだった。シグムントがハッとした時には、すでに遅い。ルシアンの手は素早くダダの喉元を締め上げて、腕力だけで持ち上げる。
「ヒィ、っ」
「る、ルシアンダメだ!」
「アイゼンは、父さんはここで何をしていた‼︎」
ルシアンの腕を離そうと、シグムントがしがみつく。しかし、それでもダダを締め上げる力は緩まらなかった。黒い瞳に宿る憎悪の光は、爛々と輝いている。このままでは、霧の魔物になり変わってしまう。それだけは防がねばならないと、焦るシグムントがルシアンの名を呼ぼうとした時だ。
「落ち着け」
「ぐ、……っ‼︎」
「うう……っ」
唐突に体をひかれ、どしゃりと尻餅をつく。シグムントの体を後ろに引き、ルシアンの腕を蹴り上げてダダを助けたのはイザルだった。
鈍い痛みが痺れを伴ってルシアンの腕を支配する。怒りの矛先は、すぐにイザルへと向かった。
「貴様……‼︎」
「ダダ、アイゼンがきたのは何年まえだ」
「た、多分じ、十五年くらい前だ……」
シグムントの目の前で、床に転がったダダは喘ぐように教えてくれた。
二人にとっての父親、アイゼンは、今から三十年程前に起きた、魔物による侵略を単騎で防いだ英雄である。
山ほどはあろうかという、巨大な龍を打ち負かし、その時に負った深傷が原因で亡くなったとされている。王による褒賞を拒否し、静かに暮らしたいと言って消息を絶った。
後に子をなしたことは知っている。アイゼンが唯一心を許したという、小さな町の娘。それが、他でもないルシアンの母だ。
「アイゼンが、イザルとルシアンの父親?」
「ああ。マ、俺は面も覚えてねえがな」
イザルとは正反対に、ルシアンはアイゼンとともに過ごした日々の記憶を良く覚えていた。とはいえ、三歳の頃までの記憶しかないが、愛してくれていたと思う。しかし、ルシアンの語気が強まったのには理由があった。
「母さんを置いて、あいつは出ていった」
「なんだよ、お前も捨てられたのか」
「黙れイザル……‼︎」
イザルの煽るような物言いは火に油であった。伸びた手が胸ぐらを掴む。乱暴に距離を詰めるルシアンに、しかしイザルはさらに言葉を重ねた。
「いいじゃねえか。お前にはママもいるんだろう? 俺はハナッから孤児だ。親を知らねえ」
「母さんは死んだ。あいつを恨んでな」
「マザコン野郎、ママのために怒ってるってことか? あ?」
「やめろふたりとも‼︎」
シグムントの悲痛な声が上がった。こんな二人を見ていたくないのが本音だ。
仲間であるイマカとイェネドもまた、戸惑っていた。しかし、話がわからない以上はシグムントに任せる他はない。
小さな体が、なんの戸惑いもなく二人の間に入り込む。手のひらがイザルを遠ざけるように押し返す姿を前に、ルシアンの苛立ちはさらに輪郭を帯びる。シグムントの手がイザルを最初に選んだことが、一番気に食わなかったのだ。
「俺は特別じゃなかった‼︎ お前と違ってだ‼︎」
「あ?」
「っ、だからやめろというに! っぅあ、っ!」
ルシアンの苛立ちの矛先は、シグムントの体を押し除けるようにしてまっすぐにイザルへと向かう。ルシアンの手でよろめいた体を、イェネドが慌てて受け止める。
ただでさえ緑の顔をさらに青くしたイマカが産着のまま二人へ駆け寄ると、大声で叫んだ。
「ヤメロッテ! 人ノ家ダゾ‼︎」
「あ、赤ん坊がしゃべった⁉︎」
「ア、ヤベ」
「ダ、ダダごめん、泊まるのはまた今度で‼︎」
シグムントを小脇に抱えたイェネドが、イマカを回収し、逃げるように家を飛び出した。イザルはというと、舌打ちを一つ。ルシアンの胸ぐらを掴んで引き寄せるなり、転移陣で姿をくらました。
ダダはシグムント達がさった後。恐ろしく静かになった部屋を前に、ようやく肩の力を抜いたのであった。
外は、雷が鳴っていた。
ざあざあと降る雨は生臭さを誘き寄せ、肌に纏わりつくような嫌な湿度が気持ちを不快にさせる。そんな夜だ。
