アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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堕界編

親子の絆

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 生活音の一つに、人の悲鳴がある暮らしを経験したことがあるだろうか。常人には理解できないだろう。しかし、そのあり得ないことが堕界では普通なのである。
 死んだ人が落ちてくるだけなら、動揺はしない。生まれて間もない赤子が流れ着いてくることもあるが、それも過去にいくつかあるからそこまで驚かれない。
 なら、一番堕界の人々を戸惑わせるのは何か。

「……なんだい、あんた達」

 それは、この環境に進んで訪れる異常者だ。

 降り出した雨が、生臭さを増長させる夜。寝る準備でもしようかと男が腰をあげた時、傷んだ木の扉が不躾に叩かれたのだ。
 丁寧に扉を叩くやつなんて、この場所にはいない。恐る恐る扉を開けた男を訪ねてきたのは、見知らぬ夫婦だった。

「すまない、ここなら俺たちも暮らせると思ってきたんだが、勝手がわからなくて……」

 おそらく、半魔なのだろう。男の方は獣人らしく、狼の耳をピンと立てている。その背後には、汚い布を被った女が一人。顔は見えないが、見れば赤子を抱いている。面倒ごとの匂いがする。リザードマンの血を引く男は、すぐにそう思った。

「……他当たんな」
「待ってくれ! 本当に、あてがないんだ。せめて話だけでも聞いてくれないか……後生だ‼︎」

 扉を閉じることを阻むかのように、男の手が挟まれた。随分と強い力を持っているのだろう、びくともしない。扉の隙間から必死な表情でこちらを伺ってくる。
 なんでうちなんだ。男は辟易を顔に貼り付けた。この通りは壁側に近いせいか、家屋が軒を連ねている。わざわざここを選ばずとも、他にも住民はいるだろう。男は文句の一つでも言ってやろうと口を開いたが、先に声を上げたのは獣人の男だった。

「少し前に、人間たちがこの通りを通ったらしい。だから、他の住民は怯えて出てこないんだ。お願いだ、子供がいるんだ!」
「そんなもの、オレには関係ない」
「頼む、食料を渡すから!」

 食料を渡すから、という言葉に動きを止めた。
 そういえば、ここなら暮らせるとかなんとか言っていたかと思い返す。男の目の色が、急に値踏みをする色に変わる。おそらく旅をしてここまできたのだろう。ならば当然食料も持っているに違いない。
 食糧庫の中身は、もうすぐ底を尽く。ならば、という打算的な心が働いて、再び男は扉を少しだけ開いた。

「それならいいだろう、うちへはいんな」
「ありがとう、あんたは命の恩人だ」

 同じ半魔のはずなのに、男の顔は憎たらしいほど整っていた。褐色の腕が、連れの女の腰を引き寄せる。ぼろ布の一部を破って、一本の角を晒している。サキュバスか、オウガ種の血が入っているのかもしれない。
 華奢な腕に抱くおくるみからは、小さな緑色の手が見えていた。

「なんでここにきた。外でガキこさえてここに来るくらいなら、人間のふりして働きゃあよかったろう」
「無理だよ、俺には学がない。人の仕事は頭が良くないといけないって、ボスに聞いたんだ」
「ボス?」
「前にいた群れのボスさ」

 男の後ろにいた女が、着ていた布を取り払う。濡れた銀髪は、滑らかな光沢を放って薄い肩を流れていった。銀灰色の瞳に、色づいた唇は柔らかな薄桃色を帯びている。
 きっと、体温が戻ればそこも赤く色づくのだろう。人間に紛れるには要らぬ苦労をしそうなほど、ゾッとするほどの美貌の持ち主だ。

「こんな容姿じゃあ、ある意味人間の国じゃあ暮らせねえな」
「ああ、わかってくれたか。おれはネーヨ、後ろのはヒュトーだ」
「毒蛇と同じ名前かい。確かに、毒になりそうなくらい別嬪ではあるがよ」

 ヒュトーと呼ばれた女は、男の嫌味にも緩く笑みを浮かべただけだった。
 お前など相手にしていない。そんな雰囲気である。己の忌諱される見た目から、今まで男は随分と女に心を傷つけられた。このヒュトーとか言う女も、きっと同じなのだろう。男は立ちすくむネーヨたちを手招くようにして中へ通す。

