アイデンティティは奪われましたが、勇者とその弟に愛されてそれなりに幸せです。

だいきち

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堕界編

無知ということ 

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 霧の魔物が放つ独特な煤臭い匂いを、シグムントはメリーから感じていた。
 最初は、まだ幼い彼から何故そんな匂いがするのだろうと戸惑った。しかし彼の暮らす堕界がどういう場所かをイザルから聞いていたので、戸惑いはしたものの理解はすることができた。
 堕界は、随分と仄暗い闇が満ちているのだろう。迫害されたもの達の住処がどういうものかを想像するのは、実に容易い。そう、思っていた。

「ぅ、……っ!」
「お兄ちゃん……?」

 長いトンネルを抜け、堕界へと入った途端、シグムントの顔色は変わった。濃い煤の香りと、血生臭さ。それらが混ざり合った不快な悪意の匂いは。シグムントの鼻にしかわからない。
 慌てて口を押さえる。下から噴き上がる風に煽られるように視界が歪むと、力の抜けそうな膝を叱咤して蹲った。

「シグムント!」
「おい、何だ……、ここっ……」

 頭上から、イザル達の声がした。その声色は一様に驚愕の色を宿している。無理もない。今目の前に広がっている現実は、いかに自分達がぬるま湯に浸かっていたのかを知らしめる、そんな場所であったからだ。

 堕界。長いトンネルを抜けた先は、文字通り掃き溜めのような場所であった。
 白く美しい城壁の内側、陽の光もまともに届かない窪みの中に、シグムント達は立っていた。
 ごうごうと聞こえる水の音は、生活排水だろう汚水が、石造りの穴から排出される音だ。頼りない杭を打ち込んだだけの階段が下に向かって続いている。錆びたトタンと朽ちた木材で作られた簡易的な家がまばらに点在するその間を、汚水の川が流れていた。
 先程までいた土の中の方が、よほどましだ。それでも、ここで生活をしているもの達がいる。ところどころ家の間から上がる煙が証拠であった。

「この間、雨が降ったから余計に匂いがきついんだ」
「こんなところに、住んでいるのか……」

 シグムントの背に手を添えて気にかけていたメリーの表情が、ルシアンの一言でこわばった。どうやら言葉の選択を間違えたらしい。ルシアンのしまったという空気が、シグムントは手に取るようにわかった。

「ここでしか、生きれなくしたくせに」
「……すまない、そんなつもりでは」
「そんなつもりではって何。じゃあ、どういう意味で口にしたの……」
「俺は、ただ……」

 追い詰めるようにメリーが語気を強める。知らない景色を前に、戸惑い口をついて出た言葉がルシアンの首を絞めるのだ。
 シグムントはゆるゆるとメリーの手を握りしめると、呼吸を整えるように深呼吸を一つした。堕界は、魔力のないシグムントには随分と苦しい環境であった。それほどまでに、ここに溜まる負の感情が強いのだ。
 
「知らなかったでは、済まされぬよな……。でも、俺たちは恥ずかしながら、この答えしか持ち合わせてはいないのだ」
「っ、……僕だって、好きでここにいるわけじゃないのに」
「わかっている。俺たちは視野が狭い。だから、物事を図る物差しが短いのだ。メリー、すまない……。俺たちは君から、たくさんのことを教えてもらわねばならない」

 緑の瞳に涙を溜めたメリーが、握り締めた拳を小さく震わせている。
 見知らぬ大人達をこちら側に招いた小さな勇気は、きっと何かを変えたいからだ。堕界が、このままで良いわけがない。
 シグムントは小さな体を引き寄せると、ぎゅっと抱きしめた。この子供は、自分たちにはない強いもの持っている。そのいたいけな勇気が、負の感情によって侵食されないことを願うばかりだ。