「くぁ、っ……‼︎」
「ボスやめろって‼︎」
降り頻る雨の中、イェネドの苛立ったような声がした。次いで鈍い音がして、大きな何かが泥の上を滑った。ぬかるんだ大地の上で、外套を泥まみれにして転がっていたのはルシアンだ。その頬は、たった今イザルに殴られたばかりなのだろう。口端から赤い血を滲ませる。
雷の光がかすかに照らす不明瞭な視界の中で、同じ染色体を持つ二人は物理的な会話を繰り返していた。
「不出来な弟に割く時間はねえんだよ。テメェは邪魔するためについてきたのか。あ?」
「クソ野郎……、お前なんかいなければ、俺は‼︎」
「俺はなんだ。初めて会った時から突っかかってきやがって。てめえとは本気でやり合いてえと思ってたんだ。来いよ、いい機会だ」
「や、やめ、煽るなってば‼︎」
雨で体温が奪われていく。暗く、汚いこの世界の空気が、心まで蝕んでいくようだった。
イェネドが声を荒げて止めに入る中。シグムントは己の心臓が酷く忙しなく動いていることに気がついていた。ルシアンに突き飛ばされたショックは、まだ引きずっている。しかし、寒さだけではない明確な不安がシグムントの体の動きを制限する。
体はこんなに濡れているというのに、緊張で舌の根が渇く。その銀灰の瞳は、不安定に揺らぐルシアンの姿をまっすぐに見つめていた。
「イザルゥウウゥウウ‼︎」
「っだ、だめだ!」
「アッ、バカヤロ‼︎」
肺を絞るように、ルシアンが叫んだ。土飛沫を立てながら走り出した姿を見た時、シグムントの体は勝手に動いていた。
背後で、イマカの声が聞こえる。それでも、シグムントは止まることをしなかった。両腕を広げて、イザルの前に躍り出る。これがどれほど危険なことなのかを失念していたわけではない。
イザルの息を呑む声が聞こえて、すぐに衝撃が全身を飲み込んだ。
「シグ……っ‼︎ うあ、っ‼︎」
「ぁ、っ」
シグムントの体を下敷きにするように倒れ込む。骨と骨のぶつかり合いは鈍い音を立てて、衝撃をあたりへ伝えた。咳き込むことすらできない痛みを、必死で呼吸で逃す。
慌てたようにシグムントから離れようとするルシアンの体を、引き止めたのは細い腕だ。あまりにも脆い拘束は、戸惑うルシアンの動きを容易く止める。
唐突な無茶な行動に、イザルやイェネドの目は見開かれていた。雨で濡れた小さな手が、呆然とするルシアンの頬に触れる。銀色の髪が茶色く汚れるのも厭わずに、シグムントはまっすぐに見つめた。
「っ……る、ルシアン」
「シグ、ムント……? どうして、こんな」
「お、俺を見ろ、……っい、……怒りに……身を、任せてはいけない……」
泣きそうな表情を前に、ルシアンは己の唇を噛む。こんな顔をさせるつもりは微塵もなかったのだろう。身じろぐと、シグムントの体を抱き起こす。美しい銀色の髪は、泥に染まって目も当てられない。それでも、シグムントはただルシアンを気にかけた。
銀灰の瞳に閉じ込められる己という存在を間近で目にしたルシアンは、不謹慎ながら確かに優越に浸っていた。
「テメェ、一体どういうつもりだ」
怒気混じりの声はイザルのものだ。兄弟喧嘩として括るにはあまりにも苛烈すぎる物理的な会話を、己の最も望まない方法で邪魔をしたシグムントに苛立っている。
無論、シグムントもまたイザルの怒りを理解しないわけではない。しかし、最も優先すべきはルシアンである。銀灰色の瞳をイザルに向けたのは一瞬で、再び両頬に手を添えるようにしてルシアンへ向き直る。
イザルがどんな感情を向けているかなど、シグムントは理解しない。二人のすれ違う感情が、悪く作用した結果だった。
「……しばらく、二人だけにしてくれるか。すまん」
「それってどういう、っ……」
イザルの言葉が、不自然に途切れた。あたりが唐突に音のない世界に切り替わってしまったかのようにさえ思えた。