「俺はダダ。一泊の恩は先払いだ、あんたは何をくれる」
「果実と、焼いた鱒はどうだろう。ここら辺のことを教えてくれるんなら、肉もつける」
「上等だ」

 ナメられたくなくて、ダダは普通を装った。本当は肉なんて随分と口にしていなかった。半魔のくせに、ネーヨはインベントリから食料を取り出した。きっと人間の死体から剥ぎ取ってきたに違いない。堕界じゃ稀に流れ着く人間の死体から剥ぎ取ることでしか、得ることはできないアイテムだ。
 旅路の苦労は知らないが、もしかしたらこの二人は案外強かなのかもしれない。ダダはそんなことを思った。食料の入った袋を三つ受け取ると、その中身をあらためる。
 うまそうな干し肉がいくつかと、焼いた鱒が数匹。瑞々しい果実は、城壁の外、人間の住処で取れるものだろう。それを持ち、ダダは己の寝床をどかした。床板をずらし、食料を入れている木箱の中に入れる。
 干し肉だから、随分持つだろう。こんな上等なものをもらったのだ、少しくらい優しくしてやってもいいかもしれない。

「ダダが優しい人でよかった」

 上等な食料をもらったお礼に、水でも入れてやろうかと瓶を取り出した。しかし、ネーヨの隣にいつの間にか腰掛けたヒュトーを見て、ダダは短い悲鳴をあげた。

「……ひ、っ」
「ダダ?」
「す、すまねえ、なんでもねえ」

 ダダは、己の目を疑った。そして、この夫婦がここを目指してきた理由を、なんとなくだが悟ってしまった。
 ヒュトーは、美しい女だ。しかし、その腕に抱いているのは腐った赤ん坊だった。体表が緑の赤ん坊は、何かに取り憑かれているのかもしれない。
 半魔同士の赤ん坊は、己のように魔が強く出る。しかし、普通ならどちらかの親に特徴が寄るのだ。ヒュトーの抱く赤ん坊は、二人のどちらにも似ていない。強いていうのなら、ゴブリンにも見えるくらい醜い見た目をしていた。
 それを、ヒュトーは愛おしそうに腕に抱いているのだ。
 狂っている。そう思ってしまうのも仕方ない。顔をこわばらせるダダへと、ネーヨが冷たい眼差しを向けてくる。
 
「……ダダ、俺たちはどう見える」
「夫婦だろう、……お前は俺にそう説明をした」

 わかりやすい態度が、不穏な空気を作り出してしまったのかもしれない。ダダはごくりと喉を鳴らすと、ぎこちなく笑みを浮かべる。
 嫌な汗が、じんわりと滲んでくる緊張の中、その沈黙を破ったのは、ヒュトーの方であった。

「夫婦に見えるのか」
「あ、ああ」
「……だそうだ、よかったなあイマカ」
「ヒュトー、名前を呼んではいけない」

 まろく、陶磁器のように滑らかな頬が緩み、イマカと呼ばれた赤ん坊に頬を寄せる。
 ダダの体には、ブワリと悪寒が走った。
 美しい光景だ。まるで、聖母が醜い亡者へと手を差し伸べる、そんな一幕を切り取ったかのようだった。
 ヒュトーの銀灰の瞳が、ダダへと向けられる。何を考えているか測りかねるその表情を前に、体には緊張が走った。

「雨が止むまで、話を聞かせてくれ。ここではどう生きていくのかを」

 女にしては少しだけ低い声に促され、ダダはぎこちなく頷いた。手に持っていた水のボトルをゴトリと机に置く。水の冷たさが瓶を通して伝わっているのか、それとも己の体温が高いのか、よくわからなかった。
 聞かれたのは、ここでの生き方の話だ。どうやら群れから抜けた理由も、このヒュトーかいう女のせいだという。おそらく仲間との関係性を崩壊へと持ち込んだのだろう、この美しさなら、突き詰めて話を聞かなくてもわかる。

「あんたは、なんの半魔なんだ」
「そのままだよ。ヒュトーは、ヒュトーの血が混じってる」
「毒蛇と人間がまぐわうって、どんな具合だ。俺には想像ができねえ」
「見たところあんたはリザードマンの血が混じってるようだけど、そこを気にするのか」

 ネーヨの言葉に、ダダは黙りこくった。言い返す言葉がなかったというのもある。己の妻に対する不躾な質問も気に障ったのかもしれない。己の興味を優先させてしまったが、少しだけ面倒くさいなと思ってしまった。

「……ここで、群れは作れないのかな。俺はボスの器じゃないから、できれば誰かの下につきたいんだけど」
「ここのコミュニティは壊滅的だ。みんなその日を生き延びることしか頭にねえ。町外れの二人を除いて、奴らの頭はおまんま食うことでいっぱいいっぱいよ」
「町外れの、二人?」
「いるだろう、気味の悪い若い男が二人」

 ダダの言葉に、夫婦は顔を見合わせた。無理もない、まだここにきたばかりで知らないのだろう。己の容姿を前に、嫌悪感を示されないことが心を許すきっかけにもなっていた。ダダは鱗が浮かぶ手を持ち上げると、窓がわりの壁の隙間を指差して言った。