「すまなかった。申し訳ない」
「……うん」

 軽い体を抱き上げる。遠慮がちに首に回される細い腕を受け入れると、シグムントはルシアンへと視線を向けた。
 その顔は、己の中で消化しきれぬ何かを堪えているかのような、そんな表情だった。大人にそんな顔をさせるくらい、メリーの言葉は鋭かったのだ。
 汚いものから、目を背けていた。そんなつもりはなくても、堕界の状況が理解の範疇をゆうに超えていた。人型に戻ったイェネドもまた、同じように顔色が悪かった。本当の正解なんて、この場の誰も持っていない。

 土壁に打ち付けられただけの、足場代わりの杭を慎重に踏みしめながら、堕界へと降りていく。耐久に不安を残したままなんとか地に足をつけると、シグムントはゆっくりと辺りを見回した。

「歓迎されてねえな」
「手も出してはこなさそうだが」

 住民達の気配はする。それでも、姿を見せるつもりはないらしい。静まり返った通りからは、萎縮と警戒の鋭い目がイザル達の一挙手一投足を鈍らせる。
 
「このまま、ただ黙って道を進んで。町の外れが僕のお家だから」
「わかった、従おう」

 廃材で作り上げた家が立ち並ぶ通りを、五人は息を詰めるように歩く。時折こちらを検分する様な視線が向けられるが、決して目線を返すようなことはしなかった。
 イェネドは、メリーに言われた通りに耳を晒していた。きっと堕界の人々には、無傷の半魔を連れているように映るのだろう。普通の人間なら決して行わないことは、堕界の人々なら痛いほど理解している
 町の外れまではすぐだった。水路を跨ぐようにかけられた廃材の橋を渡ると、見えてきたのは朽ちた馬車を利用して作られた家であった。
 大人が入るには狭い、けれど、子供にとっては立派な家だ。メリーはシグムントに下ろしてもらうと、馬車の扉を二回叩いた。

「ジュナ、帰ったよ! お客さんを連れてきた‼︎」
「うるさい! マナが具合悪いんだ、あんまり大きな声を出すなよ‼︎」
「うわ、っご、ごめんよジュナ!」

 弾かれるように開かれた扉の向こうにいたのは、そばかすを顔に散らした赤毛の少年であった。仁王立ちをするジュナと呼ばれた少年は、メリーと同じ小さな角を額に生やしている。
 メリーとお揃いの薄緑の瞳が、ゆっくりとシグムントたちへと向けられる。その瞳はイェネドを映し、そしてシグムント達へと滑った。

「っ、なんで人間がここにいる‼︎ メリー‼︎ お前裏切ったな⁉︎」
「ジュナ、ま、待って話を聞いて‼︎」
「殺してやる……‼︎ お前らなんかばい菌だ‼︎ さっさと死んでしまえ‼︎」
「ジュナやめて‼︎」

 悲鳴混じりのジュナの声がハウリングした。放たれたのは、声による状態異常魔法であった。それは真っ直ぐに向かってきた。手を伸ばしたイザルがシグムントを強く引き、ルシアンの腕の中へと投げつける。しかし、術は行動よりも早くシグムントに影響を与えていた。

「なんでガキが放てる‼︎」
「シグ‼︎ 落ち着いて、俺の目を見て‼︎」
「ぅ、ぅあ、あ、あっ」

 シグムントの体が硬直し、ルシアンの腕の中に倒れ込む。銀灰色の瞳は見開かれ、体は奈落の底へと落とされるかのような浮遊感に苛まれた。小さな手が縋るように虚空へ伸びる。
 状態異常はおそらく精神に干渉するものだろう、ルシアンはタチの悪い術に小さく舌打ちをする。その背後では、イザルの展開した魔法が再び放たれた術を防ぐ。
 シグムントにかけられた幻惑魔法の種類がわからなければ、どうしようもない。ルシアンは慌ててインベントリから気付薬を取り出すと、何かから逃げるように暴れるシグムントの口にあてがった。

「ん、ング、ぅ、うっ」
「飲め‼︎ これは現実じゃない、戻ってこいシグムント……‼︎」
「イェネド、吼えろ‼︎」

 イザルの鋭い指示に応えるように、イェネドが転化した。ウェアウルフの咆哮は、威圧を付与することができる。混乱状態にいるジュナという少年を鎮めるためにも、こうする他はなかった。