口付けをした。シグムントから、ルシアンへだ。イザルの目の前で、まるで見せつけられるかのように。
目を見開いたルシアンの動きが止まり、シグムントの両腕が広い背中に回された。角度を変えて差し込まれたシグムントの舌に、ルシアンが答えたその瞬間。イザルの目の前で、帯状の影が二人の体を隠すように視界を遮った。
「んだ、それ……」
視覚を遮断する、闇魔法を行使したのは間違いなくシグムントだ。まるで、これ以上立ち入るなと言われているようだ。
腹に溜まっていく、焦りと妬心。はらわたを軸じくと炙るその感情は、この雨でも冷えそうにない。
「ぼ、ボス、」
「オレ、シラネ……」
イザルの様子を遠巻きに見つめていたイェネドは、その場でオドオドとする他はなかった。しかし、足元にいたイマカはというと、静かに黒い球体を金色の瞳で見つめていた。
「アレハ、仕方ネエヨ」
「え……?」
「冷静ニナリャ、イザルダッテ理解スルサ」
今は、視野が狭くなっているだけ。シグムントがあの場でルシアンを選ばなければ、事態はもっとまずい方向へと舵を切っていただろう。
イマカには、なんとなくだがシグムントの意図はわかっていた。あれは魔王だけが使える異空間魔法だ。防音魔法と結界を組み合わせた、外界と隔絶するための空間。
イマカは中に入ったことはないからわからないが、魔力に応じてその玉の大きさは自由に変えられる。おそらくシグムントは、それを使うためにルシアンと口付けをしたに違いない。
「メンドクセエエ……タイミング最悪カヨオォ……」
「ぼ、ボス? なんで地べたに座ってんの?」
「出てくんの待つ」
イザルの真横に、イマカが歩み寄る。まるで付き合うぜともいうように隣に腰掛けると、小さな体で胡座をかく。
「ワカッテンダロ」
「うるせえ」
「ま、待って! 俺にわかるように説明して⁉︎」
イマカの言葉に舌打ちしたのが全ての答えだ。シグムントがなぜルシアンを選んだか、そんなものイザルにはわかるはずもない。だって、イザルはそれを見ていないのだから。
けれど、イマカはそれでもシグムントの行動の意図を理解したのだろう。眷属だからというのもあるだろうが、この中では一番冷静だからというのがおそらく正しい。
イザルの舌打ちの意味は二つ。冷静になれなかった無様と、イマカに懐の深さで負けたこと。この暗闇の球体の中で、シグムントが何をするかはわからない。けれど、選ばれなかった痛みがどれほどかは理解することができた。
この感覚を、ルシアンはずっと刻まれて生きてきたというわけか。イザルはグッと眉間に皺を寄せると、つぶやいた。
「男兄弟っつのは、クソ面倒くせえ」
「え、英雄が、お前の父親……?」
ルシアンの言葉に、ダダはわかりやすく狼狽えていた。アイゼン、その名は堕界では知らぬものはいない。地上へとつながる道を作ってくれたことも、家を建てる手伝いをしてくれたこともある。この堕界で暮らし方を教えてくれた変わり者。
呪いを受けて、人でありながら半魔のようになってしまったと言っていた。あの男と瓜二つの目の前の二人が兄弟だというのなら、ここに訪れた因果も頷ける。
「俺の父親が、ここで何したんだ」
「イザル……」
イザルの言葉に、ルシアンは苛立ちのまま睨み返した。二人の父親であるアイゼンは、息子を置いて姿を消している。当然、温度は違えど二人にとっては怒りの矛先である。
堕界での献身的な姿と、父親として子を捨てたアイゼンが結びつかない。ダダは張り詰めた空気に緊張を強いられたまま、息苦しそうに唇を戦慄かせた。
イザルを押し除けるように、先に動いたのはルシアンだった。シグムントがハッとした時には、すでに遅い。ルシアンの手は素早くダダの喉元を締め上げて、腕力だけで持ち上げる。
「ヒィ、っ」
「る、ルシアンダメだ!」