「人間が捨てた馬車があるだろう、その中がねぐらだ」
「馬車に、二人……?」
「ああ、まあ呪われてる男だからな。悪いことは言わねえから、あそこだけは近づかない方がいい。」
「呪われてるって、人間に呪いでもかけられたのか?」

 ネーヨの言葉に、ダダは首を横に振った。なんでそうなるんだと言葉を続けようとして、本当に知らないから聞いているのだなと考えを改めた。
 キョトンとした顔でこちらを見つめてくる。随分と雰囲気があどけないことから、子供同士で番ったのかもしれない。ダダは勝手にそう判断をすると、年長者の勤めのように宣った。

「あそこにいるうちの一人は、半魔じゃねえんだ。呪いを受けた、人間だ」
「に、人間⁉︎」
「おうよ、純血様ってやつだ。しかし魔物に取り憑かれっちまって捨てられたんだろうよ。可哀想にガキは馬車ごと振ってきた。もう十六年も前の話よ」
 
 随分と上等な馬車が降ってきたのでダダはよく覚えている。華美な装飾は、見るからに貴族のものだった。
 最初は、きっと事故だろうし、城壁にいる兵士どもがなんらかの手立てで引き上げるだろうと思って遠巻きに見つめていた。それでも、一日経っても、二日経っても引き上げられる様子はない。
 その内赤ん坊の鳴き声が聞こえるようになって、ようやく中に人間の子供がいるのだと理解した。

「人間の子供が……」
「ああ、でも俺たちは何もしなかった。いいや、する必要がなかったんだ」
「助けることを、か?」

 戸惑うネーヨの様子を前に、ダダはヒュトーの腕の中にいる赤ん坊へと目を向けた。
 きっと、他人の子供を気にかけるのはネーヨが親だからだ。ダダは親の顔は忘れたが、きっと赤ん坊なら身内以外にも優しくするべきなのだろう。
 それでも、堕界ではその当たり前が通用しない。
 生きるのに必死なのは、何も子供だけではない。ここでは赤ん坊も、大人も、虐げられているものはすべからく必死に生きている。

「半魔なら、多少は食わなくても生きていける。俺たちはガキの頃から苦労をしてきた。人間の子供にかけてやる情けなんて、小指の先ほどもありゃしねえ」
「それでも、普通なら」
「ここでの普通は、打算のことだ。俺たちの利益になりそうなガキなら育てる。お前が人間寄りの考えなら、ここでは生きていけねえぞ」

 ダダの言い草に、若い夫婦は黙りこくった。住処を求めて群れから出てきたのは、あまりにも愚かだ。ここは、外の世界を知るものが来ていい場所じゃない。酷いと思われようとも、ダダは食料のお礼に堕界の厳しさを教えただけだ。
 痛そうな表情を見せるネーヨはきっといい親になるだろう。己の心を砕いて分け与えられるのは、優しい環境にいたものだけだ。

「打算的に、子供を育てる輩が現れたのか」

 ヒュトーの言葉に、ダダはきろりと爬虫類特有の瞳を向けた。目の前の女は口数が少ないくせに、随分と地頭がいいらしい。ヒュトーの服を、緑色の小さな手が掴んでいる。二人の子供だとは思えないその容姿に、ダダはハッとした。

「……お前も、お前たちもそうだというのか」
「え?」
「ネーヨ、ダダと少し話がしたい。イマカをお願いできるかな」
「…………」

 ダダは怪訝そうな顔をしてヒュトーを見た。旦那の目の前で、子を預けて男と二人きりを望むだと、そう思ったからだ。
 ネーヨはなんの疑いもなく頼みを受け入れていた。ここまでの旅の中、路銀をで稼いできたとしたら頷ける。ダダの憶測は、美貌を前にあらぬ方向へと舵を切る。
 視線が、ヒュトーの端正な顔立ちへと向けられる。上等な女だ、ダダが一生関わるようなこともない女。
 何か抱えているものがあるのだろうか。ヒュトーは、ダダの知っている話に興味を示した。己にある手札はそれのみだ。

「奥の部屋ならいい。部屋と呼べねえ場所だがな」
「構わない」

 己へ向けて微笑むヒュトーに、喉の渇きを覚えた。
 こんな機会、一生に一度巡り合うかわからない。目の前には、堕界の厳しさを知らぬ愚かな女とその家族。行き場のない小さな群れは、このダダを選んで声をかけてきたのだ。
 
 カーテンとも呼べぬぼろ布を、鱗の浮いた手でまくる。物怖じもせずに己に続くヒュトーの気配を背中に感じながら、ダダは緊張したように生唾を飲み込んだ。

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