「やめてえ‼︎」
「正面全員、動かないで」

 イェネドが大きく息を吸い込んだ瞬間。メリーの悲鳴を遮るかのように若い男の声がした。
 声に魔力を宿した制止の言葉が、その場にいた全員の影を縫い留めるかのように自由を奪う。その特殊な術を前に、イザルの瞳に緊張の色が宿る。
 術者の正体は、どうやら馬車の扉にもたれかかる青年のようだった。赤い髪を背中に流し、鋭い瞳でこちらを睨みつけてくる。
 先手を打つべきか。イザルが聖剣に手をかけようとしたが、未だ青年の術で体は動かぬままであった。
 

「……ジュナ、両手首を後ろに回して。口を閉じなさい」
「う、……っ……」
「メリー、僕ときて。白い人を治すから」
「う、うん」

 青年が馬車から降り立つ。イザルの横を通り過ぎる青年の服装は、酷くボロボロだった。
 履き潰されたブーツが、シグムントを守るルシアンの目の前で止まる。体はまだ動かない。通常の拘束術なら、持って一分程度のはずである。それを知っているからこそ、青年の放った術の異常性に、イザルとルシアンは気がついていた。

「……直すだけだから、おとなしくしてて」
「信じていいのだろうな」
「いいよ。不躾に出迎えたのはこちらだから」

 ルシアンの怒気を孕む声を受けても、青年は怯まなかった。目を見開いたまま動かずにいるシグムントの横に跪く。両頬を包み込むように手を添える姿からは、わずかばかりの罪悪感を感じた。

「大丈夫、戻っておいで。もう悪夢はおしまいだよ」
「っ、は……っ」

 長い間呼吸を止めていたかのように、シグムントが肺を膨らませた。光を失っていた瞳が元に戻ると、己の顔を覗き込む青年の姿に動きを止めた。

「マナ、なんで仮面をしてないの!」
「外に出る予定じゃなかったんだ」
「そっか、ジュナのせいだね……」

 マナと呼ばれた青年は、枯れ木のような手で長い髪を耳にかけた。細い手首を滑るようにして、袖口が下がる。はだけたシャツの隙間から見る限りでは、左上半身のほとんどが木の年輪のような模様で覆われていた。

「……俺は、シグムント。助けてくれてありがとう……」
「第一声がそれ? 変な人だね君。」

 右側に残された顔が、柔らかな表情を作る。その顔は貴族のように端正な作りをしていた。マナと呼ばれた青年は、シグムントの背に手を添えるように起こしてくれると、まるで痣を恥じるように袖を伸ばして隠した。

「動いていいよ」
「っ、」
「なんだ、っ」
「うわあっ」

 不思議な反響音を伴って、言葉を紡いだ。バランスを崩すように転がるイザル達を横目に、マナがゆっくりとジュナへと振り返る。
 その目は、悪いことをした我が子を窘めるような、そんな親の目であった。

「ジュナ。僕はお前にそんな使い方を許した覚えはないけれど」
「ま、守ろうとしたんだもん!!」
「お前に守られるほど、僕は弱くない。バカにするなジュナ。」
「だ、だって、……」

 ヒック、と小さな嗚咽が漏れた。マナの叱責に、ジュナはその目に涙を溜めていく。マナはよろめきながら立ち上がると、長い髪を揺らすようにしてイザル達へと振り向いた。

「ようこそ堕界へ。手土産があるのなら、歓迎するけど」
「……焼いた肉がある」
「いいね、入って。その代わり文句が出たら叩き出すから」

 そう言って、顎で馬車を指し示す。大人五人は乗り切らなさそうではあるが、ここはマナに従った方が良さそうだ。そう判断したらしいイザルが腰を上げる。
 シグムントはというと、まだルシアンの腕の中で、静かにマナの背を見つめていた。
 
 


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