「アイゼンは、父さんはここで何をしていた‼︎」
ルシアンの腕を離そうと、シグムントがしがみつく。しかし、それでもダダを締め上げる力は緩まらなかった。黒い瞳に宿る憎悪の光は、爛々と輝いている。このままでは、霧の魔物になり変わってしまう。それだけは防がねばならないと、焦るシグムントがルシアンの名を呼ぼうとした時だ。
「落ち着け」
「ぐ、……っ‼︎」
「うう……っ」
唐突に体をひかれ、どしゃりと尻餅をつく。シグムントの体を後ろに引き、ルシアンの腕を蹴り上げてダダを助けたのはイザルだった。
鈍い痛みが痺れを伴ってルシアンの腕を支配する。怒りの矛先は、すぐにイザルへと向かった。
「貴様……‼︎」
「ダダ、アイゼンがきたのは何年まえだ」
「た、多分じ、十五年くらい前だ……」
シグムントの目の前で、床に転がったダダは喘ぐように教えてくれた。
二人にとっての父親、アイゼンは、今から三十年程前に起きた、魔物による侵略を単騎で防いだ英雄である。
山ほどはあろうかという、巨大な龍を打ち負かし、その時に負った深傷が原因で亡くなったとされている。王による褒賞を拒否し、静かに暮らしたいと言って消息を絶った。
後に子をなしたことは知っている。アイゼンが唯一心を許したという、小さな町の娘。それが、他でもないルシアンの母だ。
「アイゼンが、イザルとルシアンの父親?」
「ああ。マ、俺は面も覚えてねえがな」
イザルとは正反対に、ルシアンはアイゼンとともに過ごした日々の記憶を良く覚えていた。とはいえ、三歳の頃までの記憶しかないが、愛してくれていたと思う。しかし、ルシアンの語気が強まったのには理由があった。
「母さんを置いて、あいつは出ていった」
「なんだよ、お前も捨てられたのか」
「黙れイザル……‼︎」
イザルの煽るような物言いは火に油であった。伸びた手が胸ぐらを掴む。乱暴に距離を詰めるルシアンに、しかしイザルはさらに言葉を重ねた。
「いいじゃねえか。お前にはママもいるんだろう? 俺はハナッから孤児だ。親を知らねえ」
「母さんは死んだ。あいつを恨んでな」
「マザコン野郎、ママのために怒ってるってことか? あ?」
「やめろふたりとも‼︎」
シグムントの悲痛な声が上がった。こんな二人を見ていたくないのが本音だ。
仲間であるイマカとイェネドもまた、戸惑っていた。しかし、話がわからない以上はシグムントに任せる他はない。
小さな体が、なんの戸惑いもなく二人の間に入り込む。手のひらがイザルを遠ざけるように押し返す姿を前に、ルシアンの苛立ちはさらに輪郭を帯びる。シグムントの手がイザルを最初に選んだことが、一番気に食わなかったのだ。
「俺は特別じゃなかった‼︎ お前と違ってだ‼︎」
「あ?」
「っ、だからやめろというに! っぅあ、っ!」
ルシアンの苛立ちの矛先は、シグムントの体を押し除けるようにしてまっすぐにイザルへと向かう。ルシアンの手でよろめいた体を、イェネドが慌てて受け止める。
ただでさえ緑の顔をさらに青くしたイマカが産着のまま二人へ駆け寄ると、大声で叫んだ。
「ヤメロッテ! 人ノ家ダゾ‼︎」
「あ、赤ん坊がしゃべった⁉︎」
「ア、ヤベ」
「ダ、ダダごめん、泊まるのはまた今度で‼︎」
シグムントを小脇に抱えたイェネドが、イマカを回収し、逃げるように家を飛び出した。イザルはというと、舌打ちを一つ。ルシアンの胸ぐらを掴んで引き寄せるなり、転移陣で姿をくらました。
ダダはシグムント達がさった後。恐ろしく静かになった部屋を前に、ようやく肩の力を抜いたのであった。
外は、雷が鳴っていた。
ざあざあと降る雨は生臭さを誘き寄せ、肌に纏わりつくような嫌な湿度が気持ちを不快にさせる。そんな夜だ。
「くぁ、っ……‼︎」
「ボスやめろって‼︎」
降り頻る雨の中、イェネドの苛立ったような声がした。次いで鈍い音がして、大きな何かが泥の上を滑った。ぬかるんだ大地の上で、外套を泥まみれにして転がっていたのはルシアンだ。その頬は、たった今イザルに殴られたばかりなのだろう。口端から赤い血を滲ませる。
雷の光がかすかに照らす不明瞭な視界の中で、同じ染色体を持つ二人は物理的な会話を繰り返していた。
「不出来な弟に割く時間はねえんだよ。テメェは邪魔するためについてきたのか。あ?」
「クソ野郎……、お前なんかいなければ、俺は‼︎」
「俺はなんだ。初めて会った時から突っかかってきやがって。てめえとは本気でやり合いてえと思ってたんだ。来いよ、いい機会だ」
「や、やめ、煽るなってば‼︎」
雨で体温が奪われていく。暗く、汚いこの世界の空気が、心まで蝕んでいくようだった。
イェネドが声を荒げて止めに入る中。シグムントは己の心臓が酷く忙しなく動いていることに気がついていた。ルシアンに突き飛ばされたショックは、まだ引きずっている。しかし、寒さだけではない明確な不安がシグムントの体の動きを制限する。
体はこんなに濡れているというのに、緊張で舌の根が渇く。その銀灰の瞳は、不安定に揺らぐルシアンの姿をまっすぐに見つめていた。
「イザルゥウウゥウウ‼︎」
「っだ、だめだ!」
「アッ、バカヤロ‼︎」
肺を絞るように、ルシアンが叫んだ。土飛沫を立てながら走り出した姿を見た時、シグムントの体は勝手に動いていた。
背後で、イマカの声が聞こえる。それでも、シグムントは止まることをしなかった。両腕を広げて、イザルの前に躍り出る。これがどれほど危険なことなのかを失念していたわけではない。
イザルの息を呑む声が聞こえて、すぐに衝撃が全身を飲み込んだ。
「シグ……っ‼︎ うあ、っ‼︎」
「ぁ、っ」
シグムントの体を下敷きにするように倒れ込む。骨と骨のぶつかり合いは鈍い音を立てて、衝撃をあたりへ伝えた。咳き込むことすらできない痛みを、必死で呼吸で逃す。
慌てたようにシグムントから離れようとするルシアンの体を、引き止めたのは細い腕だ。あまりにも脆い拘束は、戸惑うルシアンの動きを容易く止める。
唐突な無茶な行動に、イザルやイェネドの目は見開かれていた。雨で濡れた小さな手が、呆然とするルシアンの頬に触れる。銀色の髪が茶色く汚れるのも厭わずに、シグムントはまっすぐに見つめた。
「っ……る、ルシアン」
「シグ、ムント……? どうして、こんな」
「お、俺を見ろ、……っい、……怒りに……身を、任せてはいけない……」
泣きそうな表情を前に、ルシアンは己の唇を噛む。こんな顔をさせるつもりは微塵もなかったのだろう。身じろぐと、シグムントの体を抱き起こす。美しい銀色の髪は、泥に染まって目も当てられない。それでも、シグムントはただルシアンを気にかけた。
銀灰の瞳に閉じ込められる己という存在を間近で目にしたルシアンは、不謹慎ながら確かに優越に浸っていた。
「テメェ、一体どういうつもりだ」
怒気混じりの声はイザルのものだ。兄弟喧嘩として括るにはあまりにも苛烈すぎる物理的な会話を、己の最も望まない方法で邪魔をしたシグムントに苛立っている。
無論、シグムントもまたイザルの怒りを理解しないわけではない。しかし、最も優先すべきはルシアンである。銀灰色の瞳をイザルに向けたのは一瞬で、再び両頬に手を添えるようにしてルシアンへ向き直る。
イザルがどんな感情を向けているかなど、シグムントは理解しない。二人のすれ違う感情が、悪く作用した結果だった。
「……しばらく、二人だけにしてくれるか。すまん」
「それってどういう、っ……」
イザルの言葉が、不自然に途切れた。あたりが唐突に音のない世界に切り替わってしまったかのようにさえ思えた。
口付けをした。シグムントから、ルシアンへだ。イザルの目の前で、まるで見せつけられるかのように。
目を見開いたルシアンの動きが止まり、シグムントの両腕が広い背中に回された。角度を変えて差し込まれたシグムントの舌に、ルシアンが答えたその瞬間。イザルの目の前で、帯状の影が二人の体を隠すように視界を遮った。
「んだ、それ……」
視覚を遮断する、闇魔法を行使したのは間違いなくシグムントだ。まるで、これ以上立ち入るなと言われているようだ。
腹に溜まっていく、焦りと妬心。はらわたを軸じくと炙るその感情は、この雨でも冷えそうにない。
「ぼ、ボス、」
「オレ、シラネ……」
イザルの様子を遠巻きに見つめていたイェネドは、その場でオドオドとする他はなかった。しかし、足元にいたイマカはというと、静かに黒い球体を金色の瞳で見つめていた。
「アレハ、仕方ネエヨ」
「え……?」
「冷静ニナリャ、イザルダッテ理解スルサ」
今は、視野が狭くなっているだけ。シグムントがあの場でルシアンを選ばなければ、事態はもっとまずい方向へと舵を切っていただろう。
イマカには、なんとなくだがシグムントの意図はわかっていた。あれは魔王だけが使える異空間魔法だ。防音魔法と結界を組み合わせた、外界と隔絶するための空間。
イマカは中に入ったことはないからわからないが、魔力に応じてその玉の大きさは自由に変えられる。おそらくシグムントは、それを使うためにルシアンと口付けをしたに違いない。
「メンドクセエエ……タイミング最悪カヨオォ……」
「ぼ、ボス? なんで地べたに座ってんの?」
「出てくんの待つ」
イザルの真横に、イマカが歩み寄る。まるで付き合うぜともいうように隣に腰掛けると、小さな体で胡座をかく。
「ワカッテンダロ」
「うるせえ」
「ま、待って! 俺にわかるように説明して⁉︎」
イマカの言葉に舌打ちしたのが全ての答えだ。シグムントがなぜルシアンを選んだか、そんなものイザルにはわかるはずもない。だって、イザルはそれを見ていないのだから。
けれど、イマカはそれでもシグムントの行動の意図を理解したのだろう。眷属だからというのもあるだろうが、この中では一番冷静だからというのがおそらく正しい。
イザルの舌打ちの意味は二つ。冷静になれなかった無様と、イマカに懐の深さで負けたこと。この暗闇の球体の中で、シグムントが何をするかはわからない。けれど、選ばれなかった痛みがどれほどかは理解することができた。
この感覚を、ルシアンはずっと刻まれて生きてきたというわけか。イザルはグッと眉間に皺を寄せると、つぶやいた。
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そのうち続きを書くぞ、の意気込みついでに数話分投稿させていただきます。
先輩×後輩
攻略キャラ×当て馬キャラ
総受けではありません。
嫌われ→からの溺愛。こちらも面倒くさい拗らせ攻めです。
ある日、目が覚めたら大好きだったBLゲームの当て馬キャラになっていた。死んだ覚えはないが、そのキャラクターとして生きてきた期間の記憶もある。
だけど、ここでひとつ問題が……。『おれ』の推し、『僕』が今まで嫌がらせし続けてきた、このゲームの主人公キャラなんだよね……。
え、イジめなきゃダメなの??死ぬほど嫌なんだけど。絶対嫌でしょ……。
でも、主人公が攻略キャラとBLしてるところはなんとしても見たい!!ひっそりと。なんなら近くで見たい!!
……って、なったライバルポジとして生きることになった『おれ(僕)』が、主人公と仲良くしつつ、攻略キャラを巻き込んでひっそり推し活する……みたいな話です。
本来なら当て馬キャラとして冷たくあしらわれ、手酷くフラれるはずの『ハルカ先輩』から、バグなのかなんなのか徐々に距離を詰めてこられて戸惑いまくる当て馬の話。
こちらは、ゆるゆる不定期更新になります。